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ココログ


ほし2

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2007年8月の記事

2007/08/31

メシアン/世の終わりのための四重奏曲

メシアン/世の終わりのための四重奏曲@長沼由里子,ジャン=ルイ・サジョ,ポール・ブルティン,アン=リーズ・ガスタルディ(カリオペ:CAL9898)

 2006年2月の録音.この録音で,初めてこの作品を聴くが,作品の内容をよく伝える,優れた演奏であると思う.

 全8楽章,45分超の大作.ヴァイオリン,クラリネット,チェロ,ピアノという風変わりな編成は,1941年にゲルリッツ(シュレジェン,現ポーランド)のドイツ軍第8A捕虜収容所に偶々居合わせた,作曲者オリヴィエ・メシアン(1908-1992)を含む捕虜の音楽家4人による四重奏を作曲したため.「Quartuor pour la fin du temps」というタイトルは,恐らく霊感を受けたという「ヨハネの黙示録」と,当時の捕虜収容所という絶望的な環境を重ね合わせて付けられたのであろうか.

 メシアン自身が書いた楽譜への序文には,この作品を書くにあたって霊感を受けたという「ヨハネの黙示録」第10章の一節が引用されている.また,この作品が8楽章であるのは6日間の天地創造の次に来る7日目の安息日が延長され,「永遠の光と普遍の平穏の第8日目」が来るからとされる.絶望的な状況下においても,メシアンの信仰は揺らぐことなく,希望を見出そうとしていたことが示されていると考えていいだろう.

2007/08/30

グレツキ/交響曲第3番

グレツキ/交響曲第3番「悲しき歌の交響曲」@デイヴィッド・ジンマン/ロンドン・シンフォニエッタ(エレクトラ・ノンサッチ:7559-79282-2)

 1991年5月の録音.
 とにもかくにも,第2楽章をロンドンのラジオ局が使ったことから人気に火がつき,UKビルボードのヒット・チャートに載ってしまったということで有名になってしまった交響曲である.日本でも,すっかり「癒し系」現代音楽の定番のように思われているフシが無いでもない.

 実のところ「前衛の時代」のポーランドにおいてグレツキが,前衛的な作品を書いていたことはあまり知られていないし,その頃の作品が紹介される機会もそれほど多いとは言えない.それが結果的にペンデレツキのように前衛からの転回を攻撃されることもあまりないが,この作品ばかりがもてはやされてグレツキの全体像が見えにくい原因にもなっているようである.

 1976年の10月から12月にかけて作曲され,翌77年の4月に現代音楽を得意とするエルネスト・ブール指揮の南西ドイツ放送交響楽団が初演した.第1楽章では15世紀ポーランドで「聖十字架の哀歌」として知られた詞を,第2楽章ではゲシュタポの強制収容所の壁に書かれていた18歳の少女(1944年9月26日から収容されていた)の詞を,第3楽章ではオポーレ地方(ポーランド南西部)なまりの民謡がそれぞれ歌詞として用いられている.ルイジ・ノーノのような作曲家が未だ健在であった時代に,この作品が理解されたとは到底思えず,初演から15年以上を経過しての爆発的ヒットは,前衛の崩壊がもたらした,ある種の必然であったのかもしれない.

2007/08/29

フュルスト/バーデンヴァイラー行進曲

フュルスト/「バーデンヴァイラー行進曲」@ヨーゼフ・スナガ/グラモフォン吹奏楽団(DG:POCG-3951/3953)

 1927-1930年ごろの録音.
 この勇壮な行進曲は,バイエルン王国近衛歩兵連隊の軍楽隊長だったゲオルク・フュルスト(1870-1936)によって,第一次世界大戦中の1914年8月に北フランスのバドンヴィレでのドイツ対フランスの激戦を記念して作曲された.ナチの総統アドルフ・ヒトラー(1889-1945)の大のお気に入りの行進曲であり,ナチの時代には「ホルスト・ヴェッセルの歌」などとともに第2の国歌のような扱いを受けていた.元は「バドンヴィレ行進曲」というタイトルであったものをドイツ語の「バーデンヴァイラー行進曲」と呼称したのも,恐らくはヒトラーの指示であろう.
 第二次大戦でナチが消滅すると,西ドイツでは公式演奏を禁じられたこともあるが,バイエルンの軍楽隊にはヒトラーとの絡みは別にしても思い入れのある行進曲であったためか,元々の「バドンヴィレ行進曲」として演奏する分にはおかまいなしになったようである.

2007/08/28

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73@ヴィルヘルム・ケンプ&ペーター・ラーベ/ベルリン・フィル(DG:POCG-6073)

 1936年の録音.20世紀を代表する名ピアニストのひとりでベートーヴェン弾きとして鳴らしたヴィルヘルム・ケンプ(1895-1991)による,最初の「皇帝」の録音である.

 が,それよりも何よりも,この録音はリヒャルト・シュトラウスがナチの作った帝国音楽院の総裁をクビになった(1935年6月)あと,帝国音楽院総裁を務めることになる指揮者ペーター・ラーベ(1872-1945)の演奏が聴ける唯一のCDなのであった.このCDの解説書がケンプのことばかり書いていてラーベに一言も触れないのは,偶然なのか当然なのかはよくわからない.まあ,ラーベとナチの関係を述べれば,ケンプもまたナチ時代のドイツで活躍していたことに触れないわけにはいかなくなるから,ラーベについては無視を決め込むことでケンプの栄誉を守ろうとしたのであろうか.

