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「貸出至上主義者」度チェックβ版

ココログ


ほし2

カテゴリー「図書館の風景」の記事

2014/04/01

27年目のシーズン

新しい年度がスタートしました。

異動の話があちらこちらから伝わってきますが,我がblog主は上司が変わったものの,当人のポジションは変わらず図書館員稼業27年目,非常勤講師16年目(だと思う)のシーズンに突入いたします。

今年度もどうか,変わらぬご愛顧の程をよろしくお願いいたします。

なおblog主は昨年より,あるメールマガジンに連載を持っており,そちらの文章の彫琢に気力を傾注しておりますため,このblogの更新頻度はかなり落ちております。ひょっとして更新を待たれている方がいらっしゃったらごめんなさい。

これからも,ごくたまに更新される当blogにご期待ください(^^;)。

2013/07/31

どこから折っても金太郎?

公共図書館は「金太郎飴」であるべきか : 今を読む:文化 : Biz活 : ジョブサーチ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/columnculture/20130718-OYT8T00851.htm

公共図書館をめぐっての「金太郎飴」という表現は,しばらくぶりで見たような気がします。

「公共図書館金太郎飴論」というのは,記憶に間違いがなければ,僕が学生の頃には既にありましたね。それは確か,
「公共図書館が『市民の図書館』に基づく“貸出し業務偏重”に陥ったため,どこの公共図書館に行っても売れ筋の本(予約が多い本)ばかりが書架に並んでいるじゃないか」
という類のものだったかと。最近はさすがに(一部の頑強な信者を除けば)『市民の図書館』信仰も希薄になりつつあり(『市民の図書館』はその役目を終えて歴史的文書になった,という評価が今現在は正しいのではないでしょうか),貸出し以外の資料/情報を提供する業務も公共図書館の基幹業務である,という認識が業界の内外を問わず浸透してきまして。その結果,「金太郎飴」論も姿を消したかと思っていたのですが。

僕個人は,公共図書館が「金太郎飴」である必要性は全く無いと考えています。それはもちろん,単館の資料と業務の充実もさることながら,「水道の蛇口」としての各公共図書館が,相互利用業務を通じて文献複写や現物貸借を広く手厚くネットワークしていることが最低限の条件です。この前提をスルーして僕の意見を批判するのは批判する側の自由ですがね。

しかし,この記事は何と言うか,あちらこちらに綻びがあるように思えます。

“「本を読む場所」としての図書館のあり方だけを考えるのではなく、住民サービスの拠点としての図書館をどう考えるか”

という記者の問題意識は真っ当なものだと思いますが,その論拠が“住民サービスの拠点”という「新しい公共」,もしくは公共圏やコモンズのあり方を考える方向からではなく,新自由主義的な「規制緩和は善」という考え方と,古いタイプの公共図書館観の奇妙な混淆から成り立っているような感触があります。

他にも取り上げるにふさわしい公共図書館が幾つもあるにもかかわらず,何も脱「金太郎飴」の象徴のように,公共図書館としては「まがいもの」でしかない武雄市図書館を持ち出すことはないでしょうに(苦笑)。あれは武雄蔦屋書店としては,スターバックス武雄蔦屋書店店としては成功しているのでしょうが,どこをどう考えても公共図書館ではなく,また公共施設としての存在における大切な「何か」が欠けているように,僕には見えます。その欠けている「何か」が,恐らくは現在,武雄蔦屋書店をもてはやす方々が嫌っているものなのでしょう。武雄蔦屋書店の“取り組み”とやらは断じて,

“武雄市図書館の取り組みも限られた予算でハコモノを有効活用するという流れの中”

になど,ありませんよ。新自由主義的行政観に基づく公共圏と,公共圏を支える公共知,そしてストックの軽視という流れの中にはあるでしょうが(実は,このあたりは『市民の図書館』の発想と通底するものがあるのですが,それについてはまた後日)。

武雄蔦屋書店的な考え方に対する,識者の意見がまた,何というか。

“公共図書館はあらゆる世代が利用する、地域のインフラ。誰もが自分に合った利用ができるのが基本で、特色を出せば良いというものではない。”

