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ココログ


ほし2

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2008年4月の記事

2008/04/30

J.S.バッハ/ミサ曲ロ短調

J.S.バッハ/ミサ曲ロ短調BWV232@ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィル(DG:459 460-2)

 1973年9月,11月と1974年1月の録音.
 この録音,J.S.バッハの演奏においてカール・リヒター命! のひとや,古楽が絶対! のひとは,決して聴いてはいけません.音楽を聴いて滅多に動揺することの無いこの僕でさえ,最初にこの「キリエ」が我が家のオーディオで鳴り響いたときには,あまりのことに椅子から転げ落ちそうになりましたから.

 もちろん,カラヤンが奇を衒った解釈で聴き手を驚かせるはずも無く,かと言って新しい発見/解釈を聴かせるわけでもなく,ただひたすら全盛期のカラヤン/ベルリン・フィルによる中庸のテンポで,音楽の内面を厳しく拒否し,外面をひたすらに磨き上げることで音楽の内実を却って浮かび上がらせようとする戦術は何時もの通りです.が,この場合相手はJ.S.バッハであり,その方法論がJ.S.バッハに対してはあまりにも場違いであることに驚愕したのですよ.カラヤンの創り出す音楽の内容が空虚なのではなく,バッハの音楽があまりにも「音楽そのもの」以外のものを表現していないことが,この演奏を凄絶なまでに居心地の悪いものにしている,と僕は聴きます.

 かくして,あまりにもきらびやかな演奏であるこのロ短調ミサは,ヘルベルト・フォン・カラヤンという稀有の才能によって創られた完璧なオーケストラ・アンサンブルが採った方法論の限界を,まざまざと僕らに聴かせることになっています.

2008/04/29

ゼレンカ/神の御子のミサ

ゼレンカ/「神の御子のミサ」ZWV20@フリーダー・ベルニウス/ターフェルムジーク・バロック管絃楽団(ドイツ・ハルモニア・ムンディ:88697 281822/49)

 1989年録音.ドイツ・ハルモニア・ムンディのレーベル設立50周年を記念して発売された50枚組の廉価盤CDセットから.
 「キリエ」と「グローリア」からなる,40分ほどのミサ曲.今日の読者がこの作品をまだ聴いたことが無いのであれば,この作品をこれから聴くという「歓び」が,まだこれからの人生に残っている諸賢を羨ましく思う(^^;).それほどの傑作.

 ボヘミア生まれ,ドレスデンで活動した作曲家ヤン・ディスマス・ゼレンカ(1679-1745)は最近,ようやくリヴァイバルしてきた作曲家で,その全貌が明らかになったとは未だに言えないが,音楽の総決算のような形で生み出されたこの作品は,間違いなく同時代のJ.S.バッハにも比肩する高みにゼレンカの音楽があったことを示す名作である.ゼレンカ自身,晩年の1740年から1741年にかけて,このミサ曲を含む6曲のミサ曲を「最後のミサ曲」としてまとめるつもりだったようだが,実際に作曲されたのはこのミサ曲と「父なる神のミサ」ZWV19,「すべての聖人のミサ」ZWV21の3曲だけである.
 なお,このミサ曲には「クレド」以下が欠けているが,J.S.バッハにも「キリエ」と「グローリア」のみからなるミサ曲が残されているので,このゼレンカのミサ曲もいわゆる「短ミサ曲」として作曲されたのかもしれない(ゼレンカはカトリックなので,プロテスタントのバッハならともかく,「短ミサ曲」を書いたとは考えられない,とする見方もあるようだ).何となく,この作品にはこの2章のみで完結した雰囲気が漂っているように聴こえる.

2008/04/28

マーラー/交響曲第9番

マーラー/交響曲第9番ニ長調@ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィル(DG:453 040-2)

 1979年11月と1980年2月の録音.
 カラヤンのマーラー/第9番ではベルリン・フィル100周年記念時のライヴ録音(DG,1982年)の方が有名なのかもしれないが,あれは商品として入念にお化粧がされている代物.実際のライヴはNHK-FMで放送されたときに聴いたけど,第1楽章の提示部から展開部へ移る山場で金管が大事故を起こす(2小節?遅れてしまい,伸ばす音のところでまだ3連符を吹いている奴がいた)など,カラヤンの統率力の衰えが問題視されたほどの爆演であった.

 こちらは,カラヤン/ベルリン・フィルのコンビが最後の輝きを見せた1980年前後の録音なので,カラヤンのコントロールがオケの隅々まで行き渡った,一風変わった解釈の9番を聴くことが出来る.特にカラヤンには珍しい,地すべりのようなテンポの変化を聴かせる第1楽章は,ちょっと他では聴くことの出来ない解釈である.第3楽章でも「ありゃりゃ?」と思うところがあるのだが,これは何だろう(^^;).

2008/04/27

ブルックナー/交響曲第8番

ブルックナー/交響曲第8番ハ短調@ヨゼフ・カイルベルト/ケルン放送交響楽団(オルフェオ:C 724 071 B)

 1966年11月4日のライヴ録音.
 こんなものが残っていたとは! 今年(2008年)生誕100年を迎えるカイルベルト(1908-1968)のブルックナーは,テレフンケンに6番と9番のスタジオ録音が残されているだけだったところ,数年前,来日時にNHK交響楽団で4番と7番を振ったライヴが発売され,ようやくその剛毅なブルックナー演奏の片鱗を聴くことが出来るようになったが,そこへもってこの8番の登場である.長年の渇を癒すに足る,剛毅な名演を聴くことが可能になり,実に喜ばしい.4番と7番のN響も健闘しているが,やはり限界があった(特に7番)ので,ケルン放送響のレベルの高いアンサンブルで8番を聴けるのは,大変ありがたい.
 一言で言って,豪壮で風格たっぷりのブルックナーである.「何も足さない,何も引かない」解釈でありながら,これほどブルックナーの表現に十全な内容の演奏は滅多にあるものではないと思う.