 ラーベはアーヘンの音楽総監督を辞職したところでゲッベルスからお声がかかり,帝国音楽院総裁を引き受けたのだが,アーヘンを辞職した理由は,地味な自分の音楽が颯爽と派手な指揮ぶりで登場したヘルベルト・フォン・カラヤンには到底かなわないことを悟ったからだったらしい.確かにこの録音で聴くことの出来るラーベの指揮は,純朴で実直なものであり,地道にまとめてはいるものの,派手な演出や見栄には無縁であったようである.フランツ・リストの研究で博士号をとった立派な業績もある(リストの作品表で使われることのある「R」番号は,ラーベのふったもの)人物だったが,熱烈なヒトラー支持者であり,ナチの文化政策を推進したひとりでもあった.1945年4月12日,ナチの崩壊直前に死去するが死因は自殺説もあるとの由.

2007/08/27

ミヨー/交響曲第3番

ミヨー/交響曲第3番「テ・デウム」作品271@アラン・フランシス/バーゼル放送交響楽団(cpo:999 540-2)

 1997年6月の録音.
 この交響曲は,フランス国営放送から第二次世界大戦の終結を祝う「テ・デウム(我ら神であるあなたを讃えん,キリスト教の讃歌のひとつ)」の作曲をミヨー(1892-1974)が依頼されたことから,1946年に作曲された.4楽章からなり,第1楽章は「闘争」を,第2楽章は「瞑想」による宗教的感情を,第3楽章は「地上への復帰」をそれぞれ抽象的に表現し,終楽章は「アンブロジオ讃歌」と題された「テ・デウム」による楽章である.第2楽章ではヴォカリーズによる合唱が,終楽章には「テ・デウム」を歌う合唱がそれぞれ導入されている.楽章の構成や各々のテンポは伝統的な交響曲の様式(急速調-緩徐楽章-スケルツォ-威儀のあるフィナーレ)に則っているが,フランスの交響曲らしく,確固たる「ソナタ形式」は用いられていない.
 ミヨーの交響曲では幾分,親しみ易い作品かとは思うが,感傷を排したこの手の軽く,乾いた諧謔味を理解するのが難しいことと,旋律の魅力に欠けているためか,なかなか人口に膾炙しないのが惜しまれる.

2007/08/26

アイスラー/ドイツ交響曲

アイスラー/「ドイツ交響曲」(アンチ・ファシスト・カンタータ)作品50@ローター・ツァグロセーク/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管絃楽団(デッカ:448 389-2)

 1995年5月の録音.
 ベルトルト・ブレヒトの協力者で,シェーンベルクの弟子から筋金入りの共産主義者に,ただし官僚は大嫌いでイデオロギーを問わず官僚的なものをおちょくった逸話には事欠かなかったらしい(そのくせ東ドイツに定住した)ハンス・アイスラー(1898-1962)がナチの政権奪取以来,漂泊の作曲家となりながら1935年から1959年までかけて書き上げた,全11楽章からなる4人の独唱者とふたりの語り手,合唱と管絃楽のための11楽章からなる大作である.「Deutsche Sinfonie」というタイトルは,あからさまにブラームスの「Ein Deutsches Requiem」を意識したものだろう.ブレヒトとの音楽劇のスタイルをとる楽章や,オケのみの楽章もあり,全体で60分を超える長丁場にいろいろ変化をつけているが,華美さは避けられ,全曲が暗い色調で塗りつぶされている.

2007/08/25

ハチャトゥリアン/交響曲第2番

ハチャトゥリアン/交響曲第2番イ短調@アラム・ハチャトゥリアン/ヴィーン・フィル(デッカ:448 252-2)

 1962年3月の録音.以前出ていたCD(425 619-2)より音質が改善されており,聴き易い.演奏は,自分の作品しか指揮しなかったハチャトゥリアンの,完璧に手の内に入った解釈をヴィーン・フィルが余すところ無く表現しきっている,稀有の熱演である.

 この交響曲は,第二次世界大戦時,1940年のナチによるソ連侵攻(ソ連では「大祖国戦争」と呼称された)をきっかけに作曲され,1943年に完成,初演されている.同時期に作曲されたショスタコーヴィチの交響曲第8番との雰囲気の類似を指摘する向きもあり,全曲を通じて非常にテンションの高い,悲劇的で激烈な音楽である.
 当時既に誰かの指揮によって録音されていたのか,1945年2月のドレスデン空襲を伝える当時のニュース映画のBGMでこの作品の冒頭が使われていたと記憶する.

2007/08/24

バルトーク/絃楽四重奏曲第6番

バルトーク/絃楽四重奏曲第6番Sz114@ハンガリー絃楽四重奏団(DG:457 740-2)>

 1961年9月27日から30日にかけての録音.ベーラ・バルトーク(1881-1945)の薫陶を直接受けたひとりであるゾルタン・セーケイ(1903-2001)が率いたハンガリー絃楽四重奏団による,バルトークの絃楽四重奏曲全集から.

 この絃楽四重奏曲は,1939年11月にブダペストで書き上げられる.バルトークがヨーロッパで完成させた最後の作品である.実は,この作品をバルトークに委嘱したのは他ならぬセーケイそのひとだったのだが,一旦はハンガリーを離れたバルトークがスイスからハンガリーへ戻りこの作品を完成させた後,1940年10月にはナチの戦火を避けてUSAに亡命したため,当時オランダにいたセーケイとは連絡がとれなくなってしまう.そのため,この作品はユダヤ系のためUSAに亡命していた左利きのヴァイオリニスト,ルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)率いるコーリッシュ絃楽四重奏団(絃楽四重奏曲第5番の初演者)によって1941年1月20日にニューヨークで初演されることになり,作品もコーリッシュ四重奏団に献呈される.