これはそっくり,10数年前に図書館問題研究会が浦安市立図書館と当時の図書館長を攻撃した理屈なんですよね。ここには,すべての公共図書館は横並びで同じサービスを展開しなければならない,ある公共図書館が突出したサービスをするのは業界の秩序を乱すものであり,許す訳にはいかない,という含みがあります。同じ理屈で攻撃された図書館は,他にもアカデミーヒルズ六本木ライブラリーや矢祭もったいない図書館を挙げることができます。要するに「ひとつの図書館,ひとつの理想,ひとりの指導者」というものです。自分たちの間尺に合わない「図書館」は「図書館ではない」という意識がそこにはあります。この意識は,あの失敗した「認定司書制度」の創設など日本図書館協会の運営にも影を落としていると,僕は捉えています。

ところでこの記者は,識者の意見を受けて

“確かに、公共図書館の蔵書は憲法で保証された国民の知る権利を支える重要な役割を持つ”

と書いています。ひょっとすると記者さんは,武雄蔦屋書店は“国民の知る権利を支える”この視点に欠けているのでは? というメッセージをこの記事の裏に込めたんでしょうか,と思わないでもありません。まあしかし,公共図書館に対して“ハコモノを有効活用する”と書いているのですから,それは買いかぶりすぎでしょうね。


本来は朝日新聞デジタルに載った

TSUTAYAに頼めば万事解決? 公共図書館と出版産業の未来を考える - WEBRONZA+社会・メディア - WEBマガジン - 朝日新聞社(Astand)
http://astand.asahi.com/magazine/wrnational/special/2013072200007.html

こちらも参照して何か書くべきだったのですが,如何せんこちらは途中から有料記事になっていて全文が読めないので,取り上げるのを諦めました。このことひとつとっても,公共図書館への補助金の要件に「館長が有資格者であること」とあったことをお役所仕事だと非難した朝日新聞は,公共図書館が“国民の知る権利を支える重要な役割を持つ”ことについて,どのようにお考えなのでしょう,と疑問に思います。

2013/07/08

「キッチュ論」ノート(その2)

「キッチュが何故支持されるのか」というテーマにおいて,「群衆」を考えることは重要な要素であろう。以下,『群衆-モンスターの誕生』(今村仁司著/筑摩書房/1996年1月発行/ちくま新書56)を補助線に据えながら,思ったことどもをつらつらと。

乱暴に要約してしまうと,「群衆とは集団や組織の類型ではなく,ひとつの“傾向”なのである」という。その傾向はいくつもの集団を横断する「情念の均質化」を伴い,均質化に同調しない他者の排除や差別がそこに起こる。

また,均質化された群衆は指導者を群集の中から生み出す。今村は

「指導者という第三項をおのれの内部からたたきだして,それを媒介にしないでは「自己」同一性を確認できないのが情念の共同体なのである」(前掲書p188)

と述べているが,ここで僕は,今村が指摘していないもうひとつの指導者への傾倒の理由を持ちだしてもいいのではないかと考えている。平井正が『ゲッペルス-メディア時代の政治宣伝』(中央公論社/1991年6月/中公新書1025)で指摘する「救済者願望」である。群衆の「意思」は,指導者への情念と行動に対する同一化願望にとどまらず,指導者による「救済」への期待があるのではないだろうか。虚構・まがいものとしてのキッチュが付け入る隙はそこにある。

即ち,キッチュが空虚であればあるほど,指導者が描く虚構の「物語」(それは指導者と群衆の中では「神話」なのだ)をそこに投影し,群衆と指導者の一体化と,他者の排除・差別のための道具としてキッチュが活性化されていき,救済者願望は昂進して行くのである。ゲッベルスの言葉は,第二次大戦末期の断末魔において,救済者願望が現実を切断(「切断」もキッチュを判断する際に,大きな要素となる。そのことはまた後日触れる)してしまい,指導者との一体化は妄想の域に達した,ほとんどうわごとと化していた。


問題は,この「情念の均質化」と「救済者願望」,そしてそれらに基づく排除の構造が,キッチュに反対する側にも往々にして感じられることなのだよね。フランクリン・ローズヴェルトはヒューイ・ロングと戦うにあたって,自らもファシズムに堕してしまったのではないかとの疑念を後世抱かれることになったが,ローズヴェルトほどの政治家にして「目的は手段を神聖にする」誘惑には抗い難かったわけで,ましてや我々はどうなのか。キッチュに対抗するのに,結果的に自らがキッチュに陥ってはいないのか。「情念の均質化」を求めてはいないのかどうか,いま一度立ち止まって考えなければならないのではないか。

