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「貸出至上主義者」度チェックβ版

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2010年12月の記事

2010/12/26

「ホスピタリティ」がわたしに語ること(リハビリ7番勝負その7)

 「リハビリ7番勝負」あとひとつだったのに,ずいぶんと間が空いてしまいました。忙しいのは理由になりませんし,ましてやそれほど忙しくもなかったわけで(>_<)。恥ずかしい次第です。





 これまであちこちに「場所としての図書館」について書き散らかしてきたけど,最近では,「場所としての図書館」が提供する機能は「ホスピタリティ」なんじゃないかと思ってる。日本語では「おもてなしの心」などと言われるけど,公共サービスである図書館の場合は単なる接客にとどまらない内容が求められるだろうし,来館者も求めるべきだろうと思う。それは,ラーニング・コモンズに代表されるような来館者の「自治」も含まれるだろうし,これまで培われてきた図書館業務の標準化(国内どこでも一定以上のサービスが図書館から提供される!)もまた含まれるだろうし。

 この期に及んでまだ「公共図書館は貸出しをしっかりやることが基本」などとほざいている連中は,来館者をナメているとしか思えないわけだ。「貸出し」は公共図書館の数ある機能のひとつでしかないわけだし,そもそも来館者が公共図書館に求めているのは「貸出し」だけじゃないだろうに,何故そこまで自らの機能に縛りをかけたがるんでしょうね。自信がないから(^^;)?

 どのみち電子書籍が普及すれば早晩,「貸出し」を支えてきた基盤は崩壊どころか消滅する。現在,電子書籍として流通し始めている分野は,公共図書館が複本を揃えて「貸出し」をアピールしてきた分野とすっぽり重なってないですか? 重なっているからこそ出版流通の側は,国立国会図書館その他による書籍の電子化を忌避しているわけだけど,これから棲み分けが計られれば,著作権法その他による「縛り」がかけられて,恐らく図書館側は最先端の文藝の電子書籍には手が出せなくなる可能性があるわけで。さて「貸出し」を失った公共図書館は,何によって集客を図ろうって言うんですか?

 「場所としての図書館」は,その筐体としての図書館建築のみならず,立地という「場所」も集客のための手段として活用すべきなんですよ。これまでの図書館,特に公共図書館はコンテンツの容器であると同時に,もうひとつの容器である書籍の物理的な移動のために,公共図書館への集客を図ってきたわけだけど,これからはそうはいかなくなりますよ。これからは動かないコンテンツを求めて,公共図書館に来館者が訪れる方策を考えていかなければ立ち行かなくなる。

 これまでの公共図書館の戦術は,先程の「標準化」とは似て非なる「横並び」の発想が非常に強くて,突出したサービスを実施している公共図書館に対しては,やたらと攻撃的になる業界人が何人も出現して標的にされた公共図書館(浦安,矢祭,千代田,横芝光町・・・・・・)は大変な迷惑を被ったんじゃないかと仄聞しているが,結局横並びの公共図書館をこしらえて,「貸出し」をせっせと広めたところで,それが我々の街における独自の「コンセプト」であるとは,「貸出し」の先端を行ったいくつかの公共図書館を除けば,もはや認めてもらえないのではなかろうか。

 何を以て,図書館がそれを我々の街/我々の組織における「コンセプト」として打ち出すか。打ち出せるのか。「場所としての図書館」にも残された時間は,それほど多くないと思う。これまでの蓄積が全くの無駄にならないように,図書館業界人はそれぞれ微力を尽くして欲しい。

 ・・・・・・そうそう,「場所としての図書館」に大切なもののひとつが「ストック=蓄積」なんじゃないですかね(^^;)? これまで貸出至上主義がフロー重視で来たことも,これからの10年でひっくり返ることでしょう。

2010/12/05

朝日新聞「記者有論」について(続)

 blogのコメント欄やはてなブックマークやツイッターで,【朝日新聞「記者有論」について: 愚智提衡而立治之至也】にコメントいただきました。気になったものを幾つか取り上げてみます。

774さんのコメント
http://jurosodoh.cocolog-nifty.com/memorandum/2010/12/12-20f0.html#comment-58180822

 正論です。が,CCCにであれ,どこでにあれ,教わった知識を活かすためには予算と基盤が必要なんですよねえ(嘆息)。そりゃ知識だけでも無いよりはあったほうがいいのは間違いないですが,それを活かすための基盤を整備するには権限と予算が必要でして,一般的に公共図書館には両方共,現場の裁量の余地があまりないのが現状ではないかしら。無料で活用できるもの(ツイッターとかフェースブックとか)を活用するにしても,「非公式」とか「実験」とか銘打たないと,現場で立ち上げるのは難しいと仄聞します。さすがに「レファレンスの回答を提供するために上司の印鑑が必要」というのはデマゴギーだったようですが(^^;),外部への発信に種々の制約があるのは事実のようです。
 ただ,岡崎はサイトを見る限り,web周りもかなりの充実度を示しており,それだけの予算と基盤が無かったとは到底考えられないわけで。今回の件が手抜き,あるいは一定の意思に基づく意図的な無知によるものだと思われても仕方がないと思います。

 なるほど,いま矢面にたっているのは公共図書館とその職員ですが,公務員制度の現状を考えたとき,「IT音痴」の称号は公務員制度とそこに胡座をかいている上級職の公務員,そして政治家にこそ投げつけられるべきでしょう。政治家にも向けられているということは・・・・・・。

はてなブックマーク - 猫森栞 - 2010年12月4日
http://b.hatena.ne.jp/Miya/20101204#bookmark-27039455

