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「貸出至上主義者」度チェックβ版

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2013年7月の記事

2013/07/31

どこから折っても金太郎?

公共図書館は「金太郎飴」であるべきか : 今を読む:文化 : Biz活 : ジョブサーチ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/columnculture/20130718-OYT8T00851.htm

公共図書館をめぐっての「金太郎飴」という表現は,しばらくぶりで見たような気がします。

「公共図書館金太郎飴論」というのは,記憶に間違いがなければ,僕が学生の頃には既にありましたね。それは確か,
「公共図書館が『市民の図書館』に基づく“貸出し業務偏重”に陥ったため,どこの公共図書館に行っても売れ筋の本(予約が多い本)ばかりが書架に並んでいるじゃないか」
という類のものだったかと。最近はさすがに(一部の頑強な信者を除けば)『市民の図書館』信仰も希薄になりつつあり(『市民の図書館』はその役目を終えて歴史的文書になった,という評価が今現在は正しいのではないでしょうか),貸出し以外の資料/情報を提供する業務も公共図書館の基幹業務である,という認識が業界の内外を問わず浸透してきまして。その結果,「金太郎飴」論も姿を消したかと思っていたのですが。

僕個人は,公共図書館が「金太郎飴」である必要性は全く無いと考えています。それはもちろん,単館の資料と業務の充実もさることながら,「水道の蛇口」としての各公共図書館が,相互利用業務を通じて文献複写や現物貸借を広く手厚くネットワークしていることが最低限の条件です。この前提をスルーして僕の意見を批判するのは批判する側の自由ですがね。

しかし,この記事は何と言うか,あちらこちらに綻びがあるように思えます。

“「本を読む場所」としての図書館のあり方だけを考えるのではなく、住民サービスの拠点としての図書館をどう考えるか”

という記者の問題意識は真っ当なものだと思いますが,その論拠が“住民サービスの拠点”という「新しい公共」,もしくは公共圏やコモンズのあり方を考える方向からではなく,新自由主義的な「規制緩和は善」という考え方と,古いタイプの公共図書館観の奇妙な混淆から成り立っているような感触があります。

他にも取り上げるにふさわしい公共図書館が幾つもあるにもかかわらず,何も脱「金太郎飴」の象徴のように,公共図書館としては「まがいもの」でしかない武雄市図書館を持ち出すことはないでしょうに(苦笑)。あれは武雄蔦屋書店としては,スターバックス武雄蔦屋書店店としては成功しているのでしょうが,どこをどう考えても公共図書館ではなく,また公共施設としての存在における大切な「何か」が欠けているように,僕には見えます。その欠けている「何か」が,恐らくは現在,武雄蔦屋書店をもてはやす方々が嫌っているものなのでしょう。武雄蔦屋書店の“取り組み”とやらは断じて,

“武雄市図書館の取り組みも限られた予算でハコモノを有効活用するという流れの中”

になど,ありませんよ。新自由主義的行政観に基づく公共圏と,公共圏を支える公共知,そしてストックの軽視という流れの中にはあるでしょうが(実は,このあたりは『市民の図書館』の発想と通底するものがあるのですが,それについてはまた後日)。

武雄蔦屋書店的な考え方に対する,識者の意見がまた,何というか。

“公共図書館はあらゆる世代が利用する、地域のインフラ。誰もが自分に合った利用ができるのが基本で、特色を出せば良いというものではない。”

これはそっくり,10数年前に図書館問題研究会が浦安市立図書館と当時の図書館長を攻撃した理屈なんですよね。ここには,すべての公共図書館は横並びで同じサービスを展開しなければならない,ある公共図書館が突出したサービスをするのは業界の秩序を乱すものであり,許す訳にはいかない,という含みがあります。同じ理屈で攻撃された図書館は,他にもアカデミーヒルズ六本木ライブラリーや矢祭もったいない図書館を挙げることができます。要するに「ひとつの図書館,ひとつの理想,ひとりの指導者」というものです。自分たちの間尺に合わない「図書館」は「図書館ではない」という意識がそこにはあります。この意識は,あの失敗した「認定司書制度」の創設など日本図書館協会の運営にも影を落としていると,僕は捉えています。

ところでこの記者は,識者の意見を受けて

“確かに、公共図書館の蔵書は憲法で保証された国民の知る権利を支える重要な役割を持つ”

と書いています。ひょっとすると記者さんは,武雄蔦屋書店は“国民の知る権利を支える”この視点に欠けているのでは? というメッセージをこの記事の裏に込めたんでしょうか,と思わないでもありません。まあしかし,公共図書館に対して“ハコモノを有効活用する”と書いているのですから,それは買いかぶりすぎでしょうね。


本来は朝日新聞デジタルに載った

TSUTAYAに頼めば万事解決? 公共図書館と出版産業の未来を考える - WEBRONZA+社会・メディア - WEBマガジン - 朝日新聞社(Astand)
http://astand.asahi.com/magazine/wrnational/special/2013072200007.html

