城郭:福島県

2005.07.18

鴫山城(福島県南会津郡田島町)

 鴫山(しぎやま)城は,現在会津鉄道の会津田島駅から約1キロほどのところにある.会津田島駅を降り立つと,眼の前にトンガリ帽子のような山が見えるが,これが愛宕山(鴫山城址)である.山の麓には旧南会津郡役所などの旧跡や福島県南会津合同庁舎もあり,田島町が古くから街道筋の要所として栄えた町であることが理解できると思う.

 愛宕山の地に館を構えたのは,下野小山氏の流れをくむ長沼氏である.長沼城のところでも触れたように,長沼庶流の宗実(宗秀の庶子,秀行の弟)が正和3(1314)年頃に地頭職を贈与された会津南山長江庄(会津田島町)へ下向したことが知られる.その後,『塔寺八幡宮長帳』に鴫山城のことが初めて見える長禄2(1458)年頃までには,少なくとも現在愛宕神社がある愛宕山山頂の地に「詰の城」としての要害が築かれたと考えられる.ここには「岩座(いわくら)」と呼ばれる神域があり,古くは信仰の山であったと見てよいだろう.麓の居館址と見られる通称「侍屋敷」の最も古い遺構の下限が15世紀ということであるので,「応仁・文明の乱」の前夜には山上の要害・麓の居館という,いわゆる「根小屋式」の山城として成立していた可能性もある.

 長沼氏は蘆名・山内・河原田氏とともに「会津四家」と呼ばれた名門で,蘆名氏とは長く友好を保っていたが,16世紀に入ると蘆名氏が会津各地に勢力を伸張し始め,長沼氏は蘆名氏としばしば反目し兵火を交える間柄となる.盛秀から実国にわたって長沼氏は蘆名氏と抗争を続けるが結局,永禄4(1561)年実国が蘆名盛氏の軍門に降り,長沼氏は蘆名配下となる.
 長沼氏は戦乱の続く中,鴫山城を本拠として計画的な縄張りを打ち,山上と麓の郭群を連続したひとつながりの城郭として機能するように整備したと見られる.しかし,記録に拠れば鴫山城はしばしば落城したようで,必ずしも守りの堅い城郭では無かったようである.

 その後,天正17(1589)年磨上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると実国の子の盛秀(先の盛秀とは同名の別人)は伊達政宗の配下になり,政宗の山内氏,河原田氏討伐に従軍している.豊臣秀吉の奥州仕置きにより,政宗と共に南山の地を去り仙台に移っている.

 長沼氏が去った後の鴫山城は会津若松90万石の太守となった蒲生氏郷のあづかるところとなり,蒲生領の他の城郭同様,大規模な改修が施されいわゆる「織豊系城郭」の特徴(石垣を用いる,権威の象徴となる壮麗な建築を建てる,など)を備えた城郭として整備され,城代が置かれた.慶長3(1597)年に氏郷の子の秀行から上杉景勝に若松城主が代わると,鴫山城代も大国実頼(直江兼続の弟)に代わる.景勝は若松入城後,徳川家康に対抗するため神指城(会津若松市)の築城をはじめとする領内の城郭の整備に着手したと言われ,鴫山城もその過程で手を加えられたものと思われる.

 関が原の戦いの戦後処理で,若松には再び蒲生秀行が入り鴫山城は城代支配となる.寛永4(1627)年,秀行の子忠郷が病没して弟の忠知と入れ替わりに伊予松山から加藤嘉明が若松城主となって間も無く,鴫山城は廃城となる.島原の戦い(寛永16年)の後,徹底的な城割りが行われて鴫山城は長く埋もれてしまう.

 昭和50年代以降,鴫山城址は数度にわたる発掘調査により,その縄張りの変遷の概略などが明らかになる.昭和61年から63年にわたる大門付近の発掘調査により大門の石垣が復興され,城の威容をしのぶよすがとなっている.

鴫山城の写真(工事中)


参考文献
『田島町史』第5巻 田島町史編纂委員会編 田島町 1981年3月初版
『ふくしまの城』(歴春ふくしま文庫57) 鈴木啓著 歴史春秋社 2002年7月初版
『日本城郭大系』第3巻 新人物往来社 1981年2月初版
『戦国の城』下 西ヶ谷恭弘著 学習研究社 1992年12月初版

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2004.06.26

小浜城・宮森城(福島県岩代町)

 小浜城は現在の福島県岩代町の中心地区にある.始まりは詳らかではないが,戦国時代には塩松城主石橋氏の執事大内氏の居城であり,大内氏の下克上によって石橋氏が滅亡した後は安達地方の一方の雄として,伊達氏や田村氏とわたりあった城である.宮森城は小浜城の南約2キロのところにあり,小浜城と連携しながら街道筋の要衝として重きをなす.両城とも伊達政宗がしばし在城したことでも知られる.

