城郭:山形県

2004.06.20

新田目城(山形県酒田市)

 新田目(あらため)城は山形県酒田市のJR本楯駅の東側にあり,山形県内最古の城という伝承を持つ平城である.その来歴には不明な点が多い.11世紀後半,八幡太郎源義家が須藤氏を出羽国留守所職とし,須藤氏がこの地に館を構えたという.現在,新田目城址に建つ大物忌神社は出羽一之宮である吹浦大物忌神社(山形県飽海郡遊佐町)を勧請したものらしいが,八幡太郎寄進と伝えられる太刀(現在,国指定重要文化財)を伝来している.

 出羽留守所はその後の歴史に時々現われるものの,それがこの新田目城だったのかどうかは確証が無い.留守所職に任じられた須藤氏はその後留守氏と称したらしい.南北朝時代,留守氏は南朝方に付き応永16(1409)年没落したと伝える文献もある.しかし,戦国時代にも留守氏の活動は確認できる.最上義光から「新田目留守殿」に宛てた文書の存在も確かめられるようだ.また,新田目城には吹浦大物忌神社の社人であった丸岡民部大輔が城主であったとの伝承もある.戦国時代後期,留守氏は尾浦城の武藤氏に属したようで,武藤義氏が尾浦を攻められて自害したとき,留守遠江守は武藤氏に味方して東禅寺一党と戦っている.その後は上杉氏に属して最上氏と戦い,豊臣秀吉の朝鮮出兵の際は上杉麾下の一軍として参加しているらしい.慶長5(1600)年「関が原の戦い」に伴う「出羽合戦」の時,留守遠州は東禅寺城に上杉勢として籠城したが破れて浪人となり,その後故地の新田目で今井姓を名乗って帰農したという.

 私見では,『日本城郭大系』の〈新田目城〉の項が説く,二重の堀を構えた大規模な新田目城が成立するのは戦国時代に入ってからでよいだろうが,現在残る城址の状態からも,それ以前の中世豪族(留守氏?)の居館(政庁)としての「原・新田目城」の存在を否定することもないと思うが如何だろうか.今に残る内郭は,いわゆる「足利氏館」址(栃木県足利市)とそれほど大きさが変わらないと思われる.


参考文献
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『出羽諸城の研究』(沼舘愛三編著/伊吉書院/1980年9月初版)

新田目城の写真(工事中)

2002年11月24日作成
2004年6月20日移転・修正

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亀ヶ崎城(山形県酒田市)

 中世から連綿と栄えてきた港町酒田の始まりは,奥州藤原氏が滅亡したとき(文治5[1189]年)藤原秀衡の妹「徳の前」と遺臣36騎が「袖の浦」(向酒田)に落ち延びてきたことからだという伝説がある.この36騎の子孫がいわゆる「酒田三十六人衆」に発展したという.その後最上川の水路が洪水などで移動したことがきっかけで現在の酒田の地に港町が移転したらしい.16世紀には泉州堺に似た町人による自治町政が行われている.

 亀ヶ崎城は元の名を「東禅寺城」という.その起源は明らかではない.東禅寺城は当初,現在地より東方の「四ツ興野」というところにあったとも伝えられている.それが文正年間(1466-1467)洪水のため破壊されたので,当時東禅寺城に拠っていた遊佐氏が現在の地に城館を移転したという.この地域は最上川の度重なる氾濫と水路の移動により,中世豪族の居館が破壊されているようで,信頼できる文献資料に乏しいこともあり,確たる城館の移動を跡付けるのは困難である.東禅寺城という名称は城館の近隣にあった「大浄山東禅寺」なる寺院から付いたものらしいが,この東禅寺も現在のところどこにあったのか不明である.

 東禅寺城の文献上の初見は文明10(1478)年とされる.大宝寺城(山形県鶴岡市)に拠る武藤氏(大泉氏・大宝寺氏とも)が離反した庶流の砂越氏に対抗するため,東禅寺城を手に入れて砂越氏を牽制したものらしい.この頃東禅寺城に拠っていたのは酒田の国人と考えられる東禅寺氏で,天正年間の東禅寺筑前守・右馬頭兄弟まで3代は確認できるらしい.天正11(1583)年3月,尾浦城(山形県鶴岡市)に拠る「悪屋形」武藤義氏を攻め滅ぼしたのは最上義光と結んだ東禅寺一党である.東禅寺一党はなおも義氏の跡を継ぎ越後上杉家と結んだ義興をも天正15年に自害に追い込むが,翌天正16年上杉勢が大挙して庄内に侵攻,東禅寺一党は滅亡する.上杉景勝は東禅寺城に甘粕備後守景継,次いで志田修理亮義秀を城代として守備させる.慶長5(1600)年の「出羽合戦」の際,一旦は追い詰められた最上勢が反転攻勢に出て東禅寺城を包囲し,酒田市街は焼き払われる.志田修理亮以下は14日間にわたって籠城するが上杉からの援兵無く,止むを得ず開城した.

