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ココログ


ほし2

カテゴリー「高校野球」の記事

2008/07/16

昭和59年,夏

KK倒した取手二V腕石田さん急死、41歳 - 野球ニュース : nikkansports.com

 昨晩,一報を見たときは愕然としましたよ.こんなことがあっていいものか,と.



 1984(昭和59)年の取手二高は,県立高校にこれだけのメンバーが揃うのは奇跡,とまで県内では言われていたチームだった.監督はもちろん,多くの名選手を育てた名将・木内幸男.主将としてチームを引っ張った1番・遊撃手の吉田剛(のちバファローズ-タイガース),勝負強い打撃と好リードで貢献した中嶋彰一(住友金属鹿島),甲子園では投げると負けないと言われ「ミラクル」の異名を奉られた左のサイドスロー柏葉勝己(投げないときは外野を守る)などなど,監督も選手も型に囚われない豪快な野球が「のびのび野球」の異名をとる.

 しかし,夏の甲子園での初戦はいきなり,プロ注目の嶋田章弘(のちタイガース-バファローズ-ドラゴンズ),杉本正志(のちカープ-オリオンズ-ブレーブス)の二枚看板を擁する箕島高校(和歌山代表).石田が故障を抱えていたこともあり,案の定,7回まで0-3でリードされ敗色濃厚だったものを,8回表に嶋田・杉本から一挙5点を入れて試合をひっくり返す.嶋田が8番打者に打たれた当たりを「あれが三塁打になってしまうんだから勢いは怖い」と箕島の名監督・尾藤公をして言わしめる.よほどうれしかったのか,取手二高ナインはダッグアウト裏で万歳三唱をやって大会役員から大目玉を食ったという記事を読んだ記憶がある.

 二戦目は石田が福岡大大濠を5安打9三振に抑え,打線が終盤小刻みに点を入れ終わってみれば8-1.準々決勝の鹿児島商工戦は記憶に無いところを見ると,見ていなかったかもしれない.準決勝は取手二高に負けず劣らず個性的なチーム(確か初戦の勝利後,こちらも審判から厳重な注意を受けているはず)だった鎮西高校(熊本代表).独特の二段モーションの右サイドスローからきっぷのいいピッチングを見せたエース松崎秀昭(のちホークス)は,のちに投球フォームについて「ボークをとられるかもしれないとわかっていた」と言ってのけたほど度胸のよかった投手だったが,取手二高の強力打線には通じず18-6で大勝する.

 そして決勝のPL学園戦,あの桑田真澄(のちジャイアンツ),清原和博(のちライオンズ他)の「KKコンビ」を筆頭に中村順司監督が広岡達郎ばりの管理野球で締め上げた強力なチームである.延長10回に中嶋の決勝3ランで取手二高が劇的な勝利を収めた,雨の下での試合のことはあちらこちらで,沢山の方々が述べているので,僕までもがくどくどと書くこともあるまい.
 ただ,雨か選手の怪我かで,試合が中断したのはてっきり,この決勝だと覚えていたのだが,この試合について書いている誰もそのことに触れていないところを見ると,それは決勝とは別の試合だったのかもしれない.その中断のとき,PL学園の応援団は「ウルトラ警備隊のうた」をブラスバンドが延々と演奏していて,危うくこちらがPLに肩入れしそうになったのだった(^^;).

 この年は他にも金足農業の水沢博文,都城高校の田口竜二(のちホークス),松山商業の酒井光次郎(のちファイターズ)などの好投手を輩出した年であった.都城の1年生で遊撃を守っていたのが,のちにファイターズで2000本安打を達成する田中幸雄だったっけ.

 忘れてはいけない.境高校(鳥取)の安倍投手が9回までノーヒットノーランを達成しながら味方の援護に恵まれず,延長10回の裏2死から投じた初球をサヨナラホームランされたのも,昭和59年の夏だった.


 ・・・・・・あの頃が,ほとんど同年齢ということもあって,高校野球を実に熱心に見ていたので,石田の死は衝撃です.あまりのことに今日一日は仕事も上の空でした.残念です.悔しいです.早稲田大学を中退して遠回りした挙句にプロで大成しなかった上に,こんなに早く亡くなるなんて,悲しすぎます.

 謹んでご冥福をお祈りします.

2006/08/07

日常(2006年8月7日)

 お仕事の日.

 毎日新聞【高校野球:清峰が初出場の光南を破る 第1試合】うーん,結果しか知らないけど気の毒なほどの大差になってしもうた_| ̄|○ 
 山陰中央新報【開星 甲子園初勝利ならず】ここの監督は以前,「ナンバー」の記事で必ず優勝するみたいなことを言っていたのですが,今回も含めこれまで甲子園で一度も勝てない(-_-;).何故だろう?

 昨日の記事だけど読売新聞【甲子園きょう開幕、原爆投下時刻前後に「静粛な時間」】,スポーツ報知【広島代表・如水館のメンバーが黙とう…第88回高校野球選手権】広島代表の黙祷を「他チームの選手たちは静かに見守った。」これが解せない.釈然としない.何故他チームの選手は一緒に黙祷できなかったのだろうか.

2006/01/17

日常(2006年1月17日)

 神戸新聞【震災11年
 阪神・淡路大震災は,いろいろな意味で僕の転回点になりました.大きな自然災害について,このblogが多少なりともこだわっているように見えるとすれば,それも阪神・淡路大震災が起因でしょう.
 あのとき,結果的に何も成し得なかった悔恨は今も,僕の心にあります.

 仕事.文献複写依頼,大量に出せば大量に返って来る道理(^^;).午前中はそれで忙殺される.午後は演習と細々した文書整理など.

