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ココログ


ほし2

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2007年11月の記事

2007/11/30

坂本龍一/Tong Poo

坂本龍一/Tong Poo(ピアノ連弾版)@岡城千歳&ジューイン・ソン(プロピアノ:PPR224532)

 2000年1月の録音.
 「Tong Poo」はもちろん,「イエロー・マジック・オーケストラ」に収録されているYMO初期の傑作.現在もなお,情報番組のBGMなどで使用されているが,今日現在の音楽だと紹介されてもまったく違和感の無い快作である.
 坂本龍一自身の手によるピアノ連弾版を,壮絶なハイテンションでふたりのピアニストがわき目も振らずに突進していく.このテンポで,よくもまあ合わせられるものだと,妙なところで感心してみたり(^^;).爽快な好演.

2007/11/29

コルンゴルト/赤ちゃんのセレナーデ

コルンゴルト/「赤ちゃんのセレナーデ」作品24@ヴェルナー・アンドレアス・アルベルト/北西ドイツ・フィル(cpo:999 150-2)

 1989年6月の録音.
 グリーグ(没後100年)とガーシュウィン(没後70年)に隠れていたけど,今年はエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897-1957)の生誕110年にして没後50年ではありませんか.気がつかなんだ.と言うわけで,今頃になって今年初めて(だと思う)コルンゴルトを取り上げる次第.せっかくなので,底抜けに明るい「赤ちゃんのセレナーデ」作品24(1928年)を.1928年に息子が生まれたことを自ら祝うために作曲された,喜びに満ち溢れる如何にもコルンゴルトらしい壮麗なオーケストレーションの作品です.この華麗なオーケストレーションの技術力が,彼の音楽の骨格そのものであり,それが骨の髄まで染み渡っていたことが,USA亡命後のハリウッドでの成功と,第二次大戦後の晩年の失意とをもたらすことになるのですが,今は得意の絶頂にあるコルンゴルトの,肩の凝らない軽妙さと華麗の上に華麗を重ねたような極彩色のオーケストレーションを楽しむことにいたしましょう(^^;).

2007/11/28

対象との距離,昨日の追記など

 【図書館員の愛弟子: 矢祭町立図書館の学問的評価に期待する(期待させて…)

 roeさんからは過分なお褒めにあづかりました.ありがとうございますm(_)m ただ,僕のはてなブックマークにも書きましたが,正直なところ「矢祭もったいない図書館」についてはご近所さん故,実際に足も運びましたが,あまりにもいろいろな話を聞いてしまい(矢祭以外の方からも),却って研究対象としては「距離」をきちんととるのが難しい状態にある,と言うのが現在の僕の立場です.マックス・ヴェーバーを持ち出すまでもなく,研究者が研究対象に対して「距離」をとれないのは,(特にフィールドワーカーとして)学問として成立させることの障碍になりますので,僕が矢祭や「全国ありがとう文庫」を研究の対象にするまでには,今しばらく時間がかかるだろうと思います.
 妙な喩えかもしれませんが,現在の僕にとって飯島真理や沢田聖子の歌が,もはや評価の対象を越えてしまっているのと,似たようなところがあるような気もします(^^;).

 以下,昨日のエントリーへの追記など.
 昨日のエントリーで秋田県の地元紙である秋田魁新報について触れなかったのは,記事データベースが2005年1月の記事からしか扱っていなかったからで,それ以上の他意はありません.それでも,念のため調べてみたら2005年から2007年の「<内外の歴史>7月3日」の欄にて,県内の出来事として


▽1999(同11)年 全国から古本を募る運動を展開してきた西木村の青年グループが「ひのきない本の家」をオープン
と載ってました.すでに秋田魁新報は,「ひのきない本の家」の誕生を,まるで歴史上の出来事とみなしているかのようです(^^;).なお,ここで「サラダハウス」という固有名を回避しているのは,恐らく中心人物が議員に転進したからかと思われます.

 そう,「成功か失敗か」という話ですが,基本的には,ある物事への評価と言うのはひとそれぞれですから,「全国ありがとう文庫」をどう評価するかは,評価する側がどの立ち位置にいるかで変わってくるだろうとは思います.例えば,現状において『市民の図書館』に基づく「貸出至上主義」に拠る公共図書館の拡大路線は破綻し,失敗に終わったと僕は評価しています.しかし一方では,「みんなの図書館」2007年12月号の特集記事のように,未だに『市民の図書館』が公共図書館の原典(誤記ではない)でありそこに依拠するのが成功への近道である,とする立場もあるわけです.
 それでも,「全国ありがとう文庫」が,少なくとも公共図書館業界における玄人中の玄人(と僕が評価しうる人物)が嘲笑したような「失敗」には終わらなかったことを理解するには,僕が昨日挙げた新聞記事と評価を見れば取り敢えず充分なんじゃないでしょうか? それでまだ不足があるとしたら,他に何が必要なのですか?

チャイコフスキー/交響曲第1番

チャイコフスキー/交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」@イゴール・マルケヴィチ/ロンドン交響楽団(フィリップス:446 148-2)

 1966年2月の録音.
 「幻想交響曲」(DG)で,あれだけ色彩の饗宴をやってのけたマルケヴィチが,オケも録音会社も違うとは言え,随分とまた現実的な音楽を展開していることである(^^;).夢を見がちなチャイコフスキーが,絶えず現実に引き戻されているような雰囲気の演奏で,この作品が持つ若書きの独特な夢幻の雰囲気はどこかに置き去りにされてしまっている.ひた押しに生真面目に演奏しているのは好感が持てるのだけど,この作品の再現に大切な軽妙さが一向に醸し出されて来ないのが何とも,もどかしい.

2007/11/27

ショスタコーヴィチ/交響曲第14番

ショスタコーヴィチ/交響曲第14番作品135「死者の歌」@ギドン・クレーメル/クレメラータ・バルティカ(ECM:476 6177)

 2004年11月の録音.
 昨日取り上げたマーラーの交響曲第10番からの「アダージョ」(絃楽合奏版)とのカップリング.何しろ,初めて聴いたショスタコーヴィチの交響曲がこの第14番だったためか,この作品には一方ならぬ思い入れがある当方だが(だから先日のラトル盤には失望した),このクレーメル盤は「さすが」である.そもそも曲が奇を衒っているのだから,指揮者が屋上屋を架すような解釈をほどこさなくとも,作曲者の指示を履行しつつも緊張感の高い演奏を展開さえすれば,この作品は凄絶な響きをたたえた名演を生み出すことができるわけだが,このクレーメル盤も胃が痛くなるような緊張感が持続する好演奏である.惜しむらくは,時々フラット気味になるバリトンがいま一息か.