 大内氏は諸伝に拠れば足利氏庶流とも,安達郡戸沢(東和町)の菊地氏姻族とも,周防大内氏の一族とも伝えられる.若狭国小浜(福井県)の住人で大崎氏(のちに宮城県北部を領有する奥州探題大崎氏の祖斯波家兼が若狭国守護だったことがある)に仕えていたが,のち石橋氏の家臣に転じて陸奥国安達郡に至り,当地に築城し旧地の名をとって小浜と称したという.遅くとも15世紀半ばには安達郡塩松地方にあって石橋氏の執事として活動していたものと考えられる.

 大内氏が三春城主田村氏に通じ,石橋氏を四本松城からから追って塩松地方の支配を確立するのが,おおよそ永禄末年(1568~69年ごろ)のことである.大内備前義綱が宮森城を,その子太郎左衛門定綱が小浜城,次子助右衛門親綱が安積郡片平城(郡山市),庶流の一族をその他要城に配置し支配を固めた.片平城は安積伊東氏の流れをくむ片平氏の居城であったが田村氏の攻撃を受け落城,田村氏から大内氏に与えられたものとされる.
 その後天正7年(1579)ごろまでは田村氏に従っていた大内氏だが,天正11年には田村から離反し,田村方の石川弾正が拠る百目木城(岩代町)を攻撃するも敗れ,一旦は二本松畠山義継,会津蘆名盛隆が調停する.翌天正12年には田村清顕が塩松領に侵攻するも十石畑(岩代町西新殿)合戦で大敗,さらにその後5度の合戦にことごとく破れ清顕の弟善九郎友顕までもが戦死,田村勢はほうほうの体で三春に退散した.大内定綱は田村氏と敵対する会津蘆名盛隆,常陸佐竹義重,岩城常隆,石川,白川などの諸氏と通じて田村氏と対峙した.

 天正12年冬,大内定綱は米沢城に参上し,家督を継いだばかりの伊達政宗に謁見,伊達につくことを約し,米沢で屋敷を賜り越年した.翌13年,一旦暇をもらって小浜に帰城した定綱は伊達に反旗を翻す.政宗は大内攻めを決断,刈松田城(飯野町)主青木修理を内応させ案内役を確保したのち,小手森城(東和町)攻めに着手する.天正13年閏8月,伊達勢は小手森城に放火してこれを抜き,城兵など800余人を皆殺しにする.政宗自身「女童は申すにおよばず,犬までなで切に成りせ候」と最上義光に書き送っている.小手森城とともに街道筋の要所であった築館(鍛冶山城),樵館も相次いで開城し,政宗は築館に入る.やがて田村領黒籠(郡山市)に移った政宗は岩角城(白沢村)攻めの構えを見せ,それを見た大内定綱は天正13年9月,蘆名氏を頼って会津に出奔,大内支城もことごとく開城し,ただひとつ残った針道城(東和町)も2日間の籠城の末,城主針道源太以下100余騎が城を枕に討ち死にし,塩松地方は政宗の手に帰した.なお,大内定綱・片平親綱兄弟は天正16年にいたって許されて伊達に帰参し,その子孫は仙台藩に仕えた.

 政宗は早速小浜城に入城し,政宗の父輝宗が宮森城に入り,大内氏と縁戚関係にあり今回の大内攻めでも大内定綱を援助した二本松城主畠山義継を攻撃するための準備をはじめた.義継は宮森城の輝宗を訪ねて政宗に扱いを入れ,その御礼に再度出向いた際,輝宗を拉致して二本松へ戻ろうとし,急を聞いてかけつけた政宗により輝宗ともども射殺される.二本松城攻めは越年し,政宗はその間小浜城に在城して二本松攻めの指揮を執った.二本松城が天正14年7月開城したのち,政宗は本拠の米沢に帰陣する.