 日刊スポーツ【小沢章一さんがんに死す】,デイリースポーツ【早実の名二塁手・小沢さん死去】Webで一報を目にしたときは,我が目を疑いました.去年の夏の高校野球千葉県予選を伝えるニュースの片隅に「病気療養中」という文字があったような記憶はありますが・・・・・・・・・.まさか,こんなに早く逝ってしまうとは.だって,まだ監督として甲子園に出場してないじゃないですか.それなのに(sigh).
 あの,早稲田実業・荒木大輔が無失点記録を続けていた昭和55年夏の甲子園の決勝は,横浜・愛甲猛とのアイドル対決でしたが,それはまた横浜・安西健二と早実・小沢章一の名二塁手対決でもありました.小沢章一の守備は素人目にも垢抜けした,センスのいいものだったことを記憶しています.
 その後,高校野球の監督になったと聞き,何時か必ず甲子園に戻ってくると信じていたのですが・・・・・・・・・.僕より1年年長,ということはカミさんと同年ということで,あまりにも早すぎる死でした.

2005/08/07

高野連,黙祷を拒絶

 【愚智提衡而立治之至也: 高野連,黙祷を拒絶?】の続報.

 中国新聞【「49校で黙とう」、高野連が制止
 読売新聞【甲子園で原爆忌の黙とうで行き違い、朝日新聞社が謝罪
 京都新聞【「全校で黙とう」実現せず 朝日新聞が高陽東高に謝罪

 中国新聞の記事は事実を淡々と伝えているだけに,この件に対するヒロシマの「凄み」のようなものが伝わってくる.記事に拠ると「会見した田名部参事は「選手の気持ちも分かるが、大会は、十五日にすべての思いを込めている。考えがお互いに通じ合っていなかった」と述べた」ということだが,「8月6日」と「8月15日」では根本的に意味が違うことについて,基本的な認識に欠陥があるのだろう.

 朝日新聞が謝罪したのは情報伝達の行き違いに関することについてで,黙祷を拒絶したことについてではないことに注意を喚起したい.

2005/08/06

高野連,黙祷を拒絶?

 朝日新聞【高陽東の原爆黙祷巡り混乱 社内連絡不備と本社が陳謝
 呆れ果ててモノが言えない.朝日新聞と高野連の原爆と原爆忌への認識が知れる.記事中にある毎日新聞の報道が正しいかどうかは別にしても,偶然とはいえ広島原爆忌に開会式が当たったことをどう考えているんだ,連中は.
 こんな奴らに出場を辞退させられた明徳義塾が可哀相だ.

 毎日新聞【黙とう:甲子園での提案制止で田名部・高野連参事会見
 全校黙祷を制止し,黙祷する高校を隅に追いやったこと自体が許し難い暴挙.当人は否定しているが,結果として「原爆は広島だけのこと。この場でみんなを巻き込むのは良くない」と言ったのと同じ事になっているのに気が付かないのか.恥ずかしい.

 せっかく開会式での黙祷が提案されたのに出来なかったのは,歴史的な汚点である.

2005/08/03

日常

 仕事.試験期間も終盤戦に入り,徐々に客が減る(-_-;).

 朝日新聞【駒大苫小牧は聖心ウルスラと対戦 甲子園組み合わせ抽選】宇都宮南は開幕戦か.宇都宮南といえば,1986(昭和61)年に2年生エースの高村祐投手(のちバファローズ→イーグルス)を擁して準優勝したことが有名なんでしょうが,G.C.W.氏には自分が高校3年生だった1983年夏の初出場時の活躍が忘れられない.このときは貧打線ながらも帽子を斜めにかぶったエース荒井浩司投手(筑波大)がピンチにも顔色を変えず,アンダースローからひょうひょうとブレーキ鋭い変化球を投げ凡打の山を築く.
 初戦は藤本定義以来の古豪高松商と対戦,8回に3バントスクイズで決勝点を挙げて2対1で初出場初勝利.
 次の試合では当時超高校級と言われた野中徹博(のちブレーブス→ドラゴンズ→スワローズ)がエースの中京高校(ちなみに2番手投手が紀藤真琴[のちカープ→ドラゴンズ→イーグルス],3番手が森昌彦[亜細亜大学→NTT東海・NTT西日本名古屋,アトランタ五輪に出場])と対戦.荒井投手は強打の中京打線を3安打1点とほぼ完璧に抑え込んだ.しかも取られた1点は,1回に内野手のエラー絡みで奪われたもの.ところが打線は野中に5安打に牛耳られ,ほとんど唯一のチャンスだった8回2死1・3塁で4番打者が3振に倒れて万事休す(ToT).この4番打者,秋の国体では再度対戦した野中からホームランを打って雪辱したものの,今度は荒井が打たれて試合は負け.
 あの野中がプロに進んで大成しなかったのは,不思議と言えば不思議な話ではある.

2005/07/31

夏の甲子園代表決まる

 朝日新聞【山口は宇部商が3年ぶり12回目 甲子園49代表そろう

 山口県代表の夏の甲子園で思い出すのは,1987(昭和62)年の夏.あとひとりで勝つはずだった徳山高校のピッチャーが,ゴロを一塁へ悪送球で同点,さらに次の打者に逆転のタイムリーを浴びて1-2で負けた試合.この試合をG.C.W.氏は水戸の免許センターで,普通免許学科試験の合格発表までの時間に,待合室のテレビで見ていた.調べてみると1987年8月9日のことである.
 実はこの試合,相手のことはまったく記憶に無い(失礼).日付を調べるついでにわかったのだが,徳山に勝ったのは東海大山形.PL学園に29対7で負けてから確か2年後の夏の甲子園で,夏の初勝利を挙げたのが,この試合だった.

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