相手は目の前の「キッチュ」だけではないのである。キッチュを支持する群衆のことを考えなければならないのだ。


2013/07/07

「キッチュ論」ノート(その1)

というわけで,しばらくの間,折りを見て「キッチュ」についてぐだぐだ書いていきます。文献を読みながら同時並行的に綴っていきますので,まとまりを欠くものになりますがご容赦ください。

今回は「キッチュとは何か」「何がキッチュなのか」よりも,「何故キッチュは影響力を持ちうるのか」「何故キッチュが支持されるのか」に重点を置いてお勉強していきます。「何がキッチュなのか」は,ブルーノ・タウトにおける桂離宮と日光東照宮の扱いを見るまでもなく,いささか恣意的なものが介入する余地があると考えているので(ドイツにおけるモダニズム建築の雄タウトにはキッチュに見えた日光東照宮は,僕の思うにキッチュではなく)(参考:『つくられた桂離宮神話』井上章一著)。

「キッチュ」を日本語にすると「まがいもの」または「げてもの」という意味になるようです。「げてもの」としてのキッチュについては,石子順造以来,この国では民俗学(文化人類学?)的に高く評価する方向が定まっているようですが,「まがいもの」としてのキッチュについては,NSDAP(ナチ)関連以外ではあまり見かけないような気がします。当方見聞が狭いもので,膨大な蓄積を見落としていたらごめんなさい。

「まがいもの」としてのキッチュが世の中に影響力を持ちうるには,現在のところ,次に挙げる要因が絡んでくると考えています。

1)群衆
2)専制
3)歴史
4)宣伝

順不同に挙げています。どれがより重い影響をあたえるかは,事象によってその都度変わってくるでしょう。これらの要因により「神話」をまとうことになったキッチュが支持されるとき,我々の自由と制度は破滅に向かうのではないでしょうか。

本当は,時間は限られているのかもしれませんが,個人の限界もありますので,ゆっくりではありますが,少しずつ知見を積み上げて,「キッチュ」にまつわる神話を解き明かしてみたいと考えています。

では,また。

2012/11/04

それは「温故知新」ではない

ある音楽評論家が書いていたことのパクリで,カール・ミュンヒンガーをネタに「デビュー当時は清新の気にあふれている,と評されていたものが50年以上経って,いまの評価はどうですか?」とやろうかと思ったのだけど,評価も何もミュンヒンガーはすでに忘れ去られている指揮者なのでありました・・・・・・。

ちなみに,こんな演奏をする指揮者でした。四角四面で融通の利かないテンポと表情,というところ。

ただ,僕もクラヲタなので気をつけなきゃいけないと思ってるけど,どうしたって「記録」を追いかけていると,好みが保守的,と言うか若い頃に聴いて圧倒的な印象を受けたものに引きずられてしまうのですね。僕の場合は,中学生の時に聴いたカラヤン/BPOのチャイコフスキー/「悲愴」(DG,1976年盤)がその典型(^^;)。誰の演奏を聴いても,「悲愴」を評価する時の物差しがカラヤンのこの演奏になってしまっているのですね。

自分で意識して常に新しい演奏家にアンテナを張り,新しい解釈に対して柔軟な耳を持ち続ける努力をしなければ,「過去の大家」の砦に自分が入ってしまっていることに気がつかなくなってしまうのですよね。それは「温故知新」というものとは,明らかに違うわけで。何かを計るための「物差し」が保守的になることは避けたいし,それは努力次第である程度までは避けられるのではないか,と思ってはいます。

では,翻って「図書館」はどうでしょうか? 何時まで経っても,「古い物差し」が跋扈し続けているのではないか,ということにどれだけ自覚的で,どれだけ危機感を感じているのでしょう。事ここまで来て,なぜ「新しい物差し」は新しいひとから生まれてこないのか,そのことに対する危機感がいささか足りないんじゃないかなあ。そんなことを,前述のミュンヒンガーだの,今日買ってきた「春の祭典」100年のアニヴァーサリーCDを眺めたりしながら考えてみたのです。ミュンヒンガーという指揮者も,1950年代にヴィヴァルディの「四季」やJ.S.バッハの録音で売り出したときは,それまでのロマン主義的なバロック演奏とは異なる,いわゆる新古典主義のすっきりした演奏であると評価され,エルネスト・アンセルメなどと並ぶDeccaのドル箱になっていたのが,2012年にはすっかり過去の人,知る人ぞ知る指揮者,となっているのですから。