「全国ありがとう文庫」のことなど

 【図書館員の愛弟子: 昨今の図書館情報学における疑問:矢祭町立図書館】について.

 roeさんがここで取り上げている「秋田県北部でボランティアが同様に全国に寄贈を呼びかけ、失敗した事例」というのは,秋田県大仙市(元・西木村)全国ありがとう文庫のことだと思うのですが,結論から言えば,このプロジェクトは失敗していません(^^;).

 この件については以前,当blogでもチラッと触れていますが【愚智提衡而立治之至也: 玄人ばなし】,暇を見つけて朝日,読売,河北新報の記事データベースを引いてみたところ,2002年8月の時点で60万冊の本が届いていたようです.そのうち,30万冊余りが1998年2月から4月の間に届いてしまったことで,当初は1万冊を想定していた,図書館的な本の整理には素人であったメンバーが吃驚して「寄贈は打ち切り」と話したこと(河北新報1998年4月7日朝刊など)が,玄人筋には「失敗」と受け取られたのでしょう.

 実際,僕が聞いたこのプロジェクトへの玄人の嘲笑も,寄贈書が集まらないことに対してではなく,予想以上の寄贈書が来たことと,その整理ができないこと,寄贈書の中身がほとんど使えない本だったと伝えられたことへのものです.このうち,寄贈書の中身が本当に使えないものばかりだったのかどうかについては,その後の「全国ありがとう文庫」の活動や,また「矢祭もったいない図書館」で実見した蔵書を見る限りでは,少々疑義無しとしません.

 ところが,その後は日本青年会議所が運営するまちづくり市民財団が「まちづくり助成金」を拠出したり,朝日新聞の「天声人語」で取り上げられたり(もともと最初にこの話を取り上げたのは,1998年2月12日の朝日新聞夕刊だったそうで),1998年10月には11箇所の「引っ越し文庫」(当初の名称)が誕生します.1999年7月3日には全国ありがとう文庫檜木内交流学習館(ひのきない本の家)が開館し,2001年1月には地域づくり団体自治大臣表彰に選ばれるまでになっています.

 そして2002年の時点では,分館は36箇所に達し,60万冊にまで達した寄贈書を「同じように本がなくて困っている人たちに本を送り,恩返ししよう」というプロジェクトに発展しているようです.そのうちの1万冊は京都刑務所に贈られたとか(朝日新聞2002年8月12日夕刊).

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2007/11/26

マーラー/交響曲第10番から「アダージョ」

マーラー/交響曲第10番から「アダージョ」(ハンス・シュタッドルマイヤーとクレメラータ・バルティカによる絃楽合奏版)@ギドン・クレーメル/クレメラータ・バルティカ(ECM:476 6177)

 2001年10月の録音.
 このCD,マーラーの第10番の「アダージョ」とショスタコーヴィチの第14番のカップリング.これはこれまでありそうでなかった組み合わせじゃないかしら? 少なくとも,僕はこの組み合わせのCDは初めて見るもの.作品の雰囲気から考えると,既に誰かがやっていても不思議じゃなかったような気がしますが,どんなもんですかね.
 この「アダージョ」,管楽器が聴こえてこないなあと思ったら絃楽合奏への改作(英語では“adapted”という言葉を使っている)だそうで,それも随分薄いなあと思ったらメンバーが20人(10-4-4-2).それなら,むしろリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」と組み合わせるのも一興かと思ったけど,「メタモルフォーゼン」はユーリ・バシュメットなら取り上げてもクレーメルは取り上げないか(^^;).
 で,その薄さがクライマックスの不協和音で,どうしてもインパクトに欠けてしまうのが,この演奏の欠点.あの,地獄の釜の淵をのぞくような凄みが感じられないのが惜しい.

2007/11/25

ドヴォルジャーク/交響曲第9番

ドヴォルジャーク/交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」@オットー・クレンペラー/フィルハーモニア管絃楽団(EMI:7 63869 2)

 1963年10月と11月の録音.
 「新世界」って,突拍子も無い録音(解釈)と言うのはあまり無いと思うのだが,この録音は,そもそもクレンペラーが「新世界」を振ったと言うところから問題だったりする(^^;).ベルリオーズの「幻想交響曲」やチャイコフスキーの4,5,6番の録音だって残しているのだから,「新世界」があっても不思議ではないのだが,それにしても全くドラマチックじゃない序奏にドラマチックな提示部が付いてくるという,ちょっと不思議な演奏である.ヴァイオリンが両翼配置なので,序奏でその効果を狙ったところがわかって面白い.また,他の録音に比べてクレンペラーの木管の音色が少々変わっているように聴こえるのは,僕の気のせいか? とにかく,木管の浮かび上がらせ方は独特だと思う.第1楽章の繰り返しが励行されているのもクレンペラーならではである.

2007/11/24

ドヴォルジャーク/交響曲第9番

ドヴォルジャーク/交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」@レオポルド・ストコフスキー/フィラデルフィア管絃楽団(ビダルフ:BID83072)

 1925年5月,10月,12月の録音.
 恐らく,世界で最初に録音された電気録音(マイクロフォン)の「新世界より」である(USAヴィクター原盤).よく聴いてみるとティンパニが無い(^^;).ティンパニのパートがコントラバスとテューバ(?)で代用されているのである.聴いていて,途中で噴出しそうになる.終楽章のシンバルは入っている.
 演奏は,さすがに10年後に録音された名盤(RCA)のような光彩陸離たる感には乏しいものの,情けない音とは言え最初期の電気録音にしては楽器の動きが明瞭に聴こえる程度にはよく録れているし,何しろ澱みの無いテンポで音楽が運ばれていくのはさすがである.余韻に乏しいのは,残響皆無の録音にも責任の一端があろう.

2007/11/23

ドヴォルジャーク/交響曲第9番

ドヴォルジャーク/交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」@フェレンツ・フリッチャイ/RIAS交響楽団(DG:UCCG-3432)

 1953年9月の録音.
 フリッチャイには1959年10月にベルリン・フィルと録音したステレオ盤(DG)があり,患った後再起した,晩年の解釈で粘りに粘った名演を聴かせているそちらの方が一般的だと思う.こちらは患う以前の「リトル・トスカニーニ」時代の演奏で,エーリヒ・クライバーの「新世界」のような表現主義風に,極端から極端に振れるテンポ設定が時々聴かれるが,基本的には前へ前へと進む爽快な解釈である.オケがよく,このテンポ設定に一糸乱れず(とまではいかないが)ついていっているものだと感心する.
 だからこのCDのジャケットにあしらわれている写真が晩年の「フルトヴェングラーそっくり」と言われた時期のものであることに,多少違和感が無いでもない.

