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ココログ


ほし2

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2007年6月の記事

2007/06/30

マーラー/交響曲第5番

マーラー/交響曲第5番嬰ハ短調@ヘルマン・シェルヘン/ヴィーン国立歌劇場管絃楽団(ウェストミンスター/MCA:MCD80081)

 1953年7月の録音.シェルヘンには第3楽章と第5楽章をズタズタにカットしたライヴ録音(ハルモニア・ムンディ・フランス)もあるが,こちらのスタジオ録音は至極まともにノーカット全曲版,といったところ(^^;).オーケストレーションには多少手が入ってはいる.
 演奏の方はまさに表現主義もいいところで,振幅の非常に激しい解釈.早いところはより早く嵐のように,遅いところは余韻嫋嫋と.スタジオ録音でこれだけテンションの高い演奏をする指揮者が,ライヴではさらに高揚するばかりか,楽譜をズタズタにしてしまうところが,シェルヘンの謎めいたところであり,シェルヘンのシェルヘンたる所以なのでありましょう(^^;).

宮澤喜一と西園寺公望

 毎日新聞【訃報:宮沢喜一元首相が死去、87歳】【宮沢元首相死去:ドライなハト派 安らか、眠るように

 ある体制の創成に自らも関わり,その体制が崩壊(それもハードランディング)しつつあるのを目の当たりにしながら死んでいった,宮澤喜一(1919-2007)の姿が「最後の元老」西園寺公望(1849-1940)と二重写しになって見えるのは,恐らく僕だけだろうな.その思いは,今朝の〈産経抄〉における,あからさまな評点付与を読むにおよんで,ほとんど確信めいたものになっているよ,僕の中では.
 笑わば笑え.

2007/06/29

ベートーヴェン/交響曲第7番

ベートーヴェン/交響曲第7番イ長調作品92@グィド・カンテルリ/フィルハーモニア管絃楽団(EMI:5 68217 2)

 1956年5月の録音.その年の11月24日,パリ郊外で搭乗機が墜落し不慮の死を遂げたカンテルリ(1920-1956)の残した最初期のステレオ録音である.カンテルリが事故に巻き込まれること無く,天寿を全うしていたら「帝王カラヤン」が果たして「帝王」たりえていたかどうか(政治的にはともかく音楽上で),興味ぶかい歴史の「if」を感じさせる名演.フリッチャイの病死とともに,カラヤンは大変に強い星回りに生まれていたんじゃないか,と思わせるに足るだけのものを,この演奏からは聴き取ることが出来ると思う.

2007/06/28

エルガー/交響曲第2番

エルガー/交響曲第2番変ホ長調作品63@エイドリアン・ボールト/BBC交響楽団(EMI:CDH7 63134 2)

 1944年8月の録音.当然モノーラル,だがノーブルが身上だと思われているボールト(1889-1983)の常に似ず,荒っぽくなることさえ厭わない,大変にテンションの高い演奏なのである,これが(^^;).第二次世界大戦末期の反転攻勢期の録音だからなのか,この作品を再度世に送り出した指揮者としての矜持なのか,ちょっと面白いところである.

 ところで,先日レコード屋に行ったら妙にガーシュウィンとエルガーの棚が充実している.なんでやねん,と思ったら今年(2007年)はガーシュウィン(1898-1937)の没後70年,エルガー(1857-1934)の生誕150年なんですね.

2007/06/27

バラケ/ピアノ・ソナタ

バラケ/ピアノ・ソナタ@シュテファン・リトウィン(cpo:999 569-2)

 1997年10月の録音.
 ジャン・バラケ(1928-1973)はピエール・ブーレーズなどと同じような立場から出発しながら,次第に独自の難解な理念と手法を展開するようになり,結局は当時の前衛たちをも越えてしまった孤高の作曲家.完璧主義故に生前発表した作品はたったの7つで,そのうち後半の4作はヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』という小説に基づく長大な作品のそれぞれ一部分をなすはずのものだったという.このソナタが収録されている3枚組のCDは,バラケの「作品全集」(!)なのである.

 『ウェルギリウスの死』以前の1952年に作曲されたこのピアノ・ソナタは2楽章ながら50分を超える大作で,公開初演までに15年もかかった難曲.聴いていると,どうも演奏会で聴衆に聴かせることは想定していないんじゃないか,と思わせる.「セリー技法」などの音楽技法に精通していない素人がこのような作品を聴くときは,リズムや音色,音響の衝突がどれだけ多彩か(オリヴィエ・メシアンの『トゥーランガリーラ交響曲』を想起されたい)を聴くのが関の山,といったところだが,この作品は基本的に静謐で求心力の強い音楽であるものの,ところどころで切れ切れに展開されるリズムや音響の衝突が,何とか聴く側の意識を作品の側に向けさせる.

脳内イメージ

 ふみおさんご紹介の「脳内イメージ」を試してみました.

G.C.W.の脳内イメージ

微妙に当たってますな(^^;).本名でやった奴はもっとヒドかったというか面白かったというか.事実の指摘と形容詞の区別もつかない程度の日本語の読解力しか持たず,公務員倫理も図書館員倫理も持ち合わせていない業界関係者がいるので,公開は差し控えますが,いろいろ楽しめますね.

2007/06/26

The Essential Michael Nyman Band

The Essential Michael Nyman Band@マイケル・ナイマン・バンド(アーゴ:POCL-1286)

 日本での発売は1992年.「ピアノ・レッスン」などの映画音楽や,それに基づくシリアスな音楽で知られるマイケル・ナイマンの,ピーター・グリーナウェイと組んだ映画の音楽に基づく作品集.以前,これを聴いた知人が「明るいフィリップ・グラスだ」と評したが,この知人は確かな耳を持っていると言っていいだろう(^^;).ナイマンもグラスも,いわゆる「ミニマル・ミュージック」と呼ばれる手法を多用する作曲家であるが,晦渋なグラスに比べてナイマンが日本でメジャーになったのは,この明快さによるところが大きいんじゃないだろうか.

