城郭:青森県

2004.06.18

根城(青森県八戸市)

 「根城(ねじょう)」は,南北朝時代に南朝方として活躍した南部師行などを輩出した,いわゆる「根城南部氏」の居城である.後世の資料によれば建武新政の際,北畠顕家・義良親王とともに陸奥に下向した甲斐国の住人南部師行によって築城され,「根城」の名前もそのとき北畠顕家によって命名されたと伝えられる.しかし,南北朝当時の信頼できる一次資料には「根城」の名は見えず,支配地の中心としての一般的な「根の城」の呼称がのちに固有名詞化したものと考えられる.また,現在残る根城の遺構がすべて師行によって築城されたものでもなく,師行の下向以前から,何らかの形で存在していた館が徐々に拡張され,15世紀初めには現在残る遺構の形になったものであろう.

 根城南部氏は師行,政長,信政,信光,政光の5代にわたり南朝方として奮戦,師行は北畠顕家に従って上洛,各地を転戦し和泉国石津で顕家軍が壊滅したとき(1338[延元3・暦応元]年5月)顕家とともに戦死している.南朝の衰退に伴い根城南部氏の周囲も北朝方になる勢力が続出するが,1392(元中9・明徳3)年の南北朝合体まで根城南部氏は南朝方を貫く.南北朝合体後,政光は一足先に北朝方に鞍替えしていた一族三戸南部氏の守行の勧めに従い,足利方に降伏し,根城南部氏の名跡を残すことができた.

 その後,根城南部氏は三戸南部氏と連携しながら勢力を回復し,15世紀半ばの政経の代からは八戸氏を名乗って威勢大いに振るったが,戦国時代の後半に入ると秋田の檜山安東氏(のちの三春藩秋田家)や南部一族の内紛,その間隙を縫って突然現れた大浦為信(のちの津軽為信)の攻勢に苦しめられる.南部氏は三戸南部26代目を継いだ信直の手腕によりようやく体制を立て直し,豊臣秀吉に認められて近世大名としての基礎を固める.根城南部氏は信直の家臣団に組み込まれることになるが,信直は根城南部氏を重用し,根城南部19代の直栄は信直の娘婿となっている.根城は秀吉の奥州仕置に伴う城破却令により1592(天正20)年に廃城となるが,根城南部氏はその後も生活の拠点を根城の屋敷に置き,最終的には1627(寛永4)年22代直義が遠野に転封になるまで存続したものと見られる.

 根城は8つの郭からなり,祈祷寺の東善寺があった「東善寺館」を除く7つの曲輪のうち,本丸以外の曲輪で名称が伝承されているものが,いづれも南部氏重臣の姓に由来することから,それぞれの曲輪が根城南部氏とそれを支える重臣の館になる,「館屋敷型城郭」と呼ばれる構造をとっていたと考えられるという.遺構は1941(昭和16)年国史跡に指定され,1985年からは「史跡根城環境整備事業」がスタートし,さらに1989年には「ふるさと歴史の広場」事業に指定され,城の遺構が発掘されるとともに復元がすすめられ,特に本丸には一部の建物が戦国末期の姿に復元されている.

 なお,近世八戸藩の政庁であった,近世城郭としての「八戸城」は,根城とは別の城を指し,JR八戸線本八戸駅徒歩5分の「三八城公園」が城跡にあたる.


参考文献
『日本城郭大系』第1巻(新人物往来社),
『図説青森県の歴史』(盛田稔・長谷川成一責任編集/河出書房新社/1991年7月初版),
『戦国の城』下(西ヶ谷恭弘著/学習研究社/1992年12月初版),
『戦国城下町の考古学』(小野正敏著/講談社/1997年7月初版),
『掘りおこされた南部氏の城 根城』(八戸市博物館/1996年5月初版)

根城の写真へ

2001年7月15日作成
2003年9月6日修正
2004年6月18日 移転・修正

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