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「貸出至上主義者」度チェックβ版

ココログ


ほし2

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2007年9月の記事

2007/09/30

ボッケリーニ/オーボエ五重奏曲ト長調

ボッケリーニ/オーボエ五重奏曲ト長調作品45の1@サルヴァドール・ミールほか(アルテ・ノヴァ:74321 72102 2)

 1995年9月の録音.
 底抜けに明るいルイジ・ボッケリーニ(1743-1805)のオーボエ(またはフルート)と弦楽四重奏のための五重奏曲.この作品45は同じような小さな五重奏曲が6曲でセットになっている作品集のようで,この曲は同じようなテンポの2楽章からなる.のちにギター五重奏曲にも転用されているらしい.
 たまには,難しいことを考えずに,秋の夜長は斯様な佳作を聴きながらのんびりしたいものです.現状では聴くことはともかく,「のんびり」がねえ(^^;).

2007/09/29

ショスタコーヴィチ/交響曲第4番

ショスタコーヴィチ/交響曲第4番ハ短調作品43@ヴァレリー・ゲルギエフ/キーロフ管絃楽団(フィリップス:470 842-2)

 2001年11月の録音.
 まったく,片言隻語をとらまえられて揚げ足を取られるのではたまったものではない(^^;).なるべく「スルー力! スルー力! スルー力!」と三度唱えてやり過ごすことにしたいとは思いますが.

 ましてや,この第4番をリハーサルから撤回した1936年当時のショスタコーヴィチ(1906-1975)は,この壮大かつ難解な交響曲が歌劇「ムツェンスクのマクベス夫人」,バレエ「明るい小川」が共産党=国家から批判された後のスターリン体制化のソ連では,「スルー力」どころの話ではなく,文字通り自らの命取りになると踏んだのであろう.レニングラード・フィルで予定されていた初演を振るはずだったフリッツ・シュティードリー(1883-1968)もナチに追われてソ連に来た亡命者であり,ここで騒動に巻き込まれるのを嫌った,という噂もある(シュティードリーはその後1937年にはUSAに出国している.なおシュティードリーはマーラーの薫陶を受けたことのある指揮者でもあり,この作品に低い評価をしていたとは考えられない.むしろ作品が「見えていた」だけに騒動が起きるのは必至と見たのかもしれない).
 リハーサルの直前にソ連に入国したオットー・クレンペラーが,ショスタコーヴィチのもとを訪れた際,この作品を気に入って外国での初演権を求めた,と言う話も伝わっているほどモダニスティックでラプソディックでマーラー的なこの交響曲は,結局1962年12月30日にキリル・コンドラシンが初演するまで封印されてしまうのである.

 初演から約40年,作曲から約65年の経てのゲルギエフの演奏は,何とも平和なもの.ロシア・アヴァンギャルド最後のあがきにも思える,この作品独特の切迫感があまり感じられない.

「友・敵関係」と公共性の喪失

 最近,面白い本を読んだんですよ.


「政治的な行動や動機の基因と考えられる,特殊政治的な区別とは,友と敵という区別である.」(15頁)
と断言する,ナチの御用法学者でもあった大法学者カール・シュミット(1888-1985)の『政治的なものの概念』(田中浩,原田武雄訳/未来社)という本.これ,実に危険なほど面白くて,ある種の人間の類型と言えるものを描き出して余すところが無いですね.ここでシュミットが描いた人間の類型に対して共感するところは皆無ですが,シュミットにおける人間,またその意識への洞察には,非常に興味深いものがあります.例えば,このような考察.

「敵とは,他者・異質者にほかならず,その本質は,とくに強い意味で,存在的に,他者・異質者であるということだけで足りる.」(16頁)
まったくもって,これはつい最近まである国家の最高指導者たる地位にあった政治家の取った手法の解説に相応しいものじゃないですか.しかも,それは見事な成功を収めたという(-_-;).その後任者は,同じことを別な主題で実行しようとして無残にも失敗し国政に混乱をもたらしましたけどね.

 さて,我ながらしばらくぶりで(^^;),9月にエントリーした当blogの図書館系論考の中で,エントリーした当人にも意外な反響があったのは【公共図書館の「イノヴェーション」】でしたね.何だか僕が「貸出」と「ビジネス支援」を,あたかもカール・シュミットの説く「友・敵関係」であるかの如く描いたように受け止められたのは,実は心外だったりします(^^;).

 確かに『市民の図書館』が提唱し日本図書館研究会読書調査研究グループが「貸出至上主義」として疑似科学化した,公共図書館の目的としての「貸出し」には,これまで僕は「貸出し」の内容が本質的に抱えている「排除の論理」(これがシュミットの述べる「友・敵関係」と同断であるとしても,あながち間違いではありますまい)とファシズムの匂いを指摘してきましたし,このことはこれからも,幾ら強調してもしすぎることは無いだろうと考えています.それらは公共図書館が無謬であることを前提とし,社会の変化を無視して世を公共図書館につれさせようとした,壮大な実験でしたが,今や「貸出し」の前提となるべき社会の条件が崩壊してしまっており,これ以上『市民の図書館』を正典とした「貸出し」の論理を正当化するのは無理なところまで来ているでしょう.

 ・・・・・・とは繰り返し繰り返し,同工異曲なことを当blog上で書いて来ましたが,僕は公共図書館が公共性と民主制を維持するための手段としての「貸出」を否定したことは一度もありませんよ(^^;).僕から見れば,「貸出」「ビジネス支援」「医療情報支援」「法律情報支援」などなどは,すべて等しく公共図書館が守るべき妥協と寛容を創出し,維持するための手段であって,それぞれが他の手段を排除するような関係であってはならない性格のものですし,ましてやその手段自体が公共図書館が存在する目的ではありえません.「貸出し」(とその正典である『市民の図書館』)を克服するためのイノヴェーションのひとつとして,「ビジネス支援」に何がしかの可能性がある,というところまでは言っていますが,「ビジネス支援」を以って「貸出」を否定ないしは排除しよう,とは主張していませんよ.それじゃ言っていることが日図研や図問研の主張を裏返しただけになってしまいます(^^;).

 彼らのような「排除の論理」あるいは「友・敵関係」に基づく前近代な公共図書館の思想を克服し,先日も引いたアイザイア・バーリンの提唱する「多元主義」にこそ,今後の公共図書館が生き残るための思想的な基盤がある,と述べているのです,僕は.公共図書館が何かひとつの手段を以って特化すべきだ,などというそんな目先の利益を優先した話に僕のエントリーが矮小化されることには,かなりの違和感があります.例えば500人の公共図書館の利用者がいたとして,その中の499人が「貸出」を求め,「医療情報支援」を求める利用者が1人しか存在しなかったとしても,そのたった1人のためにも公共図書館は存在する必要があるのですから.それが公共図書館の機能が保障する「公共性」というものではないでしょうか.それとも,貸出至上主義のように公共図書館の機能を「友・敵関係」で分断し,異質な1人を排除することに何か意味があるのですか?

 正直「貸出しに特化した(=「貸出し」を自己目的化した)公共図書館」は,排除の論理に基づく,僕の考える「公共性」を喪失した存在ですから,そんなものはホームレスの寝袋にした方が,公共性の観点からも有意義な存在になるでしょう.本来なら寝袋ではなく,知恵袋にならなければならないのが公共図書館の維持すべき「公共性」なのですから.

 今日の利用者には不満もあるでしょうが,公共図書館は昨日の利用者のためにも,明日の利用者のためにも存在しているのです.



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2007/09/28

ドヴォルジャーク/交響曲第9番

ドヴォルジャーク/交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」@ポール・パレー/デトロイト交響楽団(マーキュリー:434 317-2)

 1960年2月の録音.僕にとっては指揮者パレー(1886-1979)を「発見」した名演の名録音である.これほどテンポの速い指揮者は他にいないし(「新世界より」を34分強!),その速いテンポの中で細かいニュアンスがスノークリスタルのように明滅する,如何にもプーランクのようなフランスの新古典主義を,典型的に演奏で表現していると思う.