 これであと,5番のステレオ録音がライヴで残されていたら,ホントにウレシイのだが,さてそのような奇跡が起きるでしょうか?

2008/04/26

マーラー/交響曲第6番

マーラー/交響曲第6番イ短調@ヴァレリー・ゲルギエフ/ロンドン交響楽団(LSO:LSO0661)

 2007年11月のライヴ録音.
 うーん.期待が大きかった分,がっかり感も大きい録音(-_-;).もう少しオケの鼻面を捕まえて引きずり廻すような,破天荒なスケールの大きさを期待したのだが,むしろオケはガサツなばかりで,ティンパニばかりが時々やたらと猛々しく,スケールもほどほど,というところ.中間楽章がアンダンテ-スケルツォなのは最新の研究結果に倣ったものだろうが,やっぱりなじめない.
 結局,破天荒なスケール感という点では,コンドラシンはおろか,スヴェトラーノフの6番の域までも達していない.音楽の持つ「魔」が感じられない6番,ということでマリス・ヤンソンス/ロンドン響のライヴ(LSO)やマゼール/ヴィーン・フィル(ソニークラシカル)が比較の対象としては適当なところだろう.

 それにしても,ヤンソンスのライヴ録音でも気になったのだが,ロンドン響の能力がこのところ目に見えて落ちているような気がする.

2008/04/25

ショスタコーヴィチ/交響曲第6番

ショスタコーヴィチ/交響曲第6番ロ短調作品54@クルト・ザンデルリンク/ベルリン交響楽団(ベルリン・クラシックス:0021812BC)

 1979年4月の録音.
 やはりザンデルリンク(1912-)の振るショスタコーヴィチに言及しない,ショスタコーヴィチの演奏論は信用できない(^^;).1,5,6,8,10,15の各曲がスタジオ録音で残されているが,いずれも古典的かつ重厚な造形と透明なテクスチュアを兼ね備えた好演である.個人的には8番と15番が特に名演だと思うが,この6番も第1楽章の暗さにおいて,他の追随を許さない.何処までも悲劇の淵に追い込んでいくような演奏を展開する.それに対し,後半2楽章(この作品は3楽章制をとる.その並べ方は,いわゆる「序破急」と言われるものに近い)の底抜けな明るさが嫌が応にも対応される.

 この作品,作曲された時期や,5番と7番の間の作品ということで,その曲調がどこか謎めいて語られることが多いようだが,案外作曲家は余計な掣肘も感じずにノビノビと自発的に第1楽章や第2楽章を(このこと自体が,明るい作品を書いたことを意味しないことは勿論である)作曲していたんじゃないかと.それ故に,終楽章で自制が働き,曲調がどこか「強制された歓喜」を思わせる結果を招いたのかもしれない.

2008/04/24

ベートーヴェン/交響曲第6番

ベートーヴェン/交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」@オットー・クレンペラー/ヴィーン交響楽団(ヴォックスボックス:CD6X-3605)

 1951年3月19日-23日の録音.
 いや,もう恐ろしくドライなベートーヴェン(^^;).ヴェーベルンかヒンデミットを演奏するのが相応しい解釈で,音楽は実にそっけなく進行する.フィルハーモニアとの録音しか知らない聴き手が聴いたら,驚かれるかもしれない.ウェットさとか,感情移入とかクスリにもしたくない,非情なベートーヴェンである.不思議とエネルギッシュな感じはするのだが,それはただただ音楽を前へ前へと駆り立てているだけという,何とも言えない感じを受ける.ある意味凄いことは凄いが,しかし(^^;).

2008/04/23

ヴァーグナー/「マイスタージンガー」前奏曲

ヴァーグナー/楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(カール・タウジヒによる4手ピアノ版)@ヤアラ・タール&アンドレアス・グロートホイゼン(ソニークラシカル:SRCR 2166)

 1997年5月の録音.
 カール・タウジヒ(1841-1871)はフランツ・リストの高弟で,技巧と解釈の両面で高く評価されたピアニストだったが,わずか29歳でチフスに罹患し急逝した.リスト嫌いの(偏屈な)ブラームスが親交を結んでいたというのだから,孔子の一番弟子である顔回の如き福徳円満な人物だったのではなかろうか,と思われる(^^;).
 この編曲も,その華麗な技巧を偲ばせる絢爛豪華な編曲.ピアノをこれほど鳴らす編曲もそうあるものではないのでは? 下手なオケで入学式や卒業式に「マイスタージンガー」前奏曲聴かされるよりも,腕の立つピアニストを二人用意できれば,これを演奏してもらったほうがよさそう(^^;).

2008/04/22

マーラー/交響曲第9番

マーラー/交響曲第9番ニ長調@ピエール・ブーレーズ/シカゴ交響楽団(DG:POCG-10072)

 1995年12月の録音.
 ホントに味も素っ気も無い演奏.シカゴ交響楽団なら,指揮者がいなくでもこれくらい演奏してしまうんじゃないか,と思うくらい蒸留されたマーラーで,楽譜のアナリーゼにはもってこいかもしれない(^^;)けど,マーラーの第9番として聴くのは,さてどうしたものか,と.何しろシカゴ響の第9番というと,ジュリーニの大名演(DG)があるので,ジュリーニと比較したらブーレーズのこれは,楽譜をレントゲン写真みたいに再現しているのが取り柄か,という程度のものですかね.

