「ホスピタリティ」がわたしに語ること(リハビリ7番勝負その7)
「リハビリ7番勝負」あとひとつだったのに,ずいぶんと間が空いてしまいました。忙しいのは理由になりませんし,ましてやそれほど忙しくもなかったわけで(>_<)。恥ずかしい次第です。
これまであちこちに「場所としての図書館」について書き散らかしてきたけど,最近では,「場所としての図書館」が提供する機能は「ホスピタリティ」なんじゃないかと思ってる。日本語では「おもてなしの心」などと言われるけど,公共サービスである図書館の場合は単なる接客にとどまらない内容が求められるだろうし,来館者も求めるべきだろうと思う。それは,ラーニング・コモンズに代表されるような来館者の「自治」も含まれるだろうし,これまで培われてきた図書館業務の標準化(国内どこでも一定以上のサービスが図書館から提供される!)もまた含まれるだろうし。
この期に及んでまだ「公共図書館は貸出しをしっかりやることが基本」などとほざいている連中は,来館者をナメているとしか思えないわけだ。「貸出し」は公共図書館の数ある機能のひとつでしかないわけだし,そもそも来館者が公共図書館に求めているのは「貸出し」だけじゃないだろうに,何故そこまで自らの機能に縛りをかけたがるんでしょうね。自信がないから(^^;)?
どのみち電子書籍が普及すれば早晩,「貸出し」を支えてきた基盤は崩壊どころか消滅する。現在,電子書籍として流通し始めている分野は,公共図書館が複本を揃えて「貸出し」をアピールしてきた分野とすっぽり重なってないですか? 重なっているからこそ出版流通の側は,国立国会図書館その他による書籍の電子化を忌避しているわけだけど,これから棲み分けが計られれば,著作権法その他による「縛り」がかけられて,恐らく図書館側は最先端の文藝の電子書籍には手が出せなくなる可能性があるわけで。さて「貸出し」を失った公共図書館は,何によって集客を図ろうって言うんですか?
「場所としての図書館」は,その筐体としての図書館建築のみならず,立地という「場所」も集客のための手段として活用すべきなんですよ。これまでの図書館,特に公共図書館はコンテンツの容器であると同時に,もうひとつの容器である書籍の物理的な移動のために,公共図書館への集客を図ってきたわけだけど,これからはそうはいかなくなりますよ。これからは動かないコンテンツを求めて,公共図書館に来館者が訪れる方策を考えていかなければ立ち行かなくなる。
これまでの公共図書館の戦術は,先程の「標準化」とは似て非なる「横並び」の発想が非常に強くて,突出したサービスを実施している公共図書館に対しては,やたらと攻撃的になる業界人が何人も出現して標的にされた公共図書館(浦安,矢祭,千代田,横芝光町・・・・・・)は大変な迷惑を被ったんじゃないかと仄聞しているが,結局横並びの公共図書館をこしらえて,「貸出し」をせっせと広めたところで,それが我々の街における独自の「コンセプト」であるとは,「貸出し」の先端を行ったいくつかの公共図書館を除けば,もはや認めてもらえないのではなかろうか。
何を以て,図書館がそれを我々の街/我々の組織における「コンセプト」として打ち出すか。打ち出せるのか。「場所としての図書館」にも残された時間は,それほど多くないと思う。これまでの蓄積が全くの無駄にならないように,図書館業界人はそれぞれ微力を尽くして欲しい。
・・・・・・そうそう,「場所としての図書館」に大切なもののひとつが「ストック=蓄積」なんじゃないですかね(^^;)? これまで貸出至上主義がフロー重視で来たことも,これからの10年でひっくり返ることでしょう。
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