 最上義光が最上・庄内・由利で57万石を安堵されると,庄内地方の拠点のひとつとして東禅寺城も修復され,慶長8年には東禅寺城を「亀ヶ崎城」に改める.酒田に大亀があがったことによるという.義光は志村伊豆守光安を亀ヶ崎城主として飽海郡3万石に封じた.志村光安は「出羽合戦」で長谷堂城(山形市)を上杉勢から死守し,また攻勢に転じてからは東禅寺城を開城させた最上の功臣である.光安は酒田市街の開発を意図し,町割りや街道を整備したと伝えられる.しかし光安の跡を継いだ光惟は最上氏の内紛に巻き込まれ元和3(1617)年非業の死を遂げた.

 最上氏が元和8年改易され酒井忠勝が庄内14万石に入部した際,庄内藩は鶴ヶ岡と亀ヶ崎の2城を認められ,亀ヶ崎城には城代が置かれる.酒田には奉行所も設置され,いわゆる西廻り航路の北前船の拠点として隆盛を極めた.中でも豪商本間家は3代目の本間光丘以降,酒田の市街地発展にも意を尽くしたことで知られる.

 明治維新後,亀ヶ崎城には酒田県庁などが入った後,大正9(1920)年には酒田中学校(現在の酒田東高校)が建てられ,現在では城址を探すのも難しいほど破壊されている.わづかに二の丸にあった八幡神社(旧・東禅寺八幡宮)の付近に土塁が残り,城址をしのぶよすがになっている.庄内・酒田の歴史において重要な位置を占める城館であり,また明治維新まで存続したにもかかわらず,城郭を扱った書籍でも触れられていないケースが多いのは残念である.


亀ヶ崎城の写真(工事中)

参考文献
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『出羽諸城の研究』(沼舘愛三編著/伊吉書院/1980年9月初版)

2002年11月16日作成
2002年11月24日改訂
2004年6月20日移転・修正

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鶴ヶ岡城(山形県鶴岡市)

 鶴ヶ岡城は現在の山形県鶴岡市のほぼ中心部にある.元々は「大宝寺城」といい,鎌倉時代初期に大泉荘の地頭として封じられた武藤氏(大泉氏あるいは大宝寺・大梵字氏とも)が拠った城である.武藤氏は秀郷流藤原氏で武蔵国の住人,武藤資朝は建久年間(1190-1199)鎮西奉行・大宰少弐として九州大宰府に下り少弐氏の祖となるが,大泉荘の地頭になったのはその弟にあたる氏平で,奥州藤原氏攻めの論功恩賞だったのだろう.氏平は羽黒山宗徒と山領をめぐって対立したことが『吾妻鏡』に見える.

 氏平以降の武藤氏系図はよくわからない部分が多い.当初は長井荘地頭の長井氏同様,代官支配であったらしいが六代長盛のときに土着したとみられている.しかし手元に集めた資料では,長盛が何時頃の人かはよくわからない.鎌倉時代末期には大泉荘は北条一門が,また南北朝時代中期の康安元(1361)年には山内上杉憲顕が地頭職に補されており,武藤氏は北条・山内上杉の代官として大宝寺に居を構えていたものらしい.下って寛正元(1460)年,将軍足利義政が古河公方足利成氏を討伐するため出兵要請をした先に伊達・最上・天童と並んで大泉(大宝寺)淳氏がおり,寛正3年には義政から出羽守を与えられた淳氏は上洛して義政に謁見し貢物を献上し大いに面目を施している.

