まちづくりと「図書館」の機能
「図書館」に足を向けてもらうことが,「図書館」のある地区の活性化につながれば,「図書館」に出向いてもらうこと自体に価値が生まれるはず,とこのところ考えています.これは専門図書館はさておき,公共でも,大学でも,学校でも事情は変わらないと踏んでいます.ところによっては大学の中央,まちの繁華街に図書館があることもありますが,機能はともかく,むしろ図書館の立地はこれまで郊外を志向してきたのではないかしら? 少なくとも『市民の図書館』は先考の指摘の通り「郊外型公共図書館」(1970年代に林立した,ニューファミリーの多く居住するベッドタウンとかニュータウンとか呼ばれてきた郊外型集合住宅を,主な来館者群として捉えている)に来館者を呼び込むための運営メソッドだったわけですよ.メソッドを「バイブル」と誤読した一群の方々から,日本の公共図書館の悲劇はもたらされた,という話は繰り返してきたからここではしませんが.それはさておき.
出向いてもらうこと自体に価値を生み出すには,取り立てた用事の無いときにもフラっと入れるような敷居の低さが,特に公共図書館には欲しいところ(僕の体感的には,既に充分敷居は低いのですが,特定の機能に偏頗することに価値を見出し,結果的に敷居を押し上げようとしているひとが現在に到るまで存在します.如何?).この「敷居の低さ」は,誰かさんのところ(^^;)のような底辺校の大学図書館にも,もっともっと求められなきゃいけないんだけど,これは「大学図書館」という出来上がったイメージと機能からは,反対側にある話だから斯様な意識と機能の転換には理解を得るのが難しいかもしれません.ラノベ棚を作った大学図書館の話がありましたが,個人的に「こどもへのサービス」は受けたことも無いし担当したことも無いし,仄聞する関係者の「文化」が違いすぎるので,考えることさえできないんですよね(^^;).「図書館」を使ってもらうのに,こどもとおとなで,それぞれ違う導入が必要なんだろうけど,自分はそうじゃなかったものですから.小学校3年生の時に勧められたのは『日本歴史全集』(講談社)だったという(^^;).そのような本を勧めてくれた学校図書館は,過去の僕にとっては充分に敷居が低かったのですが(現在の僕には,あの業界は敷居が高(ry).
さて,「図書館」によってもたらされる「人の流動」を確保するには,どんな機能が図書館には必要になってくるのでしょうか? というのが,僕がこれから考えなければいけないことのひとつです.僕の持論であるところの「情報の集まるところにひとが集まる」を立論としてはともかく,立証するために必要な素材は何でしょうね.
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