城郭:茨城県

2004.06.19

多賀谷城(下妻城,茨城県下妻市)

 多賀谷城は下妻城とも呼ばれる(『下妻市史』では一貫して「下妻城」,『日本城郭大系』では「多賀谷城」).城主である多賀谷氏は武蔵国埼玉郡木西荘多賀谷郷の地頭になった多賀谷左衛門尉家政を祖とする.15世紀半ばに古河公方足利成氏の家臣であった多賀谷彦四郎氏家(1408-1465)が功によりこの地(「関三十三郷」とか「下妻十六郷」などと伝えられる)を与えられ,当初は関城(茨城県関城町)に入ったが,さらに先の城主(?)城戸入道道光を謀殺したのち,城郭を修営したものとされる.
 その後多賀谷氏は氏家(法名祥賀か?)-朝経(尊経,高経,法名祥英か?)-基泰(家植,法名祥潜か?)-光経(家重)-朝経(重政,祥春)-政経(祥聯)-重経(尊経)と受け継がれる(少々系図に混乱があるらしい).山川城(結城市)の山川氏,下館城の水谷氏と並び下総結城氏と同盟関係にありながら独立的な立場を保持していた.朝経(?-1483?)は古河公方足利成氏に従って各地に転戦,基泰は結城政朝に協力して,明応8(1499)年当時結城氏の実権を掌握していた甥の多賀谷和泉守を討ち,結城氏の再興に益している.光経(?-1554)は結城政朝と対立し,扇谷・山内両上杉家とも同盟して北条氏康にあたったが肝心の両上杉家が相次いで敗れて滅亡してしまい,氏康の侵攻を許している.朝経(祥春)は天文16(1547)年小田政治と同盟して結城政勝攻撃を企てるが,結城・山川・水谷の連合軍に敗北する.翌年には小田政治が没し,後を継いだ氏治は小田家中を抑えきれず,朝経は結城政勝と和睦するに至る.政経(?-1576)は武田信玄・織田信長とも誼を通じて多賀谷氏の勢力維持に務める.

 7代重経(1558-1618)はなかなかの武将で天正4(1576)年家を継ぐや,豊田城(茨城県石下町)の豊田氏を滅ぼし,結城晴朝,佐竹義重や豊臣秀吉に通じて勢力の維持に務める.天正8年から17年にかけて周囲の諸城を次々と攻略していく.この当時多賀谷氏の領地は常陸・下総で20万石相当のものがあったといわれる.天正18年秀吉の小田原城攻めの際,小田原に参陣し下妻6万石を安堵されるが,秀吉から結城晴朝の配下に入ることを命じられたらしい.これより先,結城・佐竹双方と同盟していた重経は,島城から太田城(いづれも茨城県八千代町)に入っていた実子三経を結城氏の配下に,佐竹義重の四男宣家を娘婿にして養子とし多賀谷城で佐竹氏の与力大名とするという選択をせざるを得なかったのだが,秀吉の命令がこれを駄目押しすることになった.文禄の役(1592-1593)の際,重経は病気と称して養子の宣家と弟の重康を肥前名護屋城に差し向けたが秀吉の不興をかい,金子1千枚の供出と多賀谷城の破却を命じられている.三経は,文禄の役には結城秀康とともに出陣し,結城氏の与力として軍役を勤めている.慶長3(1598)年ごろ重経は隠居して宣家に家督を譲り,出家して祥円と称したとされる.

 慶長5年の関が原の役では,重経は石田三成・佐竹義宣と近かったため病と称して出陣せず,小山に陣を構えた徳川家康に夜襲をかけようとして露見,逃亡したと巷間言われるが,『下妻市史』はこれを「信用しがたい」として退けている.慶長7年下妻を去って各地を放浪し,末子茂光が彦根藩に仕官していた伝手を頼って彦根に流れていきその地で没する.結城秀康に仕えていた三経は秀康の越前転封に従って太田城を去り,越前国丸岡・三国で3万2千石を領して柿原(福井県金津町)に配されたが慶長12(1607)年30歳で死去した.その子孫は秀康の五男直基が秀康の遺言で結城氏の跡目を相続すると直基に仕え,直基の子孫の転封に従って上野国前橋藩で明治維新を迎える.宣家は兄佐竹義宣の秋田転封に従い,最初出羽国白岩城(秋田県角館町),次いで檜山(秋田県能代市)で1万石を領する.宣家の息子重隆は,出羽国亀田藩(秋田県本荘市)藩主岩城吉隆(父の岩城貞隆は佐竹義宣,蘆名義広,多賀谷宣家と兄弟になる)が佐竹義宣の後を継ぐことになった(秋田藩二代藩主義隆になる)ことにより岩城家を継いだ(寛永5[1628]年)が幼少のため,宣家も陣代として岩城家に入り岩城宣隆と改称,明暦2(1656)年重隆に家督を譲り寛文12(1672)年89歳で死去した.檜山の多賀谷氏は戸村義国の子隆経が継いだが寛永6年早世し,その弟隆家が後を継いだ.その後も養子相続のたびに石高を減らされ,幕末には3000石にまで減っていたそうである.