 その後塩松地方は政宗の家臣白石宗実に与えられ,宗実は宮森城に入った.天正16年には百目木城の石川弾正が伊達に叛き,田村清顕急死後の三春にも相馬義胤が入城しようとするなど動揺が走るが,政宗は自ら大森城(福島市)まで出陣して采配を振るい,さらに宮森城まで出向いて塩松・三春の反伊達勢の一掃を計った.
 天正17年には蘆名氏,二階堂氏を相次いで滅ぼし,佐竹氏の勢力を駆逐して南奥羽の覇権をにぎった伊達政宗は,しかし豊臣秀吉の小田原後北條氏攻めとそれに続く奥州仕置により米沢を去り,塩松も白石宗実の手を離れて若松92万石の大名になった蒲生氏郷の支配下になる.氏郷は小浜城に蒲生忠右衛門を2万5千石で配した.氏郷死後,その子秀行に替わって上杉景勝が若松120万石に封ぜられると,塩松東城に山浦源吾景国が,塩松西城には市川左衛門尉房綱が配された.ここで言う塩松東城は小浜城,西城は宮森城を指すと思われる.さらに「関が原の戦い」の戦後処理で再び蒲生秀行が若松60万石に返り咲くと,塩松東・西の別を踏襲し東城には玉井貞右が,西城には外池信濃守がそれぞれ配された.恐らく元和の一国一城令(1615)にて廃城になったものと思われる.

 現在残る小浜城は,大内定綱退去ののち,伊達政宗や蒲生氏郷が改修を加えたものと思われる.主に阿武隈川東岸の街道筋をにらんでの城郭整備が行われたようだが,一曲輪に残る石垣には豊臣系大名の城郭に見られる鏡石と巻き積みが見られることからも,大規模な改修が蒲生氏郷によって行われたと考えていいだろう.ひとつの小高い丘陵の頂上を削平して尾根に掘割を築き一曲輪・二曲輪としている.北東側は急峻な崖になっており,西側にいくつか曲輪を配して守備を固める.一曲輪では昭和56年(1981)に発掘調査が行われ,伊達政宗在城時に使用されたと考えられる殿舎跡が出土している.瓦葺ではない,桧皮葺(?)の掘立建物ながら本格的な建築であったらしい.


小浜城の写真へ
宮森城の写真へ

参考文献
 『日本城郭大系』第3巻 新人物往来社
 『戦国の城』下 西ヶ谷恭弘著 学習研究社 1992年12月初版
 『岩代町史』第1巻 岩代町編集・発行 1989年初版
 『ふくしまの城』(歴春ふくしま文庫57) 鈴木啓著 歴史春秋社 2002年7月初版

2003年9月21日作成
2004年6月26日移転・修正

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四本松城(福島県岩代町)

 四本松(塩松,しおのまつ)城は現在の岩代町と東和町の町境付近にある,東へ伸びた丘陵の突端を利用して築かれた.四方を断崖や谷に囲まれた天険の要害である.丘陵の頂上を削平して曲輪(本丸)を造り,北・東・西の三方に堀切を設けている.本丸からの見晴らしはなかなかよい.東側の堀切の外側にある突端を利用して「東壇」と称する曲輪を置き,そこに物見櫓を設けていたらしい.

 四本松城の草創については「後三年の役」で戦功を立てた伴次郎助兼によるものと伝えられ,次いで鎌倉時代初期に信夫次郎秀行が四本松城に拠ったとされるが,古文書等の裏付けを欠き伝説の域を出ない.その後南北朝初期には石塔義房,次いで吉良貞家・満家が陸奥に下向した際四本松城を根拠としたとされるがこれまた史料の裏付けを欠く.
 やがて奥州総大将として貞治6(1367)年頃石橋棟義とその父和義が奥州に下向し,四本松城に拠ったらしい.石橋和義は足利氏一門,斯波氏と同じ足利家氏を祖とする有力な一族であり,足利義詮政権下で重職を担うも斯波高経と争って失脚の憂き目を見る.その後斯波高経も失脚したため,足利義詮が再度和義・棟義父子を起用したものらしい.
 さらに康応2(1390)年には宇都宮氏広(公綱もしくは氏綱の子とされる)が吉良満家に代わって塩松を領したという伝承もある.氏広は応永7(1400)年に奥州探題斯波(大崎)詮持に誅殺され,詮持がその跡を関東公方足利満兼から給付されるも,間もなくこれまた自害に追い込まれたとされる.この伝承は比較的信用できる史料にある記事だが,またしても裏付けに乏しいのでその真偽は不明である.