こちらも参照して何か書くべきだったのですが,如何せんこちらは途中から有料記事になっていて全文が読めないので,取り上げるのを諦めました。このことひとつとっても,公共図書館への補助金の要件に「館長が有資格者であること」とあったことをお役所仕事だと非難した朝日新聞は,公共図書館が“国民の知る権利を支える重要な役割を持つ”ことについて,どのようにお考えなのでしょう,と疑問に思います。

2013/07/08

「キッチュ論」ノート(その2)

「キッチュが何故支持されるのか」というテーマにおいて,「群衆」を考えることは重要な要素であろう。以下,『群衆-モンスターの誕生』(今村仁司著/筑摩書房/1996年1月発行/ちくま新書56)を補助線に据えながら,思ったことどもをつらつらと。

乱暴に要約してしまうと,「群衆とは集団や組織の類型ではなく,ひとつの“傾向”なのである」という。その傾向はいくつもの集団を横断する「情念の均質化」を伴い,均質化に同調しない他者の排除や差別がそこに起こる。

また,均質化された群衆は指導者を群集の中から生み出す。今村は

「指導者という第三項をおのれの内部からたたきだして,それを媒介にしないでは「自己」同一性を確認できないのが情念の共同体なのである」(前掲書p188)

と述べているが,ここで僕は,今村が指摘していないもうひとつの指導者への傾倒の理由を持ちだしてもいいのではないかと考えている。平井正が『ゲッペルス-メディア時代の政治宣伝』(中央公論社/1991年6月/中公新書1025)で指摘する「救済者願望」である。群衆の「意思」は,指導者への情念と行動に対する同一化願望にとどまらず,指導者による「救済」への期待があるのではないだろうか。虚構・まがいものとしてのキッチュが付け入る隙はそこにある。

即ち,キッチュが空虚であればあるほど,指導者が描く虚構の「物語」(それは指導者と群衆の中では「神話」なのだ)をそこに投影し,群衆と指導者の一体化と,他者の排除・差別のための道具としてキッチュが活性化されていき,救済者願望は昂進して行くのである。ゲッベルスの言葉は,第二次大戦末期の断末魔において,救済者願望が現実を切断(「切断」もキッチュを判断する際に,大きな要素となる。そのことはまた後日触れる)してしまい,指導者との一体化は妄想の域に達した,ほとんどうわごとと化していた。


問題は,この「情念の均質化」と「救済者願望」,そしてそれらに基づく排除の構造が,キッチュに反対する側にも往々にして感じられることなのだよね。フランクリン・ローズヴェルトはヒューイ・ロングと戦うにあたって,自らもファシズムに堕してしまったのではないかとの疑念を後世抱かれることになったが,ローズヴェルトほどの政治家にして「目的は手段を神聖にする」誘惑には抗い難かったわけで,ましてや我々はどうなのか。キッチュに対抗するのに,結果的に自らがキッチュに陥ってはいないのか。「情念の均質化」を求めてはいないのかどうか,いま一度立ち止まって考えなければならないのではないか。

相手は目の前の「キッチュ」だけではないのである。キッチュを支持する群衆のことを考えなければならないのだ。


2013/07/07

「キッチュ論」ノート(その1)

というわけで,しばらくの間,折りを見て「キッチュ」についてぐだぐだ書いていきます。文献を読みながら同時並行的に綴っていきますので,まとまりを欠くものになりますがご容赦ください。

今回は「キッチュとは何か」「何がキッチュなのか」よりも,「何故キッチュは影響力を持ちうるのか」「何故キッチュが支持されるのか」に重点を置いてお勉強していきます。「何がキッチュなのか」は,ブルーノ・タウトにおける桂離宮と日光東照宮の扱いを見るまでもなく,いささか恣意的なものが介入する余地があると考えているので(ドイツにおけるモダニズム建築の雄タウトにはキッチュに見えた日光東照宮は,僕の思うにキッチュではなく)(参考:『つくられた桂離宮神話』井上章一著)。

「キッチュ」を日本語にすると「まがいもの」または「げてもの」という意味になるようです。「げてもの」としてのキッチュについては,石子順造以来,この国では民俗学(文化人類学?)的に高く評価する方向が定まっているようですが,「まがいもの」としてのキッチュについては,NSDAP(ナチ)関連以外ではあまり見かけないような気がします。当方見聞が狭いもので,膨大な蓄積を見落としていたらごめんなさい。

「まがいもの」としてのキッチュが世の中に影響力を持ちうるには,現在のところ,次に挙げる要因が絡んでくると考えています。

1)群衆
2)専制
3)歴史
4)宣伝

順不同に挙げています。どれがより重い影響をあたえるかは,事象によってその都度変わってくるでしょう。これらの要因により「神話」をまとうことになったキッチュが支持されるとき,我々の自由と制度は破滅に向かうのではないでしょうか。

本当は,時間は限られているのかもしれませんが,個人の限界もありますので,ゆっくりではありますが,少しずつ知見を積み上げて,「キッチュ」にまつわる神話を解き明かしてみたいと考えています。

では,また。

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