何だか懐かしい風景を見ているようです
【平太郎独白録 親愛なるアッティクスへ : 公立図書館はもっと寄贈に対して体制を整えるべき論】
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はてブのコメントが何だかなあ,という感じで.相変わらずの反「矢祭もったいない図書館」感情については後回しにして,気になるコメントを幾つか.
一瞬,掬すべきご意見だと思ったのですが,よく読むと「郷土史料」が購入すべきものに含まれています.残念ながら,郷土資料の相当部分は灰色文献(gray literature)に近いものでして,一般の出版流通のルートに載らず売買の形での入手が難しいものなのですよ.僕も仕事で,ある方から寄贈された郷土資料を図書館の目録に載せたことがありますが,地域の篤志家や郷土史家により作成・配布された自費出版物や,発行元の如何を問わず「非売品」となっている資料の実に多かったこと.それこそ見開き4ページのパンフレットまで目録作った記憶がありますが,そのほとんどが勤務先に当時所蔵の無い資料ばかりでしたね.
それじゃぁ、本当に必要な本は集まらない。全集や百科事典ぐらいならいざ知らず、新聞縮刷版、高価な美術書、専門的な事典、その外論文集、白書や郷土史料。図書館は無料貸し本屋ではない。
そんな経験をした身からすると,郷土資料を購入で揃えろなどというのは,それこそ机上の空論です.図書館員が自らの目と足で稼ぐ(現地まで出向いて収集する)のが一番ですが,それでも見落としていたものは寄贈されてくるのを待つかしかないのが,上記で示した郷土資料の性格上,止むを得ない収集策でしょう.
公共図書館における「選書」って基本的に権力の行使なんですよね.これは業界でも意外に見過ごされている(と言うより,プロ公共図書館員は自らの立場が公務員であるにもかかわらず,自分たちを「公的権力の敵」だと看做しているので,自分たちが権力を行使しているとはゆめゆめ考えていない)ことなんですけど,だから公共図書館による「狙い通りの選書」がパターナリズムに陥らない保障は,現状では何処にも無いのです.これとほとんど同じ理由で「選書ツアー」が批判されたことを考え併せると,むしろ【平太郎独白録】の中の人の発想に,公共図書館に対する反パターナリズムの萌芽を見るのですよ,僕は.橋下徹大阪府知事は「図書館は知のセーフティネット」と言ったらしいですが(参考:葦岸堂之日々是日々: 「図書館は知のセーフティネット」と橋下知事は言っているが),権力の行使とも思わずに「選書」を惰性で行っている公共図書館の「選書」が,「知のセーフティネット」とまで持ち上げられる公共施設のすることかどうか,実際に内情を確認してみたほうがいいと思います.【本読みの記録:図書館のラインナップについて物申す】実際に,このような報告を上げている方もいらっしゃいますし.
寄贈を呼びかけても狙い通りの選書が実現するとは到底考えられないところに想像が至らない限界。
ついでに言えば現状では,結構な数の公共図書館の選書が,某社による納品システムを中心にしているんじゃないでしょうか?
ところで,ここでも繰り返されている「矢祭」叩きなんですけど,図書館業界で矢祭もったいない図書館を非難している業界人のどれだけが,実際に矢祭に出向いて「矢祭町」を実際に確認したり,「矢祭町」という自治体が置かれている地政学上の位置を弁えたりして発言しているのやら.正直なところ,図書館業界における「出る杭」を打っているだけだろう(^^;),という感触しか持てない事例が目につくんですよねえ.言い方を変えれば,10数年前にあった浦安市立図書館叩きのときにも感じた,前川恒雄を頂点とする伊藤昭治,塩見昇らの思考/志向から少しでもハミ出すモノは叩くという,ある種の個人崇拝の趣きを観るわけです.
視野狭窄に陥った図書館原理主義に立ち,公共図書館の業界の内側にある枠のみで判断し,そこに起きている「寄贈による蔵書構築」という現象だけを非難しても何も解決しないですよ.公共図書館は「世界でもっともエライ建物」じゃないんですから.
とにかく首都圏在住のヒトは,休日を利用して常磐線に飛び乗り,水戸で水郡線に乗り換えて矢祭町まで行ってごらんなさい.そこがどんなところなのか,実感してきてください.首都圏なら安楽椅子探偵が考えても通用する理論が,あの過疎の町でも通用するのかどうか見てみることをおススメします.「国土の均衡ある発展」などという,『市民の図書館』を支持する方々の根底にある1970年代の発想が,如何に崩壊しているかを目の当たりにすることが出来るんじゃないかと.
つまり,矢祭における「書籍の寄贈」とは,その実態は「所得の再配分」の,「ふるさと納税」とやらよりも現実的かつ簡便な実現だったのですよ.
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コメント
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このエントリーの表題ですが,10年ほど前までの7~8年,「選書論」を研究対象にしていたことがありました.あまりにも頑迷固陋な貸出至上主義者を相手にするのに疲れて降りちゃったんですよね.所詮,こちらは蟷螂の斧みたいなものでしたし(あの頃はもちろん,今でも「蟷螂の斧」は基本的には変わりませんねえ).
で,昨今,矢祭に関する議論を重ねていたら,ふとその頃に見た風景が,眼の前に甦ってきたのでした.
それともうひとつ.僕の身内は矢祭から峠を二つくらい越えた隣の県の村の出身で,矢祭だの大子だのというあたりは僕にとっては懐かしい風景なんです.土地の雰囲気が何となくわかるんですよ.最近は,墓参に年1回程度,親の実家に出向くようになりましたし.だから,余計に都市在住者が土地の実態をろくろく確認もせずに,理想論で矢祭を非難するのが許せないのです.
囲炉裏で焼いた「芋串」食べたことも無い奴に,あの地方の何がわかるっての?
投稿: G.C.W. | 2008/02/16 23:29