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2004/07/17

法隆寺

産経新聞【法隆寺の堂塔建立は668年以降 創建時の部材なし】

ふむふむ.以前,法隆寺五重塔の心柱が西暦594年に伐採されたものだったことが確認された,と奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターが発表した(2001年2月21日付各紙報道)が,そのとき書いた文章は,2001年のサイトリニューアルで削除してしまったので,あちこち手直しした上で再掲してみましょう.

いわゆる「法隆寺再建・非再建論争」の込み入った歴史と内容を手短にまとめるのはG.C.W.氏には無理なので,各自で参考文献を当たっていただきたいが(例えば『古代を考える 古代寺院』[狩野久編:吉川弘文館:1999年初版]や『飛鳥の寺と国分寺』[古代日本を発掘する2:坪井清足編:岩波書店:1985年初版]など),再建説で一応の結論は見たものの,上記『古代を考える 古代寺院』の「太子の寺々」(岡本東三執筆)でも説明されているように,法隆寺の創建・再建を巡っては実に多くの未解決な点が残されている.

何しろ最近では,『日本書紀』が縷々述べる「聖徳太子」の事跡は,『日本書紀』の撰者により実在の「厩戸王」に仮託されたものであり,いわゆる「聖徳太子」は実在しなかった,という研究まであらわれており(『〈聖徳太子〉の誕生』[歴史文化ライブラリー65:吉川弘文館:1999年初版]),事態は錯綜を極めている.「聖徳太子」の実在が否定されたら,梅原猛の言うところの「法隆寺は太子鎮魂の寺である」という説も否定されてしまうのではないか(^^;).

その梅原猛が法隆寺心柱の話を聞いて「法隆寺五重塔は太子鎮魂のため飛鳥寺の塔を移築したのではないか」という所見を述べているらしい.飛鳥寺の塔については,飛鳥寺が平城京に移転して元興寺と改称された後も,大安寺や薬師寺とは異なり,飛鳥寺の他の伽藍とともに飛鳥の地に留め置かれたらしく,建久7年(1196年)の焼失と再建の記事が残されている.建久7年に焼失した塔が創建当時の塔である保障も無いが,これ以前に破損・移築などの記事も今のところ見当たらないようである.故に今のところ「梅原説」は説得力に欠けるか.
そう言えば,薬師寺もまた平城薬師寺が建立された後も,飛鳥の本薬師寺が維持されていたことが確認されている.大安寺=大官大寺は何度も移転と被災を繰り返したようだ.寺院・神社が移転することが移築(=先住地の寺院・神社が廃絶する)に必ずしもつながらないことは,後世の上杉家や伊達家所縁の寺院・神社が米沢・仙台転封後もその故地に残されている例もある.

聖徳太子云々はともかく,移築説そのものは大変魅力的である.『日本書紀』天智天皇9年(西暦670年)にある法隆寺焼失の記事や若草伽藍の存在などにより,現在の法隆寺西院が「原・法隆寺」とも言うべき寺院の跡地に建設されていることは間違いないところではあるが,そもそも「若草伽藍」→「現・法隆寺」という図式をそのまま聖徳太子所縁の「法隆寺」という寺院の歴史になぞらえてしまっていいのかどうか,という疑問が無いわけでもない.また,その建築様式や塔の心礎の形式が飛鳥時代のものに近いにもかかわらず,瓦の様式は650-675年頃の様式であることなども,移築にあたって細部に変更が加えられたことに対する反証にはならないだろう.時代は下るが,大津城天守が彦根城に移築された際,装飾に変更が施され面目を一新した(現在の彦根城天守),という例もある.

問題は,何処の塔が法隆寺のために移築されてきたのか,ということであろう.G.C.W.氏は「寺院の移築」と聞いて,これまた時代は下るが,織田信長が安土城を建設したときに,その付属寺院として建立した総見寺のことを真っ先に思い出した.移築に際しての圧力の有無はさておき,信長程度の権力が無ければあれだけの大建築の移築などできるものでもあるまい.勿論,30年ほど下った時代に藤原京から平城京への遷都に伴う寺院の移転が行われている,という事実もある.


さて,以下は与太話である.梅原猛以上に無責任なヤマカン話なので,読まずに捨てていただいても結構(^^;).
現・法隆寺は天武天皇による兄天智天皇一族の鎮魂の寺であった.壬申の乱(672年)により甥の大友皇子を死に追いやったことが,如何に権力闘争の結果とはいえ,彼の負い目にならなかったとは思えない.大友皇子の姉妹を何人も妃にしているのである.しかし,さすがに勝利したばかりでおおっぴらに競争相手の鎮魂をやるのは具合が悪い.そこで,たまたま焼失した原・法隆寺を壮麗に再建することで兄親子の鎮魂を企てたのだが,原・法隆寺と関係の深い上宮王家(厩戸王の一家)も同じような権力闘争の過程で滅んでおり,上宮王家の鎮魂に名を借りるのは如何にも誰か知恵者が考えそうな手立てである(^^;).さらに想像をたくましくすれば,原・法隆寺の創建以外さして事績の無かった厩戸王に中大兄皇子の理想像を投影して,現在の「聖徳太子」信仰への足がかりを築いたのは,天武天皇とその側近ではなかったのか?

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