記憶の共同体
以前,図書館は「記憶の共同体」という言葉をメモっておいたが,たまたま返却棚に返って来ていた中井正一(1900-1952)の本(『中井正一評論集』長田弘編/岩波文庫/1995年6月初版)をパラパラとめくっていたら,「二十世紀の頂における図書館の意味」という短文にこんな言葉が出て来た.
「五千年の歴史が,もしなんらかの誤りをおかしているとするならば,また二十世紀の歴史がなんらかの誤りをおかしているとするならば,まさに十万年の人間の意欲をまざまざとわれわれの前に示している図書文化こそは,この誤りのきずをいやすただひとつの手がかりである.」(p379)
「(図書館とは)巨大なる人造人間のごとく,この本を,その要求に応じて,人類の前に引き出せる組織をつくりあげている精密機械である.」(p380)
禅問答のような表現が許されるなら「図書館とは共同体(Community)の記憶を納め,何時でも引き出せるようにしておく記憶の共同体(Utility)」だと言えるだろうか.G.C.W.氏はいわゆる「進歩主義」というものを全く信用していないので,ある物事に関するすべての記憶は捨て去ってはならないと考えているが,すべての記憶が常に有用であるとは限らないし,その必要も無いだろう.ただし,物事は常に誰かによって「解釈」されているわけで,その「解釈」の妥当性を判断するために必要な記憶を,あるいはある物事に対する別の「解釈」を,必要な人間が必要に応じて引き出すことが出来る,それが図書館について「共同体(Utility)」という言葉で表現される機能なのではないか,と思うのだが如何.
ところで同じ『中井正一評論集』に収録されている「図書館の未来像」という2ページあまりの短文がある.実に興味深い内容なので,特に貸出至上主義を信仰している公共図書館員に是非読んで欲しい.1951年の時点でこれだけのことを見通していたひとがいたことを,あなたがたはどう考えるのか.これに比べれば『市民の図書館』(日本図書館協会)など退嬰でしか無いと思うが.
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