 その後,下妻には慶長11年に徳川頼房(家康の11男,のち水戸徳川家の初代藩主,光圀の父)が10万石で封ぜられたが14年に水戸へ転封,幕領となり元和元(1615)年には松平忠昌(結城秀康の次男,忠直の弟)が4万石で入るが翌年には松平定綱(久松松平家,家康の異父弟定勝の次男)が3万石で交替,定綱が元和5年に遠江掛川に転出すると再度幕領になる.その後正徳2(1712)年に井上正長(笠間藩主で徳川吉宗が8代将軍になるとき功があったものの,死去の際「死んでも人の惜しまぬもの,鼠を獲らぬ猫と井上河内守」とまで酷評された老中井上正岑の弟)が1万石で入封し,明治維新まで続いた.ただし,多賀谷城は使用されず,井上氏は別に陣屋を建て居所とする.

 多賀谷城は現在の下妻市中心部になった現状からは想像しにくいが,大宝沼から続く低湿地と館沼という沼の間にある台地を利用して築かれた一種の「浮き城」で,本丸(東館)付近は周囲より高い土地であったらしいことが,『下妻市史』上巻に掲載されている昭和36年当時の写真によりわかる.最盛期には南北1.5キロを超える総構を有していたとみられる.その西側にあたる館沼(現在では消滅した)と砂沼(こちらは現存する)に挟まれた台地には城下町が形成されていた.破却後は急速に荒廃し,慶長16(1611)年に出されたある訴状によれば,多賀谷城内が荒れ果て物取りが横行している様子がうかがわれる.現在は城址公園はあるものの,城の中心部は昭和36年ごろの都市計画事業によりほぼ消滅している.それでも市内を丹念に歩けば,土塁や郭が確認できるようだ.

2002年5月31日追記
 多賀谷氏の歴史について「不正確である」とのご指摘をある読者の方からいただき,『下妻市史』上(下妻市史編さん委員会編/下妻市役所/1993年3月初版),『八千代町史』通史編(八千代町史編さん委員会編/八千代町/1987年3月初版)に基づいて,初稿を大幅に改訂しました.


参考文献
 『日本城郭大系』第4巻(新人物往来社)
 『図説茨城県の歴史』(河出書房新社)
 『国史大事典』(吉川弘文館)
 『日本人名大事典』(平凡社)

多賀谷城の写真(工事中)


2002年2月23日  
2002年5月31日改訂
2004年6月19日移転・修正

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関城(茨城県関城町)・大宝城(茨城県下妻市)

 関城・大宝(だいほう)城は南北朝期,南朝方の拠点として活動したことで知られる.明治末期までここには大宝沼という大きな沼が残っていたが,関城は大宝沼の北部,大宝城は沼の南部に位置する半島状の地を利用して築かれた.
 関城は下総結城氏の二代目結城朝広の子三郎朝泰が関荘の地頭になって関氏を名乗り,その拠点として築城したとされる.大宝沼に三方を囲まれた半島状の突端に半径500メートルほどの主郭と,数重に築かれた堀・土塁から構成され,主郭の土塁・堀は現在も確認できる.構成については関城町のホームページわかりやすい図面が掲載されている.ちなみに関城町のホームページには他にも丁寧な関城址の説明攻防戦の解説がある.これはこの界隈の古城では珍しいことで,いかに町名の由来になった国指定史跡とは言え,城好きには大変ありがたいことである.
 大宝城は下妻修理権亮長政(下野小山氏,朝政の孫で朝長の子,長村の兄弟)が貞永元(1232)年,ここに拠点を構えたとされる.大宝沼の南部に突き出した南北1.5キロ,東西500メートルほどの土地を利用して築かれ,南側には大規模な二重の土塁が現在も残る.主郭には現在大宝元(701)年創建と伝えられる大宝八幡宮が鎮座する.主郭の三方は大宝沼に囲まれていたが,大正時代に干拓されてしまい沼は消滅しているものの,現在も切り立った崖になっている.
 関城・大宝城とも南朝方の史蹟ということで昭和9年に国指定史跡になっている.

