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ココログ


ほし2

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2008年9月の記事

2008/09/30

マーラー/交響曲第6番

マーラー/交響曲第6番イ短調@キリル・コンドラシン/レニングラード・フィル(BMG/メロディア:BVCX-37012/37015)

 1978年の録音.
 恐らくはコンドラシン(1914-1981)亡命直前の録音と思われる.第1楽章の繰り返しを省いているだけではなく,テンポが全体的に速い演奏なので,全曲を65分少々で疾風の如く駆け抜ける.最晩年に南西ドイツ放送交響楽団を振ったライヴ(NHK-FMで放送された)も似たような骨太で疾風怒濤の第6番だったので,これがコンドラシンのスタイルとみて間違いないだろう.

 ときに,モスクワ・フィルの常任指揮者だったコンドラシンがここでは珍しく(?)レニングラード・フィルを振っているが,ムラヴィンスキー麾下で鍛え上げられたレニングラード・フィルはコンドラシンの棒にもよく応え,なかなかの名人芸を聴かせる.

2008/09/28

マーラー/交響曲「大地の歌」

マーラー/交響曲「大地の歌」@カルロ・マリア・ジュリーニ/ベルリン・フィル(DG:UCCG-3974)

 1984年2月の録音.
 季節が一気に秋めいてきたので,聴く曲も秋めいてくる.ジュリーニが未だ絶好調の頃の録音なので,オケも華やかな音色とふくよかな歌を奏でながらもアンサンブルは破綻なくキマっている.テノール(フランシスコ・アライサ)がいまひとつなのを除けば,まず誰にでも受け入れられる演奏でしょう.これにあきたらなくなったとき,恐らくは聴き手にとって新しいマーラー像を探す機会が訪れるのではないかと.

 もちろん,この演奏は高い次元でまとめられた好演なので,これを気に入られた方は続いて同じジュリーニの振った第9番(DG)も聴いてほしい.あれは本当の大名演ですから.

2008/09/27

ブラームス/交響曲第2番

ブラームス/交響曲第2番ニ長調作品73@セルジュ・チェリビダッケ/シュトゥットガルト放送交響楽団(DG:POCG-10156)

 1975年4月11日のライヴ録音.
 チェリビダッケ(1912-1996)が,もっとも脂の乗り切っていた時代の記録である.とにかく,冒頭の三連符以降,それが作品の源であることを強調するようなリズムの区切り方を特に第1楽章で頻繁に行うので,思わず同じくチェリビダッケの振ったブルックナーの第4番の終楽章のコーダにおける「三連符の洪水」(^^;)を思い起こさせる.また,全体的にピアノ(小さな音)と柔らかいアクセントが演奏の基調であるため,第3楽章はひたすらピアノだけの演奏になってしまい,第1楽章や終楽章では時々思い出したように現れる強奏が強い印象を残すことになる.特に終楽章のコーダの盛り上がりは狙いがミエミエ(^^;)とはいえ,やはり見事なもの.

2008/09/26

フランク/交響曲ニ短調

フランク/交響曲ニ短調@ヴィレム・メンゲルベルク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管絃楽団(テルデック:8573-83025-2)

 1940年11月12日の録音.
 録音年が信じられないような,いい音で鳴るモノラル録音である.1950年代の録音だと言われても信じてしまいそう(^^;).当時のテレフンケンの技術とスタッフ,現代の復刻技術の素晴らしさに舌を巻く.

 演奏はもちろん,メンゲルベルクの面目躍如たる,ポルタメントを含む整然としたアンサンブルと様式化したテンポの揺れとドラマティックな表情付けが,馥郁たる後期ロマン派の香りを漂わせる壮麗なもの.しかも曲目がこれだから,その解釈が実にハマっており,文句のつけようが無い.

2008/09/25

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@ルネ・レイボヴィッツ/ロイヤル・フィル(チェスキー:CD66)

 1961年6月3日,5日,7日の録音.
 レイボヴィッツ(19131972)は一時期,日本でもある程度の影響力を持っていた音楽理論家である.前衛音楽を理論と実践(指揮)の両面から紹介し,とりわけ新ヴィーン楽派の音楽理論が広がったことには,レイボヴィッツの活動が力になっていると思われる.教育者としても,ピエール・ブーレーズなど著名な弟子を多く育てている.