 その後武藤氏は庄内地方にて戦国大名化していくが,その支配構造は脆弱であり,足元に常に火種を抱えているような状態であったとおぼしい.永正9(1512)年には勢力を拡大していた武藤氏庶流の砂越城(飽海郡平田町)主砂越氏雄が武藤本家の澄氏と争って一度は大勝したものの,翌年には反撃され氏雄父子が戦死する.天文元(1532)年には氏雄父子の跡を継いだ砂越氏維によって大宝寺城は焼亡し,武藤澄氏の子晴時は本拠を大宝寺城から西にある尾浦城(大山城)に本拠を移して防御を強化し,大宝寺城はその支城のひとつとされた.この騒乱は越後上杉氏の調停によって一応の収束をみる.

 晴時の二代後になる義氏は庄内の大名領国化を強行し「悪屋形」とまで称されるようになり,庄内を越えて勢力を拡大するほどの武将であったが,義氏への権力集中を嫌って隣国の山形城主最上義光と結んだ近臣前森蔵人(東禅寺筑前守か?)・東禅寺城(酒田市)主東禅寺右馬頭らが天正11(1583)年内乱を起こして義氏を自害に追い込んでしまう.武藤氏は義氏の弟義興が継ぐが,養子に上杉景勝麾下の越後村上城主本庄繁長の次男千勝(義勝)を迎えたことでまたしても内紛が起こり,天正15年には義興が東禅寺筑前守・最上義光らに尾浦城を攻められ戦死する.これに対し翌天正16年,上杉方が庄内に侵攻し「十五里ヶ原の戦い」で東禅寺右馬頭らが戦死,最上義光の勢力は一掃されて庄内は上杉氏の支配下になる.

 上杉氏も庄内支配の本拠を尾浦城に置き大宝寺城はその支城として50騎を配備しただけだったため,天正18年に上杉氏の検地に抵抗した一揆が庄内に蜂起した際,大宝寺城は守りきれずに落城した.一揆が鎮圧された後,庄内を差配することになった直江兼続は大宝寺城を要衝と見てこれを修復するが,それは現在の本丸部分にあたり,二の丸・三の丸などはまだ構築されていない.

 慶長5(1600)年の「関が原の戦い」では,悲願の庄内支配を目指す最上義光と上杉景勝がいわゆる「出羽合戦」を繰り広げ,最上方は山形・長谷堂(山形市)・上山の3城を残すのみまでに追い詰められたが,関が原で西軍が負けたため辛くも危機を脱して逆襲に転じ,庄内地方を手中に収めることに成功した.義光は慶長6年,最上・庄内・由利57万石を安堵され,庄内の拠点として大宝寺城,東禅寺城,尾浦城などを整備する.慶長8年,酒田湊に大亀があがったことにちなんで東禅寺城を「亀ヶ崎城」に改名し,併せて大宝寺城を「鶴ヶ岡城」に改名した.尾浦城が「大山城」と改められたのもこのときらしい.

 元和8(1622)年,義光の孫義俊の代に最上氏は内紛のため改易され,最上領57万石は解体されて山形・庄内・新庄・上山にそれぞれ譜代大名が配置される.庄内には14万石で酒井忠勝(1594-1647)が信州松代から移封される.忠勝は徳川家康の四天王のひとり酒井忠次の孫にあたり,同時に山形22万石に封じられた鳥居忠政の娘婿である.なお,3代将軍家光の老中で若狭小浜藩(12万石)主の酒井忠勝(1587-1662)とは別人.酒井氏は鶴ヶ岡・亀ヶ崎の2城を置くことを認められ,忠勝の裁断で鶴ヶ岡城が本城とされる.忠勝は鶴ヶ岡城の本格的な整備に着手し,忠勝・忠当・忠義の3代50年余をかけて二の丸・三の丸などを構築して本格的な近世城郭としての威容を整えた.

 本丸は高さ3mあまりの土塁(一部石垣)と幅20mほどの水堀に囲まれ,本丸御殿・二重櫓(北西隅)・多聞櫓2基・長塀・門2箇所などから構成されている.本丸中之門は隅櫓より大きな櫓門であった.二の丸は本丸を囲んで作られ,やはり土塁と堀に囲まれ東南隅に二重櫓が,東側に大手門,西側に搦手門がある.大手門には馬出しが作られ,南側には百間掘と称される大きな池のような堀があった.鬼門である東北隅には宝永元(1704)年勧請された稲荷神社があり,毎年初午の祭りのときは町人も城内に入って稲荷神社に参詣できたという.三の丸は家臣団屋敷を含む広大なもので,東側は内川を堀として利用し,四周に土塁を築いて城外への出入口を11箇所作りこれを「十一口木戸」と称した.また二の丸の北側の一部に堀と土塁に囲まれた一郭があり,ここに「七つ蔵」と称して藩米を収納していた.三の丸西側には御用屋敷が置かれ,また藩主の隠居所としても使用され「御隠殿」とも称された.三の丸西南隅の大督寺は酒井氏の菩提寺である.また三の丸東南側には文化13(1816)年藩校「致道館」が設立され,藩の子弟の教育にあたった.

