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2008年4月20日 - 2008年4月26日の記事

2008/04/26

マーラー/交響曲第6番

マーラー/交響曲第6番イ短調@ヴァレリー・ゲルギエフ/ロンドン交響楽団(LSO:LSO0661)

 2007年11月のライヴ録音.
 うーん.期待が大きかった分,がっかり感も大きい録音(-_-;).もう少しオケの鼻面を捕まえて引きずり廻すような,破天荒なスケールの大きさを期待したのだが,むしろオケはガサツなばかりで,ティンパニばかりが時々やたらと猛々しく,スケールもほどほど,というところ.中間楽章がアンダンテ-スケルツォなのは最新の研究結果に倣ったものだろうが,やっぱりなじめない.
 結局,破天荒なスケール感という点では,コンドラシンはおろか,スヴェトラーノフの6番の域までも達していない.音楽の持つ「魔」が感じられない6番,ということでマリス・ヤンソンス/ロンドン響のライヴ(LSO)やマゼール/ヴィーン・フィル(ソニークラシカル)が比較の対象としては適当なところだろう.

 それにしても,ヤンソンスのライヴ録音でも気になったのだが,ロンドン響の能力がこのところ目に見えて落ちているような気がする.

2008/04/25

ショスタコーヴィチ/交響曲第6番

ショスタコーヴィチ/交響曲第6番ロ短調作品54@クルト・ザンデルリンク/ベルリン交響楽団(ベルリン・クラシックス:0021812BC)

 1979年4月の録音.
 やはりザンデルリンク(1912-)の振るショスタコーヴィチに言及しない,ショスタコーヴィチの演奏論は信用できない(^^;).1,5,6,8,10,15の各曲がスタジオ録音で残されているが,いずれも古典的かつ重厚な造形と透明なテクスチュアを兼ね備えた好演である.個人的には8番と15番が特に名演だと思うが,この6番も第1楽章の暗さにおいて,他の追随を許さない.何処までも悲劇の淵に追い込んでいくような演奏を展開する.それに対し,後半2楽章(この作品は3楽章制をとる.その並べ方は,いわゆる「序破急」と言われるものに近い)の底抜けな明るさが嫌が応にも対応される.

 この作品,作曲された時期や,5番と7番の間の作品ということで,その曲調がどこか謎めいて語られることが多いようだが,案外作曲家は余計な掣肘も感じずにノビノビと自発的に第1楽章や第2楽章を(このこと自体が,明るい作品を書いたことを意味しないことは勿論である)作曲していたんじゃないかと.それ故に,終楽章で自制が働き,曲調がどこか「強制された歓喜」を思わせる結果を招いたのかもしれない.

2008/04/24

ベートーヴェン/交響曲第6番

ベートーヴェン/交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」@オットー・クレンペラー/ヴィーン交響楽団(ヴォックスボックス:CD6X-3605)

 1951年3月19日-23日の録音.
 いや,もう恐ろしくドライなベートーヴェン(^^;).ヴェーベルンかヒンデミットを演奏するのが相応しい解釈で,音楽は実にそっけなく進行する.フィルハーモニアとの録音しか知らない聴き手が聴いたら,驚かれるかもしれない.ウェットさとか,感情移入とかクスリにもしたくない,非情なベートーヴェンである.不思議とエネルギッシュな感じはするのだが,それはただただ音楽を前へ前へと駆り立てているだけという,何とも言えない感じを受ける.ある意味凄いことは凄いが,しかし(^^;).

