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2007/09/16

「場所としての図書館」試論

 【図書館情報学を学ぶ - 次世代の「場としての図書館」のあり方を自分なりに考えてみました 】に触発されたので,何か書こうと思い立ち,会員だから毎月届くのに積読のまま(技術志向じゃないもので,どうしても後回し)になっている「情報の科学と技術」の57巻9号(2007年9月)を読んでみましたが・・・・・・.

 本題に入る前に一言.特集中非常に気になったのは,実は薬師院はるみ「図書館員のあり方と電子化の進行:不安の昂進と専門職化の画策」(434-440頁)における,内容の異形さ.ジョン・コンスタブルやトマス・ガーティンが描いた風景画が整然と並ぶ中に,ひとつだけ晩年のエゴン・シーレの自画像が混ざっているような雰囲気ですね(^^;).このヒト,僕の記憶に間違いが無ければ日図研が発行する雑誌「図書館界」の常連寄稿者ですが,如何にも日図研のイデオローグらしく,『市民の図書館』(「貸出」という前川派特有の用語を使っているにもかかわらず,筆者が『市民の図書館』に依拠していることを隠そう,隠そうとしているところがまたイヤらしい)の破綻を糊塗して時代の変化と要請を否定する内容であり,今回の特集の趣旨からは明らかに浮き上がった論文なんじゃないでしょうか?

 まあ,気を取り直して(^^;).

 ・・・・・・とは言え,kunimiyaさんが取り上げている竹内比呂也「デジタルコンテンツの彼方に図書館の姿を求めて」への僕の評価はいささか両義的なもので,この論文が論じている図書館,もしくは図書館司書への評価はともかく,その前提がいささか粗雑(性急?)で,例えば,学術雑誌に区分される雑誌(特に外国誌)の新着雑誌架は電子化の進展で早晩撤去されるだろうとしても,広告収入を前提としている一般雑誌(特に国内誌,高年齢層向けの論壇雑誌などね)の雑誌架がそれとほとんど同時に撤去されるとは,僕には考えられない(古い奴だとお思いでしょうが)ため,これに基づいて「場所としての図書館」を論じるのは気が進まない(^^;)のです.そこで,取り敢えず「場所としての図書館」という言葉だけを引き取って,自由に書かせてもらいますね.

 で,ようやく本題.

 「場所としての図書館」が体現するのは,何と言ってもまずは,いわゆる「公共性」(特定の誰かにではなく,すべての誰かに対して開かれた,すべての誰かに共通のもの)の保障なんだろうと思います.流行りの言葉を使えば,「オープン」であるということと,「コモンズ」である,ということになりますか.これらを言い換えると,以前にも書いた「機会の平等」の保障ということになる,と考えています.

 ところが「コモンズの悲劇」という話があるように,「オープン」であることと「コモンズ」であることは,なかなか両立しない.卑近な例を挙げれば,公共図書館の利用において,利用者からの要請に基づき(?)ホームレスが排除される例が仄聞されます.このあたり,どうも僕はリバタリアニズムの立場には立てないオールド・リベラリストのようで,妥協すべきところを何処におくか,というよりも「妥協」に積極的な価値を見出したい.薬師院論文のような『市民の図書館』をバイブル視するような地平からは,寛容と妥協を旨とする「公共性」の思想は生まれるはずも,許容できるはずも無いですから.それは『市民の図書館』を支持する方々の,文章や行動における「不寛容」が体現していると僕は見ます.少なくとも図書館において『市民の図書館』が「単一で最終の普遍的解決」(アイザイア・バーリン『ある思想史家の回想』76頁)ではないことくらいは,如何なる立場に立つにせよ,図書館を論じるのであれば踏まえておいていただきたいものです.

 例えば,そもそも学術雑誌の電子化が,すべての雑誌を図書館の雑誌架からの追放にいたること自体,「場所としての図書館」という発想を裏切ってないですか(^^;)? それはある問題の解決かもしれないけど,すべての問題がそれによって解決するわけではないのです.僕の思うところ,学術雑誌の電子化は,ある種の「囲い込み」となる危険性を常に孕んでいるわけですから.

 では,「場所としての図書館」が「公共性」を維持していく上で図書館司書が考え,実行しなければならないことは何であるか? これについて,必ずしも実務としての明確なイメージを竹内論文やkunimiyaさんのように,僕は持ち合わせていませんが,取り敢えず理屈としては,両立しない価値が何とか共存できる余地を残すための妥協を探ることでしょうか.これはアイザイア・バーリンの「多元主義」の受け売りですが,寛容と妥協の余地の無いところに「公共性」が存立するとは,少々考え難いものがあります.

 取り敢えず,今日はここまで(9月17日一部修正).

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