「司書の権力」について
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法律面から考えれば,公務員である図書館司書が持つ「権力」とは,1)予算編成・執行に関わる分野を専決的に執り行うこと,2)図書館内の安全および衛生等を確保すること,あたりが考えられるところ.
でも,生来天邪鬼なG.C.W.氏としては法律的な「権力」の内容とか行使とかには,あまり興味がないのですね.むしろ図書館司書における「クレデンダ」と「ミランダ」について考えてみた方が面白そうです.
「クレデンダ」「ミランダ」というのはチャールズ・E・メリアム(1874-1953)という政治学者が『政治権力』(斎藤・有賀訳/東京大学出版会/1973年初版)で用いた概念(上巻p147)です.即ち「クレデンダ」とは「信仰せらるべきさまざまなもの」を意味し,「ミランダ」は「讃嘆せらるべきさまざまなもの」を意味します.メリアムは「いかなる権力といえども,物理的な力に依存するだけでは自己を維持することはできない」と述べています.法律論的な司書の「権力」論は,「物理的な力」の話に偏る恐れがありはしませんか.問題の所在はむしろ,いかに図書館司書として利用者から「心からの讃嘆と忠誠とを獲得し,保持しようと」(前掲書p147)努力するべきなのか,というところにあるような気がします.
と言うわけで,「クレデンダ」については「現在の日本における図書館司書とは,どのような意思の生成から産み出されてきたものなのか」,また「ミランダ」については「魅力的な図書館司書像」というものについて,それぞれ考える必要があるでしょう.それが,法律論とは別に,図書館司書を職業としてあらしめる権力・権威の原泉を考えることになり,ひいては「図書館司書」を必要たらしめる輿論の喚起につながるのではないかと考えます.
もっとも,「クレデンダ」については第二次世界大戦後の日本の公共図書館史を繙けばいいじゃないか,と言われる方がいそうです(^^;).G.C.W.氏が考えているのはちょっと違っていて,日本の図書館学界で「図書館史」と言うとき重視されてきた制度史よりは,「図書館観」の歴史を問題にしたいのですね.
例えば,明治の為政者の中でもっとも図書館に近い立場にいた人物のひとりが森有礼(1847-1889)ですが,彼の図書館に対するスタンスは前半生(特にUSA留学から帰国直後)と後半生(文部官僚・文部大臣として)では別人の如く変化しているように見えます.しかし,詳しい考証は省きますが,森は徹頭徹尾「啓蒙の人」であり,その事物に対するスタンスは,常に国民を啓蒙するための便宜を考えることから発していたと考えられます.森にとっては図書館も啓蒙のための道具のひとつであり,啓蒙のためには図書館をどのように利用できるか,が図書館に対する彼の最大関心事だったのでしょう.
森有礼に見られるような「啓蒙の道具としての図書館」観から導くことのできる図書館の「権力」,そして第二次世界大戦後の「市民図書館論」(まるしー津野海太郎)から導かれる図書館の「権力」,両者に共通しているのは「選書」もしくは「蔵書構築」と呼ばれる分野こそが,「図書館司書の権力」の原泉になると言うことではないかと,G.C.W.氏は密かに考えているところです.
そして「ミランダ」については,今後,図書館司書個々の魅力的なパーソナリティの「ステレオタイプ」を樹立できるかどうかが問題になってくるでしょう.メリアムはいみじくも述べています.「いかなる時代においても,およそ統治というものは,それを社会の全構成員のために解釈して提示する,生身の人間に寄せられた信頼に依存しているといえよう.(中略)もし統治がこのような人びとを再生産することができなくなり,あるいは貧弱な人材しか生み出すことができなくなったときには,その統治の力は衰亡をはじめる.」(前掲書p151)これは平たく言えば,egamiさんが指摘するように「如何に”人間”としてのアピールが足りてないか」ということです(^^;).
みなさんの議論に触発されて,思うところを取り敢えず書いてみましたが,どう読んでも方向がズレてますね(^^;).失礼しました.
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