 バルトークは第4番と第5番の絃楽四重奏曲において,第3楽章を中間点として1・5と2・4楽章がそれぞれ相似形をなす5楽章形式を採用していたが,第6番では一般的な4楽章構成を採用している.しかし,各楽章の冒頭には「Mesto(悲しげに)」という表情記号を付した同じ旋律を「モットー」として置き,そこからそれぞれ音楽を出発させるという形式をとった.終楽章はMestoのモットーが主要主題となり,悲しみの中に全曲が閉じられる.

2007/08/23

イベール/祝典序曲

イベール/祝典序曲@山田耕筰/紀元二千六百年奉祝交響楽団(日本コロムビア:COCA-13182)

 1940年12月18日録音.
 こちらも先日取り上げたヴェレシュの交響曲第1番と同様,「皇紀2600年奉祝曲」のひとつで,山田耕筰(1886-1965)が振った初演もヴェレシュの作品と同日.次いで12月18日にはイベールとヴェレシュの作品が内幸町にあったNHKの放送会館から生中継されており,その際に日本コロムビアが録音したのが当CDに聴かれる演奏である.

 ここで聴かれるオーケストラは,当時東京で活動していた6つの楽団を糾合した総勢160名超という臨時編成のオーケストラで,途中で金管がこけたりはしているものの,如何にも「国家総動員体制」の賜物,という感じがする.何分,編成が大きすぎて当時の録音技術では音が収まりきらず,音楽の細部にわかりにくいところがあるのは如何ともし難いところ.

 フランスは1940年6月にナチス・ドイツの傀儡であるヴィシー政権が成立したため,建前では枢軸国側の友好国となっていた.ジャック・イベール(1890-1962)は当時イタリアのローマにあったフランス・アカデミー(パリ音楽院の「ローマ大賞」受賞者が,更に研鑽を積むべく送り込まれたのがここ)の館長を務めており,ローマに住んでいたため,この作品もローマで作曲されている.14分ほどの作品で,リヒャルト・シュトラウスの祝典曲同様,それほど中身のある作品とも聴こえないが,練達の管絃楽法がそれをカヴァーしている.

2007/08/22

ヴァーグナー/ジークフリートの葬送行進曲

ヴァーグナー/楽劇「神々の黄昏」から「ジークフリートの葬送行進曲」@ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/ベルリン・フィル(DG:POCG-2342/2344)

 1933年の録音.フルトヴェングラー(1886-1954)壮年期のドイツ・ポリドールへの録音である.フルトヴェングラーとナチの関係については,あまたの参考文献があるのでここでは触れない.

 ナチの独裁者・総統アドルフ・ヒトラー(1889-1945)が第二次大戦の最後に自殺したとき,その死を伝えるニュースと共にラジオから流されていたのが,この「ジークフリートの葬送行進曲」(この録音かどうかまでは,僕は知らない).ヒトラーは1905年ごろからヴィーンで画家を志して勉強していたが,その頃からヴァーグナーの音楽をヴィーン宮廷歌劇場に通いつめる生活をおくっていたという.
 後年反ユダヤ主義の最悪の事例となるヒトラーだが,その反ユダヤ主義は,例えばヴァーグナーの娘婿だったヒューストン・スチュアート・チェンバレン(日本の「お雇い外国人」だったバジル・ホール・チェンバレンの弟である)からの影響も大きい.しかし,実のところ当時の宮廷歌劇場音楽監督は,他ならぬユダヤ人でヴァーグナー指揮者としても鳴らしたグスタフ・マーラーであり,その舞台装置を組んでいたのがこれまたユダヤ人のアルフレッド・ロラーである.
 これこそ「歴史の皮肉」以外の何物でも無さそうだが,それにしてもヴァーグナーの自筆譜も含めて,あまりに失われたものが大きすぎる.

2007/08/21

マーラー/交響曲第9番

マーラー/交響曲第9番ニ長調@ブルーノ・ワルター/ヴィーン・フィル(HMV/DUTTON:CDEA5005)

 1938年1月16日,ヴィーンのムジークフェラインザールでのライヴ録音.第二次世界大戦前夜の,ワルターとヴィーンによる協同作業の,最後の果実である.この録音からわずか2か月後の3月13日,オーストリアはナチス・ドイツに併合され(アンシュルス),アムステルダムに演奏旅行に出ていたワルターはヴィーンに帰還することが出来なくなってしまう.

 この時期のワルターの演奏を評して「耽美的」「旋律を嫋嫋と歌い上げる」ということが言われるが,この録音に関する限り,ワルターは相当に切迫した表情付けをこの作品に施しているように思う.何しろ,クレンペラーの手にかかると80分を超え,レヴァインやジュリーニでは演奏時間が90分近くなるこの作品が,なんと70分強で駆け抜けられているのである.第1楽章の冒頭では演奏直前にもかかわらずドタバタと会場がごたついている音がするし,第3楽章など11分を少し超える程度,終楽章に至っては18分少々と,コンドラシンも驚くようなテンポで演奏されている.第3楽章では急激なテンポのアクセルとブレーキの踏み替えが行われるため,アンサンブルが乱れる箇所が1箇所や2箇所に止まらない.