2007/06/25

マーラー/交響曲第9番

マーラー/交響曲第9番ニ長調@オットー・クレンペラー/ニュー・フィルハーモニア管絃楽団(EMI:7 63277 2)

 1967年2月の録音.音楽のあるがままを鋼鉄の如き意志の力で表現した,クレンペラー畢生の名演.
 ときにマーラーは自らの墓碑銘について(?)「私を求めるものは,私が誰であったかを知っている.他の人たちはそれを知る必要はない・・・・・・.」と述べている.このblogも同じこと.このblogに何かを求めてやってくるひとは,僕が「誰であるか」を知っているか,あるいはこれから知るだろう,ということであり,それ以外の人に「誰であるか」を知ってもらう必要は全く無い.
 この「誰であるか」を知っている,という言葉は,このblogの読者がリアルでの僕を知っているかどうか,ということを意味しない.このblogが何を語り,何を主張しているか,それを(賛同であれ批判であれ)読み解き理解しているかどうか,ということが問題なのだ.それは実名でblogを運営しているかどうか,ということとは何の関係も無い.むしろ,有名人が実名で運営するblogには,文章ではなくその「肩書き」に物を言わせているケースが無いとは言い切れまい.
 故に,事実の指摘と形容詞の区別も付かない程度の日本語の読解力しか持ち合わせの無い業界人や,「図書館司書は自治労の走狗」という八木秀次のトンデモ発言にわざわざ根拠を与えるような言動を繰り返す世間知らずのマヌケまでにまで,僕が「誰であるか」を知らせる必要など無いのである.誰かが道路を掃き清めた後を,大礼服を着て闊歩するであろう下司な連中に,僕が「誰であるか」がわかるとは到底思えないから.

2007/06/24

ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番

ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30@ボリス・ベレゾフスキー&ドミトリー・リス/ウラル・フィル(MIRARE:MIR008)

 2005年8月,フランスはメッツの「アーセナル(Arsenal)」(19世紀の兵器庫[arsenal]を改造した演奏会場らしい)での録音.ジャケットの外面がずべてフランス語だった(オケの記載もOrchestre Philharmonique de l'Oural)ので,最初はフランスのオケを使った録音かと思ったら,ピアニストも指揮者もオケ(ウラル・フィルはエカテリンブルクが本拠)もロシアのもの(^^;).レコード会社(初めて見たレーベルで,本社はナントにあるみたい)と録音した場所がフランスというわけである.

 さて,この1969年生まれのピアニストと1960年生まれの指揮者によるラフマニノフ,聴取前の予想にたがわず,ズブズブの分厚く斜陽貴族っぽい退廃的なロマンティシズムとは無縁(^^;).何しろ全体で演奏時間が40分を切っている(第2番とのカップリングでCDの総録音時間が70分40秒!)くらいだが,かと言って疾風怒濤のラフマニノフでもなく,意外に端正で繊細な演奏,というところか.この季節でも聞くに堪えるラフマニノフ,と評したら何か変ですかね(^^;).
 ピアニストの技巧は問題なしだが,ひょっとして轟音を鳴り響かせるタイプのピアニストではないのかも,と思わせるところはある.オケが大きな音を出すとピアノが聴こえなくなることがあるのは,録音バランスのせいばかりでもないだろう(^^;).オケはピアノにぴったり付けており,なかなかの巧者ぶりが伺える.

2007/06/23

ヴィターリ/シャコンヌ(レスピーギ編曲)

ヴィターリ/「シャコンヌ」ト短調(レスピーギによる独奏ヴァイオリンと絃楽オーケストラ,オルガンのための編曲版)@フェデリコ・グリエルモ&新イタリア合奏団(アルトゥス:ALT137)

 2004年2月録音.
 今ではトマゾ・アントニオ・ヴィターリ(1663-1745)の真作かどうか疑われている,あの素晴らしいト短調の「シャコンヌ」(この曲を物語の軸に据えたマンガを昔々,白泉社のコミックで読んだことがあるんだけど,誰か覚えてませんか?)を,バロック作品の編曲をいろいろ手がけた(それが過去の作品に現代の生命を吹き込むことだと考えていたらしい)オットリーノ・レスピーギ(1879-1936)が独奏ヴァイオリンと絃楽オケおよびオルガンのためにオーケストレーションした版が演奏されている,珍しい録音.レスピーギはJ.S.バッハの「パッサカリア」ハ短調BWV582でも,ストコフスキーとタイマンを張れる(^^;)ほどの絢爛豪華な管絃楽への編曲を施していたが,ここでも実にロマンティックな編曲ぶりで,かの「シャコンヌ」がヴィターリの真作であることを疑われるのも道理か,と妙に納得してしまう(^^;).
 このCD,他にも近代のイタリアの作曲家によるイタリアのバロック作品の編曲があれこれ録音されているので,数寄者にはたまらないCDなんじゃないかな? 個人的には,こーゆうの大好きです(^^;).

2007/06/22

アーノルド/ブラスバンドのための交響曲

アーノルド/ブラスバンドのための交響曲作品123@フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブル(デッカ:289 470 501-2)

 1979年録音.
 フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルの主催者であったフィリップ・ジョーンズ50歳の誕生日のお祝いに献呈された作品.作曲者のマルコム・アーノルド(1921-2006)は「戦場にかける橋」などの映画音楽でも知られるが,UKにおいては9つの交響曲など,シリアスなクラシック音楽の大家として遇された作曲家である.音楽家としての出発がトランペット奏者だったこともあってか,吹奏楽のオリジナル作品も幾つか手がけている.
 この交響曲は,作曲家のクラシックでシリアスな側を出したもので,一般的な吹奏楽や映画音楽の親しみやすさを期待すると裏切られます(^^;).