ストラヴィンスキー/春の祭典

ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」@イゴール・マルケヴィチ/フィルハーモニア管絃楽団(テスタメント:SBT1076)

 ご存知,1951年11月の録音と1959年1月・2月のEMI録音を1枚に収めたマニア向け(^^;)CD.
 マルケヴィチは,世界で最初に「春の祭典」の合理的な指揮法を発明(発見?)した指揮者で,「Monsieur Sacre du Printemps(「春の祭典」氏)」の異名をとるほどこの曲を得意にしていた.日本でも,最初に来日したとき(1960年)には日本フィル(分裂前)で「春の祭典」を振ったことが文化面のニュースになったほど.しかし,どこに客演しても「春の祭典」ばかり振らされることに当人はウンザリしていたらしい(^^;).

 【訃報:モーリス・ベジャールさん80歳=振付家 - 毎日jp(毎日新聞)】その「春の祭典」の振付で一躍世界的にその名を売ったのが,昨晩死去を伝えられたモーリス・ベジャール.ベジャールの振付けた「春の祭典」は,確かコリン・デイヴィスの録音した「春の祭典」のLP盤ジャケットを飾っていたと記憶する.ベジャールと言われると,僕は20世紀バレエ団→ジョルジュ・ドン→ボレロ,とすぐ連想してしまうので,今回はそこから離れて,鹿の交尾にヒントを得,バーバリスティックな原始の力を表現したという「春の祭典」を聴くことを以って追悼に替える.

新しいblogを立ち上げました

 このblogが毀誉褒貶かまびすしいのと,内容がごった煮状態に陥って当人も整理が付かない状態になりかかっていることを勘案して,まずは災害時の図書館関連情報を載せるblogを切り分け,新しく立ち上げました.

欲訥於言而敏於行
http://jurosodoh.cocolog-nifty.com/lib_disasters/

災害関連のサイドバーも↑こちらに移設しましたので,以後よろしくお願いします.

2007/11/22

ドヴォルジャーク/交響曲第9番

ドヴォルジャーク/交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」@コリン・デイヴィス/アムステルダム・コンセルトヘボウ管絃楽団(フィリップス:PHCP-9059/9060)

 1977年11月の録音.
 ある事情から,ウチにある「新世界より」を片っ端から聴く羽目になってしまい,これも勉強と諦める(^^;).この段になって初めて,我が家にある「新世界」の録音を数えたら17種もある(*_*).同じドヴォルジャークの8番は好きだからそれくらいあっても不思議じゃないが(ちなみにシューベルトのD.944とベートーヴェンの「第9」は30種を超えている),「新世界」がそれほどあるとは,当人でさえ驚いた.そんなに買った記憶が無い(^^;).

 それはさておき,コリン・デイヴィスの「新世界」.デイヴィスらしい中庸の美学で一貫している好演で,特にある要素を強調しているわけではないのだが,全体としてはすこぶる充実した演奏を聴かせる.第1楽章の提示部を繰り返しているのが珍しい.あまり録音でも聴かれないので資料的な価値もあると思う.

2007/11/21

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@ゲルハルト・ザミュエル/シンシナティ・フィル(センタウアー:CRC2107)

 1991年1月の録音.
 一時期話題をさらった,マーラーがオーケストレーションに手を入れた「第9」の録音である.確かにあちこち,かなりマーラーがオーケストレーションを書き換えていて,こりゃ保守的なオケと客が怒るのも無理は無い.あるべきティンパニが脱落していたり,盛り上げるための坂道が外されていたり,そのくせクライマックスでは金管がヒロイックに補強されていたり,派手にティンパニを叩かせたり,「やりたい放題」に聴こえたのだろうな.
 というか,これは明らかに「逸脱」(^^;).特に第1楽章で顕著な,リズムセクションの軽視はさすがに如何なものかと素人の僕でも思う.第2楽章ではスケルツォの繰り返し冒頭でとんでもないカットもあるし.

 ところでこの録音,ソプラノ・ソロに「Rie Hagiwara」という日本由来らしい名前があるのね.今まで気がつかなかった.

2007/11/20

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@ペーター・マーク/パドヴァ・エ・デル・ヴェネト管絃楽団(アーツ:47248-2)

 1994年12月20日のライヴ録音.
 クレンペラーによる超弩級の「第9」を聴いた後で,マークのような演奏を聴くと,「第9」が神の座を降りて身近にいる人間になったような気がする(^^;).マーク(1919-2001)は古典派や前期ロマン派を得意にした指揮者だったが,その音楽には神々しさとか荘重さは無いものの,普段着のような親しみ易さと温かみを感じることができる.浅ましい猿知恵に翻弄されない,何時もと変わらぬ日常の音楽がそこにある.

2007/11/19

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@オットー・クレンペラー/フィルハーモニア管絃楽団(テスタメント:SBT1177)

 1957年11月15日,ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのライヴ録音.
 最近の猿知恵全開(^^;)な演奏がお好みの方には,残念ながらおススメいたしかねる,剛毅な精神と不撓不屈の闘志に貫かれた,超弩級の演奏である.他との比較など,ほとんど意味を成さない大伽藍がそこには聳え立つのを聴く.そこにある,ということが重要であり,何が正しくて何が間違っているか,が問題にならないのだ.
 こーゆう演奏を聴くと,やっぱり「わからない奴はわからなくて結構.わかるひとだけわかればいい」と励まされた気になる(それが僕の場合は,拙いのか(^^;)).

2007/11/18

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@フェレンツ・フリッチャイ/ベルリン・フィル(DG:POCG-3073)

 1957年12月,1958年1月と4月の録音.
 とにかく,独唱陣がスゴイ.イルムガルト・ゼーフリート,モーリン・フォレスター,エルンスト・ヘフリガー,そしてディートリヒ・フィッシャー・ディースカウという,当時売り出し中の若手実力派を揃え,堂々とした押し出し満点の歌唱(しかも,フィッシャー・ディースカウが「第9」のバリトンを受け持った唯一の録音である).その上,フリッチャイの指揮が大変に充実した,大地に根を張ったような重厚でスケールの大きな演奏を繰り広げている.特に奇を衒ったところもない,見事なものである.
 この味が聴いてわかるのは,30も半ばを過ぎてからかも.
 