 石橋氏は四本松城や住吉山城(東和町)を根拠に塩松地方の国人領主化していき,その系図もよくわからなくなるが,室町中期から戦国初期にかけて石橋(塩松)治部大輔,石橋左近将監,石橋右兵衛佐祐義,石橋松寿などの名前が見える.このうち左近将監は満博(棟義の子,応永から正長頃活動か),治部大輔と右兵衛佐祐義はおそらく同一人物で系図に祐義とある人物(正長から嘉吉頃活動か),松寿は長禄4=寛正元(1460)年の足利義政御内書に現れる名前であり,文明14(1482)年木幡山弁天堂(東和町)建立の際の棟札に出る「源朝臣家博」がこれにあたると考えられ,系図では義衡とされる人物ではないかとされる.

 戦国時代後期に塩松に拠っていた石橋氏は尚義(久義,おそらくは足利義尚[1465-1489]の偏諱をうけたものか)で,伊達氏の内紛から南奥州を巻き込む大乱に発展した天文の乱(1542-1548)の際は当初稙宗方に付いたものの,のちに晴宗方に転じて乱の終結後晴宗から加増を受けている.その後良将でも名君でもなかったらしい尚義は家中の統率を急速に失い,その生前もしくは没後間もなく,小浜城(岩代町)主大内氏に塩松を追われて石橋氏は滅亡した.


四本松城の写真


参考文献
 『岩代町史』第1巻 福島県岩代町
 『日本城郭大系』第3巻 新人物往来社

2003年7月5日作成
2003年9月3日修正
2004年6月26日移転・修正

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棚倉城(福島県棚倉町)

 棚倉城は現在の福島県棚倉町にある平城である.現在でこそ棚倉町は人口1万6千人ほどの静かな山間の田舎町なので,棚倉城を訪れるひとはその壮大な規模に驚くかもしれない.石垣は一部にしか使用されていないが(しかも二の丸の一部),本丸の大規模な土塁と巨大な内堀はどうしてどうして,街道筋に築かれたこの城の重要度を物語っている.

 棚倉城は寛永元(1624)年より丹羽長重により築城が始まった.元々この地域の主城は現在の棚倉城から北西に1.5キロほどのところにあった赤館だが,長重は赤館に代えて都々古和気神社の地を選んで築城する.都々古和気神社を現在の地(棚倉町馬場)に移し,跡地に輪郭式の近世城郭を縄張りした.
 丹羽長重(1571-1637)は織田信長の宿老で安土城普請の奉行を務めた丹羽長秀(1535-1585)の子である.天正13(1585)年父の死により越前北の庄(現在の福井市)城主になるが,家中騒動の責任を取らされて豊臣秀吉に減封され,さらに慶長5(1600)年の「関が原の戦い」の際には徳川家康の嫌忌を蒙って改易されてしまう.その後徳川秀忠が家康にとりなして慶長8年には常陸古渡(茨城県江戸崎町)で1万石に復活,大坂の陣での功績が認められて1万石を加増され,元和8(1622)年に5万石で棚倉に転封される.
 恐らくは父の代からの城普請技術者の集団を抱えていたと思われ,のちに転封される小峰城(白河市)では見事な石垣を築いているが,棚倉城では石垣構築にふさわしい石材を調達できなかったのか,二の丸の一部を除いて大規模な土塁を構築した.東側が大手で西側は台地の断崖を利用している.本丸は横矢掛を備えた複雑な平面をもち,5つの二重櫓を上げその間を多聞櫓で連結した.二の丸土塁の上には白壁を廻らし,西側では石垣も構築して水戸街道からの見栄えにも配慮している.

 丹羽長重は棚倉城の完成を待たずして寛永4年,白河に転封されあとには内藤信照が5万石で入城する.その後は内藤氏3代→宝永2(1705)年太田資晴→享保13(1728)年松平武元→延享3(1746)年小笠原長恭,以降小笠原氏3代→文化14(1817)年井上正甫,以下井上氏2代→天保7(1836)年松平康爵,以降松平氏4代→慶応2(1866)年阿部正静とめまぐるしく藩主が交替した.棚倉は交通の要所とされていた割には,竹島事件(天保7年,密貿易が発覚して大量の処分者を出す)と仙石騒動(但馬国出石藩主仙石家の跡目相続をめぐる騒動)の責任を負わされて老中解任・永蟄居とされた浜田藩主松平康任の後継ぎ康爵のように,罪を得た譜代大名の左遷地のような使われ方をされていた.中には井上正甫のように民話のネタにされてしまった藩主もいる.

