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ココログ


ほし2

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2010年1月の記事

2010/01/31

ブラームス/交響曲第3番

ブラームス/交響曲第3番ヘ長調作品90@ディミトリ・ミトロプーロス/アムステルダム・コンセルトヘボウ管絃楽団(オルフェオ:C458971B)

 1958年8月10日,ザルツブルク音楽祭でのライヴ録音.
 あちこちで細かくテンポを動かし,ためを作ったり急加速してみたり急ブレーキをかけてみたり.オケがミトロプーロスの流儀を飲み込んでいるのか,よく棒に付いていってるのがさすが,である(^^;).普通はこれだけ小さな減速と加速を繰り返すと野暮ったくなるものだが,ミトロプーロスの場合はこれが小粋な風情に聴こえる.終楽章の表情付けなど,万人受けする名盤ではないが,聴き所はたっぷりある(はず).

2010/01/30

たったひとつの冴えたやりかた

 タイトルは釣りです(^^;).このエントリーはSFともJames Tiptree, Jr.とも何の関係もありませんごめんなさいm(_ _)m

 「みんなの図書館」2月号について,ようやく時間ができたのでまとめる.しかし,「特集にあたって」の最初の3行を読んだだけで頭が痛くなった.例えば,「正規の司書」とはどのような司書を指すのか? 司書有資格者なら「正規の司書」? 行政から「司書」の辞令をもらったのが「正規の司書」なら資格はいらん(^^;).正直,この「正規の司書」という言い回しは,何かのプロパガンダとしか思えない.

 そもそも,座談会という企画自体が「ず・ぼん」の二番煎じだー,というのは「特集にあたって」を書いているのが「ず・ぼん」の編集者だから,それはそれでいいのか(^^;).

 それにしてもこの座談会,誰に読ませたくて企画したのかな? 公共図書館の館長? 管理職? 住民/来館者じゃないことは間違いない.いま,住民/来館者が知りたいこと,必要なことは,この座談会の内容にあるとは思えない.正直,ありえない.

 しかし,こともあろうに「みんなの図書館」で「忠誠心」なんて単語を見る日が来るとは! 僕は組織に対する忠誠心なぞ,愛国心からして持った記憶が無いので,この辺の話はまったく理解できない.いま属している組織にも忠誠心なんか無いですよ.空気に忠誠が誓えるわけがないでしょう(^^;).「生きがい」とか「挙手」とか,気持ち悪いだけ.地域とか自治体とか,そんな大きな話じゃなくて,目の前の来館者が感謝してくれればそれでいいんですけど.それが結果として来館者の知見に貢献,来館者のいる地域に貢献になればいいのであって.あまりに綺麗事で気持が悪い.おまけに「評価」だって? 労働組合,というか自治労ってそーゆうのおキライだったんじゃ? そもそも有能無能を誰が評定するんですか.業界団体が評価しなきゃ,というのは正論だけど,その結果が日図協の専門職員認定制度というお粗末な代物で,非常勤の職員は評価対象からはじきとばされているんですけど,それについては最後まで言及がないわけで.

 p29からはなかなかいいことを言ってるけど,「プライベートを削ってまで」云々は余計.図書館の勉強だけしていれば図書館員が務まる時代じゃないですよ,いまは.趣味を充実させることが図書館勤務にフィードバックすることだってあるんですから(実体験).でも,それでも趣味を充実させるときに,いずれ仕事に生かそうなんて,考えたことも無い(^^;).そんな邪な気持ちで音楽聴いたり,お城に登ったりできますか?

 p35にある公務員制度に関する指摘,実はキモなんだけど,公務員の方はスルー気味なのが残念.制度としての「専門職」が公共図書館の制度として確立されていないが故に,指定管理者に優位な点もある,ということもスルー.ああ,だからやっぱり制度の話と雇用の話が混在しているから見通しが効かないんだ,この座談会.確かに鶏と卵の関係だけど,これはある程度切り分けないと「清潔さ」に欠けると思う.
 ついでに,いつも図書館系の委託と雇用について語られる文脈で,他業種の状況について語られることはないのが不思議.たまたま僕は身内に非常勤の保育士がいるけど,幼稚園・保育所の雇用条件がひどいことは,図書館司書が問題視される以前から労働組合にはわかっていたはず.また,地方自治体による文化ホール,体育館などの委託・指定管理について図書館系の媒体で公共図書館との比較がなされたことも,ほとんどないのではないか.