「絶滅危惧種」扱いを超えて

 個人的には,「図書館の原点を見直す」という作業は,周囲に対して現在地点における『市民の図書館』の優位性を折伏することや,「図書館の自由に関する宣言」を再確認することじゃないと思う.現状において公共図書館の機能が,現在の市民が公共図書館に求めているものとズレていないかどうかを確認し,ズレを修正するのみならず,『市民の図書館』を超える新しい戦略を生み出していく可能性を探る作業だと考える.と言うか,もう少し業界人は『市民の図書館』や「図書館の自由に関する宣言」に対して,ある程度の距離を置いて眺めるだけの現実感が必要なのではないかと,「みんなの図書館」12月号の特集を再読して嘆息する.特集の筆者諸氏がことごとく,痛々しいほど対象(この場合は「公共図書館」)との距離感を失っていることに同情と憂慮の念を禁じえない.

 「図書館の原点を見直す」のであれば,『市民の図書館』以前に,そもそも「公共図書館とは何であるか」から,誰かが説き起こすべきであっただろう.

 ・・・・・・図書館とは,「ある共同体(community)の記憶を保存するための記憶の共同体(utility)である」(こんな定義,何処の教科書にも載ってませんよ.その妥当性はこれを読んだ各人が判断しておくれ)であるという発想がそれほど誤ったものでなければ,現在公共図書館として象徴的な存在の事例として挙げるべきは,青空文庫と矢祭もったいない図書館だろうな.どちらも,その活動の根幹において「共同体の記憶を保存する記憶の共同体」としての役どころを見事に果たしている.矢祭については,将来は雑誌の寄贈も受け入れる必要(それも,できたら刊行が終了した雑誌の一揃い)はあるだろうけど,43万冊余の書籍が集まったことの価値は,図問研のような外野の雑音にすら猛省を促す効果があったのではないかと思う.

 ところで「記憶の共同体(utility)」には,当然ながら必要なときに必要なものを提示できる基盤整備が必要である.さもなければ,誰かが必要としているものを,必要な誰かが現れる何時の日かのために整備しておかなければならない.それは,例えば大学図書館がパスファインダーとして提供しているものもその一種であるが,そのために公共図書館がある種のメタな視点(これは,myrmecoleonさんのこちらのブクマコメントに示唆を受けた発想)に立つことが必要である,そのひとつのありようが横芝光町図書館の「ニュースkeywordで本探し」なんじゃないかと思うところである.


 ときに何処かのblogが「他人が賞賛しても僕はあいつを信用しないし相手にしない」という意味のことを当blogについて書いているようですが,僕は別に他人に相手にされたり,賞賛されたいためにblog書いているわけでもないので,そのような言及は迷惑極まりないものです.そのくせその当人は自分が悪罵をぶつけたエントリーを改稿し,相手にしていないはずの当blogにおける「学級会民主主義」批判に合わせて,自らのエントリーを書き直していることは隠蔽しているんだから,こんな奴の説く倫理がどの程度のものか,およそ見当が付くというものだ(^^;).

2007/11/17

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@クラウディオ・アバド/ヴィーン・フィル(DG:F35G 20112)

 1986年5月の録音.
 あの,インタビューにおける発言で物議をかもしたベルリン・フィルとの録音(ソニークラシカル)ではなく,その前にDGでヴィーン・フィルと録音したもの.一言で評すれば「オーソドックス」.こう言っちゃナニだが,普通の「第9」(^^;).ヴィーン・フィルを,ある程度振れる技術を持ったうたごころのある指揮者が振ればこうなるよな,という見本みたいなもの.楽譜も恐らく,ヴィーン・フィルに備え付けてあるもので振っているんじゃないの? 第2楽章の木管にホルンを重ねる,のような慣用的な変更があちこちで聴けるし.
 とにかく安定した解釈であり,演奏なので初めて「第9」を聴くひとには勧めるけど,すれっからしな聴き手には向いていない(^^;).

2007/11/16

絶滅危惧種

 「みんなの図書館」12月号(368号)が届いたので“特集 図書館の原点を見直す”を一読してみたのだけど,これはひどい.特に巻頭の文章.現在,公共図書館がおかれている状況を全く無視するか,またはおかしなこととして論難し,ひたすら『市民の図書館』への信心を説いている.例えば,ほとんどその箇所でしか言及していない「レファレンス」に言及している箇所を取り出して,『市民の図書館』がレファレンスにも目配りが効いているかのごとき言辞を弄している.これでは信者には圧倒的な説得力を持つかもしれないが,これから『市民の図書館』を読む人間にとっては贔屓の引き倒しとなろう.『市民の図書館』は「貸出し」については予算獲得の道具とすることまで具体的に百万遍を費やしているが,レファレンスについて具体論はひとつも語っていないのだから.

 それにしても,この巻頭文,その公共図書館が属する地方自治体全体の予算がどの程度削減されたかを提示もせずに,公共図書館の予算削減のみを取り出し冒頭で嘆いているが,それでは,いまの読者は納得しないだろう.自治体における予算が幾らから幾らに減少している中で,特に公共図書館関連の予算の減少率が自治体予算の減少率を超えている,と言うのであれば話はわかるが,公共図書館関係の予算の数値のみを引き抜いてこれだけ減った,と言われてもね.元から言及されている公共図書館の予算よりも少ない予算しかもらっていないところから見たら「何を言っているんだか」と思われても仕方あるまい.要するに,公共図書館が自治体の一部門であることに配慮が行き届かない,視野の狭い立論であると言わざるを得ない.例えば同じ自治体の中で,では保育所はどのような扱いを受けているのか,また同種の文教施設-美術館,博物館,文書館等-の予算はどのように扱われているのか,そこまで言及した上で公共図書館が如何に迫害(!)されているかを,語れなければ,そんなものは公共図書館業界人の単なるひとりよがりと片付けられるのがオチである.

 巻頭の文章を含め,総じて今号の特集から立ち上ってくるのは,『市民の図書館』信奉者による公共図書館が今や「絶滅危惧種」と化しつつあると,『市民の図書館』を奉じる図問研関係者が感じている閉塞感と焦燥感のようなものである.何だか,ある種の動物愛護団体の思想と行動みたいなもので,このままでは『市民の図書館』モデルの公共図書館は絶滅が危惧されるからお金と人手をかけて手厚く保護すべきだ,と主張しているようにさえ感じられる.貸出至上主義を支えているのは公務員による横並び意識,それからパターナリズムと反知性主義だけど,今回の特集はまさにそれを象徴するような内容になっている.それが,それだけ業界における貸出至上主義の基盤も脆弱化したということを意味するのであれば,僕にとってはそれなりに喜ばしい事態なのだが,さて状況はそれほど単純ではあるまい.