 指揮者としては,それまでの枠に収まらない独創的な解釈を旨としていたようで,奇矯に聴こえる演奏も多く残して,いわゆる「爆演」系の指揮者に分類されている.この「第9」は全曲を61分あまりで吹っ飛ばす演奏で,特に第3楽章を12分半で突っ切ってしまうのは,今でこそ「ベートーヴェンの指示したメトロノームのテンポに忠実」を謳う録音が横行して珍しくも何とも無くなっているが,クレンペラーもクナッパーツブッシュもワルターも健在だった1961年当時に,このテンポで演奏しているのはレイボヴィッツくらいのものではないかしらん(何でもレイボヴィッツのベートーヴェン全集自体が,メトロノームに忠実であることが売りだったらしいのだが).スケルツォの反復を忠実に実行しているくせに,オーケストレーションにはかなり手を入れていたり,なかなか一筋縄ではいかない演奏である.

2008/09/24

ショスタコーヴィチ/交響曲第13番

ショスタコーヴィチ/交響曲第13番変ロ短調作品113「バビー・ヤール」@アンドレ・プレヴィン/ロンドン交響楽団(EMI:5 73368 2)

 1979年7月の録音.
 バス独唱と男声合唱を用いた,5楽章からなるカンタータのような交響曲である.ナチによるユダヤ人虐殺を指弾しながら,同時に帝政ロシアから旧ソ連にいたるまで水面下に存在していたユダヤ人抑圧をも同時に告発したエフトゥシェンコ(1933-)の詩をテキストに作曲された.「ソ連には人種問題は存在しない」というソヴェト共産党の立場を損ねる作品だったため,1962年12月の初演後,詩の内容がフルシチョフの嫌忌するところとなり,変更を余儀なくされている.もっとも,西側ではオーマンディの初演以来,原詩で演奏されるのが通例であり,旧ソ連時代は変更された詩による録音を残していたコンドラシン(この交響曲の初演者である)も,1978年の亡命後に演奏した際は原詩に戻しており,そのライヴ録音も残されている(フィリップス).

 ショスタコーヴィチらしい,屈託ありまくりの音楽で,諧謔と悲劇がこきまぜられたような異形の響きを奏でる作品を,プレヴィンはさすがに破綻無くまとめて間然するところが無い.全編を通じてテンションの高い,好演である.

2008/09/23

バンキエリ/聖母マリアの夕べの祈り

バンキエリ/「聖母マリアの夕べの祈り」作品35@ファビオ・ロムバルド/グルッポ・ポリフォニオ・フランチェスコ・コラディーニ(ダイナミック:CDS 176-DDD)

 1995年3月の録音.
 アドリアーノ・バンキエリ(1568-1634)はボローニャに生まれ,ボローニャで亡くなった修道士,作曲家でオルガン奏者.音楽理論書も残している.ルネサンスからバロックへ音楽が移行する時代の作曲家として重要な存在であり,「マドリガル・コメディ」という劇形式の音楽で名を成した作曲家らしい.

 この「聖母マリアの夕べの祈り」は,この録音が世界初録音.このCDで演奏しているファビオ・ロムバルドが再構成したもので,部分的には他の作曲家の作品を流用しているようである(外国語が苦手なもので,ブックレットを読んでもいまひとつよく理解できないのですごめなさい).「聖母マリアの夕べの祈り」といえば,同時代人クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)のそれが有名だが,モンテヴェルディの作品に比べるとバンキエリのこれは静謐な印象を残す音楽である.

2008/09/22

旧「おぼえがき」から再録(「クローズアップ現代」について)

市民・市立図書館の「複本購入」問題批判の底の浅さについて - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20080921/fukuhon

↑こちらにて登場する「読無字書弾無絃琴」は,現行のものではなく,blog移行以前にhtmlで書いていた「日々のおぼえがき」なので,現在web上に置いてありません.ですので,こちらにいらした方への便宜に,以前の「おぼえがき」から関係する箇所を,以下↓に再録しておきます.なお,都合により一人称のみ書き直しまた.また,取り急ぎテキストを再録することを優先したので当時張られていたリンクは張りなおしてません.悪しからずご了承ください.

続きを読む "旧「おぼえがき」から再録(「クローズアップ現代」について)" »

シューマン/交響曲第4番(初稿)

シューマン/交響曲第4番ニ短調作品120(1841年初稿)/ジョン・エリオット・ガーディナー/オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティク(アルヒーフ:POCA-1148/1150)

 1997年5月の録音.
 シューマンの交響曲第4番は,交響曲第1番,「序曲・スケルツォとフィナーレ」に続いて1841年に一度は書き上げられる.軽快で爽やかな音楽だが,初演時の不評のため撤回し,10年後にオーケストレーションを手直しして(主に金管が上塗りされ)現行の第4番になる.ここでは不評だったとされる1841年初稿を聴く.

