「自由」と「自律」
というわけで(?)2012年は,2011年にやり残したことに手をつけようと考えているわけですが,個人研究の案件は「ポスト貸出至上主義の公共図書館経営論」というものです。
そろそろ『市民の図書館』に替わる新たな公共図書館経営の指針が必要,と言われ始めて早幾星霜。もはや待ったなしの状況に業界は追い込まれているように見えます。追い込まれてからが強い,などと戯言を言っている場合ではございませぬ(^^;)。火事場の馬鹿力が通用するのはアマチュアのオケや合唱団であって。
その「ポスト貸出至上主義の公共図書館経営論」を論じるにあたって,今年は「公共図書館における『自由』と『自律』」について取り組むことを考えています。「図書館の自由に関する宣言」と名付けられた文書はあれども,これはいわゆる「自由」についての文書ではありません。「図書館の自由に関する宣言」が「自由」について述べているのであれば,業界系某雑誌の編集部がこの宣言をモチーフにした某小説を書いた作家の秩序なき検閲行動をヤニ下がりながら追認するわけがないじゃないですか(^^;)。
いま「秩序」という言葉を持ち出しましたが,「自由」を行使することを考える上で「秩序」を考えることは欠かすことができません。ところが上記の編集部もそうですが,秩序を嫌うくせに「秩序」を好む輩が,この業界には多すぎます(^^;)。その手のファシストが好む「秩序」から最も遠いところにある秩序,ハイエクが述べるところの「自発的秩序」を,果たしてこの業界において誰が,どのように担うことが可能なのか,もしくは不可能なのか,を考えることによって,公共図書館経営論に何がしかの光をあてることができれば,という目論見をいだいております。
そこで,「秩序」にせよ「自発的秩序」にせよ,ハイエクやミルトン・フリードマンをはじめとする新自由主義的な匂いを嗅ぎつけて喚き立てる輩もいるでしょうから,今回は「秩序」ではなく「自律」という言葉を用いて,公平と公正について考えることを織りまぜながら,何かを語ることができれば。
余談ながらハイエクは,ミルトン・フリードマンが『隷属への道』の序文で評価しているような意味でエラいひとであるわけではないと思うのですよねえ(^^;)。
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