 庄内藩酒井氏は,治世の初期には藩主の跡目を巡るゴタゴタもあったが,山形藩が次々と藩主が交替して幕閣の左遷地に落ちぶれていく中で北の外様大名への押さえとしての役割を担う.水野忠邦の「天保の改革」にて三方所替の命が下るも,領民の騒擾と水野忠邦の失脚で沙汰止みになり(「三方所替」の強引な推進も忠邦失脚の遠因となる.失脚した忠邦の継嗣が山形に転封されたのは歴史の皮肉か),幕末まで酒井氏が藩主として留まった.戊辰戦争では会津藩などとともに奥羽越列藩同盟の最強硬派として最後まで徹底抗戦し,会津藩の降伏後まで保ちこたえた.
 維新後,鶴ヶ岡城は明治9(1876)年取り壊され,翌10年に本丸址に藩祖酒井忠勝らを祭る荘内神社が設けられる.本丸櫓門址には大寶館が大正4(1915)年に建てられ,昭和60年まで市立図書館として,その後は鶴岡が輩出した人物の顕彰施設として用いられている.三の丸は学校などになり,御用屋敷址は致道博物館になっている.藩校致道館の建物は一部が現存する.


鶴ヶ岡城の写真
鶴ヶ岡城下の写真

参考文献
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『復元大系日本の城』(ぎょうせい)
 『図説山形県の歴史』(横山昭男責任編集/図説日本の歴史6/河出書房新社/1996年11月初版)
 『日本の城原風景』(別冊歴史読本73号/新人物往来社/1994年12月初版)
 『城下町鶴岡』(大瀬欽哉著/庄内歴史調査会/1985年7月初版)
 『出羽諸城の研究』(沼舘愛三編著/伊吉書院/1980年9月初版)
 『奥羽越列藩同盟』(星亮一著/中公新書1235/中央公論社/1995年3月初版)

2002年11月16日作成
2004年6月20日移転・修正

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城輪柵(山形県酒田市)

 「城輪柵(きのわのさく)」は現在の酒田市中心部から8キロほど北東に上ったところにある.現在では,遥かに鳥海山をのぞむ田んぼのど真ん中という立地である.昭和6(1931)年,水田の一角に立ち並ぶ材木列が発見されたのがそもそもの始まりで,それは現在城輪柵の外郭と確認されている.遺構の確認以前から地名「城輪」が何らかの施設の址を意味していると考えられていたこともあり,翌昭和7年には早速国指定史跡となる.「城輪柵」とは史跡に指定されたとき名付けられた遺跡名で,文献上にあらわれる古代城柵の名前ではないため,混乱を避けるため「城輪柵遺跡」と呼ばれることが最近では多い.その性格については出羽国分寺,出羽国府説があり,また出羽国府としても何時の時期のものかで意見の対立が見られた.昭和39年より始まった発掘調査で,遺跡の中央部(大畑地区)から正殿址,西脇殿址,南門址などが出土したため,出羽国分寺説は否定され古代城柵,就中平安時代の出羽国府であることが明らかになる.

 城輪柵の政庁は城柵の中央部に1辺が約115m四方の掘立板塀もしくは築地塀で囲まれてあり,南面したコの字型に正殿や脇殿が配置されている.発掘調査の結果,建物遺構は4期にわたって建て替えられており,そのうちⅡ期とⅢ期では周辺建物に若干の違いがみられるA・B期がそれぞれあり,おおよそ6度の変遷があったと考えられている.その年代の画期はⅠ期が9世紀前半,Ⅱ期が9世紀後半,Ⅲ期が10世紀後半,Ⅳ期が11世紀とみられる.
 外郭は約720m四方のほぼ正方形であり,四隅に櫓状の建築物址が,四辺の中央部にはそれぞれ門址があり,それらにとりつくような形で何らかの区画施設が構築されていたものと考えられる.遺構は政庁址のⅡ期とⅢ期にそれぞれ該当するものが判明している.