 予算も基盤も整備できないのは公共図書館の裁量外のこととはいえ,結局は図書館のIT化を促進するための政策文書を図書館業界が提示でき得なかった-図書館のIT化による国民間のデジタルデバイドの解消は,日本国憲法第25条に定められた,

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 」
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

を実現するための重要な方策である,ということが国民と為政者に理解されなかった-ことについて,図書館業界は責任の一端を負わなければならないでしょう。あとどれだけ時間が残されているかわかりませんが,図書館業界は死に物狂いで研鑽を積まなければ,いずれ公共サービスにおいて無用の長物として殲滅されるのも,そう遠い将来ではありますまい。

2010/12/04

朝日新聞「記者有論」について

 さる12月1日の朝日新聞福島版の「記者有論」欄に,岡崎市立中央図書館事件の報道で一躍名を馳せた神田大介記者が「図書館とIT 向き合わねば存亡の危機に」という見出しのもと執筆しています(それにしても,毎日新聞は「記者の目」欄をwebで公開しているのに,朝日は何故「記者有論」をwebで公開しないのか。せっかくの有意義な論考が勿体無いじゃないですか)。これは図書館業界人必読です。

 この記事に書かれていることには,ほぼ同意しますが(しかし記事に出てくる「汗をかきます」という話,身につまされます。予算も人手もない図書館にしてみれば「渡りに船」だったんでしょうねえ(sigh)。),外部から指摘されるほどに危機的な現状に至った背景について,図書館の来館者として,また図書館に出仕している者として約30年この業界とつきあってきた人間はいささか説明する必要があると思うので,ひとくさり書き綴ってみようと思います。もちろん,僕の主観バリバリで(^^;)。

 業界の名誉のために確認しておきますが,僕が大学で司書課程を学んでいた1980年代後半まで,少なくとも図書館業界はIT化ならぬ「機械化」と正面から向き合っていたような気がします。「図書館」と「機械化」でCiNii検索をかけると379件ヒットしますが,「図書館雑誌」が「図書館と機械化」という特集を組むのが1969年8月号。同じ頃「ドクメンテーション研究」や「図書館学会年報」にも図書館の機械化を取り上げた論文が掲載されます。この時代の「機械化」は必ずしも現在の「IT化」に直接つながるものではありませんが(当初考えられていた「機械化」は「電算化」でさえなかったわけで),ベンダーに依らず図書管理システムを自作で賄おうという図書館がちらほらあったのも事実です。

 しかし,1990年代後半以降のインターネットに代表される「IT化」の波には,図書館業界は完全に乗り遅れました。一部の先覚者たちはさておき,いわゆる「2000年問題」と相前後して書誌ユーティリティNACSIS-CAT)のシステム変更という学術情報センター(現・国立情報学研究所)の強引な政策(^^;)によって否応なくインターネットへの対応を迫られた多くの大学図書館はまだしも,公共図書館は,それまで培ってきた方法論に足を引っ張られたのか,インターネットにもなかなか対応できなかったばかりか,IT方面の人材育成には後手に回った感があります。

 公共図書館がIT化に乗り遅れた原因は幾つかあって,USAの如く政策的に公共図書館が地域におけるインターネット利用の拠点として機能しえなかったこと,インターネットが話題に上がった当初,「究極の中抜き」などと賞賛されたことに,当時業界で多数派だった(もしくは最も声が大きかった)貸出至上主義に拠る図書館業界人が反発したこと,そもそも「機械化」というのは図書館目録の機械化を指しており,それは書店(取次)MARCの導入によって目的を果たしたので,それ以外の図書館業務をIT化するという発想が薄かったこと,公共図書館系の大手業界三団体(日図協,日図研,図問研)の公式サイトがいまだにあのざまである程度にはインターネットに無理解であること(比較するのもウンザリですがAmerican Library Associationの公式サイトはこちら),かなり早い段階から図書管理システムの内容がブラックボックス化していたこと,ITと図書館業務をつなぐ人材を育成していた某大学を貸出至上主義者が蛇蝎のごとく嫌い,某大学が他大学に統合された際,図書館業界がほとんど沈黙していたこと(そのくせ,とある団体のエライ人は指定管理者制度導入に某大学の教員が反対しなかったという理由で某大学の同窓会を脱退したとか云々),そして例え教育が人材を育てても現行の公務員制度の下ではその人材が図書館に就職できる保証がなく,事実上図書館司書教育と図書館現場が切断されていること・・・・・・。

 今回問題になった岡崎市立中央図書館でも,図書館長は官僚生活の一丁上がりのポジションとして図書館長をあてがわれたと覚しき人物であり,図書館経営のトップが公共図書館の何たるかよりも官僚機構の何たるかをより多く理解していたことに異論の余地は少ないような気がします。ただし,斯様な人材-図書館について学んでいない官僚-が公共図書館長の椅子に座れることについては,以前僕が指摘したとおり(その1その2),規制緩和に関する議論の遡上に図書館長の椅子を載せた朝日新聞の責任は小さくないのですよ(^^;)。もちろん,神田記者には直接の責任のないことではありますが。

 実はウェブサイトを眺める限り,岡崎市立中央図書館は以前も指摘したとおり,インターネットへの対応は上々だったのですが,それでも図書館経営の根幹をなす図書管理システムの運用で斯様な問題が発生したことを,もう少し実際に現場で働く僕達が,危機意識を持って考え抜かなければ,今はまだ神田記者のような方が応援してくれていますが,これからの10年でいよいよ公共図書館の存在意義が問われる事態を迎えるのは,そう遠くないのではないでしょうか。

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