城郭:鳥取県

2004.06.20

鳥取城(鳥取県鳥取市)

 鳥取城は現在の鳥取市の市街地北部,官庁街と文教地区を形成している地域の一角にある久松山(きゅうしょうざん,海抜263メートル)を利用して築かれた平山城(と言うより山城+平城)である.戦国時代には久松山のごく一部(必ずしも現在の〈山上の丸〉とは言い切れないようで,むしろ山腹に痕跡の残る諸砦が当初の〈鳥取城〉であったらしい)が利用されていたが,近世に入って在城した宮部継潤,池田長吉らによって近世城郭としての縄張りや城下町が整備された.

 鳥取城が築かれたのは,通説では天文14(1545)年2月のことで,湖山池のほとりにあった布施天神山城(鳥取市)に拠る因幡国守護山名誠通(久通とも,?-1548.このひとの名前のヨミは「さねみち」と「まさみち」の二通りが資料に見える)の築城とされる.かねてより隣国但馬守護山名祐豊(?-1580)と争っていた誠通が出城として久松山を利用して山上に砦を築いたのが始まりだとするが,この説は裏づけに乏しいと『久松山鳥取城』の著者は主張する.むしろ山名祐豊の側が布施をはるかに望む久松山の地に前線基地を設けたのが,鳥取城の始まりではないか,と述べている.そして天文14年には山名誠通の側が鳥取城をその勢力下に収めたのではないかとも推測している.

 しかし山名誠通は天文17年,布施天神山城を急襲され戦死してしまう.誠通の遺児はまだ幼く,因幡山名氏は宿老たちが相談の結果,但馬の山名祐豊の弟にあたる豊定を迎えて但馬山名氏と講和する.鳥取城は当初,宿老が交代で城番を務めたが,そのひとり武田家が定番となって鳥取城に入ると次第に勢力を伸張させ,布施に拠る因幡山名氏を圧迫するようになる.このあたり,いろいろ不明の点も多いようだが,武田高信との争いで誠通の子豊成・豊次が相次いで討たれ,豊定の子豊数もまた中途に戦死してしまう.しかし後を継いだ豊数の弟豊国(1548-1626)は(後世の悪評とは幾分異なり)ひとかどの武将であったらしく,元亀2(1571)年8月には但馬国阿勢井(兵庫県浜坂町)にて武田高信の軍勢を大破する.翌年には毛利に滅ぼされた尼子の遺臣山中鹿之助幸盛(?-1578)と結んで再度高信軍を打ち破り,天正元(1573)年鳥取城に入ってここを因幡守護の本城にした.

 豊国は武将としてはともかく(徳川家康が「大坂冬の陣」の際,豊国に意見を求めた,という逸話が残っている),政治家としては人望が欠けていた(^^;)のか,東に織田,西に毛利からの圧迫を受け不安定な因幡の国人をまとめ上げることが出来ず,尼子勢を見捨てて毛利に付き何とか延命を図ろうとした.天正3年には但馬山名氏と毛利の和睦がなり,翌4年に室町幕府15代将軍足利義昭が毛利の庇護に入ると,尼子勢が織田信長麾下の羽柴秀吉と結ぶに至る.しかし尼子勢は因幡に留まることができず,播磨国上月城(兵庫県上月町)に入って毛利に抵抗するが,播磨三木城(兵庫県三木市)の別所長治の造反によって秀吉が上月城の支援ができなくなり,天正6年7月には上月城は陥落し山中鹿之助が擁していた尼子勝久は自殺,鹿之助は毛利の捕虜となり護送される途中,備中国合の渡し(岡山県高梁市)で殺害された.一方,山名豊国は天正6年にかつての政敵武田高信を暗殺し,何とか因幡国人の統率を計ろうとしている.天正7年6月には伯耆国羽衣石城(鳥取県東郷町)に拠る南条氏が毛利氏から離れて秀吉方に付き,毛利は因幡・但馬への支援が困難になる.

 天正8年正月に三木城が陥落し,後顧の憂いがなくなった秀吉は電光石火の勢いで5月には但馬を制圧,但馬守護山名祐豊・氏政父子の拠った出石城は陥落し但馬山名氏は滅亡した.次いで秀吉は因幡に進攻,若桜城(鳥取県若桜町),鹿野城(鳥取県鹿野町)を相次いで攻略し,鳥取城を包囲した.秀吉は豊国を懐柔して9月21日開城にこぎつけたが,豊国の態度を遺憾とする国人家老森下道誉・中村春続らは豊国を追放して再び毛利側に付き,吉川元春に城将の派遣を要請する.そこで元春は吉川経家を鳥取城に送り込んだ.
 なお,鳥取城を追放された山名豊国は出家して禅高と号し,秀吉の御伽衆,次いで徳川家康・秀忠に仕え但馬国内で6700石を与えられて天寿を全うした.有職故実に通じ,和歌・連歌・茶湯,将棋などをよくしたと伝えられる.山名氏は豊国の子孫が但馬国村岡(兵庫県村岡町)6700石にて明治維新まで存続し,明治元(1868)年諸侯に列する.