図書館業界はこれまでの歩みを肯定/否定などというところで,あれこれ議論している場合じゃないと思う。いま,そこにあるものを否定したところで抹殺できるわけじゃない。自説にとって都合の悪いことを「なかったこと」にはできないのですよ。現にそこで働いているひとのことは置き去りにしますか? もし「それでもよし」とお考えなのであれば,考えなければいけないことの出発点が間違っているのではないでしょうか。おそらくは当事者に物申しても届かぬ言葉でしょうから,このあたりにしておきますが・・・・・・。

もっとも,ではワタクシは,どのような視点を「図書館」に提供できるのかな? それをどうしたら,どんな「言葉」に載せて,関係する方々に伝えることができるんだろう? 言葉を耕し,費やす時間が,まだあるんだろうか? 命脈が尽きた,とはさすがに思いたくないのですが・・・・・・( ´Д`)=3

2012/11/02

図書館総合展にて,みちのく図書館員連合がフォーラムを開催します

来る11月20日(火)から22日(木)までの3日間,パシフィコ横浜にて開催されます第14回図書館総合展において,東北地方からの参加として「みちのく図書館員連合(MULU)」がフォーラムを2件,開催します。


東北発「図書館とは何か」青柳文庫の検証から見えてくるもの
http://kokucheese.com/event/index/56304/


第14回図書館総合展フォーラム「東日本大震災:震災対応に関する疑問質問にMULUが全力でお答えします!」
http://kokucheese.com/event/index/56303/


・・・・・・実は集客に少々苦労しております。東北地方はもとより,お近くのみなさまのご来場をお待ちしております。よろしくお願いいたします。

2012/11/01

雑誌に文章が掲載されました

ご無沙汰をしております。

ぼちぼちblogの更新もかけていかなければ,このままズルズルblogが終わってしまいそうなので,今月は留守の日を除いて,毎日更新という目標を立てて行きましょう(^^;)。

更新をお休みしている間に,おかげさまで,図書館系の雑誌に文章が掲載されました。

図書館はメッセージである : 図書館とソーシャルメディアのつながりを考える (特集 ソーシャルメディアが広げる図書館の『輪』と『場』) 現代の図書館 50(2), 84-90, 2012.6
http://ci.nii.ac.jp/naid/40019368461

使うことから始めよう:郡山女子大学図書館のTwitter利用法(広場【図書館とツイッター】)
医学図書館 59(3), 166-167, 2012.9

どこかでお見かけになりましたら,ご一読くださいませm(_ _)m

2012/07/29

日々是勉強(続)

前回は「図書館」に関する勉強と情報収集について書きましたが,言うまでもなく「図書館」はどの館種にせよ,図書館単立ですべてが成り立っている存在ではありません(このあたりを貸出至上主義者は間違える)。図書館についてのみ勉強していても,残念ながら「社会」はわからないのですよね。

と言うわけで,では図書館を成り立たせる社会の仕組みを知るため,僕が実践している勉強と情報収集法を紹介してみましょう。これも前回同様,「僕はこうしています」という話で,誰もが「こうであらねばならぬ」という話ではありませんので(^^;)。それと,根っからの日本ドメスティックな文系人間が組み立てている話ですので,情報学関係の内容は他の方にお任せしますね。


「自由」であるとか「公共性」「公共圏」であるとか,これは「図書館の自由」という狭い教条主義を越えて,社会を成り立たせている重要な要素です。この主題で,僕が座右に置いているのは,こちらの書籍。

『ある思想史家の回想』

『「公共性」論』

『専門知と公共性』

『社会とは何か』


「地域」「都市」や「まちづくり」は,特に公共図書館にとって重要な要素ですが,勉強を始めた当初に僕が思い描いていたほどには,図書館情報学では触れられる機会がないようです。

『都市革命』

『地域の社会学』

『地域の力』

『都市の論理』

『地域再生の経済学』

『価値を創る都市へ』


行政であるとか社会保障であるとか,どこまでがっちりやらなければならないのか,まだまだよくわかってませんが。僕なりにおさえているのはこのあたり。

『行政学教科書』

『社会的共通資本』

『情報と国家』

『生活保障』


『第三の道』


情報収集では,全国紙よりも各地の地方紙が役に立ちます。RSS吐いている新聞社のwebはなるべくRSSリーダーに登録して記事を見ましょう。

世の中は広大無辺ですから,これがすべてではありませんし,そもそもすべてをカバーすることはひとりの人間には無理です(^^;)。興味を持てそうな分野から始めてみてください。
がんばって!