 全体を通して,この座談会に感じる違和感の原因の一つは,これ出席者がひとり除いて首都圏のひとなんだよね.首都圏以外の出席者がいないから,すごく狭い範囲(有り体に言えば内輪)でしか通じない話のオンパレードになってる.立場は違えども,考え方がほぼ同質(委託は偽装請負の巣窟.指定管理者は便法として採用している.直営最高!)の出席者が濃密な対話を重ねているので,読後の好悪がはっきり別れると思いますね.首都圏以外,九州や東海,東北などの関係者が座談会に参加していたら,あるいは異なる視点からの問題提起があったかもしれないけど,恐らく「特集にあたって」を書いたひとが,ある特定の考え方で座談会をまとめたかったのでしょう.

 僕は出席者に比べて考え方が斜めなので,出席者の問題意識は理解できるけれど賛同はいたしかねる,という感じです.考え方はよーくわかったけど,広がり/包容力に欠ける.これからの図書館運動の舵取りについて「たったひとつの冴えたやりかた」しか認めない,これで支持を拡大しようというのは,現状かなり難しいと思うし,そもそもこの座談会の隠された主題であろう「たったひとつの冴えたやりかた」が本当に正しい選択なのかどうか,を疑おうともしない.しかもその「たったひとつの冴えたやりかた」は現状,ほとんど採用される当てが無い.にもかかわらず,虚偽に反論する真実の狂信家,というポーズはみなさん絶対に崩さない(sigh).

 思うにこの座談会,カットされた箇所があちこちにあって,そこで交わされた雑談(!)の方が正鵠をついているんじゃないかな,ひょっとして?

 もうひとつ,新さんの論文.これ自体は取り立てて批判するにはあたらないし,優れた論考だと思うのだけど,僕が依って立つバイアスを振り払っても,何か「場違い」な印象を受ける.新さんは,例えば日図協の専門職員認定制度の失敗について,どう考えているんでしょう?

 僕としては,常勤が職場で,より確固たる地位を築くことのを助ける前に,非常勤がより高い給料で採用されることを助けるためにこそ,日図協の専門職員認定制度が活用できるように,制度設計を根底からやり直すべきだと思うのだが.現下の状況において常勤のための制度を積み上げることが,どれほど業界にとって危険なことか,日図協の現理事長に重用されているメンバーには理解出来ているのかどうか多分に疑わしい.しかもあの認定制度,常勤でも公共図書館の常勤職員以外は員数外とされているわけで,実に身勝手な制度設計だと言わざるを得ないところ.それでも,あの認定制度を是とする方のご意見を,是非伺いたい.あれが職員問題に対する「たったひとつの冴えたやりかた」だとでも言うのかしらん?

2010/01/24

シューベルト/悲劇的

シューベルト/交響曲第4番ハ短調「悲劇的」D417@ニコラウス・アーノンクール/アムステルダム・コンセルトヘボウ管絃楽団(テルデック:4509-91184-2)

 1992年11月の録音.
 モーツァルトやベートーヴェンなどでは戦闘的にはじけている(^^;)アーノンクールが,どういうわけだかシューベルトではとてもかわいらしく,優しい演奏を繰り広げている.アーノンクールは「シューベルトはロココだ」という信念があるようで,この4番でもアーノンクールなら元ネタのK.550よろしくトンがった演奏をするかと思えばさにあらず.シューベルトなりの,この作品なりのドラマは描かれているけど,作品を超えるほど激しいものではないところが,アーノンクールの頭のいいところであろう.