 しかしこのひとたちの主張,自由民主党の農政族と保護主義の発想が同じに思えて仕方が無いのだが.つまり,「自立した市民」というものをまったく信用していないのね,彼らは.市民とは自分たちが「保護」する対象だと思っているんじゃないのかしら?


追記:
というわけで,「みんなの図書館」の特集を読んだ方は,併せて

前田章夫: 図書館(員)に欠けていた「力」,「図書館界」59(4),2007.11,p252-257

を読むことをお勧めする.この文章もあくまで「貸出」中心ではあるものの,「社会システム」の中での公共図書館と言う捉え方をしているだけ,マトモな問題提起になっているので,一読して損は無い.

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@レオポルド・ストコフスキー/ロンドン交響楽団(デッカ:452 487-2)

 1967年9月の録音.一世を風靡した「フェイズ4」シリーズの1枚である.
 それにしても,やりすぎるくらいやりすぎたオーケストレーションへの加筆修正は,むしろ「ストコフスキー編曲」の名が相応しい,華麗で玩具箱をひっくり返したような「第9」に仕上がっている.それでも,第3楽章はしっとり聴かせているし,第4楽章の冒頭のように他の指揮者も手を入れているようなところで,意外にも一般的なやり方とは違う修正をしているところが,ストコフスキーの一筋縄ではいかないところ(^^;).それにしても終楽章はチェロとコントラバスを何本使っているんだろう? 低絃が実に砂を噛むようなガッチリネットリした音を聴かせる.

2007/11/15

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@ジュゼッペ・シノーポリ/シュターツカペレ・ドレスデン(DG:POCG-10056)

 1996年3月の録音.
 シノーポリのことだから,何か小難しい手の込んだ解釈で振っているのかと思えば,大した仕掛けも無く,それほど面白くも無い演奏である.真面目と言えば真面目だが,それにしても生真面目すぎる.
 僕が持っているのが日本盤なので,外盤ならシノーポリ自身が執筆した,例の如く精神医学を援用したエッセイでも掲載されているのかもしれないが,あのシノーポリのエッセイは,シノーポリ自身の演奏とは何の関係も無い代物だからなあ(^^;).「巨人の星」における大リーグボールの御託と同様の,目晦まし効果はあるかもしれないけど,シノーポリの演奏自体はもう少し本能的なもので,実際に振っているときは何も考えずに突っ走ったときの方がよい演奏が生まれることが多いと思う.シューマンの2番の旧録音やマーラーの5番がいい例.僕個人では,シノーポリの名演はエルガーの第2番(DG)に止めを刺す.

2007/11/14

ベートーヴェン/交響曲第9番

ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125@エーリヒ・クライバー/ヴィーン・フィル(デッカ:425 955-2)

 1952年6月の録音.
 先日,YouTubeを散策していたら,たまたまエーリヒ・クライバー(1890-1956)が「第9」を振った映像を見つける.

これは1949年の「プラハの春」音楽祭の際に,チェコ・フィルを振ったときのリハーサルの映像だそうだが,以前取り上げたフルトヴェングラークナッパーツブッシュの指揮に比べると,とてもわかりやすい拍の取り方をしている(^^;).なるほど,この楷書体の振り方から,クライバーのかっちりしたテンポによる緩みの無い演奏が生み出されたわけだ.また,このような振り方でなければ当時の新音楽だったアルバン・ベルク(クライバーは歌劇「ヴォツェック」の初演者であるが,初演までに137回のリハーサルを繰り返したという)など,オケをドライヴするのは不可能に近かっただろうな,と感じさせる映像である.

 で,ヴィリーやクナとは異なり,クライバーには幸い,ヴィーン・フィルを振ったスタジオ録音が残されている(残されて市販されているヴィリーの「第9」はライヴ録音ばかり).この世代の指揮者で,「第9」のオーケストレーションにあまり手を入れていないのは珍しいのでは? スケールは少々物足りないものの,テンポをほとんど動かしていないにも拘らず音楽をしなやかに聴かせるクライバーの音楽性は,さすがと思わせる.

2007/11/13

ブラームス/交響曲第4番

ブラームス/交響曲第4番ホ短調作品98@セルジュ・チェリビダッケ/シュトゥットガルト放送交響楽団(DG:POCG-10157)

 1974年3月23日,ヴィースバーデンでのライヴ録音.
 結局,チェリビダッケと相性のいい作曲家は,ブラームスに止めを刺すのか(^^;).僕は昔々にNHK-FMが放送した同じ第4番のライヴ(1982年11月11日,当初この日に予定されていた演目は何とマーラーの第9番だったそうな)を持ってますけど,CD化されたこちらの演奏よりも更に好調で凄絶な,叫び声全開(ありゃ「唸り声」なんてもんじゃない,叱咤激励だ)の名演ですから.多分に「こしらえもの」の要素が強いチェリビダッケの解釈(天衣無縫にそれを達成していたフルトヴェングラーに近づくにはそうするしかなかったんじゃないか[大意],という柴田南雄の説に同意)には,精密機械のようなブラームスの音楽が適していたんじゃないですかね.
 だから,ミュンヘンに移って,ブルックナーに合わせた超微速前進主義な解釈に転じたチェリビダッケのブラームスは,意外につまらないのですよ,僕には.

2007/11/12

ニーノ・ロータ/交響曲第3番

ニーノ・ロータ/交響曲第3番ハ調@大友直人/日本フィル(キング:KICC241)

 1997年8月の録音.
 「ゴッドファーザー」「太陽がいっぱい」「山猫」などの映画音楽で知られたニーノ・ロータ(1911-1979)は,そもそもミラノ音楽院でイルデブランド・ピツェッティに師事し,さらにローマの聖チェチーリア音楽院でアルフレッド・カゼッラにも師事した,歴としたクラシックの作曲家である.イタリアの現代クラシック音楽は,(カゼッラやジャチンド・シェルシのような当時の前衛ならまだしも)なかなか国境を越えられないので,ロータは第二次大戦後に始めた映画音楽の作曲では世界的な名声を勝ち得たものの,クラシックの作曲家としてはマイナーで終わる.このあたり,やはり20世紀に生まれて映画音楽で成功しながら,一生を通じてクラシック畑の作品を書き続けたミクロス・ローザに通じるものがある.
 交響曲は番号つきの作品を3曲残しているが,第3番は1956年から1957年にかけて作曲された.特に作曲に関する動機のようなことは伝えられていないようである.師のカゼッラやヒンデミット,初期のボリス・ブラッハーに通じる新古典主義(作曲当時は「時代遅れ」の烙印を押されていたであろう)と,都会的な抒情が楽章によって使い分けられて,なかなかにモダンな雰囲気を感じさせる.しかし,これはクラシックとしても,やっぱり1920年代から30年代のセンスじゃないかしら(^^;)? そこが今になってウケ始まっているのかもしれないけど.

