開かれた公共図書館とその敵(続)
承前.
ところで,公共図書館業界関係者の中には,片方で「専門性」の未確立を嘆きながら,実のところ他方では『市民の図書館』とそれを発展・継承させたと称する疑似科学によって,その専門家としての自我を肥大化させ,そこに奇妙かつ巨大なコンプレックスを現出させた連中がいます.これはオルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』の中で“「専門主義」の野蛮性”という章を立てて,指摘している専門家と称する人々の知的傲慢,そのものではないでしょうか.自分たちだけが公共図書館を識る者であり,祖師が作り上げた「枠組み」が妥当かどうかを検証することも無くその「枠組み」を信奉して,そこから外れていると「彼らが」認識したものは「あれは公共図書館ではない」「これは“図書館的”だが公共図書館とは認められない」などなど,妥当かどうかもわからない「枠組み」,確立もしていない「専門性」に依拠して夜郎自大な批判を繰り返します.
そのような専門家による夜郎自大を,例えばポール・ファイヤアーベントは自由社会における最終決定を専門家にのみ任せることなく,素人が最終決定に参画できる仕組みを必要不可欠のものとして組み込むことによって,排除することが可能であろうと指摘するわけです.USAにおける「図書館評議会」の役割は,くだんの『図書館ねこデューイ』を読む限りにおいては,ファイヤアーベントが批判する専門家の夜郎自大を防ぐための安全装置として働いている(それがあるときは障壁になっていることも否定できませんが)ように思えます.
しかし,こと日本においては「図書館司書」が近代化する手前で「近代」が崩壊した,つまり専門化する以前に専門化するための前提が崩れてしまった-丸山眞男(前川恒雄でも構いませんが)が待望していたような形での「近代市民社会」はついぞ実現されていない-わけです.近代化による「正のスパイラル」が望んでいた形で訪れなかった以上,業界はそもそも妥当かどうかわからなかった「枠組み」を,より妥当な形に再構成しなければならなかったはずなのです.ところが,今もって「再構成」は実現する兆しさえ見えません.
それは何故なのか,その理由こそ打ち砕かなければならない「開かれた公共図書館の敵」ではないだろうか,というのが,目下の僕の見立てです.
なおアダム・スミスについては『アダム・スミス』(中公新書)を,ポール・ファイヤアーベントについては『パラダイムとは何か』(講談社学術文庫)を参考にしましたが,その読解については僕に責任があります.それからエントリーのタイトルはカール・R・ポパーの名著のパクリですが,彼の本『開かれた社会とその敵』(未来社)は未読ですごめんなさいm(_ _)m
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