はじめより憂鬱なる時代に生きたりしかば然かも感ぜずといふ人のわれよりも若き
先日,教え子が僕を訪ねて来ましたですよ.彼女はダメ講師(僕のこと)の教え子とは思えない優秀なひと.昨今の斯様な情勢下ですから,とある指定管理者だか委託だかの会社が入っている公共図書館にて,その業者の契約社員という立場で勤務しています.僕には時々「専門家としての意見」をお尋ねになります.大概の場合,webで語り尽くされてもなお,一定の同意が得られないような話題に関する質問なので,僕の回答も両論併記の中途半端なものになりがちなのですが,まあそれはさておき.
彼女,何はともあれ「現在」図書館に勤務していることで何か得るところがあったと見えて,学生時代よりも生き生きしているし,実によくしゃべる(^^;).で,その中に現在新築中の某公共図書館の話が出て来てね.詳細は略しますが,その話を聞いていてちと思うところがありましたよ.
もう彼女らの世代には,図書館の経営方式が直営も委託も指定管理者も関係ないんだなあ,と.30代以上の図書館勤務者なら持っていそうな指定管理や委託への屈託が全然,感じられないんですよ.僕でも,正規採用の道がほとんど準備してあげられないことへの忸怩たる思いは今も持ち続けているわけですが(雇用,というか労働問題として捉えたときに),最初から委託や指定管理への就職の道が正規採用よりも大きな道を通じている状況下では,そんな屈託を持つ必要が無いのでしょう.誤解を恐れずに言えば,僕などが考えているよりもたくましく,したたかにこの世界で生き延びようとしているんだなあ,と.
たぶん,図問研や日図研に近しいヒトならば彼女のような行き方を見て,このエントリーのタイトルに掲げた土岐善麿の歌「はじめより憂鬱なる時代に生きたりしかば然かも感ぜずといふ人のわれよりも若き」を思い浮かべて憮然とした顔をするのかもしれません.権力に飼い慣らされた,とか,無知だお前が教えるべきだ,とかキツイお叱りを蒙りそうですが(^^;),それでは方々がこれまで主導してきた『市民の図書館』を正典とする貸出至上主義が,公共図書館における現在の惨状をもたらす原因の一端だという認識はお持ちなんでしょうか,と反問してみたいですの.
呪詛はさておき.これからしばらくは『シュリンキング・ニッポン』よろしく縮小均衡を強いられる状況が続くわけで,その下でひとり図書館業界が膨張主義(予算増,人員増,常勤雇用等)を掲げて突っ張れる,と判断できるほうがどうかしていると思わざるを得ないですね.むしろ,これまで積み上げてきた成果(貸出至上主義がもたらした結果を「成果」と呼ぶのが相応しいかどうか,たぶんに疑問が残りますが)を梃子に,現下の縮小均衡な状況にてどこまで下がればいいのかわからない後退戦を,上手に軟着陸させるだけのしんがりを務めるにはどうすればいいのか,を現在業界団体で主たる長を勤めている団塊の世代あるいはポスト団塊の図書館業界人には考えてもらわないと,早晩業界自体が立ち行かなくなるのじゃないかと思うのです.
「潰してしまえ!」と叫ぶのは簡単だし,僕もそう思っていた時期がありますが(^^;),現状では潰すために必要なエネルギーさえ乏しくなっている,荒涼とした風景の中で野垂れ死にするしかない状態なんじゃないかと>>業界団体.それだったら,憂鬱を新たな推進力を換えるためにも,したたかでたくましく生き延びようとしているひとたちの意見を取り入れるだけの度量が業界団体には求められているんじゃないでしょうか.
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