「図書館界」56巻3号:その2
昨日に引き続き,「図書館界」56巻3号の特集「誌上討論:現代社会において公立図書館の果たすべき役割は何か」について.回答者5氏の文章の中から,まずは田井郁久雄「『市民の図書館』と「貸出」の意義」を取り上げる.
事物の取り扱いに恣意的な部分があるのが,田井氏の反・貸出至上主義には常のこととは言え,この文章が学術雑誌の一角を占めることに抵抗を感じる.これが「みんなの図書館」に掲載されたアジテーションなら,それほど厳密なことも言わずに「おや,そうかい」でスルーしてしまうのだが(^^;).
田井氏は「1.『市民の図書館』に書かれていること」で『市民の図書館』批判の要約を行っている.例えば以下の文
『市民の図書館』では貸出ばかりが重視され,レファレンスサービスや情報サービスが軽視されてきた.とくにこれからは貸出よりも情報化,電子図書館化が重要である.(p175)
前半のセンテンス,そもそも「情報サービス」という概念は『市民の図書館』が出版された時代には存在しなかった(もしくはその端緒が開かれたばかり)と思われ,その意味では軽視もへったくれも無いのである(^^;).『市民の図書館』批判への「ためにする」非難ではないだろうか.そして後半のセンテンスに出て来る「電子図書館化」ってどういう意味で使われているのだろう.「具体性」を求めて止まないのは他ならぬ田井氏自身なのだが,ここでの「電子図書館化」は具体性に欠ける,非難のための道具に過ぎない.
もうひとつ.
『市民の図書館』の考え方による図書館は「文化教養型」であり,これからの図書館は「課題解決型」へ脱却しなければならない.(p175)
誰がそんなことを(^^;).今までの公共図書館が「文化教養型」だと思われていたのであれば,林望や三田誠広の公共図書館批判は一体何を根拠にしてきたんですか.これまでの『市民の図書館』路線が文化にも教養にも縁が無いと考えたから,林や三田はあのような幾分的外れの批判をしてきたんだとばかり受け止めていたのですが.あるいは,『市民の図書館』の影響下にある公共図書館が「資料としての本」を疎かにしているとする津野海太郎氏の公共図書館批判は?
この文章と次の文章との矛盾が気にならないのはどういうことだろう.
貸出重視の結果,図書館の蔵書は大衆的な本が主となり,多様な資料の提供や文化の伝達という機能が疎かにされてきた.(p175)
これは確かに林や三田の批判するところではある.しかし先に挙げた文章とこの文章は明らかに相反することを述べており,要約の根拠が示されていない以上,どちらかがおかしいと考えざるを得ない.
G.C.W.氏がこの要約に関し非常に気になるのは,田井氏がまとめているこれらの批判の出所がひとつとして明らかにされていないことである.自らの主張に利する引用についてはこと細かく注記をつけているにもかかわらず.故に田井氏の要約について読者は,反証はおろか追試も出来ない(^^;).
部分的には傾聴に値する部分が無いわけではない(特に後半部分)のだが,その部分の説得力を導き出すための論証部分が恣意的な扱いに満ちているのでは,折角の指摘が台無しであろう.勿体無い.
(9月15日一部訂正)
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