2007/06/21

マイティジャック ミュージックファイル

マイティジャック ミュージックファイル(VAP:VPCD-81112)

 毎日新聞【出版社:朝日ソノラマが解散

 またまた僕の「昭和」がひとつ,遠くなりましたです_| ̄|○ 「ソノシート」もさることながら,僕にとって朝日ソノラマと言えば何よりも「宇宙船」の版元でありました.学生時代の割と短い間でしたが「宇宙船」の愛読者でしたのよ.その後は賢弟が愛読者を引き継いだ(^^;)ので,彼にバックナンバーを進呈しまして,今はもう手元に無いですけど.最初の頃は,表紙をコスプレした女性タレントさんが飾っていたのを想い出しますよ.
 で,特撮の「ソノシート」もあったよな,と今日は「マイティジャック」など聴きながら,過ぎ去りし日々を偲ぶことにいたしましょう(sigh).

2007/06/20

アイヴズ/交響曲第2番

アイヴズ/交響曲第2番@ケネス・シャーマーホーン/ナッシュヴィル交響楽団(ナクソス:8.559076)

 2000年6月の録音.ジョナサン・エルカスによるアイヴズ協会クリティカル・エディションを使用した最初の録音ということである.とにかくアイヴズ(1874-1954)の作品は,当人が「不協和音のために飢えるのは真っ平ゴメンだ」と言ったと伝えられるような,当時はとても音楽で飯を食えるとは思えない,ある意味「何でもあり」な実験精神に貫かれた音楽なので,作曲者の意図が本当はどこにあったのか(どの音符にあったのか)専門の音楽学者でもわからないのではないかと思えるほど,複雑なスコアが後に残されているらしい.当人は澄ました顔で,間違った音符も「すべて正しい」と言ったとか言わないとか(^^;).
 おまけに,作曲から50年も経った後,1951年にこの交響曲を初演したのが,音楽を面白く聴かせることでは人後に落ちないレナード・バーンスタインであったことも事情を複雑にしたようである(その初演をラジオで聴き終わったアイヴズはジッグを踊った,とも言うのだが).この録音では大幅な基本線の変更があるわけではないものの,第2楽章第2主題のように,明らかに他の録音とテンポが異なる解釈が施されているところがあちらこちらにあり,また今までの録音では聴けなかった音(第2楽章での,ソナタ形式の提示部の繰り返しのための挿入句?)も聴くことが出来る.

2007/06/19

ストラヴィンスキー/ペトルーシュカ

ストラヴィンスキー/バレエ音楽「ペトルーシュカ」@アンタル・ドラティ/デトロイト交響楽団(デッカ:UCCD-3210)

 1980年6月の録音.アンタル・ドラティ(1906-1988)晩年の再評価につながった名演の名録音である.元々優秀なオーケストラ・ビルダーとして評価の高かった指揮者だったが,マーキュリー時代(1950年代後半から1960年代前半)の録音など,オケの統率には聴くべきものがあるものの「うたごころ」がいまひとつ,というのが,僕が例えばブラームスの交響曲全集などから受ける印象.それが,ワシントン・ナショナル交響楽団との録音(ヴァーグナーなど聴いたことがあるけど,これは如何にもオケが非力.このオケが何とか聴けるオケになるのはロストロポーヴィチやレナード・スラットキンが指揮するようになって後のことでしょう)を経て,デトロイト交響楽団との録音が主になる頃には,ようやく何かに縛られていたかの如き「うたごころ」が解放されて,名演奏を録音で連発するようになったんじゃないかしらん? この「ペトルーシュカ」も嫌なところが全くない,名演だと思う.

わかる方だけわかれば

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 閉店1日前,午後6時45分ごろ.
 明日6月20日の午後8時で50余年の歴史に幕が下ろされます(sigh).僕自身,最近はほとんど利用していなかったので,慙愧に堪えません.これも地域格差の現れ,と言ったら小泉純一郎に笑われるでしょうか.

2007/06/18

クルシェネク/ピアノ・ソナタ第1番

クルシェネク/ピアノ・ソナタ第1番作品2@ジェフリー・ダグラス・マッジ(コッホ・シュヴァン:CD310 047 H1)

 1989年6月の録音.
 自分でも,何でこんなものまで持っているのかよくわからない(^^;),エルンスト・クルシェネク(1900-1991)のピアノ・ソナタ集(1,3,5番を収録)から.第1番は1919年の作だと言うから,作曲家19歳のときの作品と言うことになる,3楽章で構成される25分ほどの曲.作曲当時,クルシェネクはフランツ・シュレーカーに師事しており,如何にもシュレーカー直伝らしい,旋律の豊かさよりもその瞬間瞬間の響きの豊かさに賭けたような芸風である.その後クルシェネクは周囲の人脈に恵まれすぎたのか,その影響を受けまくりめまぐるしく作風を変えていくことになる.バルトークからジャズからヒンデミットからシェーンベルクまで,ひとりでこなした作曲家と言うのも珍しいかと(^^;).

 この録音は,ピアニストが晩年の作曲者の監修の下で録音した,貴重な記録であるらしい.この演奏,表現に迷いがないのは,そういうことから来るものの様である.