2008/04/23

ヴァーグナー/「マイスタージンガー」前奏曲

ヴァーグナー/楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(カール・タウジヒによる4手ピアノ版)@ヤアラ・タール&アンドレアス・グロートホイゼン(ソニークラシカル:SRCR 2166)

 1997年5月の録音.
 カール・タウジヒ(1841-1871)はフランツ・リストの高弟で,技巧と解釈の両面で高く評価されたピアニストだったが,わずか29歳でチフスに罹患し急逝した.リスト嫌いの(偏屈な)ブラームスが親交を結んでいたというのだから,孔子の一番弟子である顔回の如き福徳円満な人物だったのではなかろうか,と思われる(^^;).
 この編曲も,その華麗な技巧を偲ばせる絢爛豪華な編曲.ピアノをこれほど鳴らす編曲もそうあるものではないのでは? 下手なオケで入学式や卒業式に「マイスタージンガー」前奏曲聴かされるよりも,腕の立つピアニストを二人用意できれば,これを演奏してもらったほうがよさそう(^^;).

2008/04/22

マーラー/交響曲第9番

マーラー/交響曲第9番ニ長調@ピエール・ブーレーズ/シカゴ交響楽団(DG:POCG-10072)

 1995年12月の録音.
 ホントに味も素っ気も無い演奏.シカゴ交響楽団なら,指揮者がいなくでもこれくらい演奏してしまうんじゃないか,と思うくらい蒸留されたマーラーで,楽譜のアナリーゼにはもってこいかもしれない(^^;)けど,マーラーの第9番として聴くのは,さてどうしたものか,と.何しろシカゴ響の第9番というと,ジュリーニの大名演(DG)があるので,ジュリーニと比較したらブーレーズのこれは,楽譜をレントゲン写真みたいに再現しているのが取り柄か,という程度のものですかね.

図書館情報学は広大無辺でございましょう

 ・・・・・・そうですねえ,大学図書館ならまだしも,「すべてのひとに歩いて10分のところに図書館を」と言っている公共図書館関係者が,図書館建築にはうるさいくせに,都市計画に興味をもっていなさそうなのが,学生時代から20年この方不思議でしょうがないんですよ.で,個々の建築もさることながら,都市計画の中の公共図書館,という感じで,その街のどこに公共図書館を配置するか,とか天守閣のように公共図書館がランドマークになりえるのか,とかそーゆうことまで考えてしまうわけでして.あれやこれやで「コミュニティ」,と言われると中世ヨーロッパの「広場」までをも考慮に入れたくなっちゃうんですよ.机上の空論ではない,人間の営みを考えるわけですからね(^^;).歴史的視野,社会的視野というものを併せ持たなければならないのは,言うまでもないことだろうと思うわけです.

 まあ,単に僕が「節操が無い」あるいは「際限が無い」(^^;)だけなのかもしれませんが,図書館情報学は「社会科学」だと考えてることもありますので,経済学とか建築とか都市計画とか,やっぱり考慮に入れておかないと(『市民の図書館』のように)後々世を誤ることになるんじゃないかと考えておりますよ.公共図書館を公共図書館単独で考えていれば済むほど,牧歌的な時代はとっくに終わっているでしょう,とね.近代人なら「社会の中の公共図書館」「組織の中の公共図書館」ということを考えずにあれこれ叫べるほど,ナイーヴでいられるはずも無いと思うのですが,どうもオルテガ・イ・ガセット言うところの「野蛮人」だったか「原始人」だったか,公共図書館という概念を付与の前提と考えている関係者が多すぎやしないですかね.「公共図書館」って,それほど自明のものじゃないと思うんですけどねえ?


 時に実のところ,個人的に「建築」は大好きで,寺社仏閣でも城郭でも近代建築(専門でも何でもないのに『バウハウス叢書』個人で全巻買ってしまった奴です)でも何でも喜んでみますけど,ついでに鉄道好きで歴史も好きとくると,例えば「城下町」の形成とか「鉄道忌避伝説」などということにも興味津々なわけでして(^^;),近代日本についてですと,越沢明や初田亨の本はついつい買っちゃいますし,井上章一の仕事は大好きですし.「近代」を考えるときに「建築」や「都市計画」は避けて通るわけにはいかない主題なんだろう,と考えてます.

