森有礼,銀座煉瓦街に図書館を開く?に至る前史
(承前)
森有礼が小弁務使としてUSAに赴任したのは1870(明治3)年12月である.鮫島尚信などとともに神秘主義者トマス・レイク・ハリス(1823-1906)の下で学んだのち,慶應4年6月に帰国してからの森は,洋行帰りの新知識として明治新政府の官務に着く.そして「廃刀論」などに見られる,あからさまな欧化論を振り回し,顰蹙をかっていたことは『森有礼』(大塚孝明著/吉川弘文館)を初めとする森有礼研究が明らかにしているとおりである.
結局,周囲に意見が受け入れられなかった森は辞表を出し,英学塾を起こして将来は教育家として立つことを考えていたようだが,新政府の外務省が組織を整備する流れの中で再び明治政府に起用され,USAに再度渡ることになる.
森が小弁務使として与えられた仕事の中には留学生の監督が含まれていた.赴任早々,森はニューヨークで幕臣出身の留学生目賀田種太郎(1853-1926)に会う.森は法律を学びたいという目賀田の素志をかなえるために尽力し,目賀田は森のおかげでハーヴァード大学に入学する.
その後目賀田は無事にハーヴァードを卒業し,明治7年帰国後は文部省に勤務し留学生監督として明治8年に再度渡米,明治12年帰国して文部省から司法省に転じ,更に大蔵省に転じて明治27年から10年にわたって大蔵省主税局長を務める.その後貴族院の勅選議員・韓国財政顧問などを歴任し男爵・枢密顧問官にまで上り詰めた.専修大学の創立者のひとりである.大蔵省で部下だった若槻禮次郎の回想録『古風庵回顧録』に拠れば,普段はおとなしいが怒ると手が付けられなくなる人物だったらしい.
この目賀田,経歴を見ているとあまり図書館とは縁の無い官途を送ったようだが,実は日本の近代図書館史に名前を残している.明治12年の帰国後に,文部省が発行していた「教育雑誌」97号に「公立書籍館の事」という一文を発表し,USAの図書館と東京書籍館の比較をしていることが知られている.『商業教育の曙』の著者細谷新治氏は,森は目賀田から図書館に関する情報を得たのではないかと推測している(同書上巻144頁).他にのちの図書館関係者としては,永井久一郎(のち東京書籍館館長補)がこの頃の森の世話になっている.そう言えば,畠山義成(のち東京書籍館館長)や町田久成(のち帝国博物館館長)もこの前後,森とは近しい間柄である.
さて,明治5年1月に岩倉使節団が訪米するまで外交官としての森はわりかしヒマだったらしく(森の最初の伝記である海門山人の『森有礼』からして,既にそう書いている),教育家としての調査研究に精を出す.
(本日時間切れにつき,続く)
講談社 (1983.10)
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o(^-^o)(o^-^)oワクワク
投稿: 書物奉行 | 2006/02/12 19:29