「管理」がわたしに語ること(続)(リハビリ7番勝負その5)
昨晩は,あまりの睡魔に負けてしまいました。何ということだ・・・・・・。
一昨日の続き。
これまでの図書館司書は,好むと好まざると「管理」にまつわることを主たる業務としていたことは間違いない。目録作成はその最たるものであり,また選書と廃棄の決定権を持つことによって図書館の資料における秩序を司ってきたわけだ。図書館経営の実態が「管理」であったこと自体は間違っていたわけではない。しかし,必要に応じて素早く引き出しを開けるための交通整理としてのニュートラルな「管理」にとどまらず,官僚が陥りがちなパターナリズム(家父長制的保護主義)に基づいた「支配」に,どこかで「管理」の内容がすり替ってしまってはいなかっただろうか。
そもそも「図書館」には,ライプニッツ以来の伝統として(?)世界中の隅々までをも可視化したい,“Ich erinnere mich ganz genau”(わたしは隅々まで何でも知っている)と言いたい欲望があるような気がする。その欲望を「目録作成」という昨日を通じて実現するための作業が,図書館が本来担うべき機能であり,だからこそその昔,目録作成者(カタロガー)の地位はあれほど高く,また現在もなお目録の守備範囲は広くは精緻に,より精緻な内容へと変化しているのではないか。そのような,森羅万象を図書館目録の形で把握することを目指す欲望を,以下では仮に「目録化」と呼ぶことにする。
で,この「目録化」は,「必要に応じて素早く引き出しを開けるための交通整理」(これを「知識の共有」と形容した方がいらっしゃったので,以後は「知識の共有」とする)という目的を持ち,図書館の機能と図書館員の職業倫理に則っている限り,まったく非難されるものではないし,その意味で「目録化」に忠実な図書館員は,高い職業意識の持ち主である,と肯定されてしかるべき存在である。しかし,「知識の共有」という目的を見失い「知識の提供」に特化した図書館および図書館員は,いつしかパターナリズムを身につけ,「目録化」を管理ではなく「支配」の道具として用いることになる。「隅々まで何でも知っていること」が目的化して,自らの支配の範囲が及ばないところが図書館の中にあることに対して,非常に攻撃的な態度,言動を取るようになるのである。「目録化」がモラル・ハラスメントの域に達することになる。
もちろん,斯様な過剰な「目録化」を回避,もしくは方向転換して本来の目的である「知識の共有」に「目録化」を引き戻す試みはあちらこちらで行われている。過剰な「目録化」は次第に過去のものとなりつつあるようで,その後遺症から如何に図書館を現在求められている機能のために「目録化」を上手に活用していくか,また「目録化」が図書館における支配の道具に堕さないように,図書館がどのようにパターナリズムと袂を分かつか,旧来の業界人にはない発想と行動が求められていくはずである。
今日は少々抽象的な表現に終始しましたです(^^;)。
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