 城輪柵は9世紀前半の創建にかかることが明らかで,延暦23(804)年に出羽国府が移転した「河辺府」または弘仁年間(815年~820年頃)に陸奥守小野岑守が建設した「出羽郡井口」国府の有力候補地である.しかし『図説山形県の歴史』では「河辺府」を払田柵(秋田県仙北町)にあて,さらに「出羽郡井口」国府である可能性も否定し,『日本三代実録』仁和3(887)年5月の記事にある「旧府近側高敞之地」に移転した出羽国府であるとする.『図説山形県の歴史』の説を採ると,9世紀前半から使用されている城輪柵の,887年以前の性格がいかなるものであったかいささか不分明である.また,『三代実録』の記事に「閑月遷造,不妨農務,用其旧材」と提言されていることが実施されたにしては規模が壮大に過ぎはしないだろうか.ここではオーソドックスに,小野岑守が建設した「出羽郡井口」の出羽国府と位置付けたい.また,「旧府近側高敞之地」に移転した国府は城輪柵からやや東方の八森遺跡(飽海郡八幡町)ではないだろうか?

 その廃絶は各参考文献でもあまり明らかに指摘されてはいないが,恐らくは律令国家の衰退とともに国府としての機能を停止し廃絶したものと思われる.


城輪柵の写真

参考文献
 『国指定史跡城輪柵跡:史跡城輪柵跡保存整備事業報告書』(酒田市教育委員会発行/1998年3月初版)
 『図説山形県の歴史』(横山昭男責任編集/図説日本の歴史6/河出書房新社/1996年11月初版)
 『秋田城跡:政庁跡』(秋田市教育委員会・秋田城跡調査事務所発行/2002年3月)
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 中村光一「出羽国府の移転に関する一考察」(「史境」40,2000年)
 岡田茂弘「出羽国府城輪柵の遺跡」(東北歴史博物館第33回館長講座/2001年3月)

2002年11月7日作成
2002年11月12日改訂
2004年6月20日移転・修正

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2004.06.19

米沢城(山形県米沢市)

 米沢城は,戦国時代に伊達氏がここに本拠地を移して以後,米沢藩上杉氏にいたるまで出羽国置賜地方の中枢として機能した城郭である.古来,この地方は出羽国置賜郡と呼ばれていたが,鎌倉時代初期,源頼朝により奥州藤原氏が滅ぼされたのちに置賜郡地頭職に補任された大江氏(頼朝の功臣大江広元の後裔)が置賜郡長井郷(現在の山形県長井市付近)に置賜郡支配のための政庁を置いたため長井荘と呼ばれるようになったと『米沢市史』は述べる.大江氏は広元の次男時広が最初に置賜郡地頭職に補されたと考えられるが,彼は長井を称して長井入道と号したらしい.時広の子孫は長井姓を名乗り代々鎌倉幕府の関東評定衆として重職を担っている.そのため長井氏代々は置賜郡(=長井荘)に下向することなく,一族や代官による支配が行われた.このころから現在の地に米沢城の前身にあたる舘があったのかどうかはよくわからない.

 長井氏は建武新政とそれに続く南北朝期,足利氏の鎌倉府成立後も変わらず政権の行政官僚として活動していたが,長井荘は南北朝末期に陸奥国伊達郡を本拠とする伊達氏により侵略されその支配権を失う.伊達氏の長井荘支配の年代については『伊達正統世次考』が伝える天授6・康暦2(1380)年のほか,応永9(1403)年,同20年説などがあり判然としないが,伊達宗遠(1323-1385)・政宗(生没年未詳)父子の代であったことは確実と思われる.この政宗は戦国時代の独眼龍政宗(貞山公,1567-1636)と区別するため「大膳大夫政宗」「儀山政宗」などと呼ばれるが,伊達氏の歴史では「中興の祖」と言われる.祖父行朝(生没年未詳)以来南朝方にあって北朝方への帰順が遅れ,逆風にさらされたと思しき伊達氏の勢力回復に務めたようだ.長井荘侵略もあるいはその一環であったかもしれない.
 儀山政宗は足利将軍家とも縁続き(妻の姉が足利義詮の妾で義満の母)で鎌倉府とは折り合いが悪く,応永7(1400)年から9年にわたって鎌倉府と衝突し伊達郡の桑折西山城を攻略され置賜に落ち延びたと伝えられる.このころの伊達氏の置賜における根拠地は,伊達郡から新宿(仁井宿)峠(宮城県刈田郡七ヶ宿町)を越える街道で通じていた高畠城(山形県高畠町)とされているが,米沢市の舘山にも伝承が残っている.この舘山には城址が存在し,『米沢市史』ではこの舘山城を長井氏時代に作られた山城で,その後新田氏が城主となるが,伊達氏が米沢に本拠を移したのち,新田氏を城代とした米沢城の「詰の城」として拡充が図られ,城下には伊達輝宗(独眼龍政宗の父)の隠居所も普請されたところとし,さらには独眼龍政宗が豊臣秀吉との対決に備えて惣構えを作るべく突貫工事を行ったが結局小田原参陣となり工事は中止された,と推測している.