図書館情報学は広大無辺でございましょう

 ・・・・・・そうですねえ,大学図書館ならまだしも,「すべてのひとに歩いて10分のところに図書館を」と言っている公共図書館関係者が,図書館建築にはうるさいくせに,都市計画に興味をもっていなさそうなのが,学生時代から20年この方不思議でしょうがないんですよ.で,個々の建築もさることながら,都市計画の中の公共図書館,という感じで,その街のどこに公共図書館を配置するか,とか天守閣のように公共図書館がランドマークになりえるのか,とかそーゆうことまで考えてしまうわけでして.あれやこれやで「コミュニティ」,と言われると中世ヨーロッパの「広場」までをも考慮に入れたくなっちゃうんですよ.机上の空論ではない,人間の営みを考えるわけですからね(^^;).歴史的視野,社会的視野というものを併せ持たなければならないのは,言うまでもないことだろうと思うわけです.

 まあ,単に僕が「節操が無い」あるいは「際限が無い」(^^;)だけなのかもしれませんが,図書館情報学は「社会科学」だと考えてることもありますので,経済学とか建築とか都市計画とか,やっぱり考慮に入れておかないと(『市民の図書館』のように)後々世を誤ることになるんじゃないかと考えておりますよ.公共図書館を公共図書館単独で考えていれば済むほど,牧歌的な時代はとっくに終わっているでしょう,とね.近代人なら「社会の中の公共図書館」「組織の中の公共図書館」ということを考えずにあれこれ叫べるほど,ナイーヴでいられるはずも無いと思うのですが,どうもオルテガ・イ・ガセット言うところの「野蛮人」だったか「原始人」だったか,公共図書館という概念を付与の前提と考えている関係者が多すぎやしないですかね.「公共図書館」って,それほど自明のものじゃないと思うんですけどねえ?


 時に実のところ,個人的に「建築」は大好きで,寺社仏閣でも城郭でも近代建築(専門でも何でもないのに『バウハウス叢書』個人で全巻買ってしまった奴です)でも何でも喜んでみますけど,ついでに鉄道好きで歴史も好きとくると,例えば「城下町」の形成とか「鉄道忌避伝説」などということにも興味津々なわけでして(^^;),近代日本についてですと,越沢明や初田亨の本はついつい買っちゃいますし,井上章一の仕事は大好きですし.「近代」を考えるときに「建築」や「都市計画」は避けて通るわけにはいかない主題なんだろう,と考えてます.

 ヨッパライのたわごとでしたm(_ _)m

2008/04/20

マーラー/交響曲第7番

マーラー/交響曲第7番ホ短調@キリル・コンドラシン/レニングラード・フィル(メロディア/BMG:BVCX-37012/37015)

 1975年の録音.
 コンドラシン(1912-1981)は1960年から1976年までモスクワ・フィルの音楽監督を務めており(あのショスタコーヴィチ全集は全曲がモスクワ・フィルとの録音),かのムラヴィンスキーが常任指揮者を務めていたレニングラード・フィルの指揮台に上がるのは,どの程度機会があったものやら,よくわからない.何処で読んだか忘れたがソ連時代には,モスクワとレニングラードの間には日本で言うところの東京と大阪のような対抗意識が存在しているとも囁かれていたというから,恐らくそうたびたびコンドラシンがレニングラードを振る機会は無かったのではないかと思われる.

 が,しかし,この録音でコンドラシンはレニングラード・フィルを自在に,鮮やかに乗りこなしてみせる.マーラーについては,両大戦間にソ連でも演奏されたことがあるようだが,必ずしもマーラーのような世紀末風味に富む作曲家に理解があったとは思われない状況下で,1961年のモスクワ・フィルとの来日時には交響曲第9番の日本初演を敢行したコンドラシンの劇的な解釈にブレは無い.レニングラード・フィルもその解釈を十全に表現して聴かせている.澄んだ絃の音が実に美しい.

Project Shizuku様宛,一筆啓上仕ります

 と言うわけで,【Project Shizuku ~次世代図書館情報システム~】に関する

利用者のつながりを創り出すコミュニティ指向型図書館システム
http://hdl.handle.net/2241/98548

を拝見しました.既にkatz3さん,argさんから適切な批評がなされているので,今更僕が何かを付け加えることは無いような気もしますが,kunimiyaさんにはSBMを応用したパスファインダーの件で大変応援していただいたので,そのご恩を幾許かでもお返ししたいな,と思って一筆啓上することにいたします.もっとも,何を書こうか考えていて,風呂場の出入り口の桟に頭をぶつけてしまったのはナイショです(^^;).

 一読してピンと来たのは「あ,こりゃ新しいタイプのmemexだ」(エラそうに原典にリンクしてますが,僕が読んだのはもちろん『情報学基本論文集』Ⅰ[勁草書房]に載っている翻訳です).memexは知識と知識をつなぐ装置もしくは概念ですが,Shizukuは知識と「経験」をつなぐ役割を担おうとしているな,と.僕は根っからの文系人間なので,取り敢えずShizukuという装置については,そのように理解しました.そして,知識と経験のつながりに人間が絡んで「コミュニティ」が成立し,そこでの「コミュニケーション」から「知識創出」(というのは僕が以前取り上げたシュンペーターの「イノヴェーション」と同義,でいいのでしょうか?)というものが編み出されてくると言うことですね.

 一言で評すれば「素敵だ!」

 で,先考が既に指摘しているように,やはり僕も「コミュニティ」という言葉で示されている内容が,どの程度の「拡がり」を想定しているのか,によって「コミュニケーション」の想定される質が変わってくると思うのですよ.このことについては,僕には僕なりの考え方があるのですが,それを開陳するのは控えておきます.いや,別にケチっているわけじゃなくて(^^;),書き始めると「公共性」論から「都市計画」までを射程に入れた大掛かりなものになりかねず,準備に時間がかかる上に,話がShizukuから大きく逸れてしまうと思いまして.

