不磨の大典
今日は勢いで書きますので,ひょっとすると後で書き直すかもしれませんあちこち書き直しました.
だいたい,政策文書というものは分析や評価の対象になることはあっても,信じたり奉ったりするようなものじゃ無いはずなんですよ.『市民の図書館』にせよ「これからの図書館像」にせよ〈不磨の大典〉であるはずが無いのです.「これからの図書館像」を信じたり奉ったりするなどということは,近代市民にはありえない話のはずです.それを例えば日本図書館協会の理事長が『市民の図書館』に「バイブル」という形容を平気でするわけですから.確かに『市民の図書館』には単なる政策文書を超えた魅力があることは認めますが,それとて30年前の政策文書ですよ.『日本列島改造論』と同時代の文書です.それが30年前ならともかく,現在でも〈不磨の大典〉として通用する,ましてや信仰の対象になると言うのが,僕には信じ難いのです.政策文書たるもの,5年おきにでも見直される必要があるはずなのに.
実は『公立図書館の任務と目標』には『市民の図書館』の後継たる位置付けがあったようですが,そう捉えている業界人はそれほどいないのではないですか? 『市民の図書館』は長年にわたって公共図書館業界の政策文書として君臨してきたわけですが,『市民の図書館』は高度成長期,経済学が自然を無限と捉えていた頃の政策文書です,正直言って賞味期限は切れてます.現在もなおその発想と方法論が修正も留保もなしに通用すると考えるのは,過去30年にわたる社会と公共図書館の蓄積を無視した考え方ではないでしょうか.
少なくとも図書館の政策文書には,宗教的熱狂は無縁なもののはずです.そもそも図書館という施設には「多様性」が必要なのに,その図書館を考えるに当たって多様性を拒絶する,その発想が僕には理解できない,宗教的としか僕には考えられない発想です.『市民の図書館』を信奉するにせよ,「これからの図書館像」を信奉するにせよ,「信奉」という行為に変わりは無いわけで,それは古の法華宗の行者よろしく,他者を排除し異見を圧殺する宗教的行為と捉えるほかありません.
わからないひとはわからなくても結構ですが,少なくとも公共図書館において「寛容」や「多様性」というものがどのような立場を占めるのか,について考察してください.『市民の図書館』をバイブルだとする立場がどれだけ公共図書館にとって有害であるか,「多様性」ひとつとってもわからないようでは,図書館を語る資格は無いでしょう.
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