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2010年11月14日 - 2010年11月20日の記事

2010/11/19

「管理」がわたしに語ること(続)(リハビリ7番勝負その5)

 昨晩は,あまりの睡魔に負けてしまいました。何ということだ・・・・・・。



 一昨日の続き。  これまでの図書館司書は,好むと好まざると「管理」にまつわることを主たる業務としていたことは間違いない。目録作成はその最たるものであり,また選書と廃棄の決定権を持つことによって図書館の資料における秩序を司ってきたわけだ。図書館経営の実態が「管理」であったこと自体は間違っていたわけではない。しかし,必要に応じて素早く引き出しを開けるための交通整理としてのニュートラルな「管理」にとどまらず,官僚が陥りがちなパターナリズム(家父長制的保護主義)に基づいた「支配」に,どこかで「管理」の内容がすり替ってしまってはいなかっただろうか。

 そもそも「図書館」には,ライプニッツ以来の伝統として(?)世界中の隅々までをも可視化したい,“Ich erinnere mich ganz genau”(わたしは隅々まで何でも知っている)と言いたい欲望があるような気がする。その欲望を「目録作成」という昨日を通じて実現するための作業が,図書館が本来担うべき機能であり,だからこそその昔,目録作成者(カタロガー)の地位はあれほど高く,また現在もなお目録の守備範囲は広くは精緻に,より精緻な内容へと変化しているのではないか。そのような,森羅万象を図書館目録の形で把握することを目指す欲望を,以下では仮に「目録化」と呼ぶことにする。

 で,この「目録化」は,「必要に応じて素早く引き出しを開けるための交通整理」(これを「知識の共有」と形容した方がいらっしゃったので,以後は「知識の共有」とする)という目的を持ち,図書館の機能と図書館員の職業倫理に則っている限り,まったく非難されるものではないし,その意味で「目録化」に忠実な図書館員は,高い職業意識の持ち主である,と肯定されてしかるべき存在である。しかし,「知識の共有」という目的を見失い「知識の提供」に特化した図書館および図書館員は,いつしかパターナリズムを身につけ,「目録化」を管理ではなく「支配」の道具として用いることになる。「隅々まで何でも知っていること」が目的化して,自らの支配の範囲が及ばないところが図書館の中にあることに対して,非常に攻撃的な態度,言動を取るようになるのである。「目録化」がモラル・ハラスメントの域に達することになる。

 もちろん,斯様な過剰な「目録化」を回避,もしくは方向転換して本来の目的である「知識の共有」に「目録化」を引き戻す試みはあちらこちらで行われている。過剰な「目録化」は次第に過去のものとなりつつあるようで,その後遺症から如何に図書館を現在求められている機能のために「目録化」を上手に活用していくか,また「目録化」が図書館における支配の道具に堕さないように,図書館がどのようにパターナリズムと袂を分かつか,旧来の業界人にはない発想と行動が求められていくはずである。


 今日は少々抽象的な表現に終始しましたです(^^;)。

2010/11/17

「管理」がわたしに語ること(リハビリ7番勝負その4)

 昨日のエントリーはどうにも舌足らずで書き込み不足が目立つ。後日書き直すことにするが,昨日のものも残しておくことにしよう。


 「共同体の記憶を収め,常に引出し可能とする記憶の共同体」としての図書館の機能や役割は,図書館が置かれている社会の状況や時代相に応じて変化していくことが必要である。「図書館は成長する有機体である」とは,インドの図書館学者ランガナタンがその著書『図書館学の五法則』で上げた5つの法則のひとつであるが,これは何も公共図書館が利用者の欲求に応じて,定期的に蔵書を更新することだけを意味しているわけではない。社会の変動と技術的な基盤の充実に応じて,図書館も活動に必要な知識と技術的な基盤を整備しなければならないのは,火を見るよりも明らかなことだと思うのだが。

 機能や役割の変化に応じて図書館の技術基盤を作り替えていくには,それ相応の空間/建築が準備されている必要がある。もちろん,種々の制約があってそのような空間/建築があらかじめ約束されているような図書館はめったにないし,そもそもある時点で建設された図書館建築の思想的な寿命は20年である,という説を聞いたことがあるくらい,社会の変化と技術基盤の進歩は急なものがあるわけだが。