 取り敢えず現状での「コミュニティ」に関する具体論ということで,専門家による狭いコミュニティを想定しているのであれば『専門知と公共性』(藤垣裕子著,東京大学出版会,2003年5月初版)あたり,必ずしも専門家のみを想定していないのであれば『地域の力』(大江正章著,岩波書店,2008年2月)あたりが参考になるかもしれません.

 いずれにしても,豊かな可能性を感じる取り組みですね.何と頼もしいことであるか,というところで,先々の進展が楽しみです.

2008/04/19

ブルックナー/交響曲第5番

ブルックナー/交響曲第5番変ホ長調@ヤッシャ・ホーレンシュタイン/BBC交響楽団(BBCレジェンド:BBCL-4033 2)

 1971年9月15日,ロイヤル・アルバート・ホールでのライヴ録音.
 オケのせいか,休符を切り詰め気味に振るためか,多少腰が軽めのブルックナーだが,ホーレンシュタイン(1898-1973)晩年の姿をよく伝える録音であろう.この指揮者の演奏は,ここぞと見得を切るのではなく,なめらかにテンポを動かしながら流れるような音楽を作り,そこで大きなスケールと高揚感を感じさせるという戦略をとるが,この演奏でもその様式が功を奏している.流れるような演奏でありながら,ブルックナーの大伽藍の構築性をもよく表現しているのが,さすがに19世紀生まれの巨匠の腕である.

2008/04/18

J.S.バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ

J.S.バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1001-1006@ルドルフ・ゲーラー(アルテ・ノヴァ:74321 67501 2)

 1997年7月の録音.
 普段聴いているこの作品と何処と無く異なってこの演奏が聴こえるのは,オルガニストで古楽復興の初期の担い手のひとりでもあったアルベルト・シュヴァイツァー(もちろん,あの「密林の聖者」シュヴァイツァーである)が考案した「バッハ弓」を用いた演奏だから.「バッハ弓」とは,この作品に頻出するポリフォニックな4和音を弾きこなすためには,特殊な弓が使われていたに違いないというある種の思い込みから生み出された,ほとんどこの作品のためだけに「復元」されたヴァイオリン用の弓のことである.故にこの録音では,4和音の箇所で通常使用される前打音風のアルペジオはまったく聴こえてこないため,常の演奏とはいささか様相を異にする演奏がここでは聴ける,というわけである.

 生憎「バッハ弓」はバッハ時代の音楽に対する研究の進展とともに,その時代における存在が全く否定されてしまったが,何故か今度は現代の作曲家が「バッハ弓」に目を付けて,この弓を用いた作品を書いているというのだから,世の中何処に幸運がころがっているかわからない(^^;).

2008/04/17

ベートーヴェン/交響曲第6番

ベートーヴェン/交響曲第6番ヘ長調「田園」作品68@フランツ・シャルク/ヴィーン・フィル(HMV/プライザー:90111)

 1928年4月4日と11日の録音.
 フランツ・シャルク(1863-1931)は兄のヨーゼフ(1857-1911),フェルディナント・レーヴェ(1865-1925)と並んでブルックナーの「改訂版」を作った,悪名高き「3使徒」のひとり.指揮者としてはヴィーン宮廷歌劇場の総監督を務めるなど各地で活躍し令名も高かったが,フェリックス・ヴァインガルトナーともどもマーラーからは酷評されている.

 ここに聴かれるシャルクの演奏は,モダーンでスタイリッシュの権化(^^;).と言っても決して気取っているわけではなく,押し付けがましさの微塵も無い.あまりアンサンブルには注意を払っていないので,ぶっきらぼうにも聴こえる,速めのテンポでサッと一筆書きのような指揮でありながら,随所に細やかなニュアンスを散りばめている,その様式が実に洗練されているのである.実にベートーヴェンが仙人のように感じられさえする,と言ったら言い過ぎか.

2008/04/16

ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲

ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61@フリッツ・クライスラー&レオ・ブレッヒ/ベルリン国立歌劇場管絃楽団(HMV/ナクソス・ヒストリカル:8.110909)

 1926年12月14日から16日の録音.電気録音の最初期にあたる.
 最近,「永年勤続のお祝いに何か」とたずねられて「ヴィオッティとかヴュータンとかシュポーアとかのヴァイオリン協奏曲全集が欲しいかなあ」と答えたら,誰にもわかってもらえませんでした(^^;).ピエール・ロードでもいいんですけど(^^;).出来れば,アルテュール・グリュミオーのような美音こぼれるヴァイオリンで,そーゆう難しいことを考えなくてもよさそうな音楽を聴きながら,(あと何年あるか,わからないけど)人生の残りを過ごしたいんですよね.

 それはさておき,この録音は1927年のベートーヴェン没後100年の記念事業として録音されたものだったかと記憶している.記念すべき年に際して,ヴァイオリニストは誰をさておき,クライスラー(1875-1962)だったわけで,当時のクライスラーの令名の高さがうかがえる.趣き豊かな,気品のある音で一音一音かみしめるように奏でられるヴァイオリンの歌は,現在では誰もやりそうにない行き方(恐らく流行らない)であり,失われた両大戦間(ヴァイマール共和国),というより第一次大戦前の雰囲気を伝えるものだろうか.
 オケは録音のためもあって,すっかりかすんでいる(^^;).編成もあまり大きくはなさそう.すべてがクライスラーを中心に組み立てられている感じである.

2008/04/15

早速RSS登録しました

りぽじとりの中の人々: RSSはじめました。

 ご一報ありがとうございますm(_ _)m 早速,勤務先のサイトにRSSを登録し,受信できるようにしました.
 これで勤務先のサイトは44のリンク先からRSSを拾ってくることになりました.こう増えてくると,産経,朝日はもとより,フィガロやらビルトやらフランクフルター・アルゲマイネやフィナンシャル・タイムズまでをも,勤務先のサイトでRSSを拾うのは控えたほうがいいかもしれないですね.何が何だかわからなくなりそう(^^;).目的を絞って整理するか,表示を切り分けるか,ちょっと考えてみますか.