2007/11/11

アニジャズ 1st note

アニジャズ 1st note@東京ブラス・スタイル(ハピネット:HMCH-1007)

 まるしーは2005年.
 近頃メジャーに進出した,女性ばかり12人編成の「東京ブラス・スタイル」のデビューアルバム.アニソンをホーンセクション中心のバンドがビッグ・バンドっぽいジャズ風味で軽快に奏でていく.何しろ聴いた記憶の無いアニソンが1曲だけなので,実に安心して聴けるのがいい(^^;).どう考えても収録されているほとんどの作品が,20代前半と思しきバンドの面々が同世代的に見ていたアニメじゃないとも思うのだけど,ノリは悪くないぞ.

形式について

 【第9回図書館総合展 2日目 - 図書館を読む】から.


「パネルディスカッションのときに、案の定会場からレポートの書き方を教えるのは教員の役目ではないのかという反論が出た。」

 まだ,こんなことを言っている大学(?)図書館関係者がいるのか(^^;).この反論者,意識が10年は遅れているな,と思う.ランガナタンを持ち出すまでも無く,図書館司書がプロである所以のひとつは「利用者の時間を節約する」ことにあるわけだから,時間の節約のために必要な知識を学生に授ける(と,敢えて書く)ことは,大学図書館が果たすべき当然の役回りだろうに.それが図書館員・学生双方に有益なことだ,と言う視点が持てないようなら図書館司書なぞ辞めたほうがいい.

 ついでに言えば,大学図書館で教える「レポート・論文の書き方」ってのは,あくまでも書き方の「形式」そのもののことを指している.学生自身がレポートなり論文なりを書くモチベーションを大学図書館が教えるわけではないし,その必要も無いはず.そのあたりをごっちゃにして考えているから,「書き方を教えるのは教員の役目」という発想がしぶとく生き残っているんだろうな,と思う.

 例えば,音楽教師はソナタ形式(序奏-提示部[第1主題-第2主題-結尾]-展開部-再現部-コーダ)という形式を教えることはできるけど,そこにどのような楽想を盛り込み,どのような魅力を発散させるかは,その形式をどう活用するかも含めて,音楽を作曲する当人の才能如何にかかっているのと同様,大学図書館はレポート・論文の書き方として「序論-本論-結論」という形式を教え,レポート・論文を書く際に情報検索の技術が必要であることについては他者による「検証」の必要性,「反証可能性」の重要性を教えればよく,その先-学生が何を検索し,どのような観点からレポート・論文を書くのか-のモチベーションにまで言及する必要は皆無であり,それこそ,そこからが教員の出番である,と心得た方がよいのではないか.

 ・・・・・・と,先日久し振りで「レポート・論文の書き方」について講義した大学図書館員は考えるのだけど.

2007/11/10

ブルックナー/ミサ第3番

ブルックナー/ミサ第3番へ短調@コリン・デイヴィス/バイエルン放送交響楽団(フィリップス:422 358-2)

 1988年6月の録音.
 ブルックナーは生前,オルガニストとしては大成功し,宗教音楽の作曲家としてもかなりの程度は成功した作曲家だったが,このミサ第3番はブルックナーによる宗教音楽の最高峰とも呼べる傑作で,作曲家の生前から何度も演奏されている.
 このCDは日本で発売されたときに買ったものだけど,今頃になってようやくブルックナーのミサ曲が聴けるようになった自分に驚いてみたりしている(^^;).少なくとも20代から30代にかけては,とてもこの録音が退屈で聴くに耐えなかったはずなのに,今やこの録音を聴いて疲れを癒している自分がここにいるのだもの.年は取ってみるものだわ.いいことか,悪いことかはよくわからないけどね(^^;).

『枢密院議長の日記』

 久し振りに,読了本の感想など.

 『闘う皇族』(浅見雅男著/角川選書380/角川書店/2005年10月初版)でも重要な資料として取り上げられていた,司法官僚・宮内官僚として最後は枢密院議長まで務めた倉富勇三郎(1853-1948)が1919(大正8)年から1944(昭和19)年まで297冊にわたって書き継いだ「日記」(現在は国立国会図書館所蔵)を,佐野眞一が約7年かけて読み込んだ箇所(大正11年,12年とその他一部分)について,あれやこれやとツッコミを入れているのが本書である.

 7年かけても,その一部分しか読めなかった「倉富日記」の読みづらさを味わいたい方はこちらをどうぞ.この文字に,よく7年も付き合ったものだと,その労苦には心からの敬意を捧げる.倉富の親戚筋だった広津和郎や,みすず書房の小尾俊人も挫折したという曰くつきの難物を,限られた部分とは言え,ここまで面白い(!)読み物に仕立て上げることができただけでも,佐野眞一とその協力者たちの業績は偉とするに足りる.恐らく,今後も利用する研究者こそ存在すれども「倉富日記」の全文が解読・刊行されることはまずあるまいから,この本は末永く「倉富日記」の入門・解説書として第一に挙げられれることになるだろう.

 ただしこの本,『枢密院議長の日記』と題されているものの,実際に枢密院議長(1926-1934)を務めた頃の日記を扱った箇所は,それがロンドン軍縮条約(倉富には外交と軍事は不向きだったと思しい)を主に取り扱っていることもあっていささか精彩を欠く嫌いが無きにしも非ずで,むしろ皇族,華族連中の私的なスキャンダルを取り繕うことに懸命な宮内官僚としての倉富が描かれている第三章から第六章が無類に面白い.第一章で「宮中某重大事件」も扱っているけど,これは上記浅見著の方に一日の長があるようだ(だからなのか,第一章では浅見著と重複する事象が扱われているのに本章内に浅見の名前も書名も出て来ない[巻末の参考文献には挙げられているが]のが,倉富が主人公であるだけに何やら微笑ましい).