2010/01/23

「図書館」はもっと猥雑なものであっていいんじゃないか

 これまでの「図書館」は,「図書館であらねばならぬ」ことにいささかこだわりすぎていたのではないかと思う.六本木ライブラリーが出現したとき,山中湖情報総合館山中湖情報創造館が出現したとき,矢祭もったいない図書館が出現したとき,ある一群の業界人から漏れ聞こえてきた非難の中に「あれは〈図書館〉じゃない」という類のものがあったことを覚えているひともいるだろう.でも,「排除の論理」は,もうお腹いっぱい.って言うか,もう既に「排除の論理」でいっぱいになった母カエルのお腹は破裂しているぞ.「図書館」を身の丈よりも大きく見せようとした誰かさんの犠牲になって(^^;).いつまでも内向きの争いにエネルギーを注いでいる業界であり続けるわけにはいかない.そもそもいま現在,いかなる形態であれ,図書館に勤務しているひとが楽しくなるような業界ですか,図書館業界は? 

 僕は「公共図書館の単一性と不可分性」とか「唯一の世界観に基づく図書館運動」とかには,まったく興味が無い.そろそろ図書館業界と業界を主導する主要な業界人は「図書館であらねばならぬ」ことから「図書館であることに意義がある」ことへ,意識の転換を図らなければならないのでは,と思う.もはや,任意の単独館ひとつとっても,これまで業界を主導してきた一群の人々の思うような「図書館」ではありえなくなっている.すべてが予定調和のごとく大伽藍を打ち立てることが可能な時代ではないのに,いつまでも「全体が部分を規定する」メソッドを当てにして図書館経営が成り立つのかどうか.「全体が部分を規定する」メソッドを信奉して,そぐわない「部分」を持つ「図書館」を「あれは図書館ではない」「これは図書館ではない」と排除し続けることが,これからの図書館ばかりではなく,いまある「図書館」にも負の影響をもたらすことになりはしないか.

 「図書館であらねばならぬ」ことから「図書館であることに意義がある」ことへの転換とは,即ち「全体が部分を規定する」から「部分が全体を生成する」への転換に他ならない.今回ここでは,概念と機能の「解体-再構築(deconstruction)」までは踏み込まず,ある施設において,それが何がしか「図書館」の機能を有していれば,それは「図書館でありえる」ということを,「図書館であることに意義がある」と考えたい.それは同時に「排除の論理」から「包含の論理」へ,を意味する.「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」でもなく,「あれとこれと」である.

 ある部分が「図書館」であれば,その他の部分が「図書館」ではなくとも(『市民の図書館』にそぐわない図書館であっても),その施設は「図書館」として遇され,図書館として評価の対象になっていいのだと思う.それを「不純だ」と言う業界人がいるかも知れないが,これまで純血主義が何か良い結果を出したとは,こと図書館業界に関する限り聞いた記憶も無く,むしろ「包含の論理」から猥雑なほどに雑多な「図書館」が出現し,澱んだ空気が一掃されれば,これを僥倖と言わずして何と言おうか(^^;).自浄能力は最早限界を超えて,母カエルのお腹は破裂してしまっているのだから.


 なお,「あらねばならぬ」から「であることに意義がある」へ,については,『「まちづくり」のアイディアボックス』(橋本憲一郎,山中新太郎編著/彰国社/2009年1月初版)から啓示示唆を受けたことをここに付記して,感謝に代えます.

2010/01/20

ショスタコーヴィチ/交響詩「10月」

ショスタコーヴィチ/交響詩「10月」作品131@広上淳一/ノールショッピング交響楽団(RCA/タワーレコード:TWCL2013)

 1993年9月の録音.
 この作品はショスタコーヴィチの,練達の職人芸を聴く曲.ショスタコーヴィチの交響曲を聴き込んだ聴き手なら,何処かで聴いたことのあるような素材ばかりが投入されているのに,気がつくとその高揚感にあれよあれよと巻き込まれて,心が熱くなってしまうという(^^;).途中で聴こえる小太鼓やティンパニの炸裂が,否が応にも音楽を盛り上げる.見事なものである.

2010/01/19

まちづくりと「図書館」の機能

 「図書館」に足を向けてもらうことが,「図書館」のある地区の活性化につながれば,「図書館」に出向いてもらうこと自体に価値が生まれるはず,とこのところ考えています.これは専門図書館はさておき,公共でも,大学でも,学校でも事情は変わらないと踏んでいます.ところによっては大学の中央,まちの繁華街に図書館があることもありますが,機能はともかく,むしろ図書館の立地はこれまで郊外を志向してきたのではないかしら? 少なくとも『市民の図書館』は先考の指摘の通り「郊外型公共図書館」(1970年代に林立した,ニューファミリーの多く居住するベッドタウンとかニュータウンとか呼ばれてきた郊外型集合住宅を,主な来館者群として捉えている)に来館者を呼び込むための運営メソッドだったわけですよ.メソッドを「バイブル」と誤読した一群の方々から,日本の公共図書館の悲劇はもたらされた,という話は繰り返してきたからここではしませんが.それはさておき.

