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「貸出至上主義者」度チェックβ版

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2007年9月23日 - 2007年9月29日の記事

2007/09/29

ショスタコーヴィチ/交響曲第4番

ショスタコーヴィチ/交響曲第4番ハ短調作品43@ヴァレリー・ゲルギエフ/キーロフ管絃楽団(フィリップス:470 842-2)

 2001年11月の録音.
 まったく,片言隻語をとらまえられて揚げ足を取られるのではたまったものではない(^^;).なるべく「スルー力! スルー力! スルー力!」と三度唱えてやり過ごすことにしたいとは思いますが.

 ましてや,この第4番をリハーサルから撤回した1936年当時のショスタコーヴィチ(1906-1975)は,この壮大かつ難解な交響曲が歌劇「ムツェンスクのマクベス夫人」,バレエ「明るい小川」が共産党=国家から批判された後のスターリン体制化のソ連では,「スルー力」どころの話ではなく,文字通り自らの命取りになると踏んだのであろう.レニングラード・フィルで予定されていた初演を振るはずだったフリッツ・シュティードリー(1883-1968)もナチに追われてソ連に来た亡命者であり,ここで騒動に巻き込まれるのを嫌った,という噂もある(シュティードリーはその後1937年にはUSAに出国している.なおシュティードリーはマーラーの薫陶を受けたことのある指揮者でもあり,この作品に低い評価をしていたとは考えられない.むしろ作品が「見えていた」だけに騒動が起きるのは必至と見たのかもしれない).
 リハーサルの直前にソ連に入国したオットー・クレンペラーが,ショスタコーヴィチのもとを訪れた際,この作品を気に入って外国での初演権を求めた,と言う話も伝わっているほどモダニスティックでラプソディックでマーラー的なこの交響曲は,結局1962年12月30日にキリル・コンドラシンが初演するまで封印されてしまうのである.

 初演から約40年,作曲から約65年の経てのゲルギエフの演奏は,何とも平和なもの.ロシア・アヴァンギャルド最後のあがきにも思える,この作品独特の切迫感があまり感じられない.

「友・敵関係」と公共性の喪失

 最近,面白い本を読んだんですよ.


「政治的な行動や動機の基因と考えられる,特殊政治的な区別とは,友と敵という区別である.」(15頁)
と断言する,ナチの御用法学者でもあった大法学者カール・シュミット(1888-1985)の『政治的なものの概念』(田中浩,原田武雄訳/未来社)という本.これ,実に危険なほど面白くて,ある種の人間の類型と言えるものを描き出して余すところが無いですね.ここでシュミットが描いた人間の類型に対して共感するところは皆無ですが,シュミットにおける人間,またその意識への洞察には,非常に興味深いものがあります.例えば,このような考察.

「敵とは,他者・異質者にほかならず,その本質は,とくに強い意味で,存在的に,他者・異質者であるということだけで足りる.」(16頁)
まったくもって,これはつい最近まである国家の最高指導者たる地位にあった政治家の取った手法の解説に相応しいものじゃないですか.しかも,それは見事な成功を収めたという(-_-;).その後任者は,同じことを別な主題で実行しようとして無残にも失敗し国政に混乱をもたらしましたけどね.

 さて,我ながらしばらくぶりで(^^;),9月にエントリーした当blogの図書館系論考の中で,エントリーした当人にも意外な反響があったのは【公共図書館の「イノヴェーション」】でしたね.何だか僕が「貸出」と「ビジネス支援」を,あたかもカール・シュミットの説く「友・敵関係」であるかの如く描いたように受け止められたのは,実は心外だったりします(^^;).

 確かに『市民の図書館』が提唱し日本図書館研究会読書調査研究グループが「貸出至上主義」として疑似科学化した,公共図書館の目的としての「貸出し」には,これまで僕は「貸出し」の内容が本質的に抱えている「排除の論理」(これがシュミットの述べる「友・敵関係」と同断であるとしても,あながち間違いではありますまい)とファシズムの匂いを指摘してきましたし,このことはこれからも,幾ら強調してもしすぎることは無いだろうと考えています.それらは公共図書館が無謬であることを前提とし,社会の変化を無視して世を公共図書館につれさせようとした,壮大な実験でしたが,今や「貸出し」の前提となるべき社会の条件が崩壊してしまっており,これ以上『市民の図書館』を正典とした「貸出し」の論理を正当化するのは無理なところまで来ているでしょう.