 そのような数々の悪条件にも関わらず,この録音が今に至るまで名盤とされているのは,明日にも迫り来るであろう外敵(ナチ)の脅威がもたらしたのであろう,高い使命感と厳しい緊張感のなせる業ゆえ,だったのだろうか.終楽章の高揚は,他のほとんどの録音にも聴くことのない,情感のこもった響きである.

2007/08/20

深井史郎/ジャワの唄声

深井史郎/交響的映像「ジャワの唄声」@ドミトリ・ヤブロンスキー/ロシア・フィル(ナクソス:8.557688J)

 2004年10月28日から11月2日の録音.
 深井史郎(1907-1959)は戦前派の日本の作曲家の中でも,もっとも批判的精神が旺盛で皮肉と諧謔と韜晦を専らとしたひとりである.没後に編纂された『恐るるものへの風刺』(音楽之友社,1965年出版)を読んだことがある方なら,ある程度はそのことが理解できるのではないかと思う.

 だから,この作品がいわゆる「大東亜共栄圏」の理想に忠実な主題を持ち,「大東亜戦争」中の1942(昭和17)年9月に完成し翌年初演(ちなみに初演を指揮したのは朝比奈隆)・録音された作品であるにも拘らず,実はその骨格がモーリス・ラヴェルの「ボレロ」そっくりだったとしても驚くにはあたらない,というのがひとつ.さらに片山杜秀が執筆したこのCDの解説に拠れば,ラヴェルの「ボレロ」は当時の日本の作曲家が,日本的な音楽作品を書く際の素晴らしいお手本だった可能性が強いらしい,というのがもうひとつ.

 ただし,この作品が「ボレロ」と異なるのは,「ボレロ」のように高揚して終わるのではなく,高揚の後に静かな終結部が付いてポツンと終わってしまうところである.これが予言なのか,美意識の問題なのかは,今となってはわからない.

2007/08/19

夏休み終わり

 今日で夏休み終わり,明日から通常営業します.が,しばらくの間はこれまでと同じような更新が続くでしょう悪しからず.

ブリテン/戦争レクィエム

ブリテン/「戦争レクィエム」@ヘルベルト・ケーゲル/ドレスデン・フィル(ドイツ・シャルプラッテン:TKCC-15165)

 1990年の録音.東ドイツで活躍した指揮者ケーゲル(1920-1990)はこの作品を録音した直後,ピストル自殺している.東ドイツという,官僚的で保守的な共産党政権下の国で,新ヴィーン楽派などの現代音楽を果敢に取り上げていた.何度か来日して日本のオケも指揮しているが,日本で現在のようなカルト的な人気を獲得するのは,その死後に一部の評論家がその「猟奇的なほどの美の追求」を褒めちぎってからのことである.

 この作品は1962年5月30日,UKのコヴェントリーで第二次大戦中のドイツ空軍による空襲で破壊された聖ミカエル教会の再建がなった,その献堂式にて初演された.ブリテンは,この作品のソリストにそれぞれ特定の歌手,即ちヴィシネフスカヤ(ソ連),ピアーズ(UK),フィッシャー・ディースカウ(ドイツ)を想定していたが,諸事情によりヴィシネフスカヤは初演に参加できず,のちにブリテンの指揮でこの作品が録音された際,初めて演奏に参加する.
 その録音は「戦争レクィエム」の最高の名盤として指揮した作曲家自身が満足したというほどの出来栄えだったのだが,それを高校生のときに某県立図書館から借りて聴いた僕には,その崇高な目的はともかく,さっぱり音楽が理解できなかったことを,ここに正直に記しておく.それから20年以上,ブリテン自身の録音を聴いていないので,今ならば,また異なる感興があるのかもしれない.

 ケーゲルの演奏は,非常に繊細で神経質で,鬼気迫る緊迫感を以ってこちらに訴えるものがある.それが,ブリテンがこの作品の冒頭に掲げたウィルフレッド・オーウェンの言う「警告」なのだろう.ケーゲルの悲劇的な最後を考え合わせると,この言葉もなかなか重層的な意味合いを持っているような気がする.

2007/08/18

ハルトマン/交響曲第1番

ハルトマン/交響曲第1番「レクィエムの試み」@フリッツ・リーガー/バイエルン放送交響楽団(ヴェルゴ:WER 60187-50)

 1960年代の録音と思われる.ミュンヘンで活躍した指揮者リーガー(1910-1978)の演奏は,メッツマッハーの全集でのそれよりも切れ味鋭く,ハードボイルドなハルトマンのイメージを再現した好演である.

 ナチ政権下のドイツで国内亡命と言う困難な道を選んだカール・アマデウス・ハルトマン(1905-1963)は,義父に生活費を融通してもらいながらドイツ国内では沈黙を守る一方で,書き溜めた作品を亜鉛でできた密閉容器に入れて地中に埋め秘匿していた.
 この交響曲は1935年から翌年にかけて,アルト独唱と管絃楽のためのカンタータとして作曲され,「交響的断章」として1936年にパリで演奏されるはずがキャンセルされてしまう.第二次大戦が終わった後,1947年から翌年にかけて改訂され「レクィエムの試み」と改題され,1948年5月にフランクフルトで初演される.
 テキストはウォルト・ホイットマン(1819-1892)の『草の葉』からとられている.