 出向いてもらうこと自体に価値を生み出すには,取り立てた用事の無いときにもフラっと入れるような敷居の低さが,特に公共図書館には欲しいところ(僕の体感的には,既に充分敷居は低いのですが,特定の機能に偏頗することに価値を見出し,結果的に敷居を押し上げようとしているひとが現在に到るまで存在します.如何?).この「敷居の低さ」は,誰かさんのところ(^^;)のような底辺校の大学図書館にも,もっともっと求められなきゃいけないんだけど,これは「大学図書館」という出来上がったイメージと機能からは,反対側にある話だから斯様な意識と機能の転換には理解を得るのが難しいかもしれません.ラノベ棚を作った大学図書館の話がありましたが,個人的に「こどもへのサービス」は受けたことも無いし担当したことも無いし,仄聞する関係者の「文化」が違いすぎるので,考えることさえできないんですよね(^^;).「図書館」を使ってもらうのに,こどもとおとなで,それぞれ違う導入が必要なんだろうけど,自分はそうじゃなかったものですから.小学校3年生の時に勧められたのは『日本歴史全集』(講談社)だったという(^^;).そのような本を勧めてくれた学校図書館は,過去の僕にとっては充分に敷居が低かったのですが(現在の僕には,あの業界は敷居が高(ry).

 さて,「図書館」によってもたらされる「人の流動」を確保するには,どんな機能が図書館には必要になってくるのでしょうか? というのが,僕がこれから考えなければいけないことのひとつです.僕の持論であるところの「情報の集まるところにひとが集まる」を立論としてはともかく,立証するために必要な素材は何でしょうね.

2010/01/18

連帯と連携の図書館経営を目指す

 難しい話をしようというのではありません.館種,運営形態・雇用形態,文化の違いをお互い認識しつつも対話と妥協を繰り返しながら相互に相互を理解し合い,専門知を提供する図書館・図書館員が連帯し,業務の上で相互に連携し,来るべき時代に対応した「図書館」を構築し,経営していく,というだけの話です.

 文字にするとこれだけのことなのに,現状では図書館業界は館種を見ても,業界人を見ても,連帯も連携もできていないように思えるのは何故でしょうか.

 原因はいろいろあります.20年以上この業界と付き合ってきて見たモノは,専門職制を求めるあまりに労働運動の側に傾斜してしまった図書館運動が足かせになってありとあらゆる勤務条件の非常勤職員を敵としか見れなくなった常勤職員の一群の存在,何かと言うと館種間の文化の違いを強調し挙句にレファレンスサービスを大学図書館に押し付けようとした公共図書館関係者,路線の違いが先なのか冷遇が先なのか塩見理事長下の日本図書館協会と衝突を繰り返す大学図書館の存在を歴史的経緯(第二次大戦前の日図協を盛り立ててきたのはどの館種だか調べてみるといい)をことさら無視して疎ましく思っている業界人,エトセトラ,エトセトラ・・・・・・.

 「ユネスコ公共図書館宣言」は「公共図書館のサービスは、年齢、人種、性別、宗教、国籍、言語、あるいは社会的身分を問わず、すべての人が平等に利用できるという原則に基づいて提供される。」と機会の平等の保障を謳っているのですが,それにもかかわらず,図書館で労働することについて機会の平等はおろか,結果の平等も日本の図書館業界が考慮に入れていないのは,どう考えてもおかしい.ある一群の業界人が非常勤の勤務を見る尺度ひとつ考えても「結果の平等」すら尊重できずにいる,そんな業界で働くことに意義が見いだせるのは,結局常勤で図書館司書を務める公共図書館の公務員という限られた一群でしかない(大学図書館員,専門図書館員がはじき出された,日図協の専門職員認定制度をめぐるごたごたを思い起こしていただければ)というのは,それほどまでに守られなければならない「意義」がそこにはあるということでしょうか?

