城郭:島根県

2004.06.20

松江城(島根県松江市)

 松江城は慶長12(1607)年より,5か年をかけて堀尾吉晴(1543-1611)により築かれた.慶長5年の関が原の戦いの後,堀尾吉晴はそれまで毛利氏の所領の一部であった出雲・隠岐24万石を与えられて富田城(島根県広瀬町)に入ったが,富田城は戦国時代を生き抜いた山城であり,領内の東部に偏位した立地で城下は狭く,吉晴の前に出雲・伯耆を領有して入城していた毛利一族の吉川広家も伯耆国米子の湊山に新しい居城を築いていたところであった(こちらは現在の米子城で,関が原の戦いの後,中村一氏の子忠一が封じられる).そこで吉晴も新たに本拠となる城郭を築くべく,亀田山(極楽寺山,現在の松江市)の地を選んで築城したのが松江城である.

 元々,亀田山には出雲守護佐々木氏の一族である末次氏が拠った末次城があり,元亀2(1571)年には布部山の戦いに敗れた山中鹿之介が入ったこともある.ここは南に宍道湖と大橋川,北には丘陵地,東西は低湿地という守りに堅い場所として,吉晴の嗣子忠氏(1578-1604)がこの地を選んだという.しかし忠氏は松江城の着工を見ることなく慶長9年27歳の若さで急逝(富田城下で狩をした際,マムシに噛まれたのが原因であったという)し,嫡孫の忠晴(1599-1633)がまだ6歳であったため吉晴が再び国政を見ることになり,松江城の普請も吉晴の下で行われた.

 堀尾吉晴は尾張国丹羽郡の土豪で代々は織田家に仕えていたらしいが,吉晴は木下藤吉郎秀吉に仕えて16歳で初陣を果たし,その際早くも一番首をあげる.その際,誰も茂助(吉晴の通称)の一番首を信用しなかったという逸話が残っているほど,普段は柔和な性格で〈仏の茂助〉と呼ばれるような人物だったが,戦場では猛将であった.その後も秀吉の下で武功を重ね天正13(1585)年には近江国佐和山で4万石,天正18年には遠江国浜松で12万石の大名に出世する.秀吉政権下ではその政治的調整能力も買われたらしく,生駒親正,中村一氏とともに後世〈三中老〉と称される位置にいた.慶長4年には隠居して忠氏に家督を譲り,隠居料5万石を越前国府中で領する.慶長5年の関が原の戦い直前,酒宴の席で水野忠重(家康の母伝通院の兄弟で,家康麾下随一のピカロ(^^;)水野日向守勝成の父)が加賀井重望に殺害されたとき,直後に重望を切り捨てたのは吉晴である.関が原では東軍につき,戦後の論功恩賞で出雲・隠岐24万石に転封になる.
 
 吉晴は蒲生氏郷などと並ぶ城普請の名手として知られ「普請上手」と称されていたが,その上松江城の縄張りをうったのは吉晴に仕えていた当代一流の軍学者小瀬甫庵(1564-1640,『太閤記』の著者)である.松江城では亀田山,宇賀山,赤山と連なる小丘陵であったものを,亀田山の上と宇賀山を削って掘割と石垣を築く大工事を敢行した.宇賀山を削って出来た土地が家臣団の屋敷地となる.現在の〈塩見縄手〉である.完成前より吉晴・忠晴は松江城に移ってきていたが,城郭の完成直前,吉晴は松江城内で病没した.後を忠晴が継いで松江城は一応の完成を見る.

 本丸は中央やや東北寄りに五層六重の独立天守をあげ,周縁には6つの櫓と多聞櫓をめぐらし(一部は瓦塀)ていた.周縁は複雑な屈曲を持ち,実戦的な横矢掛りとなっている.重厚な天守閣は現存する山陰地方唯一の天守建築で,二層の大屋根の上に三層を載せた望楼式天守.なお南側に付櫓がある複合式天守でもある.付櫓から入り,その2階から天守地階に入るようになっている.慶長期天守としては古風な外見をとどめるが,相当に実戦的かつ経済的な建築でもあるようだ.
 二の丸は本丸南側から北側へ取り付く広大かつ複雑な縄張りを持ち,本丸と二の丸の関係や腰曲輪,帯曲輪の取り付きが秀吉築城の大坂城と極めて似ている.実は,堀尾吉晴は秀吉の大坂築城に参画したひとりであった.本丸南側の一段低いところには4つの櫓と御書院,御広間などがあり,特に月見櫓は他の櫓と異なる数奇屋風の建築で御書院の西南部に接続し,むしろ月見御殿と呼ぶのがふさわしい建物である.東側の二の丸下の段には7つの米倉,御小人長屋などが建てられていた.三の丸は二の丸の南側に正方形の堀をめぐらし,四方を多聞櫓と塀で囲んだ中に藩主の居館が設けられていた.居館には茶室も設置されている.また,表門以外の三方は廊下橋で二の丸,花畑,御鷹部屋と連結していた.
 なお,城の西側は一部石垣のみの土塁,北側(上御殿・稲荷社.現在の護国神社・城山稲荷神社付近)には石垣が用いられていないことを取り上げて,松江城が未完成である,とする説もある.確かに,北西方面の防御がこのままでは脆弱であることは間違いない.