 ヨッパライのたわごとでしたm(_ _)m

2008/04/20

マーラー/交響曲第7番

マーラー/交響曲第7番ホ短調@キリル・コンドラシン/レニングラード・フィル(メロディア/BMG:BVCX-37012/37015)

 1975年の録音.
 コンドラシン(1912-1981)は1960年から1976年までモスクワ・フィルの音楽監督を務めており(あのショスタコーヴィチ全集は全曲がモスクワ・フィルとの録音),かのムラヴィンスキーが常任指揮者を務めていたレニングラード・フィルの指揮台に上がるのは,どの程度機会があったものやら,よくわからない.何処で読んだか忘れたがソ連時代には,モスクワとレニングラードの間には日本で言うところの東京と大阪のような対抗意識が存在しているとも囁かれていたというから,恐らくそうたびたびコンドラシンがレニングラードを振る機会は無かったのではないかと思われる.

 が,しかし,この録音でコンドラシンはレニングラード・フィルを自在に,鮮やかに乗りこなしてみせる.マーラーについては,両大戦間にソ連でも演奏されたことがあるようだが,必ずしもマーラーのような世紀末風味に富む作曲家に理解があったとは思われない状況下で,1961年のモスクワ・フィルとの来日時には交響曲第9番の日本初演を敢行したコンドラシンの劇的な解釈にブレは無い.レニングラード・フィルもその解釈を十全に表現して聴かせている.澄んだ絃の音が実に美しい.

Project Shizuku様宛,一筆啓上仕ります

 と言うわけで,【Project Shizuku ~次世代図書館情報システム~】に関する

利用者のつながりを創り出すコミュニティ指向型図書館システム
http://hdl.handle.net/2241/98548

を拝見しました.既にkatz3さん,argさんから適切な批評がなされているので,今更僕が何かを付け加えることは無いような気もしますが,kunimiyaさんにはSBMを応用したパスファインダーの件で大変応援していただいたので,そのご恩を幾許かでもお返ししたいな,と思って一筆啓上することにいたします.もっとも,何を書こうか考えていて,風呂場の出入り口の桟に頭をぶつけてしまったのはナイショです(^^;).

 一読してピンと来たのは「あ,こりゃ新しいタイプのmemexだ」(エラそうに原典にリンクしてますが,僕が読んだのはもちろん『情報学基本論文集』Ⅰ[勁草書房]に載っている翻訳です).memexは知識と知識をつなぐ装置もしくは概念ですが,Shizukuは知識と「経験」をつなぐ役割を担おうとしているな,と.僕は根っからの文系人間なので,取り敢えずShizukuという装置については,そのように理解しました.そして,知識と経験のつながりに人間が絡んで「コミュニティ」が成立し,そこでの「コミュニケーション」から「知識創出」(というのは僕が以前取り上げたシュンペーターの「イノヴェーション」と同義,でいいのでしょうか?)というものが編み出されてくると言うことですね.

 一言で評すれば「素敵だ!」

 で,先考が既に指摘しているように,やはり僕も「コミュニティ」という言葉で示されている内容が,どの程度の「拡がり」を想定しているのか,によって「コミュニケーション」の想定される質が変わってくると思うのですよ.このことについては,僕には僕なりの考え方があるのですが,それを開陳するのは控えておきます.いや,別にケチっているわけじゃなくて(^^;),書き始めると「公共性」論から「都市計画」までを射程に入れた大掛かりなものになりかねず,準備に時間がかかる上に,話がShizukuから大きく逸れてしまうと思いまして.

 取り敢えず現状での「コミュニティ」に関する具体論ということで,専門家による狭いコミュニティを想定しているのであれば『専門知と公共性』(藤垣裕子著,東京大学出版会,2003年5月初版)あたり,必ずしも専門家のみを想定していないのであれば『地域の力』(大江正章著,岩波書店,2008年2月)あたりが参考になるかもしれません.

 いずれにしても,豊かな可能性を感じる取り組みですね.何と頼もしいことであるか,というところで,先々の進展が楽しみです.

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