 それにしても図書館,中でも公共図書館はすぐれて「近代」の産物である。欧米の近代市民が知識の平準化と平等化を目指したとき,公共図書館が大きな意味を持ちえた。また,空間/建築は近代に入って,形式的にも機能的にも意味的にも均質な「空間」を求めた。実は,図書館にとって機能的にもっとも適した「空間」は,この原広司が『空間〈機能から様相へ〉』(岩波現代文庫)で言うところの,「内部の空間ができるだけ特定の境界から解放されている」「均質空間」である。何故なら,均質空間には,図書館の変化する機能と役割を如何様にでも盛り込むことが可能であるから。

 さて問題は,まずこの「均質空間」が図書館にとって必要な機能の一つである「ホスピタリティ」をどこまで実装できるか,であろうか。原広司によれば「均質空間」は機能を対象化しない建築であり,ここに図書館が,その機能を盛り込みやすいというのは,いささか近代のどんづまりを象徴しているような話ではないかと思われる。そして,ホスピタリティという機能は,おそらく近代の権化であろう「役に立つ図書館」≒「趣味的だと思われるのは危険」という発想からは,かなりの確率で忌避されるものではないかと考えられる。

 その忌避は,おそらく原広司が前掲書で繰り返し述べる,均質空間と「支配」「支配階級」の関係と密接に関係があるのではないか,という仮説を現在考えているところである。そして均質空間が個体の全体化と断片化(あるモデルにおける「マス」としての利用者像!)を促す仕掛けであることは,ある図書関係団体のあるグループによるあるモデルに,その典型を見出すことが可能なのではないか。図書館は均質空間に相応しい施設であるが故に「ものの操作性を利用する小さな管理者」(原広司前掲書)に堕する危険性がある。それはあるモデルがパターナリズムにその多くを依拠していることとも通じているであろう。

 管理者・支配者としての図書館という,近代の産物としては備わざるを得ない性格(例えば「管理する目録」である蔵書目録のことを考えてみよ)に対して,曲がりなりにも図書館経営に参画している身として,管理者・支配者としての図書館像をどこかで意識しながら,来館者との対話と理解を重ねることで,図書館における個体の全体化,断片化からの回復を目指していければ。

 ・・・・・・うまくまとまらない。ごめんなさい。

2010/11/16

「認定司書事業」がわたしに語ること(リハビリ7番勝負その3)

 日本図書館協会がこのほど導入した「認定司書事業」なるものに関して,その制度設計の欠陥はすでに心ある図書館業界人から幾度と無く提出されているにもかかわらず,日図協に制度のあり方を見直す姿勢が皆無である以上,もはや制度設計論じることは時間の無駄にも思える。マニュアルを見ると,非常に複雑な計算をしなければ自らに「認定司書事業」への申請資格があるのかないのかさえわからない有様である。また,公共図書館以外の図書館への勤務が,最高でも5掛けでしか評価されないのは,ずいぶんと露骨な公共図書館厚遇であり,この差別的な図書館業務への評価が果たして,これから日図協が認定さることを目指すのであろう「公益法人」が担う「公益目的事業」に相応しい評価なのかどうか,大変に疑問である。例えば,「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」の第5条14項のイ「社員の資格の得喪に関して、当該法人の目的に照らし、不当に差別的な取扱いをする条件その他の不当な条件を付していないものであること。」にこの差別的な待遇は抵触しないのかどうか。

 法律については知識も準備も足りないので,今のところはこれ以上の深追いはできない。

 ところで,この「認定司書事業」は公共図書館への勤務を,他の図書館業務に比べて高く評価する姿勢で一貫しているが,同時に常勤職員と非常勤職員の間に格差を付けようとする意図があることも,その制度設計からまた明らかである。いちいち根拠となる箇所を引くことはしないが,どう考えてもこの事業は「公共図書館に10年以上勤務した常勤職員」のみを顕彰するための事業である。そのような事業を実施することが,果たしてこれからの公共図書館における持続可能性を考えたとき,正しい戦略に基づいた判断であると言えるのだろうか。

 僕は,正しい判断ではないと考える。

 そもそも,現在の生産も消費も縮小に向かっている社会・経済の状況下においてもなお,図書館業界人は「(公共)図書館だけは別」だと思っているフシがあるが,ルサンチマンとプロパガンダの嵐にさらされている行政の公共サービスの中で,公共図書館だけが別腹のわけがないではないか。これからもなお,司書有資格者は大量生産されていくのかもしれないが,大量生産されている有資格者が常勤職員として雇用される戦術については無策同然でありながら,現時点で10年以上の勤務を果たした常勤職員を厚遇するための制度を現行の司書資格の上に作り出すことは,既に「やりがいの搾取」が指摘されている図書館業界において,結局のところは世代間の分断をもたらすだけに終わるのではないかという危惧を抱くのだが如何だろうか。