2007/08/17

トゥービン/死せる兵士のためのレクィエム

トゥービン/「死せる兵士のためのレクィエム」@ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団(BIS:BIS-CD-297)

 1985年5月11日の録音.
 エドゥアルド・トゥービン(1905-1982)はエストニア出身の作曲家だが,ソ連とナチによるバルト三国の占領を経て1944年にはスウェーデンに亡命し,帰国することなく死去した.
 
 この作品は,1919年のエストニア独立戦争,1940年のソ連による占領(さらに1941年から1944年まではナチの支配下に置かれ,その後再びソ連の支配下になる)という苦難に立ち向かい斃れた兵士を追悼するために1950年から作曲が始められたが第2楽章の途中で中断してしまう.19年もの後に作曲を再開し,最終的には1979年8月17日に完成する.1981年5月17日に,ストックホルムのヘドヴィク・エレオノーラ教会にて作曲家自身の指揮で初演されるが,その演奏会がトゥービンが指揮した最後の演奏会になる.

 テキストは通常の典礼文ではなく,1,2,4,5章がヘンリク・ヴィスナプ(1890-1951),3章がマリー・アンダー(ウンデル,1883-1980)というエストニア出身のふたりの詩人による.ふたりともソ連の占領から逃れ亡命したのか,最期の地はそれぞれニューヨークとストックホルムである.また編成もアルト,バリトンの独唱に男性合唱,オルガン,トランペット,ティンパニ,ドラムという変わったもの.全編を通じて痛切な音楽が展開されるが,特に終章で吹かれるトランペットの響きは痛ましい.

2007/08/16

ピツェッティ/ヴァイオリン・ソナタ

ピツェッティ/ヴァイオリン・ソナタ イ調@レイラ・ラーソニイ&アルパスラン・エアテュンゲルプ(マルコ・ポーロ:8.223812)

 1994年6月の録音.
 現在では,合唱曲の作曲家として名を知られるイタリアの作曲家イルデブランド・ピツェッティ(1880-1968)は,交響曲から歌劇に至るまで,後期ロマン派の残滓と新古典主義の狭間をグレゴリオ聖歌で埋めるような作品を残しているようだが,残念ながら僕はこの1枚(他にピアノ三重奏曲と「ヴァイオリンとピアノのための3つの歌」を併緑)しか持っていない.
 このヴァイオリン・ソナタはテンペストーソ(嵐のように),モルト・ラルゴ(「無辜なる人びとへの祈り」とされる),ヴィーヴォ・フレスコの3楽章からなり,1918年9月から翌年1月にかけて作曲された.第一次大戦の悲劇から人生の再構築と希望を見出す,そのような想いが込められている.全編,真摯な感情で一貫する秀作であろう.

2007/08/15

信時潔/海行かば

信時潔/「海行かば」@コロムビア男声合唱団(日本コロムビア:COCP-30710)

 1938年2月21日録音.
 『万葉集』巻十八所載の,大伴家持の長歌から歌詞を取り,ドイツ・ロマン派風な作風で知られた信時潔(1887-1965)が作曲した.
 「国民精神総動員強調週間」なるものが1937(昭和12)年10月13日から実施されるに際して,NHKがそのテーマソングとして信時にこの作曲を依頼したものである.当初は国民精神を鼓舞するものとして出征兵士を送るときに使用されていたが,学徒出陣の際にも使用されたばかりか,徐々にその荘重さ故に,大本営発表を伝えるラジオニュース等で玉砕時のテーマとして扱われるようになってしまい,挙句に「第二国歌」とまで言われるようになる.
 信時は当初の目的と異なる使い方をされてしまったばかりか,当時の国家指導者層の思惑を国民に浸透させるような使われ方をした作品を作曲したことを恥じて,敗戦後作曲の筆は折らなかったものの,創作活動が激減したと伝えられる.

 下の写真は,雑司が谷墓地にある信時潔の墓所.

Photo

2007/08/14

リヒャルト・シュトラウス/メタモルフォーゼン

リヒャルト・シュトラウス/メタモルフォーゼン(23の独奏絃楽器のための習作)@アンサンブル・オリオル・ベルリン(アルテ・ノヴァ:74321 81175 2)

 1999年6月の録音.
 1945年3月から4月という,第三帝国崩壊寸前の時期に,ナチによって引き起こされた第二次大戦のためドイツが瓦礫の山と化すのを目の当たりにしたシュトラウスが,滅び行く「古き良きドイツ」「自らの信奉するドイツ音楽」の崩壊を悼んで作曲したと言われる.ベートーヴェンの交響曲第3番の第2楽章(葬送行新曲)の主題がいたるところで明滅し,まるでその暗喩のような形で音楽は進行する.そして,コーダの最後の最後で葬送行進曲の主題がはっきりと提示されるという方法は,アイヴズの交響曲第4番の終楽章と同じアイディアだが,もちろんシュトラウスの死後に初演されるアイヴズの交響曲をシュトラウスが知る由も無い.
 ドイツも,ドイツ音楽も第三帝国と共に滅びることは無かったが,シュトラウスの死でドイツ・ロマン派の偉大な時代はひとつの幕を降ろすことになる.