 ときに先日,とある鉄道模型のパーツを配布する週刊誌のテレビCMでブラームスの交響曲第1番が流れていたけど,後期ロマン派を使うなら,ここは鉄道マニアで鳴らした(?)ドヴォルジャークじゃあないのか,とツッコミをひとつ入れてみる(^^;).8番や9番のフィナーレじゃないのかしらん?

2007/09/27

アンダーソン/トランペット吹きの休日

アンダーソン/トランペット吹きの休日@アーサー・フィードラー/ボストン・ポップス・オーケストラ(DG:POCG-9683)

 1973年6月の録音.このCDはフィードラー(1894-1979)が晩年にDGに録音した数枚のLPからの再編集モノで,この録音が収録されているLP“Boston Pops Encores”(MG1139)は,僕も日本盤を持っている.フィードラーのRCA盤やアンダーソンの自作自演盤(MCA),レナード・スラットキンの録音(RCA)と比べても上手いトランペットが明瞭に録音されている,軽妙な好演だと思う.
 ルロイ・アンダーソン(1908-1975)は,まさかこの作品が日本で「運動会の3大BGM」として知らぬ者の無い音楽になるとは,夢にも思っていなかったでしょうねえ(^^;).

2007/09/26

カバレフスキー/道化師

カバレフスキー/組曲「道化師」作品26@ヴァシリー・イェルヴァコフ/モスクワ交響楽団(ナクソス:8.553411)

 1995年3月の録音.
 誰が呼んだか,「運動会の3大BGM」の1曲を担う「ギャロップ」を第2曲に持つ作品だが,組曲全曲を聴ける録音は,昔はほとんど無かったんじゃないかしらん? 20年ほど前までは,NHK-FMでこの作品を流すときにかかっていたのは,いつも同じ録音(エドゥアルド・ヴァン・ルモーテル/モンテカルロ国立歌劇場管絃楽団)だったような記憶がある.
 音楽は如何にもカバレフスキーらしい,社会主義リアリズムの見本みたいな明朗快活でわかりやすいもの.

2007/09/25

武満徹/2つのレント

武満徹/2つのレント@福間洸太朗(ナクソス:8.570261J)

 2006年7月の録音.
 僕は生憎,武満徹(1930-1996)の良い聴き手ではこれまでなかったし,これからもそうだろうと思う.僕がこの「武満徹/ピアノ曲集」を購入しようと思い立ったのは,まずは「音楽以前」と山根銀二(1906-1982)が酷評した「2つのレント」(1950年)が収められているから,というくらいで.
 山根銀二は戦前戦後を通じて活躍した音楽評論家で,確か長らく朝日新聞に音楽批評欄をもらって健筆を振るっていた人物.何となく,晩年の批評を呼んだ記憶があるのは気のせいか? 何しろ,戦時中は山田耕筰と組んで国策に協力していたのに,戦後は一転して山田耕筰批判の急先鋒になるという,変わり身の早さに象徴される一種の「目利き」が,長らく山根を業界の第一線で活躍させた主因だったのだろう.

 さて「2つのレント」である.現在の耳で聴くと,ドビュッシーに似た象徴主義的で,どこかハシゴをボカされたような雰囲気で進行する音楽だな,というところ.この「何も起こらない」「収束しない」感が,独墺系音楽ばかり嗜んでいた当時の批評家にはお気に召さなかったのだろうな(^^;).

2007/09/24

ブルックナー/交響曲第8番

ブルックナー/交響曲第8番ハ短調@ジョン・バルビローリ/ハレ管絃楽団(カールトン:15656 91922)

 1970年5月20日,ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのライヴ録音.バルビローリ(1899-1970)死の2か月前の豪快な名演である.ライヴらしい事故は散見される(特に金管)ものの,バルビローリ/ハレ管のコンビの到達点が如何に幸福なものであったかを,この演奏を生で聴くことの出来たことが幸福な経験であったかを如実に物語っている.
 ここで聴かれる,輝かしく豊穣な絃の響きは,独墺系の演奏にはなかなか聴くことの出来ないもの.

2007/09/23

マーラー/交響曲第4番

マーラー/交響曲第4番ト長調@ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィル(スプラフォン:SU3880-2)

 1980年10月の録音.
 マーラーの交響曲が大好きな僕でも,4番を聴くのは珍しいこと(^^;).この曲は何とも凝った,人工的にメルヘンチックな雰囲気を醸し出させているような,如何にも近代人マーラーらしい自意識と美意識の横溢した作品なんだろうと思うのだけど,でもやっぱりあまり都会的だったりモダーンだったり,また逆にド田舎風を強調する演奏はあまり好きじゃないのね.このノイマンの演奏のような,郊外に広がる田園風景っぽい演奏がちょうどいい.

2007/09/22

W.A.モーツァルト/交響曲第40番

W.A.モーツァルト/交響曲ト短調K.550(第40番)@ギュンター・ヴァント/北ドイツ放送交響楽団(BMG:82876 65842 2)

 1994年3月の録音.
 その晩年,明らかにオケの統率やテンポに弛緩が聴かれたカール・ベームと異なり,ヴァント(1912-2002)は最晩年に至るまで,オケに対する抜群の統率力としなやかなテンポを維持し続けることが出来たようである.この録音も80歳を過ぎたあたりでの演奏であるが,アンサンブルにもテンポにも破綻が無いどころか,見事な職人芸を聴かせてくれる.ザッハリヒで飾り気の無い,それでいて活力を聴かせてくれるモーツァルトである.

2007/09/21

J.S.バッハ/ゴルトベルク変奏曲

J.S.バッハ/ゴルトベルク変奏曲BWV988@キース・ジャレット(ECM:J00J 20356)

 1989年1月,八ヶ岳高原音楽堂での録音.
 ジャズ・ピアニストとして鳴らしているキース・ジャレット(1945-)は,実は20世紀最高のクラシック音楽教師のひとりナディア・ブーランジェ(1887-1979)の門下でもある.そのことが関係しているのかどうか,この録音はジャズの要素を微塵も感じさせず,また下手に弾き崩すこともなく,「ゴルトベルク変奏曲」の持つ高雅な自発性を高度なレベルで達成している好演になっている.
 なお,ここで用いられているチェンバロは古い楽器の複製ではなく,日本の独創的なヒストリカル・チェンバロ製作者である高橋辰郎が1988年に製作したものが使用されている.ジャレットは他のバロック作品でも,チェンバロは高橋が製作したものを一貫して使用しているとの由.

2007/09/20

公共図書館の「イノヴェーション」

 「イノヴェーション(innovation)」とは,オーストリア出身の経済学者・社会学者のヨーゼフ・アロイス・シュンペーター(1883-1950)が定義した言葉です.一般的には「技術革新」と訳されるようですが,むしろ経済学の方で「新結合」という訳があるように,「イノヴェーション」には単なる技術(メカニック)の新しい創造にはとどまらない意味があります.経済学・社会学の素人なりに考えてみると,それは技術,生産,流通,消費の組み合わせによるダイナミズムをあるいは新しく創造し,あるいは過去にあった組み合わせを創造的に(大胆に)組み直し,それらを新たに組織化するところまでが「イノヴェーション」という言葉が意味するところであると考えることが出来ます.