2007/06/17

ドヴォルジャーク/交響曲第5番

ドヴォルジャーク/交響曲第5番ヘ長調作品76(B.54)@リボル・ペシェク/チェコ・フィル(ヴァージン:5 61853 2)

 ブックレットが不親切なので,1987年から1989年の間に録音されたとしかわからない(^^;).1875年に作曲された作品で,前年に作曲された交響曲第4番がかなり構えた旋律と形式を備えた作品になっているのに対し,第5番は大きく作風を転回し親しみ易い旋律と雰囲気を前面に押し出し,敢えて言えば民謡調の旋律を緩やかな形式の下に扱っている感がある佳作に仕上がっている.この路線は後に交響曲第8番で頂点を極めることになるが,ペシェクもいたづらにこの交響曲を「大交響曲」として扱わず,作品の身の丈に合った好感の持てる演奏に仕上げている.

2007/06/16

ブラームス/3つの間奏曲作品117

ブラームス/3つの間奏曲作品117@ヴィルヘルム・ケンプ(DG:POCG-90117)

 1963年12月の録音.さすがに今日は疲れているようで,珍しくブラームスの,それも晩年の小曲集(作品117,118,119)が1枚に納められいる,このCDを聴いている.ブラームス晩年のしみじみした憂愁を伝える,枯淡な味わいの好演奏である.
 それにしても,今日は1時間程度昼寝をするつもりで昼食後に横になったら,目覚めてみたら18時半だった_| ̄|○ いったい,何時間寝ていたんだろう? 疲れているのは,昨晩日付が変わるまで読書していたからだろうが.

星新一:1001話をつくった人

 読み終わって,深いため息とともに涙が溢れるのを抑えることができなかった.綺麗事に終わらない,素晴らしい伝記作品である.

 僕自身,一時期星新一の本はよく読んでいる.ファンだったと言っていいと思う.と言っても,そもそもの出会いがショートショートではなく,中学生のとき親父がクリスマスに買って来た単行本『明治の人物誌』というのが,恐らくは他の愛読者と異なるんじゃないだろうか.そのためか,何より大好きだったのは『明治・父・アメリカ』.ボロボロになって綴じも壊れた文庫本『明治・父・アメリカ』も,何かの理由で染みを作ってしまった『明治の人物誌』も,いまだに手元にある.『明治・父・アメリカ』は余りに状態がひどいので買い換えようかと思い,確認してみたら品切れで愕然としたのは,1,2年前のこと.

 と言うわけで,星新一の生涯を運命付けたその父,星一についてはまんざら知らないわけでもなかったのだが,『星新一』を読んで,星一のあまりの破天荒さと,その背後にあったと思しき闇の深さに改めて仰天させられる.これは大変な父親を持つ羽目になった一家の栄光と悲惨をひとりで背負い込み,父親とは別の世界で一流になったものの,ついに父親の残した闇から自由になれなかった息子の生涯を追って不足の無い本であろう.とにかく,「驚きの連続」の見本のような本であった.

 ちと不満があるとすれば,星新一が『明治の人物誌』で「先生とつけなければ書き続けられない」とその恩義を明らかにしていた花井忠(弁護士で,『明治の人物誌』に登場する花井卓蔵の養嗣子)に関する記述があまり見られないことくらいであろうか.
 と言うのも,まさか根岸寛一(映画人.戦前は日活で活躍し,戦中は満映,戦後は東映の基礎を築いた)の名前が『星新一』に出て来るとは思わなかったという,こちらの勝手な入れ込みがあるものだから.しかも,星新一は健康が悪化して自由が丘に引き籠った根岸のところをたびたび訪れ,何かと相談相手になってもらっていたというのだから驚いた.それにしては,恩義を公言していた花井忠の影が薄いのが不思議である.

 それにしても,星一もまた満洲につながりのある人間だったとは知らなんだ.二反長半の『戦争と日本阿片史』という本(ほとんど絶筆だったらしい)のことも知らなかった.星一の海外での事業については,ノンフィクション作家の上野英信が『人民は弱し官吏は強し』の内容について星新一に詰問状を送ったけど返事が来なかった,という逸話を「未来」だったかどこかの新聞だったかで読んだ記憶はあるけど.この上野の件は『星新一』には出て来ない.上野が出した詰問状は本人の手元に届いたのか,届かなかったのか,届いても破棄されてしまったのか,いささか興味があるところなのだが.

 この書評,星一がらみのことばかり書いているな(^^;).もちろん,日本SF史を学びたいひとには必読の文献だけれども,星新一の晩年が功なり名遂げた人のそれとは,とても思えない精神状況だったことも包み隠さず書かれていることが,この本の価値を更に高めていると思われるのは,何とも言えない気持である.

星新一
星新一
posted with 簡単リンクくん at 2007. 6.16
最相 葉月著
新潮社 (2007.3)
通常24時間以内に発送します。

2007/06/15

ブルックナー/ロマンティック

ブルックナー/交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」@オットー・クレンペラー/ヴィーン交響楽団(VOX:CDX2 5520)

 1951年3月録音.CDでは,一部で「怪演」「謎演」の名をほしいままにしている(^^;),ハンス・ロスバウト(1895-1962)が振るマーラーの第7番の録音とカップリングされている.
 クレンペラー(1885-1973)の「ロマンティック」は,晩年のバイエルン放送響とのライヴ録音でも60分を少し超える程度のテンポで演奏されているが,このヴィーン響との演奏は実に快速調.(恐らく)カットも無いのに全曲を51分半(!)で走り抜ける.表現も恐ろしくドライでおよそ感情移入というものが感じられない.要するに「ロマンティック」では全く無い演奏(^^;).ひょっとして,同時代音楽の果敢な擁護者であったクレンペラー,音楽演奏におけるある種の実験でもやっていたのかいな,と思わせないでもない.それほどクレンペラー自身の後年のブルックナー録音からも想像出来ない,ある意味凄まじい演奏ではある.