 ・・・・・・がまじゃんぱー先生のスターバックス・タンブラーが欲しい今日この頃です(^^;).

ブルックナー/交響曲第3番

ブルックナー/交響曲第3番ニ短調@オイゲン・ヨッフム/シュターツカペレ・ドレスデン(EMI:5 73905 2)

 1977年1月の録音.ノヴァーク第3稿(1888-1889年版)による.
 ブルックナーの交響曲では,最も箴言風で哲学的な色合いを帯びている作品と見ていいと思うが,それ故に理解が難しい音楽である.僕個人も,ブルックナーなら第1番,第5番や第7番の方が3番よりも好みだったりする.

 ブルックナーの交響曲中,異稿の多いことでも知られるのは,この作品が何か難しいことを語っているように聴こえるために,周囲が理解しようにも理解できなかったからではないかしらん(^^;).それでなくとも,ブルックナーの交響曲は当時のプロフェッショナルの耳をも超えた次元で作曲されていたと思われるし,ブルックナーというひとがまた,この作品のような哲学的箴言から程遠い(失礼)雰囲気を醸し出す人間だったらしいことが,その理解し難さに拍車をかけていたと思われる.

 ヨッフムの指揮は,とにかくブルックナーを生地のまま聴き手に聴かせ届けようという,ある意味禁欲的なもの.録音のためか,オケのためか,割に派手目に聴こえるが,この程度にはガンガン鳴らしてもらった方がブルックナーらしいのかもしれない.

2008/04/14

マーラー/交響曲第4番

マーラー/交響曲第4番イ長調@ロリン・マゼール/ヴィーン・フィル(ソニークラシカル:SX14X 87874)

 1984年の録音?
 何しろマゼールのマーラー演奏のコンセプトは「健康な作曲家マーラー」ですから,いわゆる世紀末風の退廃美などクスリにもしたくないはず.でも,どういうわけだか何処か壊れたような印象を聴く者に与えるんだな,この録音は(^^;).幻想とか怪奇とか,と言うよりも「病んでいる」という感じ.バランスが非常に悪い.マゼールは「楽譜を忠実に再現しただけ」とか嘯くんだろうか.何だか,不思議な演奏ではある.マゼールのマーラーでは,随一に面白いかもしれない(^^;).

2008/04/13

ゲルンスハイム/交響曲第1番

ゲルンスハイム/交響曲第1番ト短調作品32@ジークフリート・ケーラー/ラインラント・プファルツ国立フィル(アルテ・ノヴァ:74321 63635 2)

 1997年6月2日-6日の録音.
 フリードリヒ・ゲルンスハイム(1839-1916)はラインラントのヴォルムス出身の作曲家,指揮者,教育者であり,ブラームスの友人でもあったそうで.
 この録音は世界初録音だが,正直なところバラキレフの1番よりも冗長でつまらない(^^;).部屋のオーディオで鳴らしていても,全く気にならないどころか,ハッと思う魅力的な瞬間さえないというのは,さてどうしたものか.CDには「ブラームスの陰に隠れてしまった作曲家」云々とあるけど,これでは埋もれても仕方が無いような気がする.
 この調子であと3曲,続くのか(^^;)?

ブラームス/ヴァイオリン協奏曲

ブラームス/ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77@ギドン・クレーメル&レナード・バーンスタイン/ヴィーン・フィル(DG:F00G 27056)

 1982年9月の録音.
 クレーメルには2度目の録音(最初の録音はカラヤンとだった)になる.ここでは第1楽章のカデンツァにマックス・レーガーの「前奏曲」ニ短調作品117の6という,ほとんどこの協奏曲とは縁も所縁も無さそうな作品をはめ込むという,クレーメルらしい凝ったことをやってのけている.録音当時は物議をかもしたが,僕には当時も今もそれほど違和感も無く(^^;),この演奏を聴き続けていますよ.
 終楽章は,いつも冷静沈着に見えるクレーメルが珍しく,バーンスタインともども前のめり気味に怒涛の突進を聴かせてくれるのもウレシイ.

2008/04/12

バラキレフ/交響曲第1番

バラキレフ/交響曲第1番ハ長調@エフゲニ・スヴェトラーノフ/フィルハーモニア管絃楽団(ハイペリオン:CDA66493)

 1991年3月15,16日の録音.
 バラキレフ(1837-1910)はご存知ロシア5人組の総帥的立場にあった作曲家だが,他人にはやたらと作曲を勧めた(リムスキー・コルサコフにはいきなり交響曲を作曲させたり,チャイコフスキーには「マンフレッド」を素材に作曲させたり)わりには,元々アマチュア作曲家として出発したことや,一時期音楽をやめていたこともあって当人の作品はそれほど多くも無く,また人口に膾炙している作品もあまり無い.

 この交響曲第1番は1864年に作曲が始められたものの,30年余り作曲が中断されてしまい,結局完成は1897年になる.何と後輩のチャイコフスキーの交響曲作品の作曲年代(1866年から1893年まで)がその間にすっぽり挟まってしまう(^^;)(おまけにバラキレフの作品が完成したとき,チャイコフスキーは既にこの世の人ではなかった!).何ともノンビリした話だが,作曲期間の長さに相応しく(?)この作品は演奏時間が45分ほどのはずなのに,聴いていると何時終わるとも知れぬ,実態以上の長さを感じさせる.聴きとおすのに,多少の忍耐を必要とするひとがいるかもしれない.

 ここでのスヴェトラーノフの指揮は,力任せになることを抑えた,堅実かつ献身的なもの.ロシアで学んでいない旧・西側出身の指揮者には,まだまだこのようにバラキレフを振るのは難しいかも,と思わせるに足る演奏である.