 ところで,「出版ニュース」2007年8月下旬号で,田井郁久雄氏が「行革の流れの中で-岡山市立図書館についての「事業仕分け」」と題する文章の中で,飽きもせず相変わらずの「ビジネス支援」批判を繰り返しています.自ら(あるいは自らの意見に賛同する者)が観察したビジネス支援を主たる業務としている公共図書館の部門(あるいはビジネス支援が主目的である公共図書館そのもの)が閑散としていることに対して,岡山市立図書館の盛況振りを比較し後者を激賞しています.しかし,僕はビジネス支援という,ある程度明確な目的を持つお客が来館する公共図書館と,主題に囚われることなく誰にでも開かれているのであろう公共図書館を,その差異について検討することもなく単に来館者数のみを比較することに何らかの意味があるとは考えません.また後者の職員の献身的かつ超人的な努力(それはもちろん,十二分に賞賛に値するものです)を賞賛し,後者が今後の公共図書館のあるべき姿であり,それが今後の公共図書館の繁栄を保障するかの如き田井氏の論陣には賛同しかねます.

 ここにおける田井氏の論の立て方は,例えるなら主題と利用層が限定されている専門図書館と,誰にでも開かれている公共図書館を比較してお客の多寡を比較し,専門があるが故にお客の絶対数が少ない専門図書館を「利用者が少ないからダメ図書館」と評価するに等しい,巧妙なプロパガンダです.これは,田井氏の賞賛する公共図書館のあり方が果たして現在の「民主制」や「公共性」に相応しい公共図書館のあり方であるかどうかも含めて,非常に疑問の余地がある議論の立て方でしょう.

 で,どうして田井氏や前川恒雄氏(とその取り巻き)がここまで「ビジネス支援」に対してあからさまな嫌悪を示すのかを,少々考えてみたのですが,「ビジネス支援」が話題になり始めた当初から「ビジネス支援は古くから公共図書館が行ってきたサービスのひとつであり,ことさらに新しいサービスとして取り上げるべきではないという声が常に彼らから上がります.そのような声に対して僕は「では何故,ビジネス支援という言葉が公共図書館に対して,業界の外側からもたらされ,なおかつそれを期待されるようになったんですか,と尋ねたいところではある」3年も前に書いているのですが(^^;),3年後の現在もなお,僕を納得させるような回答は業界の内側からは聞こえてこないのが実情です.現在では,ある種の出羽守の皆様が評価していたBritish Libraryのサイトにも「Services for Business」があるのに,『市民の図書館』にこだわる方々にはそれも見えないようです.

 つまるところ,田井氏や前川氏,そしてその取り巻きの方々は実のところ「ビジネス支援」に代表される動きが,公共図書館における「イノヴェーション」であることを直感的に見抜いているんじゃなかろうか,と思うのです.ひとつひとつの手法はどうあれ,その総体から紡ぎ出されるこの動きが本質的に新しい創造であることを.そして,それを「イノヴェーション」として認めることは,即ち「貸出し」を最前線に押し出すことで進めて来た彼らの公共図書館を発展させるために採用した戦術(そのバイブルが『市民の図書館』であり,『図書館の発見』初版です)の否定と崩壊につながることを,理屈ではなく感じ取っているのでしょう.ひとつひとつの行動・事象は旧来からのものであっても,その組み合わせの発想が大胆な再創造たりえれば,それは「イノヴェーション」であり,「イノヴェーション」とは旧来の手法を否定する発想の組み換えまでも含め求め得るものですから.
 ときに「ビジネス支援」が何故「イノヴェーション」たりえたのか,私見では「利用目的の具体化・明確化」「ポスト・バブル期のベンチャービジネス勃興との絶妙なマッチング」「『貸出し』に代表される排除の論理からの転換」このあたりが,ビジネス支援が公共図書館におけるイノヴェーションたる要素を満たしていると考えます.

 現在,僕らが考えなければいけないのは,そこで貸出至上主義の正典『市民の図書館』に立ち返ることではなく,公共図書館における「イノヴェーション」に相応しい,公共性と民主制を維持するための新しい科学としての公共図書館像を創造することです.本来なら100年の大計を見据えた創造を目指すことが望ましいのでしょうが,例えばこれから僕らが考えまとめる公共図書館像がよしんば10年の寿命しか持ち得なかったとしても,既に業界が30年以上しがみつき社会的寿命の尽きている『市民の図書館』に,更にこれから10年以上しがみつくことに比べれば,よほどマシなことでしょう.


 しかし,どうしてあのヒトたちは「公立図書館の単一性と不可分性」を,すべての公共図書館と図書館業界関係者に押し付けたがるのですかねえ.

フランク/交響曲

フランク/交響曲ニ短調@小澤征爾/ボストン交響楽団(DG:437 827-2)

 1991年11月の録音.
 こう言っちゃナニですが,聴いた後,見事に何も残らない.これほどスカスカで余韻もへったくれも残らないフランクも,他に無いのではないだろうか,と思ったことですよ.蒸留水だって,もう少しのどごしとか何か残りそうなものだが.

2007/09/19

マーラー/交響曲第6番

マーラー/交響曲第6番イ短調@マイケル・ティルソン・トーマス/サンフランシスコ交響楽団(サンフランシスコ交響楽団:821936-0001-2)

 2001年9月12日から15日にかけてのライヴを編集した録音.この録音は,確かサンフランシスコ交響楽団の自主レーベル第1作だったと記憶する.
 風貌や奏でる音楽の雰囲気から,何となく「万年青年」という感じのするティルソン・トーマス(1944-)だが,気がつけば60歳を過ぎて,いよいよUSA出身の指揮者ではダントツの存在感を示しているように感じられる.この録音は50代半ばでのものだが,若い頃のシャープな切れ味は失われつつあるものの,よりスケールアップした大柄な演奏に仕上がっている.

 実は,我が家の古いCDプレーヤー(テクニクスのSL-PS860)では,SACDを聴くことが出来ずにいたのを,その17年使ったCDプレーヤーが不安定になった(CDを読んだり読まなかったり)機会を捉えて,再生専用のCD/DVDプレーヤー(ソニーのDVP-NS53P)と取り替えたことにより,面倒な切り替えをしなくても聴くことが出来るようになったのを記録しておくために,この録音を取り上げる次第.7500円でストレスが解消されれば安いものだ(^^;)が,何となく音の解像度も上がっているように聴こえるのは気のせいかしらん?

2007/09/18

ブラームス/交響曲第2番

ブラームス/交響曲第2番ニ長調作品73@ヨーゼフ・カイルベルト/ベルリン・フィル(テルデック:WPCS-6050)

 1960年代前半の録音と思われる(某所では1962年とあった).
 カイルベルト(1908-1968)はミュンヘンとハンブルクを中心に活躍した指揮者だが,ここではベルリン・フィルを振ってのブラームスである.一発録りなのか,時々オケが細かいところをミスっているのがそのまま残っていたりもするけど,ブラームスを「語らせる」タイプの指揮者がことごとく第2番の録音に失敗している中で,カイルベルトはそれなりにオケを歌わせて,自らの重厚な音楽作りと第2番の音楽を上手くマッチングさせている.
 スウィトナー同様,取り立てて精緻でもない,今日では流行らないタイプのブラームスかもしれないが,僕は今ではあまり聴くことのないこの手の演奏,好きである(^^;).

2007/09/17

ブラームス/交響曲第1番

ブラームス/交響曲第1番ハ短調作品68@オトマール・スウィトナー/シュターツカペレ・ベルリン(エーデル・クラシックス:0002812CC)

 1986年の録音.
 最盛期のスウィトナーとシュターツカペレ・ベルリンのコンビによる,円熟のブラームス.聴く耳をそばだたせるような展開も,奇を衒うような解釈もないけれども,秋の夕焼けのような充実した音楽がそこにはある.特に終楽章のコーダに向かう燃えるような高揚,絃セクションの純朴な響きは特筆モノだろう.

2007/09/16

「図書館員の匿名性」について

 前のエントリーにうっかり書き落としたので,別のエントリーにします.

 「情報の科学と技術」9月号の竹内論文が取り上げていた「図書館員の匿名性」ですが,これは僕が学生時代に受講した某大学での,竹内さとる教授(日本図書館協会前理事長)の授業で,既に竹内先生が問題視していたことでして,今に始まった問題ではないですわ.15年程前には,僕も何処かで誰かと議論した記憶もありますし.この話をしたある友人には「とにもかくにも,企業では考えられないことだ」と痛罵されましたことですよ(^^;).