 鳥取城に入った吉川経家(1547-1581)は石見国福光城(島根県温泉津町)の城主吉川経安の嫡男.天正9年3月18日,鳥取城に配下の兵400とともに入城し,支城の丸山城,雁金城にそれぞれ兵を入れ羽柴秀吉の軍勢を迎え撃った.7月,秀吉は2万の大軍で鳥取城を包囲する.秀吉が既に前年,因幡国内の米を買占めていたため4000人が籠城する鳥取城は兵糧が不足し,経家もしきりに兵糧の補給を吉川元春などに依頼するが,秀吉側による鳥取城の包囲陣は堅い上に,吉川勢が秀吉方の羽衣石城を抜くことができず,鳥取城はかくして孤立し餓死者が続出する地獄絵となる.三木城の「干殺し」とともに,秀吉が城攻め上手の名を天下に知らしめることになる鳥取城の「渇殺し」である.経家はこの状況を見るに見かねて,秀吉から出された講和条件をのみ10月25日開城した.秀吉は家老森下・中村らの切腹と引き替えに経家を助命しようとしたが,経家は鳥取城抵抗の責めを一身に背負い切腹する.

 因幡平定後,秀吉は鳥取城に宮部継潤(善祥坊,1528?-1599)を入れ,因幡国内で5万石を与えた.継潤は近江国浅井郡(一書に坂田郡)の人,最初仏門に入ったが兵書を好み仏門を離れ,浅井長政に仕える.元亀2年,織田信長の浅井攻めの際信長に降伏し,信長,次いで羽柴秀吉に仕える.当時「算勘の達人」として知られ,因幡衆の総領として因幡国内を取り仕切った.宮部時代の鳥取城についてはよくわからないが,現在見られる山上の丸,山下の丸の原型が作られたものと考えられ,また以前からの久松山腹の城塞(西坂[松の丸],中坂,東坂の各砦)を整備したらしい.継潤は慶長元(1596)年12月に家督を長熙に譲ったが,その後も秀吉の奉行衆として活動を続け,慶長4年3月死去した.
 後を継いだ宮部長熙(長房,定行とも.?-1634)は継潤の実子とも養子とも伝えられる.慶長元年,因幡・但馬両国で12万石を与えられ鳥取城主になる.慶長5年の「関が原の戦い」で西軍に付いたが,因幡鹿野城主亀井●矩(これのり),但馬竹田城主赤松広秀(斎村政広とも)の攻撃を受け鳥取城下に放火される.戦後,所領を没収され南部利直にお預けとなり盛岡で死去した.また,赤松広秀は鳥取城下焼失の責任を亀井●矩に押し付けられて切腹となり,室町幕府の名門赤松氏も滅亡した.

 因幡国内で西軍に付いた宮部,若桜鬼ヶ城の木下重堅(もと荒木兵太夫といい荒木村重の家臣だったが,村重の謀反後は秀吉に仕え,木下姓を賜り若桜で2万石),浦富桐山城の垣屋恒総(垣屋氏は但馬山名氏の重臣の家柄.恒総の父光成は但馬が秀吉に平定されると秀吉に付き,桐山城で1万石)はいづれも改易となり,鳥取には西因幡6万石で池田長吉が,若桜鬼ヶ城には山崎家盛が2万5千石で,亀井●矩は鹿野城で3万8千石をそれぞれ領することになる.
 池田長吉(1570-1614)は織田信長の乳兄弟池田恒興(信輝,勝入斎.1536-1584)の三男.秀吉の養子だったこともある.関が原の戦いで西軍の長束正家を謀殺するなどの戦功を挙げ,戦後鳥取に封ぜられた.長吉は鳥取城を大改造して現在見られる縄張りを作り上げ,城下町を整備したと伝えられる.長吉の兄池田輝政(1564-1613)は姫路城主として,現存する姫路城の縄張りを整備した人物でもあり,この兄弟は城郭建設にたけていたらしい.慶長19年9月,長吉は死去し子の長幸(1593-1632)が後を継ぐ.元和2(1616)年,姫路城主池田利隆(輝政の子)が死去して後を8歳の新太郎光政が継ぐと,領主幼少では播磨は治まらない,との理由で姫路42万石から因幡・伯耆32万石で鳥取に転封となり,長幸は備中松山藩6万2千石に移される.のち長幸の子孫は相続争いを起こして改易され,家は旗本として存続した.

 池田新太郎光政(1609-1682)は当代きっての名君とうたわれ,水戸藩主徳川光圀(1628-1700),会津藩主保科正之(1611-1672)などと並び称された人物.ただし,鳥取藩主時代はまだ年少であったので,藩政は家老の合議制で執り行われた.光政の代に鳥取城下は拡張され,後の鳥取市街地の原型が形作られる.
 寛永9(1632)年,岡山城主池田忠雄(1602-1632,輝政の三男.母は徳川家康の娘督姫)が病没し,後継ぎの光仲が数え3歳であったことや,忠雄の男色関係のもつれから刃傷沙汰があった(これが後年,荒木又右衛門の三十六人切りで著名な伊賀上野「鍵屋の辻の仇討ち」に発展する)ことなどにより改易も考えられたが,老臣たちの奔走や忠雄が家康の外孫であることなどから鳥取藩の池田光政と所領替えということで収まり,光仲が鳥取に移る.