2007/11/09

チャイコフスキー/交響曲第6番

チャイコフスキー/交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」@エウゲニ・スヴェトラーノフ@ソヴィエト国立交響楽団(BMG/メロディア:74321 40066 2)

 1967年の録音.スヴェトラーノフ(1928-2002)壮年期の仕事である.
 さすがに音楽が前へ前へと突き進む,その力は大したもの.カラヤンのような,色気とか耽美的なものは感じないけど,何とも無しにスケールの大きさを感じさせる,ある種すがすがしい演奏.オケの統率は若いのにお見事.一糸乱れず,というところ.

タイトルを付ける気にもならない

 報知新聞【新井号泣 広島と決別…FA移籍表明

 記者会見で泣くくらいなら,FA宣言しなければいい.カープで一人前にしてもらっておきながら,後ろ足で砂かけるような行為をしておいて「カープが大好き」だなんて言ってほしくなかったね.優勝争いへの渇望? 何故この15年,カープが優勝争いにも加われないかって,監督の采配もさることながら,FAでの人材の流出が止まらないからじゃないか.育てても育てても選手は「権利」だとカープを出て行く.自分たちで優勝できない環境を作っておきながら,カープが優勝争いに加われないと,どの口が話しているのだ.

 FAは確かに選手が好成績をあげて獲得した個々の権利である.僕も義理人情がこの世のすべてだとはおもっていない.もっとお金が欲しければ,高く売れるうちに自らを高く売るのもいいだろう.だから,「お金」を涙でごまかすような行為はしてほしくない.「カープは企業努力を怠っているので,他の球団に行く」と,どうして笑って言ってくれなかったのか.

 さらに,タイガース入りが既定路線のように報じられているのも気に入らない.中日新聞を親会社に持つドラゴンズが読売新聞への対抗心を燃やして読売の邪魔をしつつ,いい選手をかっさらうのはまだしも理解の範囲内だ.しかし,タイガースがプチ読売化して,どこのチームだかわからないようなラインナップを組み優勝争いをしなくちゃならない理由が何処にあるというのだ? 大阪が東京に対抗心を燃やすのはわかるが,大阪は東京とは違う方法を採ることで東京を倒さなければ意味が無いのではなかったのか.

 中国新聞は【落胆「カープどうなる」 新井選手移籍へ】と書くが,これはひとりカープ球団の危機にとどまらない.プロ野球がこんなにつまらないものだと思ったのは,30年以上プロ野球を見てきて初めてのことだ.これから,どんどん「プロ野球」はつまらない方向へ進んでいくのだろう.

2007/11/08

モソロフ/絃楽四重奏曲第1番

モソロフ/絃楽四重奏曲第1番作品24@ノヴォシビルスク“フィラルモニカ”絃楽四重奏団(アルテ・ノヴァ:74321 48722 2)

 1994年5月の録音.
 管絃楽曲「鉄工場」で知られるロシア・アヴァンギャルドの代表的な作曲家アレクサンドル・モソロフ(1900-1973)による,1927年にフランクフルトで初演された絃楽四重奏曲である.古典的な4楽章制をとるが,23分ほどの作品の中で第1楽章が全曲の6割以上の15分余りを占めるというアンバランスな構成.しかもその第1楽章は,まるでポプリな作りで,それだけで独立した作品のように響く.バルトークにも似た響きだが,バルトークのような音楽の求心力はほとんどなく,形式も判然としない.恐らく,この音楽は「労働」か「機械」のアナロジーなのであろう.
 モソロフの才能は疑うべくも無いが,これではスターリンとその取り巻きには理解できまい.

2007/11/07

元気予報@永井真理子

元気予報@永井真理子(ファンハウス:32FD-1092)

 1987年発表.
 近所のブックオフで手に入れてきたCDですが,何とまあ,ちょうど20年前のアルバムなんですね,これ(^^;).実は学生の頃,永井真理子は好きでレンタル屋からCD借りて来てはダビングしていました.今も昔も貧乏なもので,好きとは言ってもクラシックさえ揃えるのが厳しくて,永井真理子までは懐具合が廻りかねたのですよ.
 で,20年後にこのCD入手して,あの頃の渇をようやく癒している次第.多分,沢田聖子や永井真理子あたりが,僕の女性ポップスに対する感覚の根っ子なんだろうなあ.

2007/11/06

チャイコフスキー/絃楽セレナーデ

チャイコフスキー/絃楽合奏のためのセレナーデ ハ長調作品48@ヴィレム・メンゲルベルク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管絃楽団(テルデック:WPCS-4327/4330)

 1938年11月の録音.この4枚組のCDには同じ録音のSPからの復刻と,金属原盤からの復刻の2種類の復刻が収録されているが,今日はSPからの復刻盤の方で.
 この録音,とあるアマチュア絃楽器奏者の知人に「チャイコの『絃楽セレナーデ』いい録音ありませんか?」と尋ねられたときに,ダビングして送ってやったら「モノラルだって言うので期待せずに聴き始めたら,あまりの素晴らしさにビックリしました」と評された演奏です.とにかく,縦の線がこれほどピシッと揃っている「絃セレ」の録音も他には無いだろう,と思えるほどアンサンブルがキマッて(^^;)います.絃楽器の音については,僕はそれほど多くを語れるわけでもありませんが,1930年代の録音にしては明瞭に録れているんじゃないでしょうか.

ブラームス/交響曲第2番

ブラームス/交響曲第2番ニ長調作品73@フェレンツ・フリッチャイ/ヴィーン・フィル(DG:445 407-2)

 1961年8月27日,ザルツブルク祝祭大劇場でのライヴ録音.何でも,この演奏会はザルツブルク音楽祭でこの年フリッチャイ(1914-1963)が指揮したW.A.モーツァルトの歌劇「イドメネオ」が大当たりを取ったために,急遽追加された演奏会だったとか.同日にはコダーイの「ガランタ舞曲」,ベートーヴェンの三重協奏曲(ソリストがヴォルフガング・シュナイダーハン,ピエール・フルニエ,ゲザ・アンダだったという!)が演奏されている由(【フリッチャイ演奏会記録(放送録音含む)】を参考にしました).

 この演奏,もう第1楽章からノリノリで,フリッチャイがメロディを唸っている声がはっきり聴こえる(^^;).録音がDGというよりはデッカのそれに近いようで(昔は会社によって録音の雰囲気が随分違ったものだった),モノラルの割には生々しいオン気味の音なのが,少々聴きづらくて緩徐楽章で興を殺ぐところがあるものの,両端楽章ではさほど気にならず,早すぎた最晩年の豪放な指揮振りを偲ばせる録音である.