 これは竹内論文が指摘する問題もありますし,別の議論ではむしろ「図書館員の専門性」故,つまり誰がそのレファレンスを引き受けても同じ結果が得られるはずだから匿名で構わない,という意見もありました.個人的には(公共図書館においては)正規職員が公務員であったことの方が問題だった(スペシャリストではなくゼネラリストが求められていた=誰でも同じ仕事が出来る代替性が重要視されていた)と思いますが.

 でもねえ,レファレンスなどご指名があるのはありがたいのですが,人数の少ないところでは,それはそれで大変なんですよ(^^;).仕事が重なったりすると名指しが無ければ他の職員に振り分けることもできますが,そういうわけにもいかないこともありますし.しかもその主題が僕でなければお客の「時間の節約」にならないようなケースであればあるほど.あ,これは僕が有能な図書館員である,と言う話ではなく,単に僕の趣味がクラシックだから,という「芸は身を助ける」程度の話ですよ(-_-;).
 もっとも,頼りにされるうちが花ですね(^^;).がんばろっと.

マーラー/交響曲第7番

マーラー/交響曲第7番ホ短調@ジェームズ・レヴァイン/シカゴ交響楽団(BMG:BVCC-38134/38135)

 1980年7月の録音.
 最近ではマーラーの第7番も,選ぶのに難渋するほどの録音が出ているが,このレヴァイン盤がLPで出た頃は,田舎のレコード屋の棚で7番を探しても無い,などということはよくあった.同じ頃にクーベリック盤とクレンペラー盤が廉価盤で再発され,それにノイマン/チェコ・フィルのスプラフォン盤があれば御の字(^^;).それほど,この作品はマーラーの作品の中でも不人気だったと記憶する.その中で,このレヴァイン盤は当時,もっとも説得力のある名演であり,その価値はラトルやベルティーニの録音が出現した今でも,いささかも減じるものではない,と僕は思っている.ある評論家がレヴァインの音楽を「ディズニーランドの音楽」と評したそうだが,その骨太の華やかさと柔軟な音楽作りと適切なテンポ感が,この録音では見事な結実を生んでいる,と言えよう.

「場所としての図書館」試論

 【図書館情報学を学ぶ - 次世代の「場としての図書館」のあり方を自分なりに考えてみました 】に触発されたので,何か書こうと思い立ち,会員だから毎月届くのに積読のまま(技術志向じゃないもので,どうしても後回し)になっている「情報の科学と技術」の57巻9号(2007年9月)を読んでみましたが・・・・・・.

 本題に入る前に一言.特集中非常に気になったのは,実は薬師院はるみ「図書館員のあり方と電子化の進行:不安の昂進と専門職化の画策」(434-440頁)における,内容の異形さ.ジョン・コンスタブルやトマス・ガーティンが描いた風景画が整然と並ぶ中に,ひとつだけ晩年のエゴン・シーレの自画像が混ざっているような雰囲気ですね(^^;).このヒト,僕の記憶に間違いが無ければ日図研が発行する雑誌「図書館界」の常連寄稿者ですが,如何にも日図研のイデオローグらしく,『市民の図書館』(「貸出」という前川派特有の用語を使っているにもかかわらず,筆者が『市民の図書館』に依拠していることを隠そう,隠そうとしているところがまたイヤらしい)の破綻を糊塗して時代の変化と要請を否定する内容であり,今回の特集の趣旨からは明らかに浮き上がった論文なんじゃないでしょうか?

 まあ,気を取り直して(^^;).

 ・・・・・・とは言え,kunimiyaさんが取り上げている竹内比呂也「デジタルコンテンツの彼方に図書館の姿を求めて」への僕の評価はいささか両義的なもので,この論文が論じている図書館,もしくは図書館司書への評価はともかく,その前提がいささか粗雑(性急?)で,例えば,学術雑誌に区分される雑誌(特に外国誌)の新着雑誌架は電子化の進展で早晩撤去されるだろうとしても,広告収入を前提としている一般雑誌(特に国内誌,高年齢層向けの論壇雑誌などね)の雑誌架がそれとほとんど同時に撤去されるとは,僕には考えられない(古い奴だとお思いでしょうが)ため,これに基づいて「場所としての図書館」を論じるのは気が進まない(^^;)のです.そこで,取り敢えず「場所としての図書館」という言葉だけを引き取って,自由に書かせてもらいますね.

 で,ようやく本題.

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少年調書の引用本、公立図書館で閲覧中止の動き

 【愚智提衡而立治之至也: 「僕はパパを殺すことに決めた」】で懸念した通りの事態が起きているようです.

読売新聞【少年調書の引用本、公立図書館で閲覧中止の動き

どの程度まで「公共図書館」に精通している人間が,どのような立場にあってどのような判断を示しているのか(「館長」をはじめとする,決定権を有する正規職員が司書有資格者とは限らないし,たとえ有資格者でも当てにならないことは,幾多の先行事例が示しています),報道からでは何ともわかりかねますが,【はてなブックマーク - 少年調書の引用本、公立図書館で閲覧中止の動き : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)】でhimagine_no9さんがおっしゃっているように


「しかしこの問題を多くの人が検証し考察するためにも図書館での閲覧を保証してほしい」
これが,日本図書館協会が制定している「図書館の自由に関する宣言」の中に述べられている「国民の知る自由を守り」が意味するところでしょう.違いますか?

 まあ,お役人のやるリスクマネジメントは所詮,この程度の発想しか出来ないのかもしれませんが,そうしたら同じくお役人である公共図書館の正規職員が「図書館の自由」について声高に発言するのは,自家撞着って言われても仕方が無いのではありませんか>>諸賢.

2007/09/15

ロッシーニ/スターバト・マーテル

ロッシーニ/スターバト・マーテル@マルクス・クリード/ベルリン古楽アカデミー(ハルモニア・ムンディ・フランス:HMA1951693)

 1999年3月の録音.この作品の古楽派による演奏は初めて聴いたが,声楽を前面に立てた風通しのいい音楽作りで好感が持てる.

 ロッシーニ(1792-1868)は1829年,37歳で「ウィリアム・テル」を作曲した後はオペラの筆を折り,フランス政府から年金をもらいながら悠然と暮らしながら,気ままに手すさびのように作曲を続けた.
 この「スターバト・マーテル」はロッシーニ49歳の,1841年に完成した作品.元々は1831年末に,ある友人に依頼された「スターバト・マーテル」がロッシーニの病気で中絶してしまい,続きを別の作曲家に依頼して体裁を整えたもの.その合作版を依頼した友人は自分が仕えていた協会の僧院長にそれを献呈した.ところがその僧院長が亡くなると,献呈された楽譜はパリの出版者に売り飛ばされてしまい,合作版の形で出版が進められる.それを聞きつけたロッシーニは仰天して,その出版に抗議するとともに別人が作曲していた箇所も自ら作曲しなおすことにして,更に合作版を出そうとした出版者とは別の出版者から楽譜を出版することにした.この出版を巡る争いが法廷闘争にまで発展してしまうのだが,そのため否応無くこの「スターバト・マーテル」への注目度は上がってしまう.久し振りのロッシーニの新作と言うこともあり,そこを目ざとく立ち回るプロデューサーが現れて,1842年1月7日に,パリでこの作品は初演され大成功を収めることになる.