 昨年出席したあるイベントでは「MLA連携」即ち博物館・図書館・美術館の3施設による連携が主題として取り上げられていましたが,私見では,図書館業界はMLA連携以前に「LLLL連携」即ち公共・大学・専門・学校の4館種の連携を図らなければならない,実に情けない状況にあります.実のところ僕個人は,日図協なり何なりが何か一つの旗の下に大同団結を模索する,というやり方は嫌いですし採りません.それは圧力団体としての活動にはふさわしいあり方でしょうが,結局は「つながり」ではなく「しがらみ」を作り出すだけで何も益するところがありません.そうではなく,対話と妥協を繰り返しながら,館種と雇用形態を乗り越えたところで生み出される個々の図書館の連携,個々の図書館業界人の連帯を基盤にしたところに,何か新しい「運動」が生み出されることによって,「つながり」が大きな力たりえることを目指すことが,現状では必要です.迂遠なことですが,縮小均衡に向かっている経済状況下で,図書館活動が何かを生み出すためには個々の図書館,個々の館種,個々の業界人の努力だけでは限界があるのは火を見るよりも明らかなことでしょう.

 縮小均衡の時代を乗り切るために,我々が切り捨てなければならないものは何か,拙エントリーを読まれた業界人各位は今一度よくお考えください.

2010/01/17

サイドバーに「Haiti Earthquake」を追加しました

当blogのサイドバーに「Haiti Earthquake」を追加しました.当面,ハイチ大地震関連の情報を追加していきます.

2010/01/12

マーラー/巨人

マーラー/交響曲第1番ニ長調@サイモン・ラトル/バーミンガム市交響楽団(EMI:7 56647 2)

 1991年12月16日-19日の録音.
 ラトル絶好調時の録音,どこをとっても言うこと無しの颯爽とした名演(^o^)/ 知情意のバランスが完璧に取れているのではないかと思う.

2010/01/11

案件(メモ)

1) 公共図書館の存在は広い意味での社会保障(生活保障)である

2) まちづくり(都市開発というより,まちおこし)における公共図書館の存在価値

3) 『城下町都市』(鹿島出版会)のような公共図書館の立地悉皆調査と研究

4) 加藤成之兄弟の話

5) 雑誌「スカート」

6) 「図書館員大賞」

7) 縮小均衡下における「図書館」機能の生き残り

8) 補助線としての図書館(概念と機能)


・・・・・・ひとつふたつは形にする,と.

ショスタコーヴィチ/交響曲第6番

ショスタコーヴィチ/交響曲第6番ロ短調作品54@クルト・ザンデルリンク/ベルリン交響楽団(ベルリン・クラシックス:0021812BC)

 1979年4月の録音.
 確かアナログ最末期の優秀録音で,日本で発売されたジャケットも粋な雰囲気を漂わせるものだった.あの頃はザンデルリンクのショスタコーヴィチを買っても,誰も相手にしてくれなかったな(^^;).絃楽の美しい,静謐に基軸を置いた古典的で格調高い演奏なのだが,ソ連/ロシアの金管がつんざくような演奏ではないのでウケが悪かったのだろうか.

2010/01/10

ショスタコーヴィチ/交響曲第8番

ショスタコーヴィチ/交響曲第8番ハ短調作品65@ベルナルド・ハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管絃楽団(デッカ:444 430-2)

 1982年の録音.
 ハイティンクのショスタコーヴィチ全集は,西側最初の交響曲全集録音ということでいろいろと評判になったが,如何せんハイティンクの棒があちらこちらで緩んでおり(4番とか7番とか),「西側最初」以上の価値はあまりないように聴こえる.
 この8番は,その中でも成功した録音のひとつで,際立った表情付けなどは聴かれないが熱のこもった演奏であり,コンセルトヘボウのアンサンブルも随分引き締まっている.

