そもそも一般的な状況としては,「公共図書館=無料貸本屋」という位置付けは『市民の図書館』が住民の支持を得るためと予算獲得のために採用した戦術ですから,それが廻り巡って自らの首を絞めているわけで,そのことについては業界の側にも責任があるわけですよ(追記:このことについては【愚智提衡而立治之至也: 違います】このエントリーも参考にしていただければ).
でね,僕は10年以上前に,公共図書館の窓口委託が話題になっていたときだったかなと覚えてますが,「公共図書館員=公務員」であらねばならぬ,としても「公務員の既得権益護持」にしか思えない反対運動だったら,周囲の理解は得られませんよ,と,申し上げたことがありました.そうしたら「これは戦術ですから」と言う大意の返答でしたっけ.しかし結局のところ,この戦術も,使い物にならない正規職員を配置して公共図書館は熱意のある人材でなきゃダメだ,という空気を醸成されるのに逆に利用されてしまった感があります.
例えば【かたつむりは電子図書館の夢をみるか - アウトソーシングが「不可能」な業務は存在しない、が・・・】むしろ行政の場合は,ゼネラリストは委託でも賄えるけど,スペシャリストは自前で準備するのが正当だと,僕は何年も前から言っているわけでね.「すべて公務員で!」を押し通した労働組合(自治労)的発想を採用したことが,「委託」闘争において公共図書館が敗北した原因だと思うのですよ.はっきり言ってしまえば,自治体においては総務や経理のような部署こそ委託の対象とするべきで,公共図書館や博物館のような専門的な知識と経験の必要なところこそ,ある意味採算の取れないところこそ,自前で雇用することが行政には求められるはずなのですよ.採算が取れるのであれば,第三セクターや委託をしなくとも民間が乗り出しているはずなんだから.
ちょうど『「慰安婦」問題とは何だったのか』(大沼保昭著/中央公論新社/中公新書1900/2007年6月))という本を読み上げたところですが,この本の中で著者は
「慰安婦」問題にかかわった多くの支援団体,NGO,弁護士,学者,ジャーナリストは,みずからが政治闘争の主体であり,みずからの言動は結果責任を問われるという自覚をどれだけもっていたのだろうか.そうした自覚とリアリズムを欠いたまま,裁判闘争やメディアの圧力,国連などを利用した外圧によってみずからの主張を実現できると考え,被害者たちにそう助言してきたのではないか.こうした希望的観測のもとに被害者を引っ張ってきた支援団体や弁護団は,結果に対する責任を負うべき主体として,将来の予測と政治闘争の立て方において大きな過ちを犯したのではなかろうか.(p154-155)
と書いています.日図協や図問研,そして読書調査研究グループという貸出至上主義の牙城を抱える日図研にも,この言葉は当てはまるでしょう.そして誰よりも,過去に
「『市民の図書館』はバイブル」と過日「図書館界」誌上で断言した日図協の理事長がまず,これまでの戦術の誤りを自ら認めない限りは,図書館業界に未来が開けるとは思えません.
それにしても, 何故この業界には「公共図書館は無謬である」ことを信じて疑わない方々がこうも多いのかしらん.これまでの公共図書館の概念から運動まで,すべてが正しかったとしたら,現在の公共図書館を巡る事態はもう少し好転していそうなものですが.正しいことをしていたとしても,それが時代に受け入れられるかどうかは,また別の話,ということも承知してますが,それでもそう思わずにはいられない頑迷固陋さがこの業界には蔓延しているような気がしますよ.
第一,業界に未だに「先進的」な公共図書館の在り様を「そこまで辿り着いていない公共図書館が沢山あるのだ」という理由で否定する意見があります.そのような意見の存在そのものは,民主制と自由主義を旨とする社会にとっては当たり前のこととはいえ,「先進的」な公共図書館をモデルとすることを極力阻止しようとするような発想があるうちは,ホントにダメですよ.「公共」図書館運動に巣食っている,多様性と寛容を否定するファシズム(スターリニズムか?)が,どれだけ世の中の公共図書館観に害をなしていることか!
・・・・・・まあ,ぐだぐだと書いてきましたが,最終的には,例えば「委託される公共図書館」という「政策」が,果たして市民の支持を得ることが出来るかどうか,なんですよね.市民が委託を支持せず,公務員による直営を望めば市会議員に陳情も行われるでしょうし,市役所にもご意見が寄せられるでしょう.また昨年だったか,静岡市の計画していた委託が潰されたことには(市民運動に予断・予見を持たない)マスメディアの理解(一過性に終わらない,継続的な報道)があづかって力になったところがないとは言えないわけです.マスメディアを信用しないのは古い左翼系言論にありがちな固定観念ですが,戦術を間違えておいて後日繰言を述べても,それは引かれ者の小唄ですわ.
まずは幅広い視点を持った戦略/グラウンドデザインがなければ,結局は場当たり的な玉砕戦術に陥るしかないのは,それこそ大東亜戦争が実証しています.公共図書館には『中小レポート』以降,責任ある団体がまとめた戦略的分析文書は存在しないわけで(『市民の図書館』は目先の戦術文書です),本当ならば,もうそこからやり直すしかない.ところが日図協には,先日の「図書館雑誌」8月号の総会・評議員会・理事会の記録を見た限り,とてもそんな余裕は無いようです.
取り敢えず,僕らは出来るところから始めるしかないのでしょう.
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