それは「温故知新」ではない
ある音楽評論家が書いていたことのパクリで,カール・ミュンヒンガーをネタに「デビュー当時は清新の気にあふれている,と評されていたものが50年以上経って,いまの評価はどうですか?」とやろうかと思ったのだけど,評価も何もミュンヒンガーはすでに忘れ去られている指揮者なのでありました・・・・・・。
ちなみに,こんな演奏をする指揮者でした。四角四面で融通の利かないテンポと表情,というところ。
ただ,僕もクラヲタなので気をつけなきゃいけないと思ってるけど,どうしたって「記録」を追いかけていると,好みが保守的,と言うか若い頃に聴いて圧倒的な印象を受けたものに引きずられてしまうのですね。僕の場合は,中学生の時に聴いたカラヤン/BPOのチャイコフスキー/「悲愴」(DG,1976年盤)がその典型(^^;)。誰の演奏を聴いても,「悲愴」を評価する時の物差しがカラヤンのこの演奏になってしまっているのですね。
自分で意識して常に新しい演奏家にアンテナを張り,新しい解釈に対して柔軟な耳を持ち続ける努力をしなければ,「過去の大家」の砦に自分が入ってしまっていることに気がつかなくなってしまうのですよね。それは「温故知新」というものとは,明らかに違うわけで。何かを計るための「物差し」が保守的になることは避けたいし,それは努力次第である程度までは避けられるのではないか,と思ってはいます。
では,翻って「図書館」はどうでしょうか? 何時まで経っても,「古い物差し」が跋扈し続けているのではないか,ということにどれだけ自覚的で,どれだけ危機感を感じているのでしょう。事ここまで来て,なぜ「新しい物差し」は新しいひとから生まれてこないのか,そのことに対する危機感がいささか足りないんじゃないかなあ。そんなことを,前述のミュンヒンガーだの,今日買ってきた「春の祭典」100年のアニヴァーサリーCDを眺めたりしながら考えてみたのです。ミュンヒンガーという指揮者も,1950年代にヴィヴァルディの「四季」やJ.S.バッハの録音で売り出したときは,それまでのロマン主義的なバロック演奏とは異なる,いわゆる新古典主義のすっきりした演奏であると評価され,エルネスト・アンセルメなどと並ぶDeccaのドル箱になっていたのが,2012年にはすっかり過去の人,知る人ぞ知る指揮者,となっているのですから。
図書館業界はこれまでの歩みを肯定/否定などというところで,あれこれ議論している場合じゃないと思う。いま,そこにあるものを否定したところで抹殺できるわけじゃない。自説にとって都合の悪いことを「なかったこと」にはできないのですよ。現にそこで働いているひとのことは置き去りにしますか? もし「それでもよし」とお考えなのであれば,考えなければいけないことの出発点が間違っているのではないでしょうか。おそらくは当事者に物申しても届かぬ言葉でしょうから,このあたりにしておきますが・・・・・・。
もっとも,ではワタクシは,どのような視点を「図書館」に提供できるのかな? それをどうしたら,どんな「言葉」に載せて,関係する方々に伝えることができるんだろう? 言葉を耕し,費やす時間が,まだあるんだろうか? 命脈が尽きた,とはさすがに思いたくないのですが・・・・・・( ´Д`)=3
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