 「スターバト・マーテル Stabat Mater」は「悲しみの聖母」と訳される.14世紀の初め頃に成立した,『新約聖書』の「ヨハネ福音書」第19章に述べられる,十字架上のイエス・キリストを仰ぎ見て悲しむ聖母マリアの悲しみを,祈りや慰めの言葉とともに歌う聖歌で,古来多くの作曲家により題材として取り上げられているが,中でもジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの「スターバト・マーテル」は以前取り上げたことがあるが,美しく悲痛な響きが全編を覆う傑作である.ロッシーニはペルゴレージの作品を若い頃に聴いて,自らは「スターバト・マーテル」は書くまいと思ったこともあったらしい.ロッシーニのこの作品は,多分にオペラティックで華やかな作風だが(第2曲のテノール・ソロのアリアなど),厳粛さを必要とする場面では充分に傷ましい音楽を書き分けており,ロッシーニの歌劇以外の作品ではよく演奏されている曲だろうか.

「僕はパパを殺すことに決めた」

 最初にお断りしておきますが,僕はこの本を読んでいません.ですから,以下の文章はその内容の当否を問題にしているものではありません.

 さて,昨日こんな出来事がありました.


奈良の放火少年調書漏えいで鑑定医宅など捜索

 奈良県田原本町で平成18年6月、医師(48)宅が全焼し母子3人が死亡した事件を題材にした書籍に、殺人などの非行事実で中等少年院送致になった長男(17)らの供述調書が引用されていた問題で、奈良地検は14日、調書の内容などを著者のフリージャーナリスト側に漏らしたとして、秘密漏示(ろうじ)容疑で、長男の精神鑑定を担当した京都市内の精神科医宅や勤務先病院の家宅捜索を始め、強制捜査に乗り出した。同容疑での強制捜査は異例で、「言論の自由」などとの関係をめぐって論議を呼びそうだ。

 問題となった書籍は、元法務省東京少年鑑別所法務教官の草薙厚子さんが今年5月、講談社から出版した「僕はパパを殺すことに決めた」。

 調べなどによると、精神科医は、当時高校1年だった長男の少年審判に際して長男の精神鑑定を担当。その後、草薙さん側に、事件の調書の写しを渡した疑いが持たれている。秘密漏示罪では、医師や弁護士らが正当な理由なく業務上知り得た秘密の漏洩(ろうえい)を禁じている。父親の医師らが著者や鑑定医を告訴していた。
(後略)

産経新聞 http://www.sankei.co.jp/shakai/jiken/070914/jkn070914006.htm から
この件を受けて,今日(15日)の全国紙に真っ向から対立する2つの社説が出ています.

読売新聞【調書本出版 漏えいは少年法の精神にもとる
毎日新聞【社説:少年調書引用 強制捜査まで必要なのか

個人的には,読売新聞がことさら少年法を持ち出すのは天に唾するような(^^;)ものだと感じてますが,それはさておき.また,産経新聞webが意外にも,まめに著者をはじめ鳩山邦夫法相,講談社などの声を拾っていますので,興味のある方は参照してください.

 この件は早かれ遅かれ,対岸の火事に止まらず公共図書館業界に波及してくるものと思われます.全国の公共図書館各位,また日本図書館協会のリスクマネジメント能力がまたまた試される事態に陥らないよう,細心の注意を払っていただくことを,関係者に希望しておきます.なお,日本ペンクラブは既に法務省から勧告がなされた際,8月30日付で抗議の声明を出しています.【PEN声明 出版社及び著述家に対する法務省勧告に抗議する声明

2007/09/14

ショスタコーヴィチ/交響曲第15番

ショスタコーヴィチ/交響曲第15番イ長調作品141@クルト・ザンデルリンク/ベルリン交響楽団(ドイツ・シャルプラッテン:TKCC-15036)

 1978年5月から6月の録音.
 実はこの交響曲の初演は1972年1月なので,初演から6年しかたっていない時点での録音である.この一筋縄ではいかない難解な交響曲を,ザンデルリンク(1912-)の指揮は相変わらず派手さを抑えた渋めの音色で,がっちりと隅々まで音楽を把握し一角一点もゆるがせにしない.このフル・オーケストラを用いた室内楽じゃなかろうか,と思えるほど薄いオーケストレーションの施された音楽を,実に丹念に演奏している.特に終楽章は,他の指揮者のこの作品の演奏よりも演奏時間が長く,ほとんど20分を費やしてその静謐なコーダまでキリキリと緊張感を持続させている.
 いま,ふと気がついたのだが,第2楽章のトロンボーンのソロが意識しているのは,マーラーの交響曲第3番の第1楽章で朗々と吹かれるトロンボーンだね.

2007/09/13

ヴァイル/ベルリン・レクィエム

ヴァイル/ベルリン・レクィエム@フィリップ・ヘレヴェッヘ/アンサンブル・ムジーク・オブリーク(ハルモニア・ムンディ・フランス:HMA1951422)

 1992年5月の録音.
 ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)とクルト・ヴァイル(1900-1950)の共同作業のひとつとして1928年に作曲された,ブレヒトのテキストによるレクィエムである.「大いなる感謝の合唱」「おぼれた少女のバラード」「記念碑」「凱旋門の下の無名戦士のための報告第1」「凱旋門の下の無名戦士のための報告第2」「大いなる感謝の合唱」の6章からなる,20分少々の作品.当然ながら,同時期に作曲された「三文オペラ」によく似た雰囲気の音楽が展開されるが,「三文オペラ」の滑稽さに代わってこの作品を支配するのは,怒りと絶望であるように感じられる.元来はローザ・ルクセンブルク(1871-1919)への追悼のメッセージがこめられていたというテキストは,検閲のために変更されたというが,音楽は充分にそのメッセージ性を残している.

 しかし,ヘレヴェッヘって古楽ばかりじゃなくて,シェーンベルクの「狂気のピエロ」も録音しているし,ヴァイルのこんな作品も録音しているんですねえ.面白いひとだ(^^;).

2007/09/12

「現場」と「研究」,「普遍」と「独創」

 単刀直入にお尋ねしますが,「現場」と「研究」は乖離していてはいけない代物なんでしょうか? いや,僕はあなたにお尋ねしているのです.

 「現場」の方々は,「研究」の側が現在見られる公共図書館の「惨状」(指定管理者委託を含めた業務委託や非正規職員の雇用がもたらす業務の非効率と不安定)を側面から支援していると主張しています(ケペル先生のblogにおける公共図書館に関する主張がweb上での好例).しかし,毎日毎日,公共図書館で繰り広げられるルーティンワークも含めた一場面,一場面における事例の積み重ねと言う,刹那的(他の場所での応用が出来るのかどうかもわからない,という意味で)な「現場」が自らを「学問」と称して闊歩したことが,公共図書館業界に『市民の図書館』の正典化をもたらし,『市民の図書館』の正典化が貸出至上主義による図書館司書の疎外という現象を生み出したことの方が,現在の公共図書館における「惨状」を説明するのにより相応しいと,僕のような立ち位置にいる人間には見えるのですね.

 刹那的な現場主義の限界は,公共図書館を語るときのケペル先生のblogにおける惨憺たる内容や,自らが属する組織と主義主張を守らんとするが余りに,「目的は手段を神聖にする」とばかりに公務員として,また公共図書館員としての倫理を踏み外してしまい,結局は公共図書館を公務員が運営することについての疑義を露呈させた,とあるblogに典型的に現れていると僕は見ますが如何.

 「現場」と「研究」における乖離(例えば,現状認識の差異)に,積極的な意義は見出せないものなのでしょうか? あるいは,見出してはいけないものなのでしょうか? いや,僕はあなたにお尋ねしているのです.

 正直に申し上げて,みなさんよく30数年前の既製服で満足していますよね.僕など中学のときから無類の制服嫌いで,お仕着せや出来合いの思考に自らを合わせることなど,今に始まったことでもなく随分前から,すっかりウンザリしております.おかげで,身内からさえ「アマノジャク」と言われる始末ですが,まあそれはともかく,自らを満足させるためにも,「哲学とはカントについて考えることではなく,カントのように考えることだ」とのひそみに倣い,原典(さすがに語学が×なので翻訳頼みではありますが)を寡聞ではありますが読み込んだ上で自分の頭と言葉で考え,綴ることを以って思考を鍛えて生きたいと,改めて思い及んでいます.

