「絶滅危惧種」扱いを超えて
個人的には,「図書館の原点を見直す」という作業は,周囲に対して現在地点における『市民の図書館』の優位性を折伏することや,「図書館の自由に関する宣言」を再確認することじゃないと思う.現状において公共図書館の機能が,現在の市民が公共図書館に求めているものとズレていないかどうかを確認し,ズレを修正するのみならず,『市民の図書館』を超える新しい戦略を生み出していく可能性を探る作業だと考える.と言うか,もう少し業界人は『市民の図書館』や「図書館の自由に関する宣言」に対して,ある程度の距離を置いて眺めるだけの現実感が必要なのではないかと,「みんなの図書館」12月号の特集を再読して嘆息する.特集の筆者諸氏がことごとく,痛々しいほど対象(この場合は「公共図書館」)との距離感を失っていることに同情と憂慮の念を禁じえない.
「図書館の原点を見直す」のであれば,『市民の図書館』以前に,そもそも「公共図書館とは何であるか」から,誰かが説き起こすべきであっただろう.
・・・・・・図書館とは,「ある共同体(community)の記憶を保存するための記憶の共同体(utility)である」(こんな定義,何処の教科書にも載ってませんよ.その妥当性はこれを読んだ各人が判断しておくれ)であるという発想がそれほど誤ったものでなければ,現在公共図書館として象徴的な存在の事例として挙げるべきは,青空文庫と矢祭もったいない図書館だろうな.どちらも,その活動の根幹において「共同体の記憶を保存する記憶の共同体」としての役どころを見事に果たしている.矢祭については,将来は雑誌の寄贈も受け入れる必要(それも,できたら刊行が終了した雑誌の一揃い)はあるだろうけど,43万冊余の書籍が集まったことの価値は,図問研のような外野の雑音にすら猛省を促す効果があったのではないかと思う.
ところで「記憶の共同体(utility)」には,当然ながら必要なときに必要なものを提示できる基盤整備が必要である.さもなければ,誰かが必要としているものを,必要な誰かが現れる何時の日かのために整備しておかなければならない.それは,例えば大学図書館がパスファインダーとして提供しているものもその一種であるが,そのために公共図書館がある種のメタな視点(これは,myrmecoleonさんのこちらのブクマコメントに示唆を受けた発想)に立つことが必要である,そのひとつのありようが横芝光町図書館の「ニュースkeywordで本探し」なんじゃないかと思うところである.
ときに何処かのblogが「他人が賞賛しても僕はあいつを信用しないし相手にしない」という意味のことを当blogについて書いているようですが,僕は別に他人に相手にされたり,賞賛されたいためにblog書いているわけでもないので,そのような言及は迷惑極まりないものです.そのくせその当人は自分が悪罵をぶつけたエントリーを改稿し,相手にしていないはずの当blogにおける「学級会民主主義」批判に合わせて,自らのエントリーを書き直していることは隠蔽しているんだから,こんな奴の説く倫理がどの程度のものか,およそ見当が付くというものだ(^^;).
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