 クレンペラーの「ロマンティック」をお求めの際は,安いからと言ってこの録音から聴いてはダメです.フィルハーモニアとの録音(EMI)か,前記バイエルン放送響とのライヴ録音(EMIのが正規音源)のどちらかから聴き始めることをお薦めします.

2007/06/14

J.S.バッハ/ブランデンブルク協奏曲第4番

J.S.バッハ/ブランデンブルク協奏曲第4番ト長調BWV1049@カール・シューリヒト/チューリヒ・バロック・アンサンブル(コンサートホール/スクリベンドゥム:SC011)

 カール・シューリヒト(1880-1968)最後の録音になった1966年5月のブランデンブルク協奏曲全曲から.このアンサンブル,実はかなり名のある奏者の集まりだよ,という話を何処かで読んだ記憶があるが,確かにシューリヒト/ハーグ・フィルのブルックナーなど必ずしもよい音を録っていないコンサートホール盤としては,かなり深みとコクのある音で録音されているように聴こえる.演奏もなかなか温かみのある好演で,シューリヒトが自分の身の丈に合ったバッハを慈しみ,楽しんでいるかのようである.モダン楽器によるバッハなんて,と思っている方にも一聴をお薦めする.古楽派の切れ味とはまた一味違う,暖かなバッハである.

2007/06/13

ハルトマン/葬送協奏曲

ハルトマン/葬送協奏曲@イザベル・ファウスト&クリストフ・ポッペン/ミュンヘン室内管絃楽団(ECM:465 779-2)

 1999年7月と9月の録音.カール・アマデウス・ハルトマン(1905-1963)がナチス政権下のドイツで国内亡命を強いられていた1939年に作曲された,ヴァイオリン独奏と絃楽オーケストラのための作品.第3楽章に闘争的なアレグロ楽章を置くが,あとの3つの楽章はいずれも緩徐楽章であり,全編が悲痛な表情で一貫している.それはナチスの圧政への抵抗とも言われる.ある解説ではヤン・フスを始祖とするフス派のコラールが引用されているといい,別の解説ではロシア労働者運動の歌である「不滅の犠牲」という曲が引用されているというのだが,それらがどの箇所を指すのか,残念ながら僕にはよくわからない.それでもその苦しみと哀しみに引き裂かれる音楽に,強く共感するのは僕だけではあるまい.
 演奏団体が根拠を置くミュンヘンは,ハルトマンが戦後その本拠地とした街であり,戦後西ドイツにおける現代音楽の一面を代表するところにもなったわけだが,ここは同時にヴァイマール共和国期にナチスを育んだ街である.戦後長らくミュンヘンの歌劇場の復興に尽力したのは,かのハンス・クナッパーツブッシュである.

 この頃は,出来るだけ「図書館」というものから身も心も引くだけ引いてこのblogを更新している.現在の公共図書館の「現場」を論じる気も,現在の大学図書館の「技術」を論じる力も,今の僕には全く無いからね.ましてや新保守主義的な「図書館」像が跋扈し始めている現状を変えるだけの筆力も無い.
 それでも,今日遅まきながら読んだ「出版ニュース」誌掲載の『図書館戦争』を論じた文章の,馬鹿馬鹿しい限りの大はしゃぎぶりにはがっかりさせられたことが,今日この作品をBGMに選んだ理由だと言ったら,その文章の筆者はもとより彼の所属する団体の当事者たちは「またあの馬鹿が」とでも思うのだろうな(^^;).今更当人たちに向かって何事かを言っても無駄だから,ここで嫌味のひとつも言っておく.
 所詮「公共図書館」と「図書館の自由」をモチーフに借用し幻想を展開させただけのライトノベルを,運動系の方々がそこまで持ち上げることへのツケは,今後あなた方自身が払うことになるのだよ.

2007/06/12

尾高尚忠/フルート協奏曲

尾高尚忠/フルート協奏曲@ジャン=ピエール・ランパル&森正/読売日本交響楽団(デンオン:COCO-70507)

 1968年5月の録音.
 尾高尚忠(1911-1951)はNHK交響楽団主催の「尾高賞」に名を残す,作曲家にして指揮者.尾高家は澁澤榮一と縁戚関係にある旧家で,兄にマックス・ヴェーバーの『職業としての学問』を岩波文庫に翻訳した尾高邦雄(1908-1993)などがいる.戦中から戦後にかけてヨーゼフ・ローゼンシュトックのあとを受けて新交響楽団(新響)→日本交響楽団(日響)の指揮者として大車輪の活躍をしたのが祟って過労死した.
 この協奏曲は,最初フルートと室内楽編成のオケによる協奏曲であったものを,フルオーケストラ用に編曲している途中で尾高が亡くなったため,残された最後の数小節のオーケストレーションは尾高の弟子である林光(僕にとっては「水ヲ下サイ」を含む「原爆小景」の作曲者というよりは,こんにゃく座の座付作曲家のイメージが強い方)がまとめた.この作品については,この曲を知らない(と思う)ある教え子と偶然,誰かが終楽章を練習しているところを通った際,彼女が「何だか懐かしい感じのするメロディですね」と言ったのが想い出される.もう10年以上前の話だ.彼女は,今何処で何をしているのだろう(^^;)?
 なお,最初の小編成での初演の際,フルートを吹いたのはこの録音で指揮をしている森正(1921-1987)である.森はフルート奏者から指揮に転向し,名古屋フィルの音楽総監督としてその育成に力を注いだひと.