 幕末の戊辰戦争では,棚倉藩は奥羽越列藩同盟に組して白河口に出兵し,小峰城を守備するが敗退する.阿部正静の父正外(神奈川奉行,老中も務めた)以下300余の藩兵が守備していた棚倉城は慶応4(1867)年6月24日落城し,城には火が放たれた.
 明治維新後,棚倉藩は6万石に減封の上,正静の義理の叔父である正功が継ぎ廃藩置県を迎える.現在,棚倉城址は公園化されて図書館,公民館がある.

棚倉城の写真へ
棚倉城下の写真へ(工事中)

参考文献
 『棚倉町史』(棚倉町)
 『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社)

2003年6月7日作成
2004年6月26日移転・修正

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新山城(福島県双葉町)

 新山城(しんざんじょう)は現在のJR常磐線双葉駅の南方1キロほどのところにあった山城である.沢地を挟んで東西に並び立つふたつの小山を利用し,東側に方形の曲輪を,西側には長さ170メートルに及ぶ土塁を築いて守りを固めている.現在,間の沢地だったところには道路とJR常磐線が走っている.
 伝承に拠れば元弘元(1331)年に,当時標葉郡(しめはぐん)を支配していた標葉一族の標葉左衛門尉隆連という人物(標葉氏8代持隆の三男)が築城したという.

 標葉氏は岩城氏などとともに,平国香の次男繁盛の末にあたる海道小太郎成衡を始祖とする一族だが,長年敵対していた相馬氏によって明応元(1492)年ごろ滅亡に追い込まれたため,資料がほとんど残っておらず,その詳しい歴史はよくわからない.標葉氏の本拠は請戸城(大平山城,双葉郡浪江町)だったが,相馬氏に対抗するため標葉清隆(持隆の孫)は嘉吉年間(1441-1444)ごろに本城(もとじょう)館,ついで文安年間(1444-1449)に権現堂城(いずれも浪江町)を築いてそちらに移ったとされる.

 戦国の世になり,北の相馬氏,南の岩城氏が勢力を増すにつれて標葉氏や南隣の楢葉氏は次第に圧迫されるようになる.ついには楢葉氏が文明6(1474)年岩城氏の攻撃を受けて滅亡し,智仁勇を兼備していたと伝えられる清隆が老境に入って昔日の面影を失った標葉氏も前述のように明応元年ごろ相馬盛胤の攻撃を受け,標葉方には内応者も出る始末.あげくに清隆・隆成父子は自刃して標葉氏は滅亡した.

 新山城は隆連・隆重・隆豊の3代に渡って標葉支族の居城となったようだが,隆重は清隆と仲違いしたらしく,清隆に新山城を攻められて岩城氏を頼ったらしい.隆豊は標葉氏滅亡の際相馬に降り,藤橋村というところを与えられて藤橋出羽守胤平と称したという.その子孫が江戸時代に著した『東奥標葉記』は,標葉氏の事暦を現在に伝える.
相馬領となった新山城には城代が置かれたが,慶長11(1611)年ごろ廃城になった.


新山城の写真(工事中)

参考文献
 『双葉町史』第1巻,第3巻 双葉町史編さん委員会編,双葉町

2003年6月14日作成
2004年6月26日移転・修正

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大里牛が城(福島県天栄村)

 大里牛が城は,現在の福島県天栄村の東部にあった山城である.東側以外の三方を山地に囲まれた天険の要害にあたる地に,本丸・二の丸など曲輪を連ねている.東側は切り立った急斜面であり,攻めにくい.本丸は城の南東側の切り立った急斜面の上にある.
 築城の時期・築城者などは不明だが,戦国時代末期には須賀川二階堂氏の支族で矢田野城(長沼町)主の矢田野(箭田野)氏の配下であったらしい.二階堂氏が伊達政宗に降った後,大里牛が城は矢田野伊豆守義正から取り上げられて小島右衛門に与えられた.

 天正18(1590)年6月,伊達政宗は後北条氏の小田原城を包囲する豊臣秀吉の陣所に参陣する.その際,政宗の供御にあった矢田野義正は小田原から逐電し佐竹氏を頼り,同時に義正の弟善六郎が大里牛が城に拠って挙兵する.政宗は秀吉の会津下向前に牛が城を陥落させるべく,石川昭光らを差し向け牛が城を攻めるが容易に陥ちず,伊達成実,片倉重綱までも遣わして力攻めに出たもののそれでも陥とすことが出来ず,伊達勢は大損害を出す有様.ついには浅野長政の助言を政宗が受け入れ,伊達勢は大里の包囲を解き米沢に引き上げた.秀吉は矢田野安房守(義正? ある記録に拠れば義正は最初伊豆守,のちに安房守を名乗ったとされるが)宛に禁制を発給しているようで,政宗の大里攻めは私闘と取られかねない行動ではあったらしい.大里牛が城はこの籠城戦の後,放棄されたと思われる.