 ・・・・・・とは繰り返し繰り返し,同工異曲なことを当blog上で書いて来ましたが,僕は公共図書館が公共性と民主制を維持するための手段としての「貸出」を否定したことは一度もありませんよ(^^;).僕から見れば,「貸出」「ビジネス支援」「医療情報支援」「法律情報支援」などなどは,すべて等しく公共図書館が守るべき妥協と寛容を創出し,維持するための手段であって,それぞれが他の手段を排除するような関係であってはならない性格のものですし,ましてやその手段自体が公共図書館が存在する目的ではありえません.「貸出し」(とその正典である『市民の図書館』)を克服するためのイノヴェーションのひとつとして,「ビジネス支援」に何がしかの可能性がある,というところまでは言っていますが,「ビジネス支援」を以って「貸出」を否定ないしは排除しよう,とは主張していませんよ.それじゃ言っていることが日図研や図問研の主張を裏返しただけになってしまいます(^^;).

 彼らのような「排除の論理」あるいは「友・敵関係」に基づく前近代な公共図書館の思想を克服し,先日も引いたアイザイア・バーリンの提唱する「多元主義」にこそ,今後の公共図書館が生き残るための思想的な基盤がある,と述べているのです,僕は.公共図書館が何かひとつの手段を以って特化すべきだ,などというそんな目先の利益を優先した話に僕のエントリーが矮小化されることには,かなりの違和感があります.例えば500人の公共図書館の利用者がいたとして,その中の499人が「貸出」を求め,「医療情報支援」を求める利用者が1人しか存在しなかったとしても,そのたった1人のためにも公共図書館は存在する必要があるのですから.それが公共図書館の機能が保障する「公共性」というものではないでしょうか.それとも,貸出至上主義のように公共図書館の機能を「友・敵関係」で分断し,異質な1人を排除することに何か意味があるのですか?

 正直「貸出しに特化した(=「貸出し」を自己目的化した)公共図書館」は,排除の論理に基づく,僕の考える「公共性」を喪失した存在ですから,そんなものはホームレスの寝袋にした方が,公共性の観点からも有意義な存在になるでしょう.本来なら寝袋ではなく,知恵袋にならなければならないのが公共図書館の維持すべき「公共性」なのですから.

 今日の利用者には不満もあるでしょうが,公共図書館は昨日の利用者のためにも,明日の利用者のためにも存在しているのです.



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2007/09/28

ドヴォルジャーク/交響曲第9番

ドヴォルジャーク/交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」@ポール・パレー/デトロイト交響楽団(マーキュリー:434 317-2)

 1960年2月の録音.僕にとっては指揮者パレー(1886-1979)を「発見」した名演の名録音である.これほどテンポの速い指揮者は他にいないし(「新世界より」を34分強!),その速いテンポの中で細かいニュアンスがスノークリスタルのように明滅する,如何にもプーランクのようなフランスの新古典主義を,典型的に演奏で表現していると思う.

 ときに先日,とある鉄道模型のパーツを配布する週刊誌のテレビCMでブラームスの交響曲第1番が流れていたけど,後期ロマン派を使うなら,ここは鉄道マニアで鳴らした(?)ドヴォルジャークじゃあないのか,とツッコミをひとつ入れてみる(^^;).8番や9番のフィナーレじゃないのかしらん?