2008/04/11

リヒャルト・シュトラウス/管楽合奏のための組曲

リヒャルト・シュトラウス/管楽合奏のための組曲変ロ長調作品4(作曲者によるピアノ連弾版)@ベニョーニャ・ウリアルテ&カール=ヘルマン・ムロンゴヴィウス(アーツ:47262-2)

 1985年12月の録音.
 1884年に作曲された「管楽合奏のための組曲」を,作曲者自身がピアノ連弾に編曲したもの.CDの解説をちゃんと読めば編曲にまつわるいろいろな事情もわかるのだろうが,生憎読んでる暇が無い(^^;).いわゆる「ウィンド・アンサンブル」っぽい編成のための作品をリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)は初期から晩年に至るまで幾つか作曲していて,中には「ソナチネ第2番」のような40分を超える大作もある.それらの作品がポピュラーではないのは,一連の交響詩のように派手な体裁をとらないからなのか,はたまたアマチュアの手に負えないほど難しいのか.昨今,中学の吹奏楽部でもヒンデミットを採り上げることもあるから,やはり作品に少々魅力が不足しているのかしらん?

 その,あまり演奏されない組曲の,さらに珍しいと思われるピアノ連弾版は,思ったよりも面白い聴き物なのであった(^^;).作品の骨格がしっかりしているので,骨組みだけのピアノ連弾でも充分聴ける音楽になっているというわけ.アルフレッド・カゼッラが編曲したマーラーの交響曲第7番の連弾版がつまらないことおびただしいことを考えると,さすがにシュトラウスは職人芸を身に着けていた,ということか.

2008/04/10

ストラヴィンスキー/春の祭典

ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」@ピエール・モントゥ/パリ音楽院管絃楽団(デッカ:440 064-2)

 1956年の録音.
 1913年5月29日,バレエ・リュスの公演で初演されたときに指揮をしたのが,他でもないこの録音を振っているピエール・モントゥ(1875-1964).「春の祭典」の初演は大スキャンダルとなり,演奏中から大混乱を来たしていたが,作曲家の回想に拠ればモントゥひとり落ち着きはらって自らの職務を遂行していたとか(^^;).

 ストラヴィンスキーは自らの指揮技術の不足に加えて,当時の著作権の関係もあってか,年がら年中「改訂」と称して「ペトルーシュカ」や「春の祭典」の楽譜を弄繰り回していたが(特にUSAに亡命してからの「改訂」には,著作権絡みの生臭い噂話もあるようで),モントゥは「これが私の『春の祭典』だ」と,頑として初演で振った版以外の「春の祭典」は振らなかったらしい.ここに聴く「春の祭典」が他の指揮者の演奏と幾分違う音が響くのは,こちらがオリジナルなのであろう.

 良くも悪くも,明快な棒で古きよき時代の雰囲気を伝える演奏.これを「古色蒼然」と受け止める聴き手がいても,僕にはちょっと非難できそうに無い(^^;).この作品の指揮法を発見したと伝えられるマルケヴィチ以降の,リズムの切れ味で勝負する「精密機械」のような「春の祭典」ではないからね.
 それでも,この録音の価値と魅力は色褪せることは無いと,僕は思ってますよ.

2008/04/09

マーラー/交響曲第6番

マーラー/交響曲第6番イ短調@マリス・ヤンソンス/ロンドン交響楽団(LSO:LSO0038)

 2002年11月の録音.
 ちょっと煮詰まり気味なときは,やっぱりマーラーに限る.第6番はカラヤン盤以来,30年近い付き合いで,今もなお「これだ!」という決定盤を決めることが出来ない名曲.
 このヤンソンス盤は,何となく,どことなく,オケが非力に聴こえるのが難.厚みが足りない.ロンドン交響楽団なのに,何故だろう?

それはダブスタです,委員長!

京都新聞 - 児童書全点購入は継続 滋賀県立図書館、開始20年で20万冊に

 滋賀県立図書館が1988年から児童書の「全点収集」を実施していたことを,不勉強なもので,この記事を読むまで全く知りませんでした(^^;).1988年は僕が就職した年で,まだ何処の団体にも加入していなかったからなのか,勤務先で購入している「図書館雑誌」を読んでいる暇も無いほど仕事で覚えることが多かったのか,当時のことはよく覚えていませんが,とにかく僕としたことが張り巡らしていたはずのアンテナに穴があったのは大変残念です.だから2006年6月に大和市立図書館の「児童書すべてそろえます」が話題になったとき,日図研や図問研が批判しなかったんですね.前川恒雄の息のかかっている滋賀県立図書館の真似事を,彼らが批判できるはずが無いのでした.やれやれ(sigh).

 まったく,滋賀県立図書館の「全点収集」のことを知っていたら,大和市立図書館のこともさることながら,1991年に「みんなの図書館」170号に掲載された伊藤昭治「浦安市立図書館の特定中小出版社の徹底収集についての疑問」について,あのとき,もう少しまともな攻撃が出来たものを,こちらの戦術ミスであたら機会を潰してしまったこと(某誌に提出した原稿が1年店晒しにあった挙句に掲載されずに終わった)が悔やまれます.1991年当時でも,僕の周囲で滋賀県立図書館の「全点収集」について語られていた記憶は無いのですが,「全点収集」という言葉を図問研や日図研関係者が使用していたこと(浦安市立図書館についても「全点収集」と言い換えていた)を疑問に思った時点で,その元ネタを探すべきでした.あー情けない!