 池田光仲(1630-1693)は種々の理由から自らの権威を打ち立てるのに腐心した人物,という印象があるのはG.C.W.氏だけだろうか(^^;)? 何しろ3歳で藩主になり,幼児だから岡山は無理とされて鳥取に飛ばされ(鳥取県のみなさんゴメンなさい),藩政は池田家を救った家老荒尾成利らが執る.岡山に移った従兄の光政は聡明で名君とうたわれ,光仲は幼い頃から何かと比較されて育ったと思われる.おまけに徳川家康の外孫であった父忠雄,伯父の忠継,叔父の輝澄,輝興らがあまりいい死に方をしていない.これで素直に育ったら奇跡かも(^^;).鳥取には現在も伝わる〈麒麟獅子〉という伝統芸能があるのだが,これは光仲が創始したと伝えられ,ある説によれば光仲が徳川家康を強く意識して考え出したものとされている.寄る辺のなかった光仲は曽祖父家康のイメージに自らをなぞらえて,自らの権威を飾り立てようとしたのだろうか.
 その後の鳥取藩は光仲の子孫が代々藩主となり幕末にいたる.幕末の12代藩主は養子に入った水戸藩主徳川斉昭の5男慶徳で,長兄の水戸藩主慶篤ともども弟の一橋慶喜の足を引っ張るだけ(^^;)の存在だった,とも言われる.

 近世の鳥取城は池田長吉の代に面目を一新する形で大々的に整備が行われ,池田光政,光仲とも基本的には長吉の縄張りと城下町を引き継いでいる.城は大きく「山上の丸」と「山下の丸」からなり,山上の丸には本丸が,山下の丸には天球丸,二の丸,三の丸,右膳の丸が置かれた.山上の丸には当初三層,池田長吉が二層に改築された天守が存在した.天守は山名豊国が布施天神山城から移築したものだと伝えられるが疑わしく,秀吉恩顧の宮部氏の代に創建されたものであろう.久松山上にある天守は厳しい山陰の冬に耐えられず次第に痛んできたので,池田長吉は三層天守を二層に改築する.元禄5(1692)年落雷にあって焼失した以後は再建されなかった.遺構に拠ればふたつの付櫓を備えた複合式天守であったらしい.
 山腹には山名氏や武田氏の代に活用されたらしい砦がいくつかあったようだが近世鳥取城では利用されず,山下の丸が整備された.山下の丸は何度か改造が実施され,右膳の丸が整備されたのは弘化2年になってからである.二の丸には角櫓,御三階櫓,走り櫓,稜櫓,多聞櫓が並び立ち,御殿が内部一杯に建てられていた.御三階櫓は山上の丸天守が焼失してからは鳥取城の象徴的な櫓となり,いくつか古写真も残されている.三の丸には藩主の居館と走り櫓があり,走り櫓は藩の政庁として機能した.天球丸は山下の丸の一番高いところにあり,池田恒興の娘天球院に由来する.若桜鬼ヶ城主山崎家盛の妻であったが仲違いして弟である池田長吉のところに身を寄せたと言う.長吉は鳥取城の一角に姉が住むところを設け,これが天球丸と呼ばれるようになる.横長の三階櫓と風呂屋御門と呼ばれた門があった.また大手道の向かって右側が青木の馬場,左手が内馬場と呼ばれた.「北の御門」と呼ばれた門から二の丸に通じる道の脇には当初家臣団の屋敷があったが,徐々に城外に移されその址には米蔵などが建てられた.
 鳥取城は享保5(1720)年の大火「石黒火事」でほぼ灰燼に帰し,三の丸,二の丸御三階櫓はすぐに再建されたが,二の丸御殿はしばらく再建されず,ようやく弘化2(1845)年にいたって再建される.幕末には天球丸に池田慶徳が稽古所を設け武術の教練が行われている.

 明治維新後,鳥取城は当初存続することになっていたが明治12(1879)年,陸軍省が建物を解体してしまい廃城となった.現在,二の丸仕切り門が残るのみで三の丸には鳥取西高校が,馬場には仁風閣が,米蔵などの址には鳥取県立博物館が建つ.いまも発掘調査や石垣の整備が継続して行われているようだが,鳥取県埋蔵文化財センターは青谷上寺地遺跡と妻木晩田遺跡の紹介でWebは手一杯らしく,鳥取城の整備計画などはWeb上では見当たらないのが残念(部署違いだったら失礼).


鳥取城の写真

主な参考文献
 『久松山鳥取城:その歴史と遺構』(鳥取県の自然と歴史6/鳥取県立博物館/1984年3月初版)
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『名城の「天守」総覧』(西ヶ谷恭弘監修,日本城郭史研究会編著/学研/1994年6月初版)
 『復元大系日本の城』 ぎょうせい
 『信長と天皇』(今谷明著/講談社現代新書1096/講談社/1992年4月初版)
 『国史大辞典』(吉川弘文館)

2002年8月8日作成
2004年6月20日移転・修正

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