 ついでに言えば,自分の頭で考える際には「普遍的であること」と「独創的であること」を両立させるべく,どちらかと言えば前者に軸足を置いてその落とし所を考える必要があるのでしょうが,ついついそこで「独創的であること」に軸足を置いてしまうのが,多々ある失敗の原因のひとつであるところが,我ながら痛いところですね.

 でも,「現場」ではお仕着せの思考に自らを合わせることばかりが重要で,普遍を目指すのが当然で,独創的なことを考え実行するのは禁忌なのでしょうか? いや,僕はあなたにお尋ねしているのです.

ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

ショスタコーヴィチ/交響曲第5番ニ短調作品47@クルト・ザンデルリンク/ベルリン交響楽団(ベルリン・クラシックス:BC2063-2)

 1982年1月の録音.
 読売新聞【安倍首相が退陣の意向、記者会見で表明】今日のこの日に,この曲を取り上げるのはもちろん皮肉(^^;)なんだけど,正直なところ,これ以上安倍晋三政権が続いたら,他の民主制国家なら連日デモやストライキが国中で繰り広げられていても不思議じゃないところだったと思う.他ならぬ2000年代の日本だったから,何も起こらなかっただけ.1960年代だったら,日本でもデモが連日発生していたんじゃないの.

 東京新聞【道半ば 無念の退陣 参院選惨敗響く 順調な滑り出し激変】この記事に曰く


「安倍首相が進めてきた一連の「戦後レジームからの脱却」路線は、国民が真っ先に取り組んでほしいと思うテーマとは、かけ離れていたのだ。」
結局,これがすべてだったんじゃないかしらん.当人としては「改憲」を一枚看板にして祖父・岸信介の無念を晴らしたかったのだろうけど,もはや日本国憲法はこの国の生活にすっかり根付いてしまっていて,如何に自衛隊を国防軍にしたくとも,復古主義的な教育を上から押し付けたくとも,他におびただしい数の国民の関心事がある状況下では,世論に訴えるところが無かったわけではないにせよ,優先順位が間違っていたということなんでしょう.

 結果,小泉純一郎の「郵政民営化」という一枚看板の,目の付け所の冴えに今更のようにクラクラしてしまうことになります.やれやれ.

2007/09/11

ヤナーチェク/絃楽四重奏曲第2番

ヤナーチェク/絃楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」@スメタナ絃楽四重奏団(デンオン:COCO-85021)

 1976年6月の録音.
 ヤナーチェク(1854-1928)死の年に作曲された,作曲家の室内楽作品の掉尾を飾る傑作.「ないしょの手紙」というタイトルは,ヤナーチェクが晩年に愛した38歳年下の人妻との間に交わされた,10年ほどで600~700通(!)にも及ぶという手紙のことを指している.手紙の数もさることながら,その晩年の10年間には数々の傑作が生み出されたのだから,ただごとではない(^^;).何しろヤナーチェクというひとは,70歳のときに作曲した木管六重奏曲にヌケヌケと「青春」なるタイトルを付けてしまうような爺さんではあった.
 もちろん音楽の価値は,ヤナーチェクの性格や性向とは必ずしも関係があるわけでは無いが,それにしてもこの作品もいささか不思議な雰囲気を醸し出す,自由奔放な音楽である.

 ちなみに,僕はスメタナ四重奏団の最後の来日公演(1988年秋)を聴いたひとです.昔は,アルバン・ベルク四重奏団などもこの街に来たんだけどねえ(-_-;).

2007/09/10

シューマン/チェロ協奏曲

シューマン/チェロ協奏曲イ短調作品129@ヨーヨー・マ&コリン・デイヴィス/バイエルン放送交響楽団(CBSソニー:30DC5074)

 1985年10月の録音.まだ社名が「CBSソニー」だ(^^;).
 この録音当時,ヨーヨー・マ(1955-)はまだ30そこそこにもかかわらず,既に「天才」の名をほしいままにしていたチェリスト.テクニックはもう,まったく破綻も無く綺麗に流暢ににこの協奏曲をまとめている.指揮のデイヴィスもヴェテランらしいサポートで,ヨーヨー・マの蒸留水のような音楽に合わせている.

 実は,そこが気に入らないのが僕のアマノジャクたる所以で(^^;).シューマンのチェロ協奏曲からソロとオケの衝突する青臭い甘さが聴こえてこなかったら,どうしてくれようと言うのだ.この曲には,もっと破綻と不安が交錯するキリキリした雰囲気が必要なのに,すべてにおいて安定している演奏ではつまらないじゃないですか.

2007/09/09

シューベルト/交響曲ハ長調D.944

シューベルト/交響曲ハ長調(第9番)D.944@ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/ベルリン・フィル(DG:447 439-2)

 1951年12月の録音.
 ヴィーンの,と言うよりは北ドイツ(ハンブルク?)のシューベルト,という厳しい趣きのある演奏.戦後のフルトヴェングラーが残したスタジオ録音の中でも,まず1,2を争うし,それどころか,シューベルトのD.944の録音の中で1,2を争うだろう桁外れの名演である.

 確か僕は中学2年のときにLP(MG6007)を入手して,そのトリコになってしまい,この録音を聴くとその頃の(今となっては)甘酸っぱい想い出までもが,演奏にまとわりつくように次から次へと思い出される始末(>_<).本来,この演奏はそんな感傷とは無縁の,背筋を伸ばして「神」の光臨を拝聴すべき音楽なのだが,それほど昔はこの録音に入れ込んでいたし,今でもその思いは変わってない.あらゆる意味であの頃に戻りたいとは思わない(いま,会いたいひとは何人かいますが)けど,この録音にあの頃めぐり合えたのは,本当に僥倖だったと思う.

2007/09/08

アルヴェーン/交響曲第2番

アルヴェーン/交響曲第2番ニ長調作品11@ネーメ・ヤルヴィ/ストックホルム・フィル(BIS:BIS-CD-385)

 1987年12月の録音.
 ヒューゴ・アルヴェーン(1872-1960)の交響曲第2番(1898年作曲)は求心力よりも遠心力のはたらいたような音楽で,演奏時間50分を超える大作である.第1楽章では親しみ易い旋律が滔々と大河の如く流れ出るが,第2楽章以降はラフマニノフの第2番から甘さと親しみ易さを差っぴいたような重々しい音楽が流れていく.そのあまりのコントラストの激しさ故か,どうしても交響曲としての求心力が僕には感じられない.

 ヤルヴィの指揮は何時もの如く職人的手堅さの上にホットな情感を漂わせているものだが,この作品では静謐なところで充実と情感が欠けているようにも感じられる.「アルヴェーンとヤルヴィは相性がよくないのでは?」という声も聞くので,機会があれば他の指揮者による録音を聴いてみたいところ.

2007/09/07

ヴィヴァルディ/四季

ヴィヴァルディ/「和声と創意の試み」作品8から「四季」作品8の1-8の4@イル・ジャルディーノ・アルモニコ(テルデック:WPCS-6471)

 1993年6月の録音.
 とにかくフツーではない「四季」(^^;).いきなりテンポは停滞するし,そうかと思えばとんでもない高速で突進するし,オーケストレーションのバランスは変だし,なるほど「創意(インヴェンション)」とはこのことであったか,と妙な納得をさせられる不思議な演奏である.間違っても「癒される」ような演奏ではないので,「四季」だからと思って購入し聴き始めると,そこには別の世界が広がりかねない(!)ので注意が必要かと.
 僕のようなすれっからしにはバカウケしましたがね(^^;).