 僕の考えるところ,「児童書」の全点収集が可で,「特定中小出版社の徹底収集」が不可とされるのは,現在はおろか,1988年なり1991年なりの時点で考えても,「ダブルスタンダード」の謗りは免れ得ないですね.京都新聞の記事で滋賀県立図書館は


「児童書は絶版になる周期が短く、その時代に出版される本を責任を持って収集し、保存していきたい」
とコメントしていますが,「絶版になる周期が短く」なっているのは人文・社会科学でも同じことですよ.何しろ昨年(2007年)リクエスト復刊された岩波文庫のヒューム『人性論』の第1巻が昨年中に品切れになり,現在では入手できない有様ですからね.

 僕の記憶に錯誤が無ければ,1990年ごろには既に人文・社会系の書籍も出版すら困難であることが囁かれ始めていた覚えがあり,助成金が無ければ出版できない専門書の状況が語られ始めていたはずです.現在では,例えば1000部を印刷し長期間をかけて販売し利潤を回収する,といった態の専門書出版の販売モデルは一部の出版社を除いて機能していないんじゃないでしょうか.社会科学系のある出版社が,やたらと大学の名前を冠したシリーズ物を出すのは,そのモデルの代替として大学からの助成金で出版を続けている実態を反映していると思うのですが,このあたりを図書館業界はどう考えているのでしょうね.


 ・・・・・・しかし,17年も遠回りさせられたのが,身から出た錆とはいえ,ただただ,ただただ悔しいです.これがために,反知性主義者や学級会民主主義者から嘲られ,あなどられることになったのですから・・・・・・.

2008/04/08

スクリャービン/ピアノ協奏曲

スクリャービン/ピアノ協奏曲嬰へ短調作品20@アナトール・ウゴルスキ&ピエール・ブーレーズ/シカゴ交響楽団(DG:POCG-10164)

 1996年12月の録音.
 スクリャービン(1872-1915)唯一の「ピアノ協奏曲」と銘打たれた作品である.1896年ごろから作曲された,スクリャービンの初期にあたる時期の作品で,短い序奏からピアノが神秘的に登場するあたりは如何にもロシアのピアノ協奏曲の伝統をくんでいるように聴こえる.後期の狂おしげなまでに官能的な動機やオーケストレーションは,まだここでは顔を出していない(^^;).むしろショパン風の雰囲気を漂わせるような旋律さえ聴くことが出来る.ピアノが前面に出すぎてオケが霞みがちではあるが,ラフマニノフとは多少路線は異なるものの,なかなか絢爛豪華な音楽である.

 さすがにピアノが前面に押し出される音楽だけに,ウゴルスキのピアノが情感たっぷり(と言っても昔のヒトのようなズブズブの情感ではなく,もう少しさらっとした感じではある)にスクリャービンを歌い上げると,それに引っ張られるように,ブーレーズがマーラーの録音とは別人のような(^^;)情感溢れる(あくまでブーレーズにしては,という枠内にとどまるけど)指揮を展開している.

2008/04/07

ラヴェル/ボレロ

ラヴェル/バレエ音楽「ボレロ」@ヘルマン・シェルヘン/ヴィーン国立歌劇場管絃楽団(ウェストミンスター:MVCW-18037)

 1957年5月の録音.
 えーと(^^;),恐ろしく下手なオケによる,かなりとんでもない「ボレロ」である.まるでタンブーランかトムトムのような音を立てるドラム(どう考えてもスネアは付いていない)は何と途中で止まってしまうし,ひとつのクレッシェンドしかないはずなのに,うねるようにクレッシェンド-デクレッシェンドが繰り返されるし,ソロの管楽器は時折実に情けない音を出すし.挙句にアンサンブルが崩壊しかけて縦の線が不揃いになるし,いったいシェルヘンは何を考えてこれを録音したんだか,どうにも理解しにくい不思議な録音にしか聴こえない.音楽を崩壊させることによって「スイスの時計職人」の鼻をあかせるとでも思っていたわけでもあるまいし(^^;).故・大木正興が聴いたら激怒するか罵詈雑言を投げつけるか,一言で切って捨てるかのどちらかであろう.

 僕は,そこかしこでクスクス笑いながら,シェルヘンのユルい演奏を楽しんでますけどね(^^;).

2008/04/06

チャイコフスキー/交響曲第6番

チャイコフスキー/交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」@ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィル(DG:419 486-2)

 1976年5月5日,7日の録音.
 【ザルツブルクで記念式典 カラヤン生誕100年で - MSN産経ニュース】何でも4月5日がヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)の誕生日だったそうで,こちらも一日遅れで取り上げてみる.

 歌劇は聴かないのでよくわからないけど,常々,カラヤンの残した録音であとあとまで価値があるのは,オケに関する限り1にリヒャルト・シュトラウス,2にチャイコフスキー,3に新ヴィーン楽派のそれだろう.そこで今日はチャイコフスキーの中でも,7回もスタジオ録音を繰り返した「悲愴」を.とはいえ,7つの「悲愴」を全部聴いたわけでもないのだが(^^;),6度目の録音に当たる,この1976年盤を聴いておけば充分なんじゃないかと思う.それほど,この演奏はどこから見ても聴いても「完璧」という言葉に相応しい,キャリアの頂点にいたカラヤンによる録音である.音楽の内面を厳しく拒絶し,徹底的に音楽の外側を磨き上げることによる名演奏であり,この録音に欠けているのは「破調の美」という名の人情だけだろう.