追記:
政治史学については,だいこんさんの素敵な記事がありますので,そちらをどうぞ。
国民国家・ナショナリズム・図書館 - みちくさのみち
http://d.hatena.ne.jp/negadaikon/20120625/1340638485

2012/07/27

日々是勉強

「図書館に勤めているひとは,いつ,どんな方法で勉強しているのですか?」という質問を,ある方からいただきました。そこで,参考になるかどうかわかりませんが,僕の勉強法,というより情報収集法を整理してみようと思います。基本的に座学の人間で,正直なところ自分が変な奴だというのはわかっているので,自分のやり方に普遍性があるかどうか,多大な不安があるわけですが(^^;)。
なお,僕は日本ドメスティックで仕事しているので,外国語の文献については詳しい誰かが回答してくれることを期待します。


日々仕事をこなしていくための基礎知識をおさえるには,常に次の書籍を座右に置いておくのがいいでしょう。

『図書館ハンドブック』

『図書館用語集』

『日本目録規則』

『日本十進分類法』


加えて

『知っておきたい図書館の仕事』

『知っておきたい大学図書館の仕事』

『インターネットで文献探索』

も持っていると役に立ちます。


日々知識を更新するには,Webが役に立ちます。

カレントアウェアネス・ポータル | 国立国会図書館
http://current.ndl.go.jp/

レファレンス協同データベース
http://crd.ndl.go.jp/jp/public/index.html

電子書籍/電子出版の今を知る、今が分かる ITmedia eBook USER
http://ebook.itmedia.co.jp/

「図書館」でタグ検索 - はてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/search/tag?sort=recent&q=%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8&users=1

「著作権」でタグ検索 - はてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/search/tag?sort=recent&q=%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9&users=5

現在,僕が図書館関係のサイトでRSSを取得して見ているのはこんなところです。これだけでも充分,お腹いっぱいになります(^^;)。
Webで入手した情報の整理にはもっぱら「はてなブックマーク」を使ってます。

はてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/


たまには外の風に当たりましょう(^^;)。日本図書館協会が主催する全国図書館大会 もありますが(2012年は島根県松江市で開催されます。松江よいとこ一度はおいでw),新知識を吸収するには,やはり横浜で毎年開催される図書館総合展でしょうか。

第14回 図書館総合展
http://2012.libraryfair.jp/

名刺を持参して,まずは知ってるひとを誰か見つけて,その方の知人を芋づる式に紹介してもらってください。人脈を広げることは勉強する上でとても大切なことです。紹介していただいた方がやっているblogやTwitterをも教えてもらってフォローすることもいいでしょう。


自分が考えたことは,なるべくメモを残すようにします。最近は無印良品で売っているA6判のノートを常に携帯し,気がついた時にメモを取るようにしています。テーマごとに分けてメモを取るために,3冊ほど持ち歩くといいでしょう。
僕のメモは,ときにこんな感じ。
Img_1879


日々の仕事が忙しくて,なかなか腰を据えて勉強するのも大変なことですが,若いうちはまず量をこなすことが必要です。質を見極めることができるようになるためにも,消化不良を覚悟して量をこなしてください。
がんばって!

2012/06/16

武雄市立図書館への「Tカード」導入に関する雑感

以下の文章は知人の課題に応えるために5月中に書き上げて,提出したものです。このところ,ある運動家から僕に向けられている馬鹿馬鹿しい誹謗への返事に替えて,文章がこなれていなかった幾つかの箇所を手直しして(論旨に変化はない)ここに載せます。お時間のある方に読んでいただければ幸いです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

続きを読む "武雄市立図書館への「Tカード」導入に関する雑感" »

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