2007/06/11

J.S.バッハ:ヴェーベルン/6声のリチェルカーレ

J.S.バッハ/「音楽の捧げもの」BWV1079より6声のリチェルカーレ(ヴェーベルン編曲)@ピエール・ブーレーズ/ロンドン交響楽団(ソニー:SM3K45845)

 1969年6月録音.ブーレーズがもっともブーレーズらしい指揮を展開していた頃の,記念碑的ヴェーベルン全集から.何て言うのか,ヴェーベルンの編曲には,ざわついていた心が平らかにさせられる力があるような.それは元からバッハの音楽が持っている力なのかもしれないけれども,この編曲は見事なものだと思う.

 それにしてもこれ,しばらく振りに引っ張り出したCDだけど,今とは別人のブーレーズがホントにここにいるのには,ビックリさせられる(^^;).この頃のブーレーズは,実に怜悧かつ玲瓏な指揮をしていたものである.DGに録音するようになってからのブーレーズは,大指揮者よろしくブルックナーまで振るようになってしまったわけでorz マーラーの第2番など,その昔ドビュッシーやデュカスがマーラー自身が振る演奏会を中途で席を立ってしまったほどなのに,その第2番をブーレーズが振って人気を取るというのは,どういうことなんだか(-_-;).
 納得いかない話ではある.

2007/06/10

ウェーバー/クラリネット協奏曲第1番

ウェーバー/クラリネット協奏曲第1番ヘ短調作品73@チャールズ・ナイディック&オルフェウス室内管絃楽団(DG:UCCG-9470)

 1991年4月の録音.
 カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)のクラリネットをフィーチュアした作品は,友人のクラリネット奏者ハインリヒ・ベルマンのために書かれたもの.この曲では劇的な第1楽章からゆったりとした牧歌的な第2楽章を経て,踊るように楽しげな終楽章(ただし中間部ではちと影が差す)にいたる,ベートーヴェン風な「暗から明へ」という曲調をとる.その旋律の豊かさと音楽の劇的な振幅の激しさが,恐らく歌劇作曲家として成功した要因のひとつなのかな.
 オペラを聴かない当方には,ウェーバーの魅力はいまひとつピンと来ないところがあるのだけど(^^;).どこか,安心して聴き流せない怪しさ(危うさ?)のようなものがこの曲に限らず,ウェーバーの音楽に感じられるのは,気のせいかしらん?

2007/06/09

プーランク/2台のピアノのための協奏曲

プーランク/2台のピアノのための協奏曲ニ短調@フランシス・プーランク,ジャック・フェヴリエ&ジョルジュ・プレートル/パリ音楽院管絃楽団(EMI:TOCE-11417)

 1957年5月,初期のステレオ録音.
 この2日,オネゲルミヨーと取り上げてきたので,今日はフランシス・プーランク(1899-1963).短調でも決して深刻ぶることなく,舞曲的な軽妙さと小粋な作風で,早くから日本でも人気のあった作曲家のようである.独墺音楽のように動機を構築的に発展させるのではなく,次から次へと親しみ易い旋律を繰り出し,雰囲気で音楽の求心力を高めていく音楽なので,僕のような聴き手にはちょっとなじめないところがあるのも確か(^^;).
 この録音はピアニストとしても音楽活動を盛んに行っていたプーランク自身がピアノを弾いている.

2007/06/08

ミヨー/交響曲第2番

ミヨー/交響曲第2番作品247@アラン・フランシス/バーゼル放送交響楽団(cpo:999 540-2)

 1997年6月の録音.昨日取り上げたアルテュール・オネゲル(1892-1955)と終生にわたる友情を保ったというダリウス・ミヨー(1892-1974)の,あまり有名とは言えない交響曲である.DGがプラッソンを起用して交響曲全集を作るつもりだったらしいが中途で挫折したのは,やっぱり売れなかったからではないかい? 何しろ多作家だったミヨーには12曲の交響曲+6曲の室内交響曲があるのだから,継続的に売れなければDGのようなメジャーレーベルでは無理だったのでしょう.

 それはさておき,ミヨーの作風はペシミストで独墺的で悲劇的な作風を得意にしたオネゲルとは,おおよそ正反対の性向の作風で,地中海の明るさってこーゆうものなんだろうなあ,という乾いた職人芸的な明晰さにマックス・レーガーのような晦渋さをまぶしつつも,概ね人生を肯定した明るさを身上とする.第二次大戦中はユダヤ系故にUSAに亡命し,持ち前のヴァイタリティで旺盛な作曲活動と教育活動を展開したようである.

 この作品は5楽章制をとり,1944年にクーセヴィツキー財団の委嘱により作曲され,クーセヴィツキー夫人の思い出に捧げられている(1946年初演).どうも印象的な旋律に乏しいため,一般的な人気を得るのは難しそうな交響曲ではある.故人の思い出に捧げられているためか,全曲の中心になる第3楽章(“Douloureux”ってどういう意味ですか?)はミヨーには珍しいほど厳しい哀しみに全曲が貫かれているのが特徴か.

2007/06/07

快食快眠快便

 『快食快眠快便』(諸岡存著,実業之日本社,1939.5月初版)という本を勤務先で借り出してみる.書物奉行さんのところや神保町のオタ さんのところで話題になっていた著者の本が,勤務先にあるとは珍しい(^^;).5月発行で,6月にはもう5版(5刷のことでしょう)とは,よく売れたのかこの本は? 本文はルビだらけなのに,肝心の著者名にはどこにもルビが無いのが残念.

 中身をちゃんと読んだわけではないのでナニですが,特に内容はトンデモでも無さそうです.序文で


「今や非常時である.ただ猿真似的に西洋文明にのみかぶれている時ではない.自から起って我国古来の文化を復興し,更に新東亜の建設に精進すべき秋である.」
と書いているのが,多少気にならないでもないですが,まあ昭和14年ですし,当時の実業之日本社ですから(^^;),この程度の神がかりは何処にでもあった話でしょうねえ.