 なお,長井氏は長井荘を失ったのちも本拠の武蔵国横山荘(東京都八王子市)に拠って活動を続けるが,上杉家の内訌に巻き込まれ永正元(1504)年山内上杉顕定の攻撃を受け時の当主長井広直は一族もろとも討死,長井氏の本家は滅亡した.

 さて伊達氏は南奥羽に続く戦乱の中,徐々に戦国大名としての地歩を固めていくがその画期となるのは14代稙宗(1488-1565)のときである.稙宗は「塵芥集」を制定して領国経営に腐心する一方,活発な軍事・外交を展開し近隣の大名に子女を入れて勢力伸張に務める.しかし稙宗の強権的な統制強化が家中に鬱屈を招き,越後守護上杉家への三男時宗丸(のちの伊達実元)の入嗣をめぐって縁組を軍事力で強行しようとした稙宗の側と,政情不安定な越後への入嗣の強行をきらった晴宗(1519-1577,稙宗の嗣子)の側の間での対立が直接の引き金になって,天文11(1543)年6月に稙宗が桑折西山城に幽閉される.これが南奥羽を混乱の渦に巻き込んだ「天文の乱」の始まりである.その後脱出した稙宗は天文15年6月に桑折西山城を奪回するが,晴宗の圧力により天文16年冬には再び退去し,翌17年9月には父子和睦にいたる.稙宗は隠居して陸奥伊具郡丸森城(丸山城,宮城県伊具郡丸森町)に退去,桑折西山城は廃城となり晴宗は米沢に本拠を移転,ここに米沢城が歴史に登場する.

 伊達時代の米沢城は現在の米沢城(上杉時代の米沢城)の地にあった.現在の本丸の地に「御館」あるいは「本城」と呼ばれる郭と「西館」と呼ばれる郭があり,南東やや離れたところに「東館」と呼ばれる郭が,そして「詰の城」として西方に舘山の山城が整備されたものと考えられる.米沢城そのものは,鎌倉時代から室町時代初期における守護の政庁に多少色がついた程度のものだろう.また城下町は永禄年間に整備が進められたが元亀元(1570)年の「中野常陸の乱」で焼失,その後再建され,後年伊達氏が岩出山→仙台と移ると城下町もそれに伴い移転し,江戸時代の仙台の町名や仙台の寺社仏閣には米沢に由来するものがある.
 なお,米沢市に今も残る昌伝庵という寺院は寺伝によれば永正2(1505)年に伊達尚宗(稙宗の父)の三男が死去した際,その菩提を弔うために創建されたと伝えられる.米沢城と城下町の成立を考える上で検討すべき伝承であろうか.

 伊達晴宗は稙宗ほど統制を推し進めず,家内融和を図りながら領内を統治したが重臣中野宗時・牧野宗仲父子に嗣子輝宗(1544-1585)との離間を計られ家中はまたしても内紛になる.父子の和睦が成立した永禄8(1565)年ごろ晴宗は隠居,信夫庄杉目城(福島城)に退去した.
 家督を継いだ輝宗は蘆名・留守・佐竹と姻戚関係を結び活発な外交を展開する.また,晴宗の重臣であった中野宗時・牧野宗仲父子の謀反を鎮圧し(元亀元年の「中野常陸の乱」),遠藤基信を起用して家内の統制にあたった.永禄9年より相馬氏との抗争が活発化するなど戦乱が日常化する中,輝宗は他の南奥羽の戦国大名に比していち早く織田信長に使者を派遣するなど先を見越した外交を展開し伊達氏の地歩を固めるべく努力するが相馬・佐竹には少々押され気味であり,天正12(1584)年10月の蘆名盛隆暗殺後に蘆名氏への子息入嗣を進めようとして,盛隆の子を推す佐竹義重に押し切られて失敗,それをしおに隠居に追い込まれたらしい.