2007/09/27

アンダーソン/トランペット吹きの休日

アンダーソン/トランペット吹きの休日@アーサー・フィードラー/ボストン・ポップス・オーケストラ(DG:POCG-9683)

 1973年6月の録音.このCDはフィードラー(1894-1979)が晩年にDGに録音した数枚のLPからの再編集モノで,この録音が収録されているLP“Boston Pops Encores”(MG1139)は,僕も日本盤を持っている.フィードラーのRCA盤やアンダーソンの自作自演盤(MCA),レナード・スラットキンの録音(RCA)と比べても上手いトランペットが明瞭に録音されている,軽妙な好演だと思う.
 ルロイ・アンダーソン(1908-1975)は,まさかこの作品が日本で「運動会の3大BGM」として知らぬ者の無い音楽になるとは,夢にも思っていなかったでしょうねえ(^^;).

2007/09/26

カバレフスキー/道化師

カバレフスキー/組曲「道化師」作品26@ヴァシリー・イェルヴァコフ/モスクワ交響楽団(ナクソス:8.553411)

 1995年3月の録音.
 誰が呼んだか,「運動会の3大BGM」の1曲を担う「ギャロップ」を第2曲に持つ作品だが,組曲全曲を聴ける録音は,昔はほとんど無かったんじゃないかしらん? 20年ほど前までは,NHK-FMでこの作品を流すときにかかっていたのは,いつも同じ録音(エドゥアルド・ヴァン・ルモーテル/モンテカルロ国立歌劇場管絃楽団)だったような記憶がある.
 音楽は如何にもカバレフスキーらしい,社会主義リアリズムの見本みたいな明朗快活でわかりやすいもの.

2007/09/25

武満徹/2つのレント

武満徹/2つのレント@福間洸太朗(ナクソス:8.570261J)

 2006年7月の録音.
 僕は生憎,武満徹(1930-1996)の良い聴き手ではこれまでなかったし,これからもそうだろうと思う.僕がこの「武満徹/ピアノ曲集」を購入しようと思い立ったのは,まずは「音楽以前」と山根銀二(1906-1982)が酷評した「2つのレント」(1950年)が収められているから,というくらいで.
 山根銀二は戦前戦後を通じて活躍した音楽評論家で,確か長らく朝日新聞に音楽批評欄をもらって健筆を振るっていた人物.何となく,晩年の批評を呼んだ記憶があるのは気のせいか? 何しろ,戦時中は山田耕筰と組んで国策に協力していたのに,戦後は一転して山田耕筰批判の急先鋒になるという,変わり身の早さに象徴される一種の「目利き」が,長らく山根を業界の第一線で活躍させた主因だったのだろう.

 さて「2つのレント」である.現在の耳で聴くと,ドビュッシーに似た象徴主義的で,どこかハシゴをボカされたような雰囲気で進行する音楽だな,というところ.この「何も起こらない」「収束しない」感が,独墺系音楽ばかり嗜んでいた当時の批評家にはお気に召さなかったのだろうな(^^;).

2007/09/24

ブルックナー/交響曲第8番

ブルックナー/交響曲第8番ハ短調@ジョン・バルビローリ/ハレ管絃楽団(カールトン:15656 91922)

 1970年5月20日,ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのライヴ録音.バルビローリ(1899-1970)死の2か月前の豪快な名演である.ライヴらしい事故は散見される(特に金管)ものの,バルビローリ/ハレ管のコンビの到達点が如何に幸福なものであったかを,この演奏を生で聴くことの出来たことが幸福な経験であったかを如実に物語っている.
 ここで聴かれる,輝かしく豊穣な絃の響きは,独墺系の演奏にはなかなか聴くことの出来ないもの.

2007/09/23

マーラー/交響曲第4番

マーラー/交響曲第4番ト長調@ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィル(スプラフォン:SU3880-2)

 1980年10月の録音.
 マーラーの交響曲が大好きな僕でも,4番を聴くのは珍しいこと(^^;).この曲は何とも凝った,人工的にメルヘンチックな雰囲気を醸し出させているような,如何にも近代人マーラーらしい自意識と美意識の横溢した作品なんだろうと思うのだけど,でもやっぱりあまり都会的だったりモダーンだったり,また逆にド田舎風を強調する演奏はあまり好きじゃないのね.このノイマンの演奏のような,郊外に広がる田園風景っぽい演奏がちょうどいい.

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