 正直,何故不評だったのかわからないほど,自発的でいい音楽なのが不思議(^^;).初稿に比べると現行の第4番は不自然な厚化粧が目立って,いささか鈍重な音楽になってしまっているように聴こえる.

 ・・・・・・ところで,どういうわけだかシューマンの音楽は,どうしてもクルマを運転しながらは聴けないのである,僕は.自分でも奇妙なことだと思うのだけど,交響曲だけではなく,ピアノ協奏曲もチェロ協奏曲もクルマを運転しながらばかりか,ウォークマンで聴きながら歩くことも出来ない(もっとも,ピアノ曲はシューマンに限らず誰の作品でも戸外で聴くようなことはしないのでよくわからないが).何故だろう?

2008/09/21

M.A.シャルパンティエ/聖母に寄せる4つのアンティフォナ

M.A.シャルパンティエ/聖母に寄せる4つのアンティフォナ@エルヴェ・ニケ/コンセール・スピリテュエル(ナクソス:8.554453)

 1998年8月と9月の録音.
 マルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643-1704)による宗教曲から,4つのアンティフォナ(交唱曲)H.44“恵み深き救い主の御母”,H.45“栄えあれ,天の女王”,H.46“天の女王”,H.47“めでたし,天の女王”である.地味ながら美しく,味わい深い音楽を聴くことが出来る.

 ひととなりについてほとんど伝わっていないシャルパンティエだが,このような作品群を聴いていると,どうも世俗の出世や栄光にはあまり関心がなかったんじゃなかろうか,という気がしてくる.だから同時代のリュリのように派手な逸話も残らず,記録も失われていったのだろう,と.それでも,膨大な作品群は後世に伝わり,こうして僕のような異国の地に生きるカトリックに縁なき衆生でも,その音楽に触れる幸福を味わうことが出来るのは,何とも嬉しいこと.たまには,世俗のしがらみを忘れてこの音楽に聴き入ることにする.

2008/09/20

J.S.バッハ/無伴奏チェロ組曲(バリトン・サックス版)

J.S.バッハ/無伴奏チェロ組曲BWV1007-1012@ヘンク・ファン・トゥイレルト(ブリリアント:93637)

 2000年8月の録音.
 ご存知バッハの無伴奏チェロ組曲を,バリトン・サックスのソロで演奏したもの.演奏者は名前から見てオランダ系ですかね? 心なしか,低音で幾分粘り気味になるのが,かのカザルスの名盤を連想させるのが面白い.以前聴いた,清水靖晃のテナー・サックスによる録音(ビクター)が実に都会的でソフィスティケイテッドされた演奏だったのに比べると,こちらは普段に聴かれるバッハ演奏(ただし,古楽よりはモダンによるそれ)の様式の延長線上にある演奏に聴こえる.

 それにしても,鈍重であろうバリトン・サックスを,ここまで自在に操っての演奏は大変だったのではあるまいか(sigh).

2008/09/19

そこまで私は楽天家にはなれません

 日頃「ブログ論壇」などとは無関係に生きているはずなのだが,何だか最近,我がはてなブックマークに付しているコメントが左右両翼から評判が悪いようで(^^;).右でも左でも極端と極端から悪評を蒙るというのは「連帯を求めて孤立を恐れず」というくらいのもので,それほど悪い気分では無いですが,しかし言ってもいない意味を押し付けられたり,痛くも無い腹を探られるのも癪の種,ではありますね.

 少なくとも「ホームレスに人権が無い」とblogにもはてブにも書いた記憶は無いし,そのように考えたことは勿論生まれてからこの方一度も無く,その辺を深読みし僕に対してラベリングしようとするヒトは今後も無視します.悪しからず.正直,この手のデマを流しているヒトには怒りを禁じえません.

 次は「人権は自明のもの」ですが,各自がそう思うのはご自由にどうぞ.ただし,それを「禁欲的な自己を正当化するプロパガンダ」に用いるのは危険だ,ということくらいは認識しておいて欲しいのですよ.それは善意の人だったと思しきサヴォナローラやロベスピエールが陥った過ちですから.