 健康法として,茶の効能を説いているところ(411頁から)はやっぱりと言うべきなのか,それともさすがと言うべきでしょうか.この当時,既に「カテキン」がどうたらこうたら,などと書いてありますよ(^^;).その,茶の効能は「能率学の方面からも(中略)注目されるようになって,余の友人である能率研究所長上野君が」(p412)云々と記されている「上野君」が,書物奉行さんも触れている諸岡の後輩である上野陽一のことですね.

 せっかくなので,ご参考までに下に標題紙と奥付の写真を載せてみます.

Imgp0901  Imgp0902

オネゲル/交響曲第2番

オネゲル/交響曲第2番@ミシェル・プラッソン/トゥールーズ・キャピトル管絃楽団(EMI:7 64274 2)

 1979年3月の録音.終楽章のクライマックスでトランペットのソロが登場しない,珍しい演奏.今時,それはないだろう,と言うひともいるだろうが,トランペットが調達できなかった耐乏生活の中で,抵抗の象徴とも目されたこの交響曲がどのように響いたのか,現代のトランペット無しの録音にもそれなりの価値はあるだろう.
 毎日新聞【自衛隊:防衛相直轄部隊、市民情報を収集 イラク派遣反対のデモ参加者を撮影】きな臭い世の中になってきたものである.僕たちも再び,オネゲルの第2番をトランペット抜きで聴かなければならない時代を過ごすことになるのだろうか.

2007/06/06

シューマン/交響曲第2番

シューマン/交響曲第2番ハ長調作品61@デイヴィッド・ジンマン/チューリヒ・トーンハレ管絃楽団(アルテ・ノヴァ:82876 57743 2)

 2003年10月録音.
 交響曲全集の中の1曲だが,この全集自体がある意味,アンチ・シューマンなひとのための演奏かと(^^;).軽妙で透明感のある演奏だが,この作品特有の晦渋さがすっかり削ぎ落とされて,すっかり爽快な音楽に変貌している.メンデルスゾーンの「イタリア」の第1楽章ならそれでもいいだろうが,この作品が爽快なだけで終わってしまうのは,と言うひともいるだろうな.シューマン特有の「青春の煮え切らない甘さ」や「楽器を重ねすぎた中間色な音色」が苦手なひとには,シューマンへの入門編として勧めてもいいかもしれない.

2007/06/05

マーラー/交響曲第9番

マーラー/交響曲第9番ニ長調@ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィル(スプラフォン:SU3880-2)

 心の平安を保つ,ということは本当に難しいことですね.
 僕など,同世代に比べれば中国の古典哲学を読んでいるんじゃないかなあ,と思わないでもないのですけど,短気がどうしても直らず,何かコトがあるとすぐにカッとなってしまう(^^;).で,失敗を方々で重ねている次第.修養が足りないorz
 今日もこの記事を読んで,過日某blogにて僕に対し犯罪を教唆していたコメントを早速インターネット・ホットラインセンターに通報してやろうかと.
 もっとも,念のため確認したら何時の間にやらそのコメントが書き直されている(^^;).あんな詳細な弁解や「わたしのお勧めでは」云々なんて言葉は,最初の投稿時には存在しなかったよ.しかも,「ネットで闇討ち」ではなく「待ち伏せして闇討ちしたらいい.人間をやめればできます.」というストレートな犯罪の教唆でしたよ.

 結局,こんなヘタレを相手にしても無駄だと思い直したことです.と言うか,そもそも相手にする必要の無い相手に対して,要らぬお節介をするほうが悪いのでしょう(^^;).ある種の業界人は,相手にするだけ僕の時間が無駄に消費されるだけなんですね.今では,随分と遠回りをしてしまったような気がします.
 僕に,図書館業界に,残された時間は,あとどれくらいあるのですかねえ?

2007/06/04

ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番

ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18@羽田健太郎&大友直人/名古屋フィル(1990年2月15日,名古屋市公会堂)

 毎日新聞【訃報:羽田健太郎さん58歳=ピアニスト

 ハネケンを偲んで,ピアニスト羽田健太郎のちょっとレアかもしれない音源を_| ̄|○
 1990年2月15日,名古屋市公会堂でのライヴを同年3月31日放送のNHK-FMでエアチェックした音源.ひょっとすると名古屋フィルの自主制作盤か何かで出たことはあるのかな? 当時,ライヴから放送までの間に出た「音楽の友」誌の演奏会評欄で酷評されていたので,さてどういうものだろうと思ってエアチェックしながら聴いたときは,それほど酷くもないじゃん,と思ったのだけど・・・・・・.

 今日,ハネケンの訃報を聞き,そう言えばこれが手元にあったはずと,しばらく振りにエアチェックしたカセットテープを引っ張り出して聴いてみたら「うーん,ちょっとこれは・・・・・・」オケのサポートは健闘しているほうだけど,何を考えているのか金管が吹きまくりすぎで,金管が咆哮するとピアノが聴こえなくなる.で,肝心のピアノは,ルービンシュタインやボレットのようなヴィルトゥオーゾの演奏を聴き込んだ耳には,少々頼りなさ気に聴こえてしまう.残念ながら.音色は悪くないんだけど,技巧がやっぱりちょっと,ね.大事故はさすがに無いけど,終楽章など音を外すことが多いような気がする.何だかんだ言っても,基本的にはイージーリスニングのひとのピアノかな?