 これからの「公共図書館の持続可能性」の担い手が誰であるかを考えたとき,今回の「認定司書事業」は撤回されてしかるべきであろう。縮小しやがては失われるであろう旧世代への顕彰を重視した制度ではなく,将来の担い手を励まし,育てられる制度への再設計が必要である。

2010/11/15

「合築問題」がわたしに語ること(リハビリ7番勝負その2)

 しかし,現場に『市民の図書館』を支持するひとはもういないのではないか,という反論には納得しかねるところがあります。「談論風発」は置くとしても,「図書館界」もまた『市民の図書館』への啓蒙に余念がないではないですか。数年前の誌上討論のことがきれいサッパリ忘れ去られているというのも如何なものかと思いますよ・・・・・・・。


 高知県立図書館と高知市民図書館の「合築問題」(参考その1その2その3)は,高知県および高知市に固有の問題(例:もともと県立と市立の立地が非常に近いこと)も絡んでおり,外野が高知県や高知市の行政における「認識不足」を言い立てて一刀両断するのは難しく,その是非はひとまずここでは棚上げする。ただし,権威ある図書館業界人のひとりが合築問題に関して,図書館業界に対して後ろ玉を飛ばしていること(参考)については,公共図書館業界の無責任ぶりも含めて繰り返し厳しく指弾しなければならないだろう。

 とは言え,この国におけるこれまでの公共図書館論,もしくは公共図書館経営論において欠落していたもののひとつが,県立図書館を含めた「都道府県立図書館」なる施設の存在価値を確認することであり,その意義と機能をいわゆる公共図書館のネットワーク(web以前から使われていた「相互協力体制」という意味での)の中で,どのように位置づけるか,という議論であったように思う。少し前には東京都立図書館の所蔵資料と運営をめぐる議論があったが,ここに来て長崎県立図書館の移転新築問題(参考)や福島県立図書館の資料費問題(参考),栃木県立図書館の建て替えを巡る議論(参考)がメディアをにぎわせているのも,ひとつには図書館業界において「都道府県立図書館」論の構築が疎かにされていたが故,という側面があることは否めない。

 歴史的な経緯としては,国家総動員体制の一翼を担わされたとおぼしき「中央図書館制度」が敗戦後に否定され続けたこと(参考その1その2)があるわけだが,今や「中央図書館制度」の否定そのものが歴史として検証されなければならない時期に来ているのではないか。これについては,これからの図書館史研究者の着眼を期待したい。

 都道府県立図書館の機能については,やはり従前から業界で主張されているデポジット・ライブラリーとしての機能と,高度なレファレンスのための調査機能,それぞれの充実を,直接来館者をシャットアウトしてでも実現した方がいいのではないかとさえ思えるのだが,如何だろうか。以前には,某県立図書館が直接来館者への貸出しを開館当初実施していなかったことに対し,直接貸出し実現のために圧力をかけてそれが成功したことを誇らしげに語っていた向きもあるようだが,これも今となっては都道府県立図書館の意義と機能をまったく省みていなかった暴論暴挙であった。また,現在も都道府県立図書館への直接来館者の人数が多いことを誇る業界人もいるようだが,「数を誇る」ことに意味を見出すのは,予算獲得に功績を見出す役人の性とは言え,あまり好ましいものではあるまい。現に栃木県立図書館の建て替え問題の結論が難渋していることには,利用者数の減少も一因としてあげられている。目先の数字の増減に一喜一憂せざるを得ない状況は,持続可能な公共図書館経営という視点からも決して好ましいことではない。

 まず解決すべき問題は,都道府県立図書館の果たすべき機能を明確にする。その上で,公共図書館のネットワークを公共図書館の機能面から再構築する途上で,都道府県立図書館と市町村立図書館という帰属する組織の異なる公共図書館をどのようにネットワークの中に取り込み,物流をコントロールし得るのか,というところだろうか。個人的には,都道府県立図書館と市町村立図書館を,自治体の枠組を超え一体化した独立行政法人のような組織を構築するのが近道だと思うのだが・・・・・・。

2010/11/14

「理想の図書館」がわたしに語ること(リハビリ7番勝負その1)

 しばらくです。
 すっかりblogの更新を疎かにしている間に,長文を書く能力が失われてしまったようで,今月に入って締切りを過ぎた原稿がウンウン呻るだけで何も書けない状況に陥っています。そこで,長文を書く能力を取り戻すために,今日から7日間,毎日blogにエントリーを上げていき,失われた力を取り戻す努力をしてまいります。