2007/08/13

伊福部昭/兵士の序楽

伊福部昭/兵士の序楽@広上淳一/日本フィル(キング:KICC177)

 1995年8月から9月の録音.
 伊福部昭本人が,このCDのライナーノートで作曲にいたる経過をよく覚えていない,と述べている作品.一応は陸軍の委嘱作品,ということになってはいるが,本人が覚えている楽譜の総譜先や現在の楽譜の管理先がNHKであることから恐らくは,NHKの依頼で戦意高揚の放送用に作曲されたのではなかろうか,とも考えられる.大戦末期の1944(昭和19)年という作曲年から類推して,恐らくこの2管編成を要する作品は当時,演奏されず仕舞いだったようだ.
 この作品の旋律やモチーフは,その後伊福部が担当した特撮映画の音楽に転用されているものが多く,今の時点の耳でこの音楽を聴くと,伊福部が先の戦争を随分と醒めた目で眺めていたんじゃないか,という感じがしないでもない.

2007/08/12

デュリュフレ/アランの名による前奏曲とフーガ

デュリュフレ/アランの名による前奏曲とフーガ作品7@ヘンリー・フェアーズ(ナクソス:8.557924)

 2006年6月の録音.
 作品番号にして14番までしか出版しなかった寡作の作曲家にしてオルガニストのモーリス・デュリュフレ(1902-1986)が,同じく作曲家でオルガニストだったジャン・アラン(1912-1940,やはりオルガニストのマリー=クレール・アランの兄)の前線での戦死を悼み,1940年(1942年とも)に作曲した作品である.アラン(Alain)の名をある操作でA-D-A-A-Fと音名に読み換え,主題とした.沈鬱な前奏曲と悲劇的に高揚するフーガから構成されている,全体で12分ほどの音楽だが,いささか晦渋な作風で少々わかりにくい.恐らく,ロマンティック・オルガンのある聖堂やホールで聴くと,また印象が変わって来る態の音楽であるような気がする.

2007/08/11

チャイコフスキー/1812年

チャイコフスキー/大序曲「1812年」作品49@ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィル(DG:POCG-90302)

 1966年10月13日の録音で,冒頭に合唱を,クライマックスでは大砲を用いている演奏.こーゆう,それほど中身があるとも思えない作品を振らせると,ホントにカラヤンは天下一品な指揮をする.
 この作品は,1882年8月にモスクワで開催された産業芸術博覧会での演奏会で初演された.この年は1812年にロシア軍がナポレオン率いるフランス軍を撃退してから70年目に当たり,また演奏会の会場はロシア皇帝アレクサンドル1世の勅令で建設され始めたものの,ようやくこの年に完成した救世主キリスト大聖堂前の広場であった.野外で演奏するときを想定して,本物の大砲を使うようスコアに指示がある.チャイコフスキーは当初,そのような機会音楽を書くことを嫌がっていたらしいが,結局は師匠筋にあたるニコライ・ルービンシテインの慫慂で重い腰を上げることになる.1か月あまりで書き上げたこの作品を作曲者自身は好きではなかったようだが,気がつけばチャイコフスキーの代表作のひとつに数えられてしまっているのには,地下のチャイコフスキーも苦笑しているのかどうか.

2007/08/10

夏休みをいただきます.

 明日から,しばらくの間本拠地を留守します.留守の間のblogの更新は小人さんにお任せしてありますが,コメントやトラックバックは当分の間,反映されませんのでご注意を.

 では,また.

マルティヌー/リディツェ追悼

マルティヌー/「リディツェ追悼」@インゴ・メッツマッハー/バンベルク交響楽団(EMI:5 55424 2)

 1995年5月の録音.
 この8分ほどの管絃楽曲は,ナチのベーメン・メーレン副総督で国家保安本部(SD)長官だったラインハルト・ハイドリヒが1942年5月にUKが支援した暗殺部隊によって狙撃され,6月4日に死亡したことへの報復として,チェコの鄙びた村であったリディツェが殲滅されたことに衝撃を受けた,ブルノ近郊の出身であったボスフラフ・マルティヌー(1890-1959)がリディツェへの追悼の意を込めて作曲したものである.全曲がゆっくりしたテンポで穏やかに流れていくが,徐々に悲劇的な緊張が高まり,頂点で「運命の主題」(タタタ・ターン)がカタストロフを形容する.

2007/08/09

シェーンベルク/ワルシャワの生き残り

シェーンベルク/「ワルシャワの生き残り」作品46@ジュゼッペ・シノーポリ/シュターツカペレ・ドレスデン(テルデック:WPCS-10428)

 1998年5月から6月にかけての録音.
 1947年にクーセヴィツキー財団の委嘱で作曲され,翌1948年11月に初演された.管絃楽,語り手と男声合唱による8分弱の小品ではあるが,ワルシャワのゲットーにおける大量虐殺(映画「戦場のピアニスト」でも描かれている)に取材しシェーンベルク自らが書き下ろしたテキストによる,反ファシズムの立場を明確にした作品である.シェーンベルクらしい,緊張感溢れた冒頭から,クライマックスの合唱に至るまで,一見現代音楽にありがちな場当たり的展開に聴こえるが,実は12音技法に則りなおかつ重層的に計算されつくした展開を聴かせる傑作.難解な技法が用いられているにもかかわらず,初演時にはアンコールされたという.

2007/08/08

瀬戸口藤吉/愛国行進曲

瀬戸口藤吉/「愛国行進曲」@東京音楽学校(日本コロムビア:COCP-30710)

 1937年12月20日の録音.発売がこのCDにあるように,わずか4日後の1937年12月24日とされているのが本当なら,相当な早業と言えよう.