 何だか故人に対して,あまりいい評価のできない音源を取り上げてしまったような.でも,この音源はそれとして,あれだけの音楽を残した功績はやっぱり大きいよ.享年58と言うのは幾ら何でも,天も無情なことをされるものだ.昨日に続いて今日もまだ,僕にモーツァルトの「レクィエム」を聴き続けろ,とでも言うのだろうか(sigh).

2007/06/03

W.A.モーツァルト/レクィエム

W.A.モーツァルト/レクィエムニ短調K.626@ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィル(DG:UCCG-5025)

 1975年9月,カラヤン二度目の録音.
 とある事情から,このレクィエムの録音を午後中,何種類か聴いてみたんだけど,この録音は指揮者,オケ,独唱はともかく合唱が下手_| ̄|○ カラヤンはヴィーン楽友協会合唱団という団体を,理由があって(内容は忘れた)自分の録音では常に使い続けたのだけど,ベルリン・フィルとの第1回目のベートーヴェン全集(1960年代初頭)の頃はまだしも,この録音では「キリエ」「ディエス・イレー」はともかく,「コンフタティス」「ドミネ・イエス・クリステ」など残念ながら聴けたものではない,という程度にまで技量が落ちていたんじゃないだろうか.カラヤンの統率力は相変わらずなんだけどねえ.

 しかし,それにしてもこの作品の,音楽そのものの持っている「ひとを惹きつける力」は清冽かつ凄絶なものがあるよね.今日はとある事情で6種類ほど続けて聴いてみたけど,まったくもたれないし,それどころかこれでも聴き足りないとすら思ってしまうほど.

2007/06/02

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番(ピアノ&絃楽五重奏版)

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(ピアノ&絃楽五重奏版)@ロバート・レヴィンほか(アルヒーフ:459 622-2)

 ベートーヴェンのパトロンのひとりであったロプコヴィッツ侯爵の宮殿で催された演奏会で使用された版であるらしい,ピアノと絃楽五重奏(ヴァイオリン2,ヴィオラ2,チェロ1)での演奏用に編曲されたピアノ協奏曲第4番である.ベートーヴェンはピアノパートの改変には関与しているようだが,管絃楽部分の編曲はペッシンガーなる人物に任せたらしい.オリジナルの協奏曲を知っていても,何となく元からそうであったかのように聴こえてしまう,なかなかの編曲版である.

2007/06/01

ヒンデミット/戸口に残っていたライラックが咲いたとき

ヒンデミット/「戸口に残っていたライラックが咲いたとき」(我らの愛するひとへのレクィエム)@ヘルムート・コッホ/ベルリン放送交響楽団(東ベルリン)(ベルリン・クラシックス:0091702BC)

 毎日新聞【訃報:俳優の石立鉄男さん、64歳
 読売新聞【「パパと呼ばないで」人気俳優の石立鉄男さんが急死
 日刊スポーツ【「パパと呼ばないで」石立鉄男さんが急死

 急死した石立鉄男の追憶に.ヒンデミットの後期の作風(メロウな新古典主義)を代表する作品.ヒンデミットには割りとやかましいだけの作品もあるのだけど,これはさすがにレクィエムでなかなかの逸品ではないかと.

 石立鉄男は,僕が幼稚園から小学校低学年だった頃,大好きな俳優でしたですよ.「パパと呼ばないで」はあまりよく覚えてませんが,「おくさまは18歳」「雑居時代」「水もれ甲介」「夜明けの刑事」「噂の刑事トミー&マツ」くらいまでは,実によく見てますね.「雑居時代」「水もれ甲介」などは,あの頃何故か朝方に再放送をやっていて,夏休みに見ていたのでした.
 また「昭和」が遠くなりました.残念.

あるアンケート

 都合により,回答のみにて失礼m(_)m 質問文がわかるひとは納得するなり,呆れるなりしてくださいませ.さて,この回答は送付しようかどうしようか?

1.何もかも足りない.図書館に関する知識,「本」そのものに対する知識,現在進行形で展開されている機関リポジトリなどの技術系に関する知識,社会に関する知識,時間,お金,etc. etc.

2.最新のモノで勝負するのは無理(内部で使う奴がいない!)なので,取り敢えずは資料購入費と人手と建物の容積.最低でも,どちらも今の倍は欲しい.

3.「百年の大計」を見据えたグラウンドデザイン.これは大学も公共も同じ.今のままでは「図書館は不要」というニーズに対抗できるだけの思想が業界にあるとは到底思えない.そもそも「言葉の遊び」などと揶揄する馬鹿が業界内に存在するために,「思想」が蓄積されていない.なるほど現場は大切だけど,あまりにも「現場」が業界政治で幅を利かせすぎたために,公共は「貸出至上主義」による偏向した成長が却って徒になり,「図書館は不要」というニーズを行政に蔓延させることになった.大学は,何より「技術」が発言者に無ければ何を発言しても無駄に思えるほど,技術力の評価が高いのはいいけど,僕のような底辺校勤めの人間からすると,何だか「技術の発達による人間の疎外」を見せつけられているようで,格差の前には沈黙するしかない.相互利用も某機関のおかげで囲い込みが進行しているし.
でも,これで本当にいいの? これじゃ,公共も大学も貫いているのは「排除の論理」じゃないか.公共だろうが大学だろうが,図書館を支える「公共性」という概念は,「排除の論理」を乗り越えるべき壁だとしてきたんじゃないだろうか.図書館が「役に立たないもの」を排除していった先には,何が残るんだろう.「ひとつの党派,ひとつの図書館,ひとりの指導者!(Ein Zunft, ein Bibliothek, ein Fuhrer!)」冗談だろ.
「排除の論理」と対峙するためにも,大きな物語を紡ぎ出すだけのグラウンドデザインは,図書館業界に必要不可欠のものと見ますが如何?

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