「めざめよ! 大学図書館」を聞いてきました
ここで紹介した前浦安市立中央図書館長・常世田良氏の講演会「めざめよ! 大学図書館 -公共図書館からの提言-」を和光大学梅根記念図書館で聞いてきました.たまたま前日と前々日がTYOに出張で,聞きに行ってもふところに響かなかったものですから(^^;).
広報など4時で終わりのようになっていたので5時以降に予定を入れていた・・・・・・・・・・,と言うより,この日はそもそも朝から予定がボロボロ(-_-;).某所で待ち合わせを入れていた友人が来ないので電話をかけてみれば「明日じゃなかったっけ?」と言われ,無理を言って出てきてもらったら「昼は予定があるから夕食は付き合うよ」仕方が無いのでひとりで講演を聞いて,4時から質疑応答1時間そのあと懇親会になっていたのを諦めて移動してみれば見込みを間違えて大遅刻(>_<)の挙句にフラレてしまい(フラレた原因は遅刻ではなかったのですが),散々な一日になりました.夜中は夜中で救急車騒ぎだし(^^;).
閑話休題\(^^\) (/^^)/
以下に講演会の話を書きます.この内容はあくまでもG.C.W.氏のメモと理解に基づいて文章を起こしてますので,必ずしも常世田さんが話した言葉のとおりになっていない箇所も少なくありません.誤解に基づく記述もあるやもしれませんし,言葉をG.C.W.氏が日常使い慣れているモノに置き換えている可能性もあります.ここの記述を利用される時は,他の方の報告と照らし合わせることをオススメします.
まず主催者側として津野海太郎・和光大学附属梅根記念図書館長の挨拶.大学の変化と学生の変化についてひとくさり.
で,常世田さん登場.今日の論題は常世田さんが付けたものではないそうで(^^;).「公共図書館も大多数は目覚めていないのに」と苦笑.
まずは,我々が「図書館」を考えるとき,我々が生きているこの世の中のあり方と切り離したところで,抽象的な「理想の図書館」を論じてきてはいなかっただろうか,という反省の弁.図書館のあり方を,社会のあり方と切り離して論じるのは最早ナンセンスである,と.
そこで日本の社会の現状について.世界的には「自己判断・自己責任」(この言葉には先日来,変な色が付いてしまったが,ここでは民主主義社会における本来の意味での)を問われる社会の方が相対的に多いと思われるが,日本のこれまでは,必ずしも日常的に情報を集めて,それを自分で判断しないと自らの生命が失われるような状況に追い込まれる社会ではなかった.また,情報を収集して判断を下す役割を特定の階層が果たしてきたため,個人がそのような判断を下し,責任を果たす社会ではなかった.そのため,例えばこれから人生設計をしようとする人がそのための情報を集めることが出来ないし,情報を集めてリスクを最小限にするための判断をする教育を受けていない人が日本には多い.しかし,これからの社会は「自己判断・自己責任」が問われることになるため,個人も早く正確な情報を入手しリスクを判断する必要が出てくるだろう.問題は,その目的に図書館が合致することが出来るかどうかである.
ところで,メディアの現状だが,テレビや新聞が情報をまともに流しているとは思えないし,インターネットは体系的な知識を構築するには不向きであり不十分である.書店は店舗が手狭なことと流通の問題があって,読者が求めるテーマに沿った書籍が揃っていないケースが多い.能動的な読者(目的・テーマをもって来店する)が求める書籍は,多くの場合ベストセラーと「塩漬け」の棚の間にある.旧来の読者層は新聞の書評等で評判になった書籍を買いに来店したが,現在の能動的な読者は自らテーマを持って来店するようになっている.
このあたりに,情報が集積されている図書館の新しい役割があるんじゃないか.
では,その図書館を支える社会の仕組みはどうなっているのか.
昔の「市民図書館論」は「貸出」を目的に据えていた(それは「貸出」さえ満足に実施できない貧しい図書館の状況と戦うためであったのだが)が,「貸出返却」というのは所詮モノの貸借のレベルである.書籍が返却されたときに,利用者が得た,書籍の中にあった知識や情報が一緒に利用者から返却されるわけではない.つまり,知識・情報の提供が図書館の本質である.がしかし,ただ「情報を提供」するだけで図書館の役割は事足れりなのかどうか.