 南北朝期,関東・東北の南朝方へのてこ入れとして,後醍醐院の子義良・宗良親王を奉じた北畠親房・顕信父子や結城宗広らが延元3・暦応元(1338)年9月に伊勢国を出帆した.ところが台風シーズンの折りであり,たちまちのうちに暴風雨に巻き込まれ船団はばらばらになってしまい,結城宗広,義良親王らは伊勢に吹き戻され宗広は間もなく病没,義良親王は吉野に戻る.宗良親王は遠江に流れ着き,のち信濃国で南朝勢力の挽回に務めることになる.親房・顕信父子はようようのことで常陸国東条浦(霞ヶ浦の南端,現在の茨城県桜川村付近)に辿り着き,親房は常陸で,顕信は南陸奥でそれぞれ南朝勢力の建て直しに奔走する.

 当時の下総・常陸方面では北朝方の佐竹・結城・大椽・鹿島などに対し,小田・伊達・関などが南朝方として活動している.親房は当初神宮寺城(桜川村)・阿波崎城(茨城県東村)に拠るが鹿島勢に追われ,小田治久(高知)が拠る小田城(つくば市・国史跡)に入り,関宗祐の関城,下妻政泰の大宝城・中御門実寛の駒城(下妻市,駒館・駒館城とも.鬼怒川を挟んで北朝方結城一族の山川氏が拠る山川城[結城市]と対峙していた)などと連携して南朝の勢力回復をはかる.しかし,延元4・暦応2(1339)年10月には高師冬を総大将とする大軍が派兵され,北朝方の猛攻が始まる.親房は小田城に興良親王(護良親王の子),春日顕国(のち顕時.親房の子という説もあるが,『国史大事典』によれば村上源氏顕行の子とするのが有力な説)を迎える一方,去就を明確にしない陸奥白河の結城親朝(宗広の子,建武新政期の京で後醍醐院の近臣として活動し〈三木一草〉のひとりと謳われた結城親光の兄)を南朝方に翻意させるべく説得を重ねている(この結城親朝というひとは余程几帳面だったのか,親房や北朝方から寄せられた書状を丁寧に保存していたようで,それが現在でも各種の「結城文書」として伝来し,南北朝期の貴重な資料になっている).さらには遠く後醍醐院の死を聞き,その後継者たる後村上院(義良親王)に南朝の正当性を教え諭すため,『神皇正統記』を書き始める.

 興国元・暦応3年5月には駒城が一度陥落するも翌日奪回に成功する.高師冬はひとまず撤退し古河から瓜連城(茨城県瓜連町)へ移って態勢を立て直し,翌興国2・暦応4年6月小田城攻撃を再開する.戦局は南朝方に利あらず,同年11月までには駒城が陥落,11月には小田城が開城し小田治久は北朝に降る.親房,興良親王,顕国らは開城直前に小田城を脱出し,親房は関城に,興良親王,顕国は大宝城に入る.関城は城主関宗祐・宗政父子以下わずか300の兵での籠城と伝えられるがよく持ちこたえ,親房はしきりに結城親朝に書状を送り南朝方への勧誘を続けた.

 興国3・康永元(1342)年正月には関城・大宝城間の連絡が絶たれ,翌年ついに結城親朝が旗幟を明らかにし北朝方に付くに及んで関城・大宝城は完全に孤立する.不利な戦局の中,春日顕国はしばしば大宝城の囲みを破って関城救援に赴いたり,結城親朝に書状を送って翻意を促したりという努力を続け,関城でも北朝方をしばしば撃破し,北朝方の結城直朝(下総結城氏,朝祐の子)を討ち取る戦果も上げたが,如何せん兵糧が底を尽く.ついに興国4・康永2年11月11日,北朝方の総攻撃を受け関城・大宝城ともに落城し,関宗祐・宗政父子,下妻政泰らは城を枕に討死する.興良親王・北畠親房・春日顕国は落城直前に脱出し,親房は関東での活動を断念し吉野に戻った.春日顕国は逃れて密かに南朝方を糾合し,翌年3月7日に大宝城の一時奪回に成功するが翌日北朝方の攻撃を受け再度落城,顕国は捕らえられて切られ,京都六条川原に首をさらされるという最期を遂げる.


参考文献
『日本城郭大系』第4巻(新人物往来社)
『国史大事典』(吉川弘文館)
『図説茨城県の歴史』(河出書房新社/1995年11月初版)
関城町ホームページ


関城・大宝城の写真へ

2002年2月22日  
2002年5月29日一部改訂
2004年6月19日移転・修正

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