2010/01/09

ショスタコーヴィチ/革命

ショスタコーヴィチ/交響曲第5番ニ短調作品47@マリス・ヤンソンス/ヴィーン・フィル(EMI:3 65309 2)

 1997年1月7日-14日の録音.
 現在,自分のライブラリーで聴ける5番の中で,よく聴くのはこの録音か.問題は終楽章のテンポ(特に冒頭)で,他の作品があれだけ素晴らしいクルト・ザンデルリンクの録音(ベルリン・クラシックス)をこの作品では推さないのは,ひとえに終楽章冒頭とコーダのテンポが???だから.ザンデルリンクは作曲家からサゼスチョンを受けたと言うのだが,同じ様に冒頭から走り出しちゃうバーンスタイン/NYP(ソニー)と比較しても今一つな解釈にしか聴こえない.バーンスタインの高揚は,それはそれで見事なのだが,あれはバーンスタインだから許される例外的な仕様だろう(^^;).ヤンソンスよりも終楽章を遅いテンポで重苦しく始めていたのは,記憶にある限りレナード・スラットキン/セントルイス(BMG)くらいじゃないかと思うが,スラットキン盤は廃盤になって久しく.鈍重なほど重苦しい異色の演奏で,価値はあると思うのだが.

2010/01/08

ショスタコーヴィチ/交響曲第14番

ショスタコーヴィチ/交響曲第14番作品135「死者の歌」@ルドルフ・バルシャイ/ケルン放送交響楽団(ブリリアント:6324/10)

 1999-2000年の録音.
 バルシャイ(1924-)はこの交響曲の世界初演を担当した指揮者で,初演のメンバーからソプラノのガリーナ・ヴィシネフスカヤのみ変更したメンバーで録音も残している(メロディア).初演時のヴィシネフスカヤ起用にはひと悶着あったらしいのだが,生憎と手元に資料が無い.
 初演者だから,という訳でもないのだろうが,手の内に入った解釈で,ヒステリックに狂気が乱舞するような音楽を手堅く押さえ込んで好演を聴かせる.ケルン放送響にしては(?)若干非力に聴こえる絃が,ここではプラスに作用して狂気の表現にあづかって力があるようだ.

2010/01/07

ショスタコーヴィチ/レニングラード

ショスタコーヴィチ/交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」@ヘルベルト・ケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団(ヴェイトブリック:SSS0028-2)

 1972年5月16日,ライプツィヒでのライヴ録音.
 恐ろしく冴えた,ハイテンションな演奏であるにもかかわらず,どこか醒めた眼でテンションの高い指揮者を見ている指揮者自身がいることに多少の違和感を感じてしまう.それは恐らく,ケーゲルがこの作品にほとんど共感していないからじゃないかと思う.この作品の公的な出生譚を思い起こしてみても,ドイツ民主共和国のドイツ人指揮者が「共感」できる代物とは思えないわけで.
 第1楽章の「ボレロ」風のところ,スネアとオケが微妙にずれているところが聴かれるのも一興(^^;).

2010/01/04

ショスタコーヴィチ/交響曲第15番

ショスタコーヴィチ/交響曲第15番イ長調作品141@クルト・ザンデルリンク/クリーヴランド管絃楽団(エラート:2292-45185-2)

 1991年3月17日-18日の録音.
 冷え冷えとした室内の空気に,この音が冴え冴えと響きわたる.そんな録音.緩徐楽章のテンポが遅いのが特徴で,第2楽章は16分20秒,終楽章にいたっては20分21秒もかけているが,ザンデルリンクの新旧録音(旧録音はベルリン交響楽団と)を聴き慣れてしまうと,これが普通のテンポに聴こえてしまうくらい,説得力のある解釈である.

新年のご挨拶

 3が日も過ぎましたが,謹んで新年のお慶びを申し上げます.2010年も引き続きご愛顧のほど,よろしくお願いします.今年は,昨年および一昨年比増で「図書館」ネタをUPする(最低でも,2週に1つのペースで)ことが,blog的には目標になりますでしょうか.図書館業界は明るい話題ばかりではありません(^^;)が,ピンチをチャンスに変えていけるだけの,強い気持ちとポジティヴシンキングで物事に臨みましょう.

 個人的には「ヤブ医者に負けない強い心と体を作る」ことが最大かつ最終の目標です.昨年一年にわたって酷い目に遭わされた新・主治医に一泡吹かせてやります.

 繰り返しになりますが,本年もよろしくお願い申し上げます.今年も良い年にしていきましょう!

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