 堀尾吉晴の後を継いだ孫の忠晴は当時評判の美少年であったらしい.将軍家のおぼえも悪くなかったようだが寛永10(1633)年35歳で病没し,嗣子がなかったため無嗣絶家で改易される.あとには京極忠高(1593-1637,高次の子.母は秀吉の側妾淀殿の妹で徳川秀忠の正室高台院の姉にあたる常高院,正室は徳川秀忠の4女)が若狭国小浜8万5千石から入り26万4000石を領するがこれまた後継ぎが無いまま寛永13年没して改易(なお弟の子高和が再興して播磨国龍野,ついで讃岐国丸亀で6万石を領して幕末に至る).わずか4年余りの治世であったが,地元の古伝では「若狭守さま」の業績は高い評価を受けていると聞く.
 その後には結城秀康の三男松平直政(1601-1666)が信濃国松本から移り,以後明治維新まで松平氏が出雲・隠岐18万6千石の藩主として幕末まで統治する.かの茶人大名松平不昧(治郷,1751-1818)は7代藩主.藩政改革と茶器散財との間で毀誉褒貶の激しい人物だが,彼の散財のおかげで観光都市松江は未だに食っていける(^^;)わけだし,そもそも「文化」とは不要不急と無駄の間から生まれるようなものだから,まあ「名君」だったのだろう(^^;).

 明治維新後,最後の藩主松平定安は松江城を島根県に譲渡,その後松江城は陸軍の管轄になるが広島鎮台は明治8(1875)年,松江城の建物を二束三文で売り飛ばし解体してしまう.そのとき天守閣の消滅を惜しんだ豪農勝部本右衛門,旧出雲藩士高城権八らが奔走し,落札代金180円と同額を国家に納めることでようやく天守閣の解体を免れることに成功する.明治23年,松江城は旧藩主松平家に払い下げられ,城地は「千鳥遊園」として公園化された.当時の県知事籠手田安定は「松江城旧観維持会」を設立して天守閣の修理に務めたが充分ではなく,天守閣はその後も破損が進み,ようやく昭和25年から30年にかけて「昭和の大修理」が実施され,現在見ることのできる美しい形を取り戻した.
 また,明治32年には二の丸に徳川家康,松平直政,松平不昧らを祭る松江神社が建立され,42年には島根県庁が旧三の丸に移転,昭和2年に松平家は城地および天守閣を松江市に寄付,9年に城址は国指定史跡になり,10年には天守閣が旧・国宝指定を受けている(昭和25年の指定変更により現在は国指定重要文化財).平成5年には「史跡松江城環境整備指針」が策定され,これに基づき平成12年に二の丸の櫓3棟と塀が復元されている


松江城の写真その1:本丸
松江城の写真その2:二の丸ほか

参考文献
 『日本城郭大系』 新人物往来社
 『日本名城図鑑』 西ヶ谷恭弘監修 理工学社 1993年12月初版
 『復元図譜日本の城』 西ヶ谷恭弘著 理工学社 1992年1月初版
 『日本の城原風景』(別冊歴史読本73号) 新人物往来社 1994年12月初版
 『名城の「天守」総覧』 西ヶ谷恭弘監修 日本城郭史研究会編著 学研 1994年6月初版
 『復元大系日本の城』 ぎょうせい
 『松江今昔』 松江市制施行110周年記念松江の歴史写真編纂委員会編 松江市 1999年11月初版
 『史跡松江城二之丸櫓復元』解説パンフレット

2002年6月22日作成
2004年6月20日移転・修正

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