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2007年11月18日 - 2007年11月24日の記事

2007/11/24

ドヴォルジャーク/交響曲第9番

ドヴォルジャーク/交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」@レオポルド・ストコフスキー/フィラデルフィア管絃楽団(ビダルフ:BID83072)

 1925年5月,10月,12月の録音.
 恐らく,世界で最初に録音された電気録音(マイクロフォン)の「新世界より」である(USAヴィクター原盤).よく聴いてみるとティンパニが無い(^^;).ティンパニのパートがコントラバスとテューバ(?)で代用されているのである.聴いていて,途中で噴出しそうになる.終楽章のシンバルは入っている.
 演奏は,さすがに10年後に録音された名盤(RCA)のような光彩陸離たる感には乏しいものの,情けない音とは言え最初期の電気録音にしては楽器の動きが明瞭に聴こえる程度にはよく録れているし,何しろ澱みの無いテンポで音楽が運ばれていくのはさすがである.余韻に乏しいのは,残響皆無の録音にも責任の一端があろう.

2007/11/23

ドヴォルジャーク/交響曲第9番

ドヴォルジャーク/交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」@フェレンツ・フリッチャイ/RIAS交響楽団(DG:UCCG-3432)

 1953年9月の録音.
 フリッチャイには1959年10月にベルリン・フィルと録音したステレオ盤(DG)があり,患った後再起した,晩年の解釈で粘りに粘った名演を聴かせているそちらの方が一般的だと思う.こちらは患う以前の「リトル・トスカニーニ」時代の演奏で,エーリヒ・クライバーの「新世界」のような表現主義風に,極端から極端に振れるテンポ設定が時々聴かれるが,基本的には前へ前へと進む爽快な解釈である.オケがよく,このテンポ設定に一糸乱れず(とまではいかないが)ついていっているものだと感心する.
 だからこのCDのジャケットにあしらわれている写真が晩年の「フルトヴェングラーそっくり」と言われた時期のものであることに,多少違和感が無いでもない.

ストラヴィンスキー/春の祭典

ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」@イゴール・マルケヴィチ/フィルハーモニア管絃楽団(テスタメント:SBT1076)

 ご存知,1951年11月の録音と1959年1月・2月のEMI録音を1枚に収めたマニア向け(^^;)CD.
 マルケヴィチは,世界で最初に「春の祭典」の合理的な指揮法を発明(発見?)した指揮者で,「Monsieur Sacre du Printemps(「春の祭典」氏)」の異名をとるほどこの曲を得意にしていた.日本でも,最初に来日したとき(1960年)には日本フィル(分裂前)で「春の祭典」を振ったことが文化面のニュースになったほど.しかし,どこに客演しても「春の祭典」ばかり振らされることに当人はウンザリしていたらしい(^^;).

 【訃報:モーリス・ベジャールさん80歳=振付家 - 毎日jp(毎日新聞)】その「春の祭典」の振付で一躍世界的にその名を売ったのが,昨晩死去を伝えられたモーリス・ベジャール.ベジャールの振付けた「春の祭典」は,確かコリン・デイヴィスの録音した「春の祭典」のLP盤ジャケットを飾っていたと記憶する.ベジャールと言われると,僕は20世紀バレエ団→ジョルジュ・ドン→ボレロ,とすぐ連想してしまうので,今回はそこから離れて,鹿の交尾にヒントを得,バーバリスティックな原始の力を表現したという「春の祭典」を聴くことを以って追悼に替える.

新しいblogを立ち上げました

 このblogが毀誉褒貶かまびすしいのと,内容がごった煮状態に陥って当人も整理が付かない状態になりかかっていることを勘案して,まずは災害時の図書館関連情報を載せるblogを切り分け,新しく立ち上げました.

欲訥於言而敏於行
http://jurosodoh.cocolog-nifty.com/lib_disasters/

災害関連のサイドバーも↑こちらに移設しましたので,以後よろしくお願いします.

2007/11/22

ドヴォルジャーク/交響曲第9番

ドヴォルジャーク/交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」@コリン・デイヴィス/アムステルダム・コンセルトヘボウ管絃楽団(フィリップス:PHCP-9059/9060)

 1977年11月の録音.
 ある事情から,ウチにある「新世界より」を片っ端から聴く羽目になってしまい,これも勉強と諦める(^^;).この段になって初めて,我が家にある「新世界」の録音を数えたら17種もある(*_*).同じドヴォルジャークの8番は好きだからそれくらいあっても不思議じゃないが(ちなみにシューベルトのD.944とベートーヴェンの「第9」は30種を超えている),「新世界」がそれほどあるとは,当人でさえ驚いた.そんなに買った記憶が無い(^^;).

 それはさておき,コリン・デイヴィスの「新世界」.デイヴィスらしい中庸の美学で一貫している好演で,特にある要素を強調しているわけではないのだが,全体としてはすこぶる充実した演奏を聴かせる.第1楽章の提示部を繰り返しているのが珍しい.あまり録音でも聴かれないので資料的な価値もあると思う.

2007/11/21

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@ゲルハルト・ザミュエル/シンシナティ・フィル(センタウアー:CRC2107)

 1991年1月の録音.
 一時期話題をさらった,マーラーがオーケストレーションに手を入れた「第9」の録音である.確かにあちこち,かなりマーラーがオーケストレーションを書き換えていて,こりゃ保守的なオケと客が怒るのも無理は無い.あるべきティンパニが脱落していたり,盛り上げるための坂道が外されていたり,そのくせクライマックスでは金管がヒロイックに補強されていたり,派手にティンパニを叩かせたり,「やりたい放題」に聴こえたのだろうな.
 というか,これは明らかに「逸脱」(^^;).特に第1楽章で顕著な,リズムセクションの軽視はさすがに如何なものかと素人の僕でも思う.第2楽章ではスケルツォの繰り返し冒頭でとんでもないカットもあるし.