 輝宗の子がご存知独眼龍政宗(1567-1636)である.政宗の活躍については他をあたってもらうことにするが,天正17(1589)年6月に蘆名義広を磨上原(福島県猪苗代町)で大破して蘆名氏を滅亡させた政宗は蘆名氏の本拠であった黒川城(のち若松城,福島県会津若松市)に入り,本拠をこちらに移す.米沢城には伊達宗澄,ついで伊達宗清(いづれも稙宗の子で晴宗の弟にあたる)を置いた.しかし天正18年豊臣秀吉による小田原北条氏滅亡とそれに続く秀吉の奥州仕置により,政宗は黒川を退去,再び米沢に入る.翌天正19年,政宗は大崎・葛西一揆鎮圧のため米沢城を出陣し,そのまま大崎・葛西領を与えられることになり米沢を去る.

 米沢は黒川改め若松に入った蒲生氏郷,ついで上杉景勝が領することころになり,景勝は重臣直江山城守直続を入れて北方への備えとする.しかし慶長5(1600)年,関が原の戦いで上杉景勝は西軍についた責を問われ,若松120万石から米沢30万石に減封されてしまう.景勝は米沢に移ると米沢城を大改修し居城とする.
 改修された米沢城は本丸を中心に二の丸・三の丸が同心円状に本丸を囲む輪郭式の城郭である.本丸には東北隅と西北隅にそれぞれ御三階櫓があげられ,石垣は用いられずに土塁で周囲を固め水堀を築いている.特徴的なことは,春日山から移した藩祖上杉謙信の遺骸を安置した霊屋が本丸南西隅に置かれたことである.二の丸御殿(二の丸亭)や厩のほか上杉謙信の菩提を弔うための寺院が9つもつくられていた.これらの寺院は現在いづれもその地に存在しないが,法音寺は明治3(1870)年上杉家御廟の地に移転し現存する.三の丸は上級武士の屋敷が並ぶ屋敷町とされ,それを囲む形で水堀が巡っていた.城下町の北東および南東部には寺院が集中する寺町(北寺町・東寺町)が作られ戦時には城郭の一部として機能するように整備された.また,下級武士(原方衆と呼ばれた)の屋敷を城下町郊外南方の通町・芳泉町に配置し,自給自足の体制を敷いた.

 その後上杉家は三代藩主綱勝の急死とそれに伴う綱憲(吉良上野介の子)の襲封の際15万石に石高を減らされ,赤穂浪士の討入りのときは何とか難を逃れるもその後は経済的に困窮し,名高い九代藩主治憲(鷹山)の改革を経てどうにかこうにか幕末までたどりつく.幕末には十二代藩主斉憲の下,家老色部長門や千坂高雅らが奥羽越列藩同盟の中心的な役割を果たすことになり,雲井龍雄による「討薩檄」もばら撒かれるほどだったが,最後には新政府軍に降伏し,「米沢は狡猾」と勝海舟に酷評される羽目になる.
 明治6(1873)年,米沢城は解体され建物はすべて取り払われる.現在城址は松が岬公園となり,本丸には上杉謙信を祭る上杉神社や上杉家の宝物を展示する稽照殿,二の丸には上杉鷹山を祭る松岬神社や博物館・文化施設「伝国の杜」,上杉記念館(旧・上杉伯爵邸)などがある.


米沢城の写真
米沢城下の写真
 林泉寺
 上杉家御廟所
 その他

参考文献(順不同)
 『日本城郭大系』 新人物往来社
 『復元大系日本の城』 ぎょうせい
 『国史大辞典』 吉川弘文館
 『藩史大事典』 雄山閣
 『戦国大名家臣団事典』東国編 山本大・小和田哲男編 新人物往来社
 『米沢市史』第1巻 米沢市史編さん委員会
 『新潟県史』通史編2 新潟県
 『日本名城図鑑』 西ヶ谷恭弘編 理工学社 1993年12月初版
 『城下町の誕生』(会津若松市史歴史編4/近世Ⅰ) 会津若松市 1999年11月初版
 『保科正之』(中公新書1227) 中村彰彦著 中央公論社 1995年1月初版


2002年5月19日作成
2004年6月19日移転・修正

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