 そもそもみなさん一口に「人権」と言いますが,この言葉の意味するところの変容,あるいはこの言葉の中にどれだけ多くの権利が内包されているか,そしてその中である「権利」とある「権利」がある場面においては衝突することがありうることについての理解は,どれだけあるのでしょうか.そして,それらのことは今や何処にでも発生している言わば日常茶飯事であり,少なくとも個々人の自律と信頼による予定調和としての(自然権としての)「人権」を考え肯定することは,現状では困難なことではありますまいか.何らかの形で,そこには「政治」が関与せざるを得ない.「日本国憲法に書いてあるから自明」なのではなく,「(憲法制定当時は)自明ではなかったが故に日本国憲法に書き込む必要があった」と考えるべきでしょう(なお,僕が指摘するまでも無いはずですが,日本国憲法は「不磨の大典」ではなく「改正」できることにもう少し留意すべきです.その危機は2007年に現実のものとなりかけたのですから).


id:wackunpapa >いや、考えたらいいじゃないですか。で、考えて、人権を否定するんですか?肯定するんですか?肯定するんなら、僕とあなたの間で、人権は「自明の前提」です。
mojimojiさんのような頭のいい人(これは皮肉ではなく)でさえ,シンガポールにおける山下大将のように振る舞い,僕ごときに「イエスかノーか」を迫るほど,現状「人権」の存立する基盤には危うさがあると考えています.繰り返しになりますが,現在考えられうる「人権」の中には個人と個人の関係においてさえ衝突する恐れのある「権利」が包含されている以上,「人権は自明」などと,「人権」をクルマのバンパーに張るステッカーのように扱うわけにはいかないでしょう.僕にはそれがもたらす結果が恐ろしくて,そのようなリバタリアン的な振る舞いはいたしかねます.いくつかのクリアすべき要件(それは誰かが言うような「義務と権利」云々ではなく「権利と権利」のことになります)を解決することによって合意の形成を計ることは可能でしょうが.そこに好き好んでカール・シュミットの述べる「友・敵」関係を持ち込むのは,あまり上手なやり方とは思えません.

 ましてや「差別する/人権を認めない奴には人権を認めない」と言っているヒトは,あまりにナイーヴに過ぎます.彼らは以前,イラクで人質になった方々を「税金泥棒」などと非難した連中を批判したヒトと相当数が同一人であろうと思われますが,結局は連中と同じ穴の狢ですからね.どのような主義主張を持っている国民であろうとも,国家は国民を庇護する義務があると言っていたはずですから,あなた方は.ヴォルテールに仮託されている「私はあなたの意見には反対だが,あなたがそれを主張する権利には賛成する」を思い起こしていただきたい.

 と言うわけで,mojimojiさんへのお答えとしては,僕も「人権はある」と考えています.しかし,それによってmojimojiさんと僕の間に成立するのは「自明の前提」ではなく,「了解した事項」がひとつ,程度のことであろうと考えます.恐らく,mojimojiさんと僕の想定する「人権」の中身については,幾つか吟味しなければならないこと/ものがあるのではないでしょうか? それを突き合わせて一致点を見出したとき,初めて「人権」はmojimojiさんと僕の間で「自明の前提」になるでしょう.「人権」とは,その程度には重いものであり,軽々に「自明の前提」としては取り扱えないものではありませんか? もっとも,そもそも「人権」を説くに当たって粗雑でかつ情緒的なプロパガンダに訴えるのは如何なものか,という違和感の表明に対して,「人権はあるのか無いのか」という僕が言外にも述べる意図の無いことをぶつけてくるのは,何となく議論のすり替えを計ろうとしている,と考えられなくもありません.

 しかし,他者に対して「人権」を突きつけるのに,他者の「はてなID」を誤記する無神経さというのは如何なものかと思いますけどね(^^;).未だ訂正も無いところをみると,mojimojiさんのおっしゃる「人権」は口先だけのものなんですね?

過剰な期待

 言いたいことは過去に書いた,以下のエントリーで言い尽くしているので,再論の必要は無いでしょう.

 正直なところ,このところ議論している皆さん,公共図書館に対する前提がバラバラである上に,(一部の方を除いて)公共図書館にいささか過剰な期待をかけていませんか? もちろん,公共図書館は皆さんの都合のよろしいように使われなければ存在する価値はありませんが,それにしても,意義と機能を前提とした可能・不可能の「棲み分け」は考えていただきませんと,前提がバラバラな上に後ろ盾も無く「過剰な期待」をかけられても,それによって公共図書館が本来果たすべき機能が崩壊してしまったのでは元も子もありません.行政機関と言えども,二兎は追えないのです.

 しかし,この一連の論争を見て思ったのですが,現状のままでいると,公共図書館に誰が何を求めているのか,という前提を業界が構築しなおさないといけなくなるのは必定かと.そうなる前に業界側が新しい政策なり何なりを何とかするのか,それともなおもズルズルと状況に引きずられていくのか.このあたり,この件に限らず業界関係者のお偉方に危機感があるようにはさっぱり見えません.連中がコップの中の嵐を弄んでいる間に,市井の人における公共図書館に対する見方・考え方が,図書館情報学における「先人の蓄積」は大切だけど,それが無意味なものになりかねないほど,急速に流れるように変っていくことを,業界に君臨している方々がどれだけ真剣に捉えていることか.これまで幾度と無く警告してきたつもりですが,いよいよ状況は切迫してきているような気がします.