2007/11/05

ショスタコーヴィチ/交響曲第6番

ショスタコーヴィチ/交響曲第6番ロ短調作品54@ヘルベルト・ケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団(ヴェイトブリック:SSS0040-2)

 1973年9月25日,ライプツィヒでのライヴ録音.
 オケは善戦しているとは思うけど,下手(^^;)だ.時に肝心なところで金管が裏返ったりするのは致命傷.しかしそのオケの弱さを,音楽の「叫び」に聴かせてしまうだけの音楽性が,音楽を突き放したようなケーゲルの解釈にあるところが,この演奏の凄みにつながっている.冷酷非情なショスタコーヴィチである.

2007/11/04

ベートーヴェン/交響曲第3番

ベートーヴェン/交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」@ルドルフ・ケンペ/ロイヤル・フィル(IMP:5 73950 2)

 1974年5月22日,スメタナ・ホールにて「プラハの春」音楽祭でのライヴ録音.
 ルドルフ・ケンペ(1910-1976)脂の乗り切った頃の録音である.白眉は,やはり第2楽章か.ケンペは本来,テンポを大きく動かしたりハッとさせるような表情をつけることで聴き手をひきつける指揮者ではなく,音楽の深いところから浮かび上がってくる心情を聴き手に聴かせることのできた指揮者だったが,それが却ってライヴでは計算外のより激烈な演奏として噴出することも多く,ケンペのライヴが珍重されるのも故なきことではない.この録音もそのひとつであろう.

2007/11/03

フランソワ・クープラン/王宮のコンセール

フランソワ・クープラン/王宮のコンセール@ヤープ・テル・リンデンほか(ハルモニア・ムンディ・フランス:HMA1901151)

 1984年の録音.力みの無い,軽妙でシャレた雰囲気の好演である.年がら年中,独墺系後期ロマン派をガンガン聴いている僕でも,たまにはフランス・バロックの音楽を聴くこともあるよん,ということで(^^;).

 大クープラン(1668-1733)がフランス宮廷に関係していた頃(1717年からは宮廷作曲家・オルガニストを勤めている)は,宮廷で毎週日曜日ごとに国王のための演奏会が催されており,そこで演奏するために作曲したという合奏のための組曲である.この録音ではフラウト・トラヴェルソ2本,クラヴザン,バス・ド・ヴィオールという編成で演奏されている.

 ちなみに大クープラン当時のフランス国王は他でもない「太陽王」ルイ14世(在位1643-1715)と,その後を継いだルイ15世(在位1715-1774).その当時のフランス宮廷は,このような華麗で洒脱な音楽を毎週,生で聴いていたのだな(^^;).

2007/11/02

AliceⅤ

AliceⅤ@アリス(東芝EMI:TOCT-10104)

 オリジナルLPは1976年7月5日発売.
 ちょっと前に,レコード屋の商品入れ替えのワゴンセールで入手したCD.恐らく,僕よりひとつ上の世代(1960年代前半生まれ)のひとには懐かしい内容でしょう.「今はもうだれも」「遠くで汽笛を聞きながら」「帰らざる日々」・・・・・・(^^;).僕は「養老院サンバ」(違)でアリスを知ったクチなので,このアルバムは自分の「懐メロ」と言うより「過去の名曲」に近い扱いですね.
 「今はもうだれも」は何度かカラオケで歌ったことありますが(生ギターで歌えたら,カッコよかったでしょうねえ),当時のロングセラーとして新聞にも取り上げられた記憶のある「帰らざる日々」って,ホントに真っ暗な曲ですね.とても僕はカラオケにはかけられない.

「オレ流だね」

 【愚智提衡而立治之至也: ブルックナー/交響曲第8番】への自己レス.

 今朝までは,ほぼ上記エントリーを書いたときの気持ちを引きずっていたけど,

産経新聞【落合采配に玉木氏も激怒「中日新聞への寄稿やめる」

この記事を見て気が変わった.冗談じゃない.短期決戦の綾はどこで潮目が変わるか,試合をしている当人たちにだってわからないんだ.昭和58年の日本シリーズ第6戦での西本聖投入を,昭和61年の日本シリーズ第5戦での工藤公康のサヨナラ安打を,お前は見なかったのか.昭和63年の日本シリーズ第1戦,ドラゴンズの先発が小野和幸だったときにライオンズの選手が何と思ったか,知らないとでも言うのか.

今回の山井→岩瀬の投手交代は,誰が何と言おうが落合監督が正しい.あの場面,岩瀬がどれだけの重圧で投げていたか.彼は最後の場面を覚えていないと言う.

中日スポーツ【岩瀬、究極継投!緊迫の3アウト 9回から救援


「人生初めて、こんなプレッシャーの中で投げました。最後のことは全然、覚えていません」

あの場面は投げることよりも,投げないことの方が楽だったに違いない.その中で,ファイターズの攻撃を3人で切って取り,一人の走者も出さなかった岩瀬と,その岩瀬を送り出した落合監督の采配は,「プロの仕事」として褒められるのが筋であれこそ,感情論であれこれ評価すべき代物じゃない.

 今の僕にできることは「オレ流だね」と唸ることくらいなものだ(^^;).

2007/11/01

ブルックナー/交響曲第8番

ブルックナー/交響曲第8番ハ短調@カール・ベーム/ヴィーン・フィル(DG:463 081-1)

 1976年2月の録音.
 【日本シリーズ:中日が53年ぶり2度目の優勝】僕は怒っているのだよ(^^;).最終回,山井に完全試合の夢を見せてやらなかった落合采配に.確かに日本シリーズは短期決戦,どこで潮目が変わるかわかりはしないので,落合采配はそれで正しいのだけど,「完全試合」というのは過去に15人しか達成していない大記録だよ.しかも日本シリーズじゃ誰も達成してない記録ですよ.せめてヒットを1本打たれるまでは山井でいってほしかった.これは感情論で,短期決戦の戦い方はそうじゃない,落合が正しいというのは,理屈の上ではわかっているけどね,それでもやっぱり僕は夢が見たかった・・・・・・,いや,もうやめましょ.感情論じゃ「勝負」はできない.

 まずはなによりも,杉下茂さんが健在なうちに2度目の日本一を達成できてよかったよかった>>ドラゴンズ.おめでとうございます,と祝意と怒気を両方表現できそうな作品,と言うことで今日はこの曲.

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