図書館の目的はまず,1)情報の共有化である.特に今後はビジネス,医療,法律が図書館による情報提供機能の三本柱になっていくと考えられる.「ビジネス支援」と言うと変な顔をする関係者がいるが,未曾有の不況対策のために公共機関の一である図書館が何もしないで済ましているという話は無いだろう.日本でも情報が正確に,誰にも提供できないとダメな社会がそこまで来ている.そしてその先には,情報の共有化による 2)物事の相対化がある.それは必要十分な情報を得ることにより,はじめて達成し実感できるものである.多様な考え方を知ることにより,自分の判断を客観視することが可能になる.今までは情報を集めることが出来ない,集めた情報を基に的確な判断が下せない(例えば日本における会議にあり方を見よ)ことが多すぎたのではないか.
さて,「自己判断・自己責任」を個人が背負うための情報を提供する図書館の機能に求められるものは何か.もう一度,図書館というシステムを見直す必要は無いか.今まで地方自治体は自治体単独で図書館を機能させようとしては来なかったか? 図書館のひとつひとつが巨大なシステムの窓口である,というコンセプトをもう一度確認するべきである.そのシステム見直しの中で,大学図書館の役割も見えてくるものがあるのではないか.例えば,情報弱者のための存在としての大学図書館の可能性を考えることも出来るだろう.
ところで,大学生は大学図書館で情報を入手できる,恵まれた立場だが,果たして集めた情報を的確に読み解いているのかどうかについて,いささかの疑問無しとしない(^^;).「社会的文盲率」というものを考えた方がいいかもしれない.
「情報リテラシー」というのは「情報を読み解く力」ではあるのだけど,自分で情報を集めて客観的に判断する,だけで事足れりとしていいのか.客観的に見れば右に行くのがベストだけど,右に行くと何かあるんじゃないかと嫌な予感がする,いわゆる「虫の知らせ」とか「カン」「第六感」と呼ばれる類のヒラメキこそが「情報リテラシー」の到達点ではないだろうか.
良質な印刷媒体のコレクションと充分な台数のWEB端末による商用データベースの無料提供のふたつを確保した空間というハイブリッド・ライブラリーが今後は求められることになる.例えば,USAでは小さな町村の図書館でもコンソーシアムに参加することにより,充分なデータベースの提供を確保している.
また,印刷媒体とWEBの双方に精通した図書館員による,組織化された資料の構築と提供が,市民がもっとも早く情報を入手できるようになるための近道である.情報のナビゲータだけではなく,カウンセラーとしての役割も図書館員は果たすべきである(USAでは図書館員が客への「声かけ」の研修までおこなっているそうである).更には製作形成能力,広報宣伝能力を持った図書館員が必要である.情報を組織化し,国民へのサポートが出来る国と,情報を隠して国民に提供しない国とが喧嘩して,日本が勝てるとは思えない(^^;).国家レベルでの図書館政策が求められる所以である.
・・・・・・・・うーん,上手くまとめられませんね(-_-;).
でも,図書館のあり方にとって至極当たり前のことを常世田さんは言っていたと思います.これほど当たり前のことを言っているひとをバッシングする図問研的な,あるいは日本図書館研究会読書調査研究グループ的な発想ってのは,もはや日本の図書館業界の発展を阻害する要因でしかないですね.
以下は余談.
隣りの方が,時々G.C.W.氏のメモを覗き込むんですよ(^^;).スピーカーの言葉を直接書き込んでないとき(要約とか自分の言葉に置き換えていた)に限って覗き込まれたような気がしたのは,それこそ思い過ごしでしょうが.
反対側の隣りに座っていた女子学生さんが(以下数十字検閲削除)(^^;).
そうそう,開始時間ギリギリで飛び込んで前の方の席に座らされ,時々扇子で扇いでいた,赤いチェックのシャツを着ていたのがG.C.W.氏です(^^;).
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