2007/09/06

ストラヴィンスキー/3楽章の交響曲

ストラヴィンスキー/3楽章の交響曲@オットー・クレンペラー/フィルハーモニア管絃楽団(EMI:5 67337 2)

 1962年3月と5月の録音.
 さすがに最近は,クレンペラー(1885-1973)が同時代音楽の果敢な演奏者であったことが疑われるようなこともあるまいが,それにしてもストラヴィンスキー(1882-1971)の「3楽章の交響曲」は1945年の作品である.ストラヴィンスキーの新古典主義時代後半の作品で,かなり諧謔風味の音楽なのだが,それをクレンペラーがまた随分と格調高く演奏しているのが何とも可笑しい(^^;).
 クレンペラーがストラヴィンスキーと一緒に写った写真もあるし,「春の祭典」は演奏したのかどうか僕は知らないが,「ペトルーシュカ」は1947年改訂版による1967年3月の録音(数年前にテスタメントが世に送り出すまで発売されていなかった)があるくらいで,ストラヴィンスキーのことはある程度評価していたのだろう.

「公共図書館=無料貸本屋」説雑感

 そもそも一般的な状況としては,「公共図書館=無料貸本屋」という位置付けは『市民の図書館』が住民の支持を得るためと予算獲得のために採用した戦術ですから,それが廻り巡って自らの首を絞めているわけで,そのことについては業界の側にも責任があるわけですよ(追記:このことについては【愚智提衡而立治之至也: 違います】このエントリーも参考にしていただければ).

 でね,僕は10年以上前に,公共図書館の窓口委託が話題になっていたときだったかなと覚えてますが,「公共図書館員=公務員」であらねばならぬ,としても「公務員の既得権益護持」にしか思えない反対運動だったら,周囲の理解は得られませんよ,と,申し上げたことがありました.そうしたら「これは戦術ですから」と言う大意の返答でしたっけ.しかし結局のところ,この戦術も,使い物にならない正規職員を配置して公共図書館は熱意のある人材でなきゃダメだ,という空気を醸成されるのに逆に利用されてしまった感があります.

 例えば【かたつむりは電子図書館の夢をみるか - アウトソーシングが「不可能」な業務は存在しない、が・・・】むしろ行政の場合は,ゼネラリストは委託でも賄えるけど,スペシャリストは自前で準備するのが正当だと,僕は何年も前から言っているわけでね.「すべて公務員で!」を押し通した労働組合(自治労)的発想を採用したことが,「委託」闘争において公共図書館が敗北した原因だと思うのですよ.はっきり言ってしまえば,自治体においては総務や経理のような部署こそ委託の対象とするべきで,公共図書館や博物館のような専門的な知識と経験の必要なところこそ,ある意味採算の取れないところこそ,自前で雇用することが行政には求められるはずなのですよ.採算が取れるのであれば,第三セクターや委託をしなくとも民間が乗り出しているはずなんだから.

 ちょうど『「慰安婦」問題とは何だったのか』(大沼保昭著/中央公論新社/中公新書1900/2007年6月))という本を読み上げたところですが,この本の中で著者は


「慰安婦」問題にかかわった多くの支援団体,NGO,弁護士,学者,ジャーナリストは,みずからが政治闘争の主体であり,みずからの言動は結果責任を問われるという自覚をどれだけもっていたのだろうか.そうした自覚とリアリズムを欠いたまま,裁判闘争やメディアの圧力,国連などを利用した外圧によってみずからの主張を実現できると考え,被害者たちにそう助言してきたのではないか.こうした希望的観測のもとに被害者を引っ張ってきた支援団体や弁護団は,結果に対する責任を負うべき主体として,将来の予測と政治闘争の立て方において大きな過ちを犯したのではなかろうか.(p154-155)
と書いています.日図協や図問研,そして読書調査研究グループという貸出至上主義の牙城を抱える日図研にも,この言葉は当てはまるでしょう.そして誰よりも,過去に「『市民の図書館』はバイブル」と過日「図書館界」誌上で断言した日図協の理事長がまず,これまでの戦術の誤りを自ら認めない限りは,図書館業界に未来が開けるとは思えません.

 それにしても, 何故この業界には「公共図書館は無謬である」ことを信じて疑わない方々がこうも多いのかしらん.これまでの公共図書館の概念から運動まで,すべてが正しかったとしたら,現在の公共図書館を巡る事態はもう少し好転していそうなものですが.正しいことをしていたとしても,それが時代に受け入れられるかどうかは,また別の話,ということも承知してますが,それでもそう思わずにはいられない頑迷固陋さがこの業界には蔓延しているような気がしますよ.

 第一,業界に未だに「先進的」な公共図書館の在り様を「そこまで辿り着いていない公共図書館が沢山あるのだ」という理由で否定する意見があります.そのような意見の存在そのものは,民主制と自由主義を旨とする社会にとっては当たり前のこととはいえ,「先進的」な公共図書館をモデルとすることを極力阻止しようとするような発想があるうちは,ホントにダメですよ.「公共」図書館運動に巣食っている,多様性と寛容を否定するファシズム(スターリニズムか?)が,どれだけ世の中の公共図書館観に害をなしていることか! 


 ・・・・・・まあ,ぐだぐだと書いてきましたが,最終的には,例えば「委託される公共図書館」という「政策」が,果たして市民の支持を得ることが出来るかどうか,なんですよね.市民が委託を支持せず,公務員による直営を望めば市会議員に陳情も行われるでしょうし,市役所にもご意見が寄せられるでしょう.また昨年だったか,静岡市の計画していた委託が潰されたことには(市民運動に予断・予見を持たない)マスメディアの理解(一過性に終わらない,継続的な報道)があづかって力になったところがないとは言えないわけです.マスメディアを信用しないのは古い左翼系言論にありがちな固定観念ですが,戦術を間違えておいて後日繰言を述べても,それは引かれ者の小唄ですわ.

 まずは幅広い視点を持った戦略/グラウンドデザインがなければ,結局は場当たり的な玉砕戦術に陥るしかないのは,それこそ大東亜戦争が実証しています.公共図書館には『中小レポート』以降,責任ある団体がまとめた戦略的分析文書は存在しないわけで(『市民の図書館』は目先の戦術文書です),本当ならば,もうそこからやり直すしかない.ところが日図協には,先日の「図書館雑誌」8月号の総会・評議員会・理事会の記録を見た限り,とてもそんな余裕は無いようです.

 取り敢えず,僕らは出来るところから始めるしかないのでしょう.

2007/09/05

ドヴォルジャーク/交響曲第8番

ドヴォルジャーク/交響曲第8番ト長調作品88@オトマール・スウィトナー/シュターツカペレ・ベルリン(エーデル・クラシックス:0002812CC)

 1977年の録音.NHK交響楽団にたびたび客演し,日本でもおなじみだったスウィトナー(1922-)のドヴォルジャークとブラームスの交響曲全集を併せた8枚組の廉価盤CDから.スウィトナーのドヴォルジャークは某県立図書館から借り出して聴いた高校生の頃から欲しかったモノのひとつなので,まずは入手できたことを喜んでいるところ(^^;).

 さてこの演奏,テンポをかなり動かし突っ走るところは突っ走る熱演であるが,アンサンブルをぶち壊してまで爆走するのではなく,充分にアンサンブルを練り合わせ,縦の線を合わせた上で個性的で熱っぽい表情を付けている.ここまで指揮者の意思がオケにいきわたっているのには恐らく,相当な練習量がこの好演の裏にはあるのであろう.東ドイツのダメダメなところも今ではすっかり白日の下にさらされたから,あまりこーゆう言い回しは使いたくないけど,やっぱり「古き良き」時代はあったのだな,と懐古的な気持ちにさせられる録音である.

2007/09/04

ブルックナー/交響曲第1番

ブルックナー/交響曲第1番ハ短調@エリアフ・インバル/フランクフルト放送交響楽団(テルデック:0630-14195-2)

 1987年1月の録音.
 実はブルックナーの1番って好きな曲で(^^;),昔はヨッフムの旧盤(DG)くらいしか入手できなかったのを繰り返し聴いたものです.おかげでそれが刷り込まれちゃって,他の演奏には多少不満を感じてしまうのが何とも.ヨッフムの新盤(EMI)でも我慢できないことがあるくらいですから.
 その中で,このインバル盤はマシな方.少々テンポを動かしすぎるのが難ですが,颯爽とした響きがいい.逆にテンポがもっともしっくりくるアバド盤(DG)は,せっかくヴィーン・フィルを起用しているのに音が寝ちゃっていてブルックナーらしくないところがダメ.