愚智提衡而立治之至也: 公共図書館が保障するもの
http://jurosodoh.cocolog-nifty.com/memorandum/2004/12/post_23.html

愚智提衡而立治之至也: 公共図書館の「ホームレス支援」
http://jurosodoh.cocolog-nifty.com/memorandum/2006/01/post_7d46.html

愚智提衡而立治之至也: 公共図書館における「場所」と「機能」
http://jurosodoh.cocolog-nifty.com/memorandum/2008/05/post_ea7a.html


2008年9月21日追記:こちら↓も参照してもらえれば幸い.

愚智提衡而立治之至也: 「友・敵関係」と公共性の喪失
http://jurosodoh.cocolog-nifty.com/memorandum/2007/09/post_513f.html

ブラームス/交響曲第4番

ブラームス/交響曲第4番ホ短調作品98@エフゲニ・ムラヴィンスキー/レニングラード・フィル(メロディア/BMG:74321 29401 2)

 1973年4月28日の録音.
 出張が続いたり,パソコンの周辺機器がトラブったりで数日更新できずに失礼しました.取り敢えず一段落したので更新再開.

 で,いきなりブラームスの4番を選択するとは,我ながら何だか人間が枯れてきたかと思うわけで(^^;).ただし,ムラヴィンスキーの演奏は何処と無く少々風変わり.楽器間のバランスと音色が,いささかブラームスらしくないためか.説くに玲瓏な木管の音色が際立ってブラームスらしくないけど,それで押し切ってしまうムラヴィンスキーの解釈の凄みは,独特の風格を感じさせるもの.

2008/09/14

クロンマー/2本のクラリネットのための協奏曲第1番変ホ長調

クロンマー/2本のクラリネットのための協奏曲第1番変ホ長調作品35(Padk III: 3)@ヴラスティミル・マレシュ,イシュリ・フラヴァーク&リボル・ペシェク/プラハ室内管絃楽団(スプラフォン:SU 3748-2 031)

 1992年6月11日と12日の録音.演奏家の読みは推定です(^^;).

 フランツ・クロンマー(1759-1931)はヴィーンとハンガリーで主に活動した,モラヴィア生まれの作曲家.活躍した時期がW.A.モーツァルトやベートーヴェンと同時代だったために,チェコではさておき,他の地域ではすっかり忘れ去られてしまったようで,近頃ようやくレパートリーとして復活してきているところか.生涯に300曲以上の作品を残しているとか.オーボエやクラリネットなどの木管楽器をフィーチュアした協奏曲や室内楽も多く作曲している.

 この作品は,他にあまり聴いたことの無い,2本のクラリネットのための協奏曲(1802年作曲).クラリネット同士のかけあいなどあってなかなか楽しい音楽だが,クラリネットの扱い方があまりに「琴瑟相和す」状態で,わざわざ2本のクラリネットを起用する必然性がそれほど感じられないのはどうしたものか(^^;).2本のクラが揃って重低音を吹くと,それなりに迫力はあるのだが.

2008/09/13

レスピーギ/ローマの松

レスピーギ/交響詩「ローマの松」@ルドルフ・ケンペ/チューリヒ・トーンハレ管絃楽団(BMG:74321 30620 2)

 1973年12月11日のライヴ録音.チューリヒ・トーンハレ管絃楽団の創立100周年記念のCDから.
 今更作品も,指揮者も説明不要なモノではないかと(^^;).演奏は「ライヴのケンペ」らしい,見事なドライヴ.決して派手な演奏では無いが,熱気のこもったいい演奏である.

 ・・・・・・そろそろバブルは,はじけたかな(^^;).

2008/09/12

スメタナ/モルダウ

スメタナ/交響詩「我が祖国」より第2曲「ヴルダヴァ(モルダウ)」@アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー/ベルリン国立歌劇場管絃楽団(コッホ・シュヴァン:CD 310 037 H1)

 1928年から1930年ごろの録音(ブックレットが不備でよくわからない).
 ツェムリンスキー(1871-1941)はアーノルト・シェーンベルクの義兄で,最初にシェーンベルクに作曲を教えた人物でもある.作曲家,指揮者としてベルリンやヴィーン.プラハなどで活動したが,ユダヤ系のためUSAに亡命し,ニューヨークで最後の歌劇を未完のまま残して亡くなった.第二次世界大戦後,戦前の名声の割には前衛の影に追いやられて冷遇されてきたが,1980年代よりその作品は徐々に復活してきている.

