ひょっとしなくても,ある種の本には「ある年齢までに読まなければダメ」「ある年齢時に読まなければダメ」なものがあるようだ.ある年齢までしか持ち得ない感性,ある年齢時にしか持ち得ない感性,そのようなものの持ち合わせがあって初めて,その内容と思想が理解,というよりは体得できる本というのがあるらしい.
知人にそれを指摘されたのは,確か宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』だったと思う.
「これは二十歳過ぎてから読んでもわからないよ」
すみません,大学4年になってから読んだので,さっぱり何が言いたかったのかわかりませんでした(>_<).『グスコーブドリの伝記』はまだわかりやすかったけど,幻想的な物語(「ファンタジー」って言うの?)は肌に合わないのかもしれない.宮澤賢治と並び称される新見南吉の民話調の作品の方が,25過ぎてから代表作を幾つか読んだにもかかわらず,僕にはなじみやすかったから.
そんなこともあって,30代に入った頃から「文学」はほとんど読まなくなったんだろうと思う.実のところ,現存する「好きな作家」は辻井喬だ.流行りじゃないね(^^;).
こんな「ワタシ語り」をしたくなったのは,もしも学生時代に『市民の図書館』を読んでいたら,自分が熱心な貸出至上主義者になったのかどうか,ちょっと考えてみたからで(^^;).僕は小・中・高と公共図書館と学校図書館のヘヴィユーザーだったところから図書館の隘路に迷い込んだ人間なので,学生時代も『市民の図書館』はおろか『中小都市における公共図書館の運営(中小レポート)』もまともに読んでない.学生時代でさえ,自分が図書館を運営する側に回るかも,という自覚が徹底的に欠けていたダメ学生(^^;).
両方とも,腰をすえて読んだのは30代に入ってからで,そのとき『中小レポート』には,その溌剌とした精神に非常な感銘を受けたものの,『市民の図書館』はその官僚臭が鼻につく文体と,唯物史観に寄り添っているらしい単純な進歩主義(すべての図書館の頂点は公共図書館であり,公共図書館に収斂する)が,如何にも「時代」を感じたもの.その後,『図書館の発見』の初版と新版を読み比べて,明らかに新版が初版より劣化していることを当blogに書いてみたことがある.
恐らく,『市民の図書館』を今でも信奉している方々って,それを読むべき年齢時に『市民の図書館』と幸福な出会い方をし,その感激をそのまま今日まで大切に守り続けている人たちなんだろうなあ.これは皮肉じゃなくて,そのような信仰の書を読むべき時期にウォルター・リップマンの『世論』(岩波文庫)を読み耽って「ステレオタイプ」の勉強をしていた人間の,いささか複雑な感慨.恐らく,ストレートに信仰できる本など,もう読めないでしょう.
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