2007/09/03

本寄贈呼び掛けから1年・・・

 先日(8月26日)の福島民友新聞3面に「本寄贈呼び掛けから1年・・・ 「図書の町」誕生へ着々」という,矢祭もったいない図書館の記事が大きく掲載されました.何でも「ライブラリーオブザイヤー2007」の最終選考に残ったとか(福島民友8月16日付記事参照).この記事,「経過」「現状」「課題」などを丹念に跡付けた,大変に好意的なトーンで書かれており,ささやかながらも応援していた人間としては,ちょっとホッとしています(^^;).何しろ記事に拠れば,


寄付を募り始めたころは,全国から善意の本が寄せられる一方で「古本を集めたようなのは図書館ではない」など,心ない電話やメールも数多く寄せられたという(強調は引用者)
そうですから.ちなみにこの箇所,僕の周囲では記事中もっともウケたところでしたよ.まあ,公共図書館業界人や関係者には,よもや「心ない」電話やメールをした方はいないと僕は固く信じておりますが(^^;),さてどうでしょうか?

 そう言えば「もったいない図書館」を「反図問研的公共図書館」と評した方も(この表現そのものは僕のひねり出した形容ですが,そのような意味のことを述べていた方は,僕の周囲には幾人もおりました(^^;))いましたが,図問研が「みんなの図書館」とは別途発行している雑誌(学術系もしくは理論誌)「図書館評論」の48号で,山本順一氏と中沢孝之氏による図問研研究集会での発表報告を掲載してます.これがまた僕の事前の予想を遙かに(^^;)上回る好意的な文言が並ぶもの.また本家の「みんなの図書館」2007年6月号では「もったいない図書館」の齊藤前館長(その節はお世話になりました)による「報告・矢祭町から 「矢祭もったいない図書館」開館す!!」という一文を掲載しているところを見ると,図問研の少なくとも一部の方々は「反・小泉改革路線」と「地方自治」の観点から「もったいない図書館」の評価を見直し転換したようにも思えます(敵の敵は味方!)が,一般の会員の見方もまたそれに倣っているのでしょうか.このあたり,公共図書館業界では今やもっとも官僚的かつ原理主義的な日図研の見解も知りたいところです.

 なお,現在のところ「もったいない図書館」は寄贈本の受付を中止していますが,8月26日の福島民友の記事では「もったいない図書館」が青森県の五所川原市立図書館に寄贈本を紹介したことが載せられています.五所川原市立図書館のサイトには「本を寄贈していただけませんか? ~めぐりあい、図書~」というページがあります.ご参考までに(ちょっと寄贈の条件が厳しいような気がしますが,まあそれは各館の経営方針と言うことで).

 思うにやはり,「もったいない図書館」を嚆矢とする「寄贈本による蔵書構築法」は,地域住民の参加による「選書ツアー」とともに『市民の図書館』が生み出した,公共図書館経営への市民参加の大きな実りだったのではないでしょうか? このふたつが『市民の図書館』支持者から非難されたところが,この国の公共図書館を巡る「捩れ」のようなものを感じ取ることは可能でしょう.
 と言うわけで,「お祭り」は終わったかもしれないけど,地の利も生かして(?)それなりに継続してウォッチしてますので>>誰かさんへ.

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15@イェフィム・ブロンフマン&デヴィッド・ジンマン/チューリヒ・トーンハレ管絃楽団(アルテ・ノヴァ:82876 82857 2)

 2005年10月6日の録音.
 これは確か600円くらいで入手した廉価盤ですが,金額以上の価値はある好演ですね(^^;).ジンマンの指揮に古楽派を意識したあざとさがあって,それが少々鬱陶しくなる瞬間を除けば,ピアノは涼やかだしオケは身軽で快調だし,値段故に入門編の最初の1枚として買うにはもちろん,何枚もこの曲を聴いた後でも聴くに耐える演奏だと思いますよ.

2007/09/02

リヒャルト・シュトラウス/ツゥアラトゥストラはかく語りき

リヒャルト・シュトラウス/交響詩「ツゥアラトゥストラはかく語りき」作品30@カール・ベーム/ベルリン・フィル(DG:POCG-2701/2702)

 1958年4月の録音.初期のステレオ録音のため,シュトラウスの音響を拾いきれずにあちこち傷が残っているが,同じくベルリン・フィルと録音したブラームスの第1番(DG)などとともにベーム(1894-1981)の全盛期を今に伝える貴重な録音である.
 映画「2001年宇宙の旅」で使われた「ツァラトゥストラ」が実はこの録音なのだが(既にカラヤンの録音もあっただろうにベームを持ち出したのは,何となくキューブリックの趣味のような気がしないでもない),如何にもベームらしく剛毅なものの,およそザッハリヒで色気の無い実直な演奏であり,ショルティやメータあたりでスペクタクルな「ツァラトゥストラ」に馴らされた聴き手が聴いたら,恐らく面白くもなんとも無いかもしれない(^^;).

2007/09/01

テーマ展示

 というわけで,昨日までの8月1か月間(実質は7月30日のショスタコーヴィチ/交響曲第8番から)の「今日のBGM」で取り上げる音楽をすべて,第一次,第二次の両世界大戦に限らず,何らかの形で戦争に関わりのある作品(一部,取り上げた「録音」が何らかの形で戦争と関わりのある作品も含みましたが)として,ひとりの作曲家もダブらないように埋め尽くしてみました.要するに,図書館もすなる「テーマ展示」の真似事です(^^;).「戦争と文学」はありがちだけど,「戦争と音楽」はあまり見かけないような気がしたので,物は試しとやってみましたが,どの程度ご理解いただけたのやら?

 ときに,結局33人の作曲家による33の作品の33の奏者/団体による録音が,よくも自前で揃ったもので(-o-)/.何とかなるだろうと,大した下調べもせず始めたので,思ったよりも早くに想定していたネタが尽きてしまい,とにもかくにも戦争に関わりのある作品を思い出したり,探し出したりするのが一苦労.おまけに演奏家もダブらないようにしたかったため,結局ペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」のみはこのテーマ展示のために,新規に買い込む羽目になりました(その際,ペンデレツキの自作自演が入手できたのは幸運だったと言えましょう).
 それにしてもプロコフィエフは「アレクサンドル・ネフスキー」ではなく,交響曲第5番かピアノ・ソナタ第7番を取り上げるのでした.これが失敗.

 誰かひとりでも,8月の途中でこの「テーマ展示」に気がつかれた読者の方がいらっしゃったら幸甚です.ご愛読ありがとうございました.

リヒャルト・シュトラウス/英雄の生涯

リヒャルト・シュトラウス/交響詩「英雄の生涯」作品40@ロリン・マゼール/バイエルン放送交響楽団(BMG:09026 68775 2)

 1996年11月の録音.
 実はクリーヴランド管絃楽団と録音したマゼールの「英雄の生涯」(CBSソニー)こそが,僕が初めて聴いた「英雄の生涯」だったのですね.日本では確か,岡本太郎デザインのジャケットでLPが発売されたモノで,それを発売直後にFMで聴いたのでした(昔はFMにそんな番組もあった).恐らく1977年ごろの録音だったと記憶しているので,旧録音から約20年.このバイエルン放送響との新録音を聴いて一言「マゼールも丸くなったものだ」と思いました(^^;).旧録音に聴かれた,颯爽かつ漲る覇気がすっかり影を潜め,福徳円満な指揮振りに変貌しているマゼールは,意外につまらないものですね.

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