 指揮者としては,モーツァルトの歌劇の卓越した演奏で知られたが,残念ながら同時代のフリッツ・ブッシュのような録音には恵まれず,電気録音直後の1928年から1930年ごろに,モーツァルトを含む作曲家の小品を録音するにとどまった.世代的にはワルターやフルトヴェングラーより年長であるにもかかわらず新古典主義的なスタイルで,イン・テンポで音楽そのものに語らせようとする,直截な芸風をとるのが面白い.

2008/09/11

大栗裕/ヴァイオリン協奏曲

大栗裕/ヴァイオリン協奏曲@高木和弘&下野竜也/大阪フィル(ナクソス:8.555321J)

 2000年8月の録音.
 大栗裕(1918-1982)は大阪は船場の生まれ.家業を放擲して東京でホルンを学び,東京交響楽団(現在の東京フィルの前身)から日本交響楽団(現在のN響の前身)を経て,朝比奈隆の大阪フィルでホルン奏者として活動する傍ら作曲も手がけた.恐らく,吹奏楽の分野では現在も作品が演奏されている日本の作曲家のひとりだろうか.
 
 このヴァイオリン協奏曲は1963年11月にヴァイオリン独奏に辻久子を迎え,朝比奈隆が振る大阪フィルにより委嘱元の毎日放送にて初演されている.約30分ほどの作品で,楽章配置などほぼ西欧古典の形式に則っているが,使用されている旋律は実に日本的なもので,このあたりの感性は吹田出身の貴志康一(1909-1937)のヴァイオリン協奏曲に通じるものがあるような.

2008/09/10

シンディング/交響曲第1番

シンディング/交響曲第1番ニ短調作品21@アリ・ラシライネン/ノルウェイ放送管絃楽団(フィンランディア:WPCS-10420)

 1998年9月の録音
 クリスティアン・シンディング(1856-1941)はノルウェイにおいて,グリーグの次の世代を代表する作曲家だが,主な活動の場はドイツである.ライプツィヒで学んだ後,ノルウェイ政府からの奨学金と年金を得て,作曲に専念する.ドイツ・ロマン派の作曲技法を受け継ぎ,ブラームスとニールセンの中間あたりに位置するオーケストレーションで交響曲を書いた.

 北欧の交響曲に時々聴かれる,遠心力の効いた取りとめの無さはシンディングの交響曲にも聴くことが出来るが,この第1番(1890年)は悲劇的かつヒロイックな雰囲気でまとめられており,美しい旋律が聴かれる第2楽章が白眉である.ラシライネンの演奏は過不足無くまとめられ,作品の価値を伝えるのに成功している.

2008/09/09

ジェフスキ/「不屈の民」変奏曲

ジェフスキ/「不屈の民」による36の変奏曲@ラルフ・ファン・ラート(ナクソス:8.559360)

 2007年4月21日・22日の録音.
 フレデリック・ジェフスキ(1938-)はUSAの作曲家.恐らくルイジ・ノーノ(1924-1990)とともに,最も共産主義に傾倒している作曲家であろう.1975年に作曲されたこの作品は,1973年にアジェンデ政権下のチリでアジェンデを支持する人々によって歌われたプロテスト・ソング「不屈の民(結束した人々は決して打ち負かされない!)」(こちらを参照)の旋律に基づく36の変奏曲からなる,演奏時間1時間を越える大作.いろいろな作曲技法がごった煮のように放り込まれているらしい.

 この手の,時代の影を色濃く背負った音楽は,時を経てその作曲された時代の雰囲気が失われたり,演奏者がその雰囲気を身にまとうことが出来ないと,途端につまらなくなるもので,どうやらこの作品も,その例に漏れないようである.この演奏はよく整理されていて,破綻も無いけれども,作曲家自身の録音や高橋悠治の録音の方が,遙かに面白い演奏が聴けるのではないかなあ(sigh)? と想像できる.

2008/09/07

入野義朗/シンフォニア

入野義朗/シンフォニア@渡辺暁雄/日本フィル(ビクター/タワーレコード:NCS610-611)

 1981年11月17日の録音.
 入野義朗(1921-1980)は,日本で12音技法を取り入れた作品を書いた,ほとんど最初のひとである.1951年に作曲した「7つの楽器のための室内協奏曲」を皮切りに,他の作曲家が12音技法から離れた後も,せっせとこの技法による作品を書き続けた(もっとも,ミュジック・セリエルまでは導入しなかったという.これは入野が諸井三郎の弟子でドイツ系の作曲技法を叩き込まれていたためか?).