 1937(昭和12)年9月に成立した内閣情報部により,「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」を制定すべく「愛国行進曲」の題名で歌詞を公募したところ,一等に入選したのは島根県または鳥取県(手元の資料に混乱があるようである)の青年が作詞したものである.次にその歌詞に付ける曲を公募したところ,当選したのは「軍艦行進曲」の作曲家で元海軍軍楽隊長を務めていた瀬戸口藤吉(1868-1941)の作品であった.1937年12月には当時のレコード会社各社から多種多様な録音が発売され,大ヒットとなり戦意高揚に一役買うことになる.
 何処で読んだか,あるひとの回想ではこの作品の冒頭「見よ東海の空明けて」がどうしても「見よ東條の禿頭」に聴こえて仕方が無かったそうである.

2007/08/07

オネゲル/交響曲第2番

オネゲル/交響曲第2番@マリス・ヤンソンス/オスロ・フィル(EMI:5 55122 2)

 1993年11月から12月の録音.以前,終楽章にトランペットの入らないプラッソン盤を取り上げたが,こちらは,終楽章にトランペットが入る演奏.徹頭徹尾陰々滅々な雰囲気で進行する音楽の,最後の最後で控え目ながらも朗々と吹き鳴らされるトランペットに,抵抗へのかすかな希望を見出す.

 どうもこの曲を聴いていると,この作品の時代背景と,目の前で行われている現実とのあまりの符合に,時々愕然とすることがあって,聴いているうちにどうしても思い入れを感じがち.僕個人は,もう何事に対しても,戦うだけの気力も知力も残ってないけどね.

 元々はパウル・ザッハー(1906-1999)の創設したバーゼル室内管絃楽団の創立10周年を記念するため,ザッハーから委嘱された作品だったが,作曲が遅々として進まぬ間に,ナチス・ドイツのフランスへの侵攻と降伏,ヴィシー政権の成立などが相次ぎ,占領下のパリの陰鬱な日々の暮らしの中でようやく1941年にこの交響曲を書き上げる.翌1942年にザッハーがチューリヒで初演するが,当時パリ音楽院管絃楽団の指揮者だったシャルル・ミュンシュがこの交響曲を好んで取り上げていたそうである.

2007/08/06

ペンデレツキ/広島の犠牲者に捧げる哀歌

ペンデレツキ/広島の犠牲者に捧げる哀歌@クシシトフ・ペンデレツキ/ポーランド国立放送交響楽団(EMI:3 81508 2)

 1975年2月の録音.
 1960年に初演された,ポーランドの作曲家ペンデレツキ(1933-)の国際的な出世作にて,「トーン・クラスター」なる技法を一躍世に広めるきっかけになった作品である.最初は「8分37秒」という演奏時間を指定しただけの標題だったものが,再三にわたる変更の末に現行の標題に落ち着く.当時においては衝撃的な標題と,衝撃的かつ前衛的な音楽技法でペンデレツキは一躍,前衛音楽の代表的な作曲家になる(ちなみにこの録音は9分54秒かかっており,当初の指定より1分以上遅いテンポ).
 その前衛的な音楽と名声は「ルカ受難曲」(1966年)で頂点に達するが,この作品を転回点としたかの如く,その後のペンデレツキの作風は「新ロマン主義」と言われるものに移行していく.現在では「前衛」どころか,来日公演でドヴォルジャークの交響曲第8番を楽しげに指揮するひとに変貌してしまっている.評者によって「堕落」「改心」と様々言われているが,この作品の標題が二転三転したことからでも,この作曲家がいわゆる「前衛的技法」を当初から(数ある作曲法のひとつとして)その価値を並列的に捉えていたんじゃなかろうか,というのが僕の仮説.

2007/08/05

ヴェレシュ/交響曲第1番

ヴェレシュ/交響曲第1番@タマーシュ・パール/サヴァリア交響楽団(フンガロトン:HCD32118)

 2002年2月の録音.
 シャンドール・ヴェレシュ(1907-1992)はハンガリー出身の作曲家で,第2次大戦後にハンガリーが共産化するとスイスに亡命し,ベルンの音楽院で教鞭をとる傍ら,作曲を続けた.ハンガリーでは亡命後に作品の演奏が禁じられ,しばらくは本国でも忘れられた作曲家になっていたようである.

 この作品は,いわゆる「皇紀2600年」の奉祝会で企画された奉祝演奏会のために日本政府からハンガリー政府に委嘱された作品である.演奏会は1940(昭和15)年12月7日・8日の両日,銀座の歌舞伎座(!)で催され,そこで他の委嘱作品と共に初演される.指揮を執ったのは当時の東京音楽学校教授橋本國彦(1904-1949).

 作品は3楽章からなり,全体的にはヒンデミットのようなモダニスティックな新古典主義風で,ミニマリズムのように繰り返されるリズムが特徴的な第1楽章,穏やかだがコーダに至って小爆発する第2楽章,ラプソディー風な終楽章からなる.「皇紀2600年」との絡みで忘れ去られてしまうには惜しい作品だと思う.

2007/08/04

ドビュッシー/ヴァイオリン・ソナタ

ドビュッシー/ヴァイオリン・ソナタ@ジャック・ティボー&アルフレッド・コルトー(EMI:CE30-5741)

 1929年の録音.マーラーの交響曲第2番の演奏会を,途中で席を蹴って出て行ったドビュッシー(1862-1918)は苦手中の苦手なので,ウチのCDライブラリーを探し回って,結局この録音しかないのであった.録音年から言って当然,電気録音初期のモノーラルであるが,曖昧模糊とした進行と謎めいた雰囲気が身上のドビュッシーには,作曲家と同時代の空気を吸っていたティボー(1880-1953)とコルトー(1877-1962)による演奏が相応しいところもあるだろう.
 
