「友・敵関係」と公共性の喪失
最近,面白い本を読んだんですよ.
と断言する,ナチの御用法学者でもあった大法学者カール・シュミット(1888-1985)の『政治的なものの概念』(田中浩,原田武雄訳/未来社)という本.これ,実に危険なほど面白くて,ある種の人間の類型と言えるものを描き出して余すところが無いですね.ここでシュミットが描いた人間の類型に対して共感するところは皆無ですが,シュミットにおける人間,またその意識への洞察には,非常に興味深いものがあります.例えば,このような考察.
「政治的な行動や動機の基因と考えられる,特殊政治的な区別とは,友と敵という区別である.」(15頁)
まったくもって,これはつい最近まである国家の最高指導者たる地位にあった政治家の取った手法の解説に相応しいものじゃないですか.しかも,それは見事な成功を収めたという(-_-;).その後任者は,同じことを別な主題で実行しようとして無残にも失敗し国政に混乱をもたらしましたけどね.
「敵とは,他者・異質者にほかならず,その本質は,とくに強い意味で,存在的に,他者・異質者であるということだけで足りる.」(16頁)
さて,我ながらしばらくぶりで(^^;),9月にエントリーした当blogの図書館系論考の中で,エントリーした当人にも意外な反響があったのは【公共図書館の「イノヴェーション」】でしたね.何だか僕が「貸出」と「ビジネス支援」を,あたかもカール・シュミットの説く「友・敵関係」であるかの如く描いたように受け止められたのは,実は心外だったりします(^^;).
確かに『市民の図書館』が提唱し日本図書館研究会読書調査研究グループが「貸出至上主義」として疑似科学化した,公共図書館の目的としての「貸出し」には,これまで僕は「貸出し」の内容が本質的に抱えている「排除の論理」(これがシュミットの述べる「友・敵関係」と同断であるとしても,あながち間違いではありますまい)とファシズムの匂いを指摘してきましたし,このことはこれからも,幾ら強調してもしすぎることは無いだろうと考えています.それらは公共図書館が無謬であることを前提とし,社会の変化を無視して世を公共図書館につれさせようとした,壮大な実験でしたが,今や「貸出し」の前提となるべき社会の条件が崩壊してしまっており,これ以上『市民の図書館』を正典とした「貸出し」の論理を正当化するのは無理なところまで来ているでしょう.
・・・・・・とは繰り返し繰り返し,同工異曲なことを当blog上で書いて来ましたが,僕は公共図書館が公共性と民主制を維持するための手段としての「貸出」を否定したことは一度もありませんよ(^^;).僕から見れば,「貸出」「ビジネス支援」「医療情報支援」「法律情報支援」などなどは,すべて等しく公共図書館が守るべき妥協と寛容を創出し,維持するための手段であって,それぞれが他の手段を排除するような関係であってはならない性格のものですし,ましてやその手段自体が公共図書館が存在する目的ではありえません.「貸出し」(とその正典である『市民の図書館』)を克服するためのイノヴェーションのひとつとして,「ビジネス支援」に何がしかの可能性がある,というところまでは言っていますが,「ビジネス支援」を以って「貸出」を否定ないしは排除しよう,とは主張していませんよ.それじゃ言っていることが日図研や図問研の主張を裏返しただけになってしまいます(^^;).
彼らのような「排除の論理」あるいは「友・敵関係」に基づく前近代な公共図書館の思想を克服し,先日も引いたアイザイア・バーリンの提唱する「多元主義」にこそ,今後の公共図書館が生き残るための思想的な基盤がある,と述べているのです,僕は.公共図書館が何かひとつの手段を以って特化すべきだ,などというそんな目先の利益を優先した話に僕のエントリーが矮小化されることには,かなりの違和感があります.例えば500人の公共図書館の利用者がいたとして,その中の499人が「貸出」を求め,「医療情報支援」を求める利用者が1人しか存在しなかったとしても,そのたった1人のためにも公共図書館は存在する必要があるのですから.それが公共図書館の機能が保障する「公共性」というものではないでしょうか.それとも,貸出至上主義のように公共図書館の機能を「友・敵関係」で分断し,異質な1人を排除することに何か意味があるのですか?
正直「貸出しに特化した(=「貸出し」を自己目的化した)公共図書館」は,排除の論理に基づく,僕の考える「公共性」を喪失した存在ですから,そんなものはホームレスの寝袋にした方が,公共性の観点からも有意義な存在になるでしょう.本来なら寝袋ではなく,知恵袋にならなければならないのが公共図書館の維持すべき「公共性」なのですから.
今日の利用者には不満もあるでしょうが,公共図書館は昨日の利用者のためにも,明日の利用者のためにも存在しているのです.
ここからは余談.
流行を追いかけている人間の中には,確かに底の浅い発想しかできない人間もいるでしょうが,そのような人間の存在が,その流行に対して流行以前からそれに対峙している人間や,その流行そのものを否定する根拠にはなりえないと思いますよ.Jリーグが始まったとき,日本でプロのサッカーリーグが始まったことに大騒ぎしていた人間たちを苦々しい顔で見ていた同世代のサッカー経験者を僕は知ってますし,僕自身,最近の某マンガによるクラシック音楽ブームを苦々しく感じている人間の一人ですが,だからってJリーグを否定する必要も,クラシック音楽を否定することもないわけで,そのような人間模様は極端な話,何処にでも,どの主題についてもあるんじゃないでしょうか?
また,流行を追いかけている人間が軽薄だとしても,では伝統を墨守している人間が深遠な思想の持ち主なのか,と言えばそれも違うわけで,少なくとも僕は貸出至上主義の側に立つ中で,相手の人格を貶めることでしか自らの主張の正当性を維持できなかったblog主を2人ばかり知ってますから(^^;).どのような主義主張に立つにせよ,
という折口信夫の言葉は,すべてのひとにとっての戒めとなるものだと愚考する次第です.
「己を正しゅうせんがために,相手を貶めるようなことを言ってはなりません」
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コメント
ほへー(・o・;) 図書館関係の文章でカール・シュミットの名を見たのは二度目(×o×)
投稿: 書物奉行 | 2007/10/01 23:11
>>書物奉行さん
カール・シュミットはその履歴上,図書館関係者には不倶戴天の敵(^^;)みたいなものですから,みんな名前も見たくないんじゃないですか.僕も図書館業界では名前を見たこと無いですし,だからこそ,わざわざ引っ張り出してみたんですが,このエントリー,先程確認したら,はてブがひとつしか付いてないですわorz
実のところ,本人の著作を読んだのはこれが初めてです.ただ当方,何を隠そうナチ研究初心者30年目ですから,名前は以前から知ってました.
それにしても,カール・シュミットは危険なほど魅力的な論考を書くヒトですわ.『政治的なものの概念』は100ページほどの小冊子ですが,あちら側に引きずり込まれないように,いささか努力が必要でしたからね(^^;).市野川容孝だったか,その著書で何度もカール・シュミットを引き合いに出す危険性について警告を出していたのが,よくわかりました.
投稿: G.C.W. | 2007/10/02 11:15