 「シンフォニア」は緩-急のの2楽章からなり,日フィルの委嘱作品として1959年12月8日に,この録音で指揮している渡辺暁雄と日フィルによって初演され,尾高賞を受賞している.シェーンベルクとウェーベルンの影響を感じさせる,厳しい雰囲気を漂わせる音楽である.

2008/09/05

シューベルト/交響曲第2番

シューベルト/交響曲変ロ長調D125(第2番)@カール・ベーム/ベルリン・フィル(DG:471 308-2)

 1971年5月の録音.
 記憶に間違いが無ければ,カール・ベーム(1894-1981)がヴィーン・フィルとの引退演奏会に予定していた曲目はシューベルトの「未完成」と「グレート」だった.残念ながらその演奏会に登壇することなくベームは死去し,その演奏会は追悼演奏会として,同じ演目をヴォルフガング・サヴァリッシュが振っている.ベームが定評のあったモーツァルトやベートーヴェンではなく,シューベルトの2曲を選んでいた,というのが興味ぶかい.

 五味康祐が何処かで皮肉交じりに書いていたけど,シューベルトの「やさしさ」は年寄りが癒されるのだから本物である,と.

 さて,この曲はシューベルト17歳の若書き(1814年).フィナーレに早くも後年の大作の予兆を感じさせる,幾分の冗長さが感じられるものの,全体的に明るく華やいだ雰囲気の音楽である.ベームの棒は堅実そのもので,安定したテンポとかっちりしたアンサンブルで,シューベルトの若書きゆえの明るさを引き出した見事な演奏を仕上げている.

2008/09/04

ニールセン/交響曲第3番

ニールセン/交響曲第3番作品27(FS.60)@レナード・バーンスタイン/デンマーク王立管絃楽団(CBS:MK 44708)

 1965年の録音.
 バーンスタインは,USAで早くからニールセンの交響曲を演奏していた指揮者で,CBSに2,3,4,5番の録音を残している.いずれも壮年期(ニューヨーク・フィルの常任指揮者だった頃)の録音なので,4番を除けば非常に推進力のある,力感溢れる指揮ぶりが楽しめる(4番は妙に構えているというか,テンポが重すぎて僕の好みと合わない).特にこの録音は,コペンハーゲンにてニールセン所縁のオケに乗り込んでの録音だけに,一層力瘤が入った熱演に仕上がっている.

2008/09/03

シュポーア/クラリネット協奏曲第2番

シュポーア/クラリネット協奏曲第2番変ホ長調作品57@エルンスト・オッテンザマー&ヨハネス・ヴィルトナー/スロヴァキア放送交響楽団(ナクソス:8.550689)

 1994年1月と2月の録音.
 第1楽章で突然,不思議な経過句が出て来たりする,なかなか楽しい協奏曲.あの手のリズムは,リストやシューマンがピアニストに人気があるのと同じように,クラリネット奏者にはたまらないものがあるのだろうなあ.終楽章がいきなりティンパニの連打から始まるのは,マーラーの7番の先駆か(^^;)?

 クラリネットには多少の思い入れがあったりするのだけど,さすがにこの年になって30年近く前の記憶が突然甦ってくるのは恥ずかしい(^^;).写真,何処に仕舞い込んじゃったんだろう? そんなことばかり考えているから,この数日読書が全然進まないじゃないか.そろそろ,活字に戻ります.

2008/09/02

ホームカミングデー

筑波大学 | 卒業生の方へ | ホームカミングデー
http://www.tsukuba.ac.jp/visitors/homecoming/index.html

 10月11日(土)ですと.何で三連休の初日に持ってくるかな(^^;).てっきり12日(日)だと思って,いろいろと思いを巡らしていたのに,どうしよう.クルマで行くとすれば,出掛けに実家によってクルマを借りていってもいいけど,12時に間に合うように鉄道で行くかな? 夜の宴席でもあれば,その方が都合がいいのかも(^^;).北千住に22時ごろに着けば実家に辿り着けるし.

 こういう機会でも作ってもらわないとツクバに行く用事もなかなか作れないので,昭和63年3月卒業であることを奇貨として,たまには重い腰を上げますか.こんな顔でよかったら,どなたかお付き合いくださいm(_ _)m


 実は某所にて,招待状が届かなかったひとはどうやって出席申込をするか,でいろいろ盛り上がっております(^^;).何故そのような話が出るかは,上記URLの本文を読んでみてくださいませ.(9月3日追記:状態が改善されましたので,出席を申込みました)

シャッター通りに図書館を誘致する

 単なる思い付きですから,本気にしてはいけません(^^;).

