【図書館司書への不満 - 総合歴史研究会】
【新潟市中央図書館に対する要望 - 総合歴史研究会】
基本的にこのblogを書いている方は,公共図書館を創り上げる主体が誰であるかを理解していない方であると評していいでしょう.公共図書館は図書館司書だけが努力して創り出すものと違いますよ.市民の意識が行政を動かすことによって,その基礎が築かれるものです.だから,このblogを書いている方には無意味な資料であっても,別の誰かには意味のある資料である以上は,それを揃える必要は無いとは,公共図書館を運営する立場では言えないわけなんですよね.もっとも,その「意味」を計るものさしが何であるかが,数十年前までとはズレてきていることは確かですけど,それがいいことなのか悪いことなのかは,個々の公共図書館によって,また個々の業界人によって判断が異なるでしょう.
ただですね,公共図書館は決して,最初からそこにそのようにある「ありもの」じゃありません.すべての市民に自明のものとして天から授けられるものじゃないんです.「自由」と同じくらいにね.その市民と司書のせめぎあいの中から,いわゆる「良い公共図書館」というものが立ち上がってくるのが,本来のあるべき姿で,せめぎあいもなく良い資料が揃っていた公共図書館が存在していたこれまでが少々恵まれていた,と見るひとがいてもおかしくはないような気がします.
そうそう,図書館司書を鍛えるのも,自立した市民の役割のひとつですよ.もっとも,書誌(特に郷土資料に限りませんが)を作成する能力は必要でしょうが,それが求められてくる場はこれまでよりも限られてきているし,これからはもっと狭められてくることになっていくでしょうね.市民から求めらているスキルは,明らかに変化していますから.これまでと同様のスキルを図書館司書に求めるのであれば,ある程度の声を糾合して公共図書館にとどまらず,その公共図書館を設置している自治体の首長なり,自治体議会の議員なりに陳情することも必要でしょう.
事実,新潟市立中央図書館については,総合歴史研究会blogとは異なる感想を記しているblogも存在しますから,総合歴史研究会blogの見解のみが,新潟市立中央図書館に対する単一で最終の普遍的見解であるわけでもありません.このblogを書いている方が,「自分以外はみんなバカ」とした佐久間象山並みの過剰な自意識を持っているのでなければ,昨日・今日・明日を暮らしているすべての市民にとって無意味な資料という存在があると考えること自体がおかしなことくらいは,まさか歴史を学んでいる方ですから,ご理解いただけるものと思いますが,如何なものでしょうか?
最近のコメント