 さて,ドビュッシーは第1次大戦が始まると,「フランスの作曲家」としてドイツの侵攻に対抗すべく,「様々な編成による6つのソナタ」を作曲する計画を立てる.既に病魔に冒されていたドビュッシーは,それでも「チェロとピアノのためのソナタ」「フルート・ヴィオラとハープのためのソナタ」(ともに1915年)を書き上げ,次いで1917年に完成させたのがこの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」である.ドビュッシーはここで力尽き,残る3曲のソナタは未完に終わる.

 この録音,ティボーのこぼれるような美音はある程度堪能出来るものの,曲についてはこのコンビを以ってしても,残念ながら僕にはよくわからない.残念なことだが.

2007/08/03

ヨハン・シュトラウス1世/ラデツキー行進曲

ヨハン・シュトラウス1世/ラデツキー行進曲作品228@ハンス・クナッパーツブッシュ/ヴィーン・フィル(デッカ:440 624-2)

 1957年録音.当時のデッカ独特の生々しい音で録られている.演奏は指揮者の名前から想像できる通りの,威儀のある荘重なもの.

 この行進曲はヨハン・シュトラウス1世(1804-1849)が1848年8月,「イタリア戦線での勝利と傷病兵のため」の演奏会で初演された.ヨーゼフ・フォン・ラデツキー伯爵(1766-1858)率いるオーストリア帝国軍のサルデーニャ王国軍に対する勝利と凱旋を祝して作曲したものである.当時のヴィーンは,メッテルニヒ政権を打倒した3月革命の余韻が今だ覚めやらず,労働者と学生を中心とした革命派は先鋭化し次第に孤立していた.最終的には同年10月にフランツ・ヨーゼフ1世によって革命派は鎮圧されることになる.革命勃発当初は革命派のために音楽を書き,革命派を鼓舞していたシュトラウス1世だが,この頃には革命派から離れており,ハプスブルク家を支持する市民階級の側に廻っていた.そこで,ラデツキー伯爵の凱旋を祝う行進曲を書いてハプスブルク家への支持を明らかにしたわけだが,このことによって失ったものも少なくなかったらしい.

 この作品,行進曲,と言ってもスーザのそれのような軍楽隊のためのものではなく,目的が示すようにセレナードの伝統を受け継いだ祝祭的な性格の音楽であり,そのリズムは当時流行していた「カドリーユ」という舞踏のものを用いている.現在では当初の目的など忘れ去られてしまい,ヴィーンの「ニューイヤー・コンサート」の掉尾を飾る名曲として,華やかに明るくコンサートに華を添えている.

2007/08/02

アーノルド/戦場にかける橋

アーノルド/組曲「戦場にかける橋」(クリストファー・パーマー編)@リチャード・ヒコックス@ロンドン交響楽団(シャンドス:CHAN9100)

 1992年1月の録音.LSOやRPO,LPOなどロンドンのオケには古くから映画音楽を担当したり演奏したりしてきた伝統があるためか,ここでもヒコックスとLSOは手抜きどころか,熱のこもった演奏を繰り広げている.

 この組曲は,マルコム・アーノルド(1921-2006)が担当した映画「戦場にかける橋」(1957年公開,原作:ピエール・ブール,監督:デヴィッド・リーン,出演:ウィリアム・ホールデン,アレック・ギネス,早川雪洲ほか)の音楽を,クリストファー・パーマーが演奏会用に編曲したもの.パーマーはアーノルドの他の映画音楽や,ウィリアム・ウォルトンの手がけた映画音楽の組曲化も行っている.この「戦場にかける橋」では,もちろん「クワイ河マーチ」(ケネス・アルフォードの行進曲「ボギー大佐」の転用)も含めての組曲化である.

2007/08/01

プロコフィエフ/アレクサンドル・ネフスキー

プロコフィエフ/カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」作品78@ネーメ・ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管絃楽団(シャンドス:CHAN8584)

 1987年8月の録音.当時売り出し中だったヤルヴィによる力演である.
 アレクサンドル・ネフスキー(1220-1263)はウラジーミル大公国の大公だった実在の人物で,中世ロシアの英雄と讃えられ,また東方正教会の聖人に列せられている.アレクサンドルの当面の敵はドイツ騎士団とスウェーデンであり,アレクサンドルはモンゴル帝国のバトゥを味方に付けてドイツ騎士団等と対峙し,ノヴゴロド公だった1242年には襲来したドイツ騎士団を「氷上の戦い」と後世形容されるチュド湖上の戦いで撃破する.その戦闘をセルゲイ・エイゼンシュテインが1938年に映画化したのが映画「アレクサンドル・ネフスキー」である.その映画で音楽を担当していたのがプロコフィエフで,プロコフィエフはその映画音楽を転用してカンタータを作り上げる.それがここに聴かれるカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」なのだが,クライマックスの「氷上の戦い」など聴いていると,プロコフィエフと言うよりはショスタコーヴィチのようなオーケストレーションであり,「プロコフィエフには何人ものオーケストレーション担当者がいて」云々と噂されたのもむべなるかな,と思わせる.プロコフィエフらしい諧謔味はあまり感じられない.

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