2008/04/05

シューベルト/交響曲ホ長調

シューベルト/交響曲ホ長調D.729(フェリックス・ヴァインガルトナーによる補作版)@ハインツ・レーグナー/ベルリン放送交響楽団(東ベルリン)(ベルリン・クラシックス:0183762BC)

 1977年3月,4月と10月の録音.
 シューベルトが1821年に,とにもかくにも曲を最後まで書いたのはいいけど,主旋律部のみを残して結局オーケストレーションをせずに放棄した交響曲をヴァインガルトナー(1863-1942)が取り上げてオーケストレーションしたもの.ヴァインガルトナーは「D.759(いわゆる「未完成交響曲」)とD.944を是非録音させて欲しい」とレコード会社に申し込んでいたほどシューベルトに入れ込んでいた指揮者だった(実際には「ロザムンデ」の間奏曲第3番しか録音できなかった).そのためか,このオーケストレーションは音楽学的にはかなり問題のあるモノらしい(第1楽章ではシューベルトが経過句に入れた全休符をすべてカット,終楽章では中間部をばっさりカットしてしまっていること等)が,何故かブライアン・ニューボールトの同じ曲の補作よりも,僕にはシューベルトっぽく聴こえる(^^;).

 このまま埋もれさせてしまうのは惜しい「作品」なので,そのうち,別な指揮者による録音も出るんじゃなかろうかと淡い期待を抱いている(^^;).というのも,以前NHK-FMで聴いたことのあるケネス・モンゴメリーという指揮者の演奏に比べてこの録音は,レーグナーの解釈でオーケストレーションのバランスとテンポがかなり変えられているんじゃないか,という疑いを抱いているもので,それを確認したいという思いもあるのね.でも,シューベルトの交響曲への補筆版は,学問的正当性の点でニューボールト版が優勢だからなあ(sigh).

2008/04/04

アレンスキー/交響曲第1番

アレンスキー/交響曲第1番ロ短調作品4@エフゲニ・スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立交響楽団(ヴォックス・アレグレット:ACD8187)

 録音年不明.1987年,という資料あり.
 アントン・ステパノヴィチ・アレンスキー(1861-1906)はペテルブルク音楽院でリムスキー・コルサコフに師事した作曲家.のちにモスクワ音楽院で教授も務め,スクリャービン,ラフマニノフらを育てている.1895年からはペテルブルク宮廷礼拝堂の楽長に就任したが,早すぎる晩年には私生活が破綻し,酒と賭博に溺れてあたら豊かな才能を潰してしまい,結核を悪化させて亡くなった.

 この作品はアレンスキーがペテルブルク音楽院を卒業した直後の1883年に作曲されている,いわゆる「若書き」の交響曲である.第1楽章の低絃の動機が印象的な短い序奏のあとで抒情と哀愁の甘い香りが馥郁たる音楽が展開する.終楽章など迫力にも欠けてはいないが,やはりどこか甘い.

 ところがスヴェトラーノフの指揮は何時もながらの大柄かつ豪快な棒(^^;)で,第2楽章の抒情も何だか「大男のデリカシー」という雰囲気.作品の実質以上の大交響曲を聴かされている気分になる.いわゆる「西側」の指揮者とオケによる演奏が比較できるといいなあ,と思う.

2008/04/03

シューベルト/ミサ曲変イ長調

シューベルト/ミサ曲変イ長調D.678(第5番)@ヴォルフガング・サヴァリッシュ/バイエルン放送交響楽団(EMI:7243 5 73365 2 9)

 1980年1月の録音.まずサヴァリッシュ(1923-)脂の乗り切った頃の名演奏と言ってよいだろう.

 【訃報:児童文学者の石井桃子さん=101歳 - 毎日jp(毎日新聞)
 【「ノンちゃん雲に乗る」作家・石井桃子さん、101歳で死去 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 偉大な先人がまたひとり亡くなられた.しかし,石井桃子さんの訃報を伝える記事が,どれも『子どもの図書館』(岩波新書)に触れているのが,不思議と言えば不思議な話で,これだけ『子どもの図書館』にみなさん関心があったのなら,もう少し日本の公共図書館をめぐる現状は好転していても良さそうなものなのだが(^^;).『市民の図書館』でもそうなのだろうけど,永遠の未完成であるべき公共図書館活動の,ある時点での戦術の指南書/記録が一人歩きして神格化されてしまったところに,『子どもの図書館』や『市民の図書館』の栄光と悲劇があるのだろう.

 このミサ曲は,何故かシューベルトのミサ曲すべてにおいて典礼文の一部が欠落しているために,実際の典礼では使用できない.そういう意味で,この作品は完成していながら何時までたっても「未完成」なのである.

2008/04/02

ベートーヴェン/交響曲第3番

ベートーヴェン/交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」@ハンス・クナッパーツブッシュ/ベルリン・フィル(プライザー:90976)

 1943年録音.ドイツ・エレクトローラ社原盤.
 第二次大戦中,意気盛んな頃のクナッパーツブッシュ(1888-1965)による「エロイカ」である.ベルリン・フィルも未だ健在で,長めの息でフレーズをとるクナの棒によく合わせている.とはいえ,テンポは晩年ほどひどく遅くは無く,円熟期のクナによるスケールの大きなベートーヴェン解釈が堪能できる.

 しかし,思想的にはナチに近かったとはいえ,ヒトラーに嫌われていたクナが,どうして国策会社のエレクトローラで,しかもフルトヴェングラーのベルリン・フィルを振って録音が可能だったのやら.1943年4月にはヒトラーの誕生日祝いの「第9」をベルリンで振っているから,そのあたりで何かカラクリがあったのかもしれない.

2008/04/01

ファリャ/恋は魔術師

ファリャ/バレエ音楽「恋は魔術師」@マニュエル・ロザンタール/パリ国立オペラ座管絃楽団(アコード:476 1076)

 1957年から1959年の間の録音.
 ロザンタール(1904-2003)はオッフェンバックの音楽から再編集した「パリの喜び」などで知られるが,また第一級の指揮者だった.特にラヴェルはロザンタールの作曲の師匠でもあり友人でもあったことから,その録音には歴史的な価値があると評価されている.
 このファリャも,何とも言えぬ的確な雰囲気と煌く表現に満ちた,退廃の崩落寸前でとどまっている戦間期の空気を見事に再現している.

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