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2012年1月の記事

2012/01/23

「本を選ぶ」「本を贈る」「本を待つ」ということ

本を送りません宣言 - saveMLAK
http://savemlak.jp/wiki/SendNoBooks


僕個人は,被災地に住んでいることもあるので,この宣言に対して賛同者に名を連ねることは遠慮しておきますが,これまでの経験と知識から,この宣言が言わんとしていることは充分に理解できます。

そもそも「本を選ぶ」「本を贈る」という行為は,少なくとも僕にとっては,実に「個人的な」行為なので,少なくとも特定の「誰か」ではない相手に対して(新古の別なく)本を選ぼうか,本を贈ろうか,という気持ちには,なかなかならないわけですよ。喜んでもらえる「本を待つ」誰かの顔が浮かばないと,本を選ぶこと自体が難しいから。
だから,先日ある機会に景品として僕が本を選んだら,上手くいかなかったわけですね。誰に当たるかわからなかったから,結果的に誰にもウケなかった,という。


古本を集めだすとコントロールが難しくなるのは,貸出至上主義者が非難して倦むところがない「全国ありがとう文庫」や「矢祭もったいない図書館」の事例を振り返れば明らかなんです(^^;)。とにかく,ちょっとしたきっかけで爆発的に集まるんですよ,あれは何故か。
で,貸出至上主義者たちが前例を非難してやまないものですから,図書館における「古本の収集と整理」事例の蓄積は,日本図書館協会にはもちろんのこと,日本図書館研究会にも図書館問題研究会にもない,というのが実情です。だから日図協は「古本を集めて被災地を支援する」ことは考えてもいないでしょうし,実行するだけのゆとりを持っていないでしょうが,それが結果として「怪我の功名」になってるのは皮肉なことです。


このように,何でもかんでも業界側の事象にひきつけて考えるのも如何なものかとは自分でも思いますよ。しかし,この宣言をめぐるあれこれを眺めていると,やっぱり公共図書館において「貸出至上主義」の罪は重いなあ,と思ってしまうのですよねえ(^^;)。

つまり「本を選ぶ」という行為は,相当にパーソナルな部分に軸足を置いているはずの行為なのですが,さすがに図書館という公共機関では,パーソナルな「思い」を行為に載せることは難しいときもあります。そのため,「本を選ぶ」ことからパーソナルな(あるいはインフォーマルな)部分を捨象するために,その代替として現在で言うところの「市場原理」(と彼らは表現していませんが,事実上新自由主義者が言うところの「市場原理」と変わるところはないでしょう)を持ち込んだのが貸出至上主義,具体的に言えば日本図書館研究会読書調査研究グループによる主張だったわけです。「市場原理」を導入することで,パーソナルからマスへ,本を選択する際の選択基準の質的な転換を図った,と考えられます。

この「マスへの転換」が今や,あらゆる場面で齟齬をきたし始めているわけですが,恐らく1990年代に一旦できあがってしまった「マスを対象にする」という(新しい)公共図書館のイメージは,そう簡単に払拭できるものでもなく,例えばある新刊本に対して予約が100人待ち,みたいな現象が肯定的な文脈でも否定的な文脈でも,公共図書館の日常的な風景として語られることになります。

僕の妄想だと片付けていただいて結構ですが,あるきっかけで殺到する古本,というのは,この「予約100人待ち」が語られる公共図書館のイメージの裏返しのような気がするのですね。古本にせよ予約にせよ,そこには「本を選ぶ」「本を待つ」ひとの,顔の見えるパーソナルなイメージは,どこにもないのです。


ですから「本を贈る」ことを希望する方には,いましばらくお待ちいただきたい。あなたが「本を選ぶ」「本を贈る」その先に,「本を待つ」誰かの顔が,あなたにはっきりとわかるようになるまで,待って欲しいのです。

2012/01/04

「自由」と「自律」

というわけで(?)2012年は,2011年にやり残したことに手をつけようと考えているわけですが,個人研究の案件は「ポスト貸出至上主義の公共図書館経営論」というものです。

そろそろ『市民の図書館』に替わる新たな公共図書館経営の指針が必要,と言われ始めて早幾星霜。もはや待ったなしの状況に業界は追い込まれているように見えます。追い込まれてからが強い,などと戯言を言っている場合ではございませぬ(^^;)。火事場の馬鹿力が通用するのはアマチュアのオケや合唱団であって。

その「ポスト貸出至上主義の公共図書館経営論」を論じるにあたって,今年は「公共図書館における『自由』と『自律』」について取り組むことを考えています。「図書館の自由に関する宣言」と名付けられた文書はあれども,これはいわゆる「自由」についての文書ではありません。「図書館の自由に関する宣言」が「自由」について述べているのであれば,業界系某雑誌の編集部がこの宣言をモチーフにした某小説を書いた作家の秩序なき検閲行動をヤニ下がりながら追認するわけがないじゃないですか(^^;)。

いま「秩序」という言葉を持ち出しましたが,「自由」を行使することを考える上で「秩序」を考えることは欠かすことができません。ところが上記の編集部もそうですが,秩序を嫌うくせに「秩序」を好む輩が,この業界には多すぎます(^^;)。その手のファシストが好む「秩序」から最も遠いところにある秩序,ハイエクが述べるところの「自発的秩序」を,果たしてこの業界において誰が,どのように担うことが可能なのか,もしくは不可能なのか,を考えることによって,公共図書館経営論に何がしかの光をあてることができれば,という目論見をいだいております。

そこで,「秩序」にせよ「自発的秩序」にせよ,ハイエクやミルトン・フリードマンをはじめとする新自由主義的な匂いを嗅ぎつけて喚き立てる輩もいるでしょうから,今回は「秩序」ではなく「自律」という言葉を用いて,公平と公正について考えることを織りまぜながら,何かを語ることができれば。


余談ながらハイエクは,ミルトン・フリードマンが『隷属への道』の序文で評価しているような意味でエラいひとであるわけではないと思うのですよねえ(^^;)。

恥ずかしながら生きております

本年もよろしくお願い申し上げますm(_ _)m

今年もあと11か月とわずかになりましたが,2012年は2011年の傷跡を癒し復旧しつつ,2011年にやり残した,あるいは手をつけることのできなかった多くのことを,ひとつでも締めくくり,あるいは手をつけることができれば幸甚です。

今年は年賀状に盛唐末期の詩人岑参(715-770)の「山房春事」から挨拶を取りました。


梁園日暮亂飛鴉
極目蕭條三兩家
庭樹不知人死盡
春來還發舊時花


庭の木は人が死に絶えたのも知らず,春が来れば再び昔のままの花を開く。
僕自身,自らに対して,いまさら希望も持ってませんが,いまだ絶望もしていません。恥辱だけが生き残っているのかもしれませんが,それもまた「行蔵は我に存す,毀誉は他人の主張」です(^^;)。


今年も力の及ぶ限り,生き抜きます。

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