 ところでこの録音,ソプラノ・ソロに「Rie Hagiwara」という日本由来らしい名前があるのね.今まで気がつかなかった.

2007/11/20

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@ペーター・マーク/パドヴァ・エ・デル・ヴェネト管絃楽団(アーツ:47248-2)

 1994年12月20日のライヴ録音.
 クレンペラーによる超弩級の「第9」を聴いた後で,マークのような演奏を聴くと,「第9」が神の座を降りて身近にいる人間になったような気がする(^^;).マーク(1919-2001)は古典派や前期ロマン派を得意にした指揮者だったが,その音楽には神々しさとか荘重さは無いものの,普段着のような親しみ易さと温かみを感じることができる.浅ましい猿知恵に翻弄されない,何時もと変わらぬ日常の音楽がそこにある.

2007/11/19

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@オットー・クレンペラー/フィルハーモニア管絃楽団(テスタメント:SBT1177)

 1957年11月15日,ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのライヴ録音.
 最近の猿知恵全開(^^;)な演奏がお好みの方には,残念ながらおススメいたしかねる,剛毅な精神と不撓不屈の闘志に貫かれた,超弩級の演奏である.他との比較など,ほとんど意味を成さない大伽藍がそこには聳え立つのを聴く.そこにある,ということが重要であり,何が正しくて何が間違っているか,が問題にならないのだ.
 こーゆう演奏を聴くと,やっぱり「わからない奴はわからなくて結構.わかるひとだけわかればいい」と励まされた気になる(それが僕の場合は,拙いのか(^^;)).

2007/11/18

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@フェレンツ・フリッチャイ/ベルリン・フィル(DG:POCG-3073)

 1957年12月,1958年1月と4月の録音.
 とにかく,独唱陣がスゴイ.イルムガルト・ゼーフリート,モーリン・フォレスター,エルンスト・ヘフリガー,そしてディートリヒ・フィッシャー・ディースカウという,当時売り出し中の若手実力派を揃え,堂々とした押し出し満点の歌唱(しかも,フィッシャー・ディースカウが「第9」のバリトンを受け持った唯一の録音である).その上,フリッチャイの指揮が大変に充実した,大地に根を張ったような重厚でスケールの大きな演奏を繰り広げている.特に奇を衒ったところもない,見事なものである.
 この味が聴いてわかるのは,30も半ばを過ぎてからかも.
 

「絶滅危惧種」扱いを超えて

 個人的には,「図書館の原点を見直す」という作業は,周囲に対して現在地点における『市民の図書館』の優位性を折伏することや,「図書館の自由に関する宣言」を再確認することじゃないと思う.現状において公共図書館の機能が,現在の市民が公共図書館に求めているものとズレていないかどうかを確認し,ズレを修正するのみならず,『市民の図書館』を超える新しい戦略を生み出していく可能性を探る作業だと考える.と言うか,もう少し業界人は『市民の図書館』や「図書館の自由に関する宣言」に対して,ある程度の距離を置いて眺めるだけの現実感が必要なのではないかと,「みんなの図書館」12月号の特集を再読して嘆息する.特集の筆者諸氏がことごとく,痛々しいほど対象(この場合は「公共図書館」)との距離感を失っていることに同情と憂慮の念を禁じえない.

 「図書館の原点を見直す」のであれば,『市民の図書館』以前に,そもそも「公共図書館とは何であるか」から,誰かが説き起こすべきであっただろう.

 ・・・・・・図書館とは,「ある共同体(community)の記憶を保存するための記憶の共同体(utility)である」(こんな定義,何処の教科書にも載ってませんよ.その妥当性はこれを読んだ各人が判断しておくれ)であるという発想がそれほど誤ったものでなければ,現在公共図書館として象徴的な存在の事例として挙げるべきは,青空文庫と矢祭もったいない図書館だろうな.どちらも,その活動の根幹において「共同体の記憶を保存する記憶の共同体」としての役どころを見事に果たしている.矢祭については,将来は雑誌の寄贈も受け入れる必要(それも,できたら刊行が終了した雑誌の一揃い)はあるだろうけど,43万冊余の書籍が集まったことの価値は,図問研のような外野の雑音にすら猛省を促す効果があったのではないかと思う.

 ところで「記憶の共同体(utility)」には,当然ながら必要なときに必要なものを提示できる基盤整備が必要である.さもなければ,誰かが必要としているものを,必要な誰かが現れる何時の日かのために整備しておかなければならない.それは,例えば大学図書館がパスファインダーとして提供しているものもその一種であるが,そのために公共図書館がある種のメタな視点(これは,myrmecoleonさんのこちらのブクマコメントに示唆を受けた発想)に立つことが必要である,そのひとつのありようが横芝光町図書館の「ニュースkeywordで本探し」なんじゃないかと思うところである.


 ときに何処かのblogが「他人が賞賛しても僕はあいつを信用しないし相手にしない」という意味のことを当blogについて書いているようですが,僕は別に他人に相手にされたり,賞賛されたいためにblog書いているわけでもないので,そのような言及は迷惑極まりないものです.そのくせその当人は自分が悪罵をぶつけたエントリーを改稿し,相手にしていないはずの当blogにおける「学級会民主主義」批判に合わせて,自らのエントリーを書き直していることは隠蔽しているんだから,こんな奴の説く倫理がどの程度のものか,およそ見当が付くというものだ(^^;).

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