 いわゆる「旧市街」具体的には地方の大都市における駅前商店街のようなところで,郊外に展開する大規模小売店の攻勢に負けて旧来の個人商店が次々と閉店し,歯が抜けたように(それどころか閉店した店跡が延々と立ち並ぶ羽目になったところも)シャッターを下ろしてしまった通り,それを称して「シャッター通り」と言う訳ですが,僕が住んでいる街の駅前商店街もご他聞に漏れず何軒もの小売店が店仕舞いし,それどころか駅前の大規模小売店が次々と閉店する始末(>_<).

 そのシャッター通りの再生に,例えば公共図書館や大学図書館の分所(分館と呼ぶにはあまりに小規模なので,取り敢えず「分所」と呼んでおく)を誘致する,というのはどんなものでしょうね.もちろん,大規模な再開発などというものは無しで,必要最小限の補強と改装で,元からあった商店街の建物を活かした形で.当然,万単位の本など置けるはずも無いですから,その冊数は自ずから限られますが,例えばシャッター「通り」と言うくらいで,何軒もの元・店舗があるのですから,そのうち数軒を改装して図書館にしてしまう.その際,例えば紀伊国屋書店新宿本店の地下街のように,専門分化した図書館を複数配置することです.もしその街に複数の大学があれば,それらの大学にも協力を請い,その大学の学部・専攻の専門分野に関する蔵書を置いた大学図書館の分所を作ってもらう.本の内容が古ければ,見せ方を工夫すればいいでしょう.

 それらの図書館分所と,これまで生き残ってきた商店街の店舗,それから別途入ってくるであろう新店舗(商売に限りません.それこそ「ラーニング・コモンズ」を商店街の一角に設置するのも一案かも.それとも,大学の中になければ「ラーニング・コモンズ」ではない別物になるのでしょうか? このあたりは不勉強なのでよくわかりません)などにより,活性化とまではいかなくとも,駅前における人の流れを変えて,うらぶれた旧市街の商店街に人を呼び込むことは不可能ではないだろうと夢想してみたのですが,この話,誰か真に受けてくれる方はいらしゃいませんかねえ?

プロコフィエフ/ヴァイオリン協奏曲第1番

プロコフィエフ/ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調作品19@マキシム・ヴェンゲーロフ&ムスティラフ・ロストロポーヴィチ/ロンドン交響楽団(テルデック:WPCS-6236)

 1994年7月の録音.
 プロコフィエフのこの作品って,もう少し鋭角にギリギリと絞り上げて演奏するものだと思ってましたが,ここではロストロポーヴィチが思い切り大柄な音楽をやっているので,鋭いヴァイオリンが浮き上がり気味になるという.それがここでの戦術なのかどうかよくわからないけど,オケがぶわっーと出ると,ヴァイオリンが霞みがちになるのが惜しい.ヴァイオリンは,プロコフィエフの皮肉っぽい音楽をよく伝えていると思うけど.

2008/09/01

モルター/クラリネット協奏曲第1番

モルター/クラリネット協奏曲第1番イ長調@ヘンク・デ・グラーフ&マリアン・ファン・スターレン/ロッテルダム・アマデウス・アンサンブル(ブリリアント:93337)

 2006年10月25日と26日の録音.
 ヨハン・メルヒオール・モルター(1696-1765)はカールスルーエを中心に活動した作曲家でヴァイオリン奏者.幾つかの宮廷楽団で指揮者も務めている.
 モルターの6曲のクラリネット協奏曲は,カール・シュターミッツ(1745-1801)の10曲の協奏曲に先んじて書かれた,現存する最古のクラリネット協奏曲ということで評価されているようである.後年,他の作曲家によって書かれたクラリネット協奏曲に比べて使用されている音域が高めなのは,クラリネット自体が18世紀初頭に出現した楽器で,未だ発達の途上にあって楽器の性能に限界があったからだろう.
 それほど深い音楽では無いが,流麗で肩の凝らない上品な作品である.

大博打

福田首相:辞任を表明 後継は麻生氏軸に - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/today/news/20080902k0000m010099000c.html

 博打の打てない福田康夫が打った,最後の大博打,か.今日告示された民主党の党首選が無投票に終わるのを見越して,政治報道を自民党一色に染め上げる最後の手段,というわけだ.で新総裁,新総理が指名されたところで抜き打ち解散,直前の露出度の高さを生かして自公で過半数を維持しよう,というカラクリだろう.

 上手くいきますかどうか.後継総裁のお手並み拝見.

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