  「みんなの図書館」2010年11月号が伝える図書館問題研究会の第57回全国大会で,毎年全国大会にて提案,審議,承認の手続きがとられている「任務と課題」という文書について,その2010年度版が全体会で審議された際,本文中「理想の図書館」と表現されているところについて,「あるべき図書館」とすべきではないか,という疑義が出されたとか。最終的には「理想の図書館」が支持されて「あるべき図書館」への修正は行われなかった。図問研の会員ではないわたしも,後日この箇所を「みんなの図書館」11月号で読んで初めて知るとともに修正が認められなかったことに安堵したのだが,それにしても今時の図書館(図問研での出来事だから,当然ここは公共図書館を念頭に置いているのであろう)において「あるべき図書館」という枠組が成立すると考えている(考えていた)図書館業界人の現状認識とは,いったいどんなものなのだろう。

 「あるべき図書館」という枠組が現在でも成立しうると考えている業界人がその思考の基礎に置いているのは,1970年代から1980年代に勃興した公共図書館運動の「大躍進」を支えてきた政策文書であり,2010年においては歴史的文献としての価値を有するのみとなった『市民の図書館』(増補版1976)であることに疑いを差し挟む余地はあるまい。歴史的文献,と判断されるのは,『市民の図書館』で提示されているモデルがいわゆる日本経済の高度成長期と呼ばれる時期に合致した,しかもその時期にめざましい発展を遂げた郊外の団地群を中心とした地域を想定したものであり,現在見られるような経済・社会が高密度に集積された都市や,限界集落を抱えるような過疎地域を想定したものではないことによる。『市民の図書館』はその時期にふさわしいモデルを提示し成功したものの,そのモデルはその後の30年を俯瞰して想定したものではなく,『市民の図書館』の戦術的成功が却ってその後の図書館業界の戦略の足枷になっているのではないか。本来は業界人の不断の努力により『市民の図書館』のモデルは組み替えられ,書き換えられなければならないのに,現状は相変わらず『市民の図書館』のモデルが「あるべき図書館」として,他の公共図書館モデルを排除するからくりに用いられていることが,「みんなの図書館」11月号の議論から見えてくる。

 なるほど,「あるべき図書館」を言い立てるのは,あくまで一部の業界人だけであり,今回も「理想の図書館」が修正されずに終わったことを見ても,「あるべき図書館」にこだわる一部の業界人の影響力は低下している,と言うひともいるだろう。だが本当にそうなのか。今回「あるべき図書館」への変更を主張した業界人自身の影響力が他の立場に対しては皆無であったとしても,それは『市民の図書館』自体の公共図書館活動への影響力が低下したことを意味しているとは限らない。わたしたちは『市民の図書館』の歴史的価値はそれとして,現在各地で行われている公共図書館活動の実態に即した,なおかつ地域差の現状を射程に捉えた新しい政策文書の策定が求められるところである。ある場所で行われている公共図書館活動が他に隔絶したものであったとしても,そのことを以て「これは公共図書館ではない」「あれは公共図書館ではない」と排除の論理を発動させるのではなく,「これもまた公共図書館である」「あれもまた公共図書館である」と,その公共図書館としての価値を認めうる政策と戦略が必要になっているはずだ。

 公共図書館活動の多様性を認めうるようになって初めて,「理想の図書館」という枠組が実際に力を持つようになる。「あるべき図書館」という枠組は公共図書館をある定形(ここでは『市民の図書館』モデル)に落とし込んで,ピッタリはまった公共図書館のみが評価され,定形外は全てダメというスタンスだが,「理想の図書館」はそうではない。ある一定のモデルのみでは収まりきらない不定形な部分も含みながら,また移り変わる時間や空間や知識をあるときは蓄積し,あるときは流動化させながらその時々の市民社会や地域社会に求められる機能と要素を組み換えることを可能にできるのが「理想の図書館」という枠組である。そして「理想の図書館」を考える上で大切な事は,「理想の図書館」という枠組はわたしたちひとりひとりが個々に持ち合わせており,なおかつそれを共有することが可能だということ。あくまでも個の理想に依りながら,個々の「理想の図書館」をつないでいく結節点として現実の公共図書館が立ち上る,それが公共図書館の理想であり,それを個々の公共図書館がそれぞれのやり方で実現するための政策と戦略を模索していく必要があるだろう。公共図書館が「無用の長物」と化す前に。

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