 その後,矢田野義正は大里を去って佐竹氏に仕え,佐竹氏の秋田転封に従って出羽国雄勝郡院内の城代となり59歳で死去した.


大里牛が城の写真(工事中)

参考文献
 『日本城郭大系』 第3巻 新人物往来社 1981年2月
 『長沼町史』 第2巻(資料編Ⅰ) 長沼町史編纂委員会編 長沼町 1996年3月
 『天栄村史』 第2巻(資料編1) 天栄村史編纂委員会編 天栄村 1986年3月

2003年5月11日作成
2003年5月12日一部改訂
2004年6月26日移転・修正

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長沼城(福島県長沼町)

 長沼城は会津から勢至堂峠を越えて須賀川に至る街道沿いの要衝に築かれた平山城である.古図に残された縄張りや現在見られる遺構は猪苗代城に似ており,若松に蒲生氏郷もしくは上杉景勝が入った際の大改修をうかがわせる.また,ごく近くに「長沼北古館(中館)」「長沼南古館(外端館)」と呼ばれる大規模な居館址が知られており,中世(南北朝期以降)は長沼城とともにこの2館が連携して平時・戦時それぞれの役割を果たしたものと考えられる.

 この長沼城に最初に拠ったのは,下野小山氏の一族長沼氏とする説がある.長沼氏は小山朝政(1155-1238)の弟で,同様に有力な鎌倉御家人であった長沼宗政(1162-1240)の子孫である.その本拠地は下野国長沼庄(栃木県二宮町)だったが,宗政の功により下野国御厨別当職,摂津・淡路国守護職をはじめ陸奥・武蔵・美濃・美作・備後などに地頭職を鎌倉幕府から給付されている.南北朝期の観応3(1352)年に総領の長沼秀直が陸奥国に下向し,この地に本拠を移したという後世の文献がある.
 ところがこれは,長沼庶流の宗実(宗秀の庶子,秀行の弟)が正和3(1314)年頃に地頭職を贈与された会津南山長江庄(会津田島町)へ移ったことを,長沼氏総領家の長沼への下向と誤って解釈したものらしい.「長沼」の地名もまた,長沼氏にちなむものではなく,地内にあった「長沼」という沼に基づくものというのが正しいようである.
 他の伝承では,長沼城は応永年間の築城にかかり,天文10(1541)年蘆名盛舜・盛氏父子により修築されたとされる.また,天文14年新国(にっくに)頼基の築城とする伝承もある.
 なお,会津南山長江庄に移った長沼氏庶流はその後蘆名氏に従い,蘆名滅亡後は伊達氏に仕えて伊達政宗の仙台移封とともに会津を去っている.

 長沼城が歴史に姿を見せるのは,永禄8(1565)年に蘆名氏が長沼城を攻撃した頃からであろうか.このとき長沼城は,須賀川城に拠る二階堂盛義の支配下にあり,城代須田氏がいた.このときの攻防は蘆名に利あらず,多数の戦死者を出して兵を引いている.翌永禄9年,二階堂盛義が蘆名盛氏に降ると長沼城には蘆名氏家臣の新国上総介貞通が入る.これ以後,長沼城は蘆名支城として機能する.天正4(1576)年には佐竹義重・田村清顕の連合軍が長沼城を攻撃するがよく保ちこたえた.
 天正17年6月,蘆名義広が摺上原で敗北し蘆名氏が滅亡すると新国貞通は伊達政宗に降り本領を安堵される.一説には,伊達勢が長沼城に火矢を用いて攻撃し,攻め落としたとも言われる.天正18年には豊臣秀吉が小田原北条氏降伏後,「奥州仕置」のため奥羽に乗り込んでくる.その際長沼城に宿泊し新国貞通を引見,その武勇を愛でて本領を安堵したとの逸話が伝えられている.結局のところ,新国貞通は伊達政宗に従って長沼城を去り,長沼城は若松城主蒲生氏郷の配下になる.氏郷は蒲生郷安,次いで蒲生郷貞を城代として置いた.文禄4(1595)年氏郷が死去し息子秀行が後を継ぐと,秀吉は浅野長政・幸長父子に命じ蒲生領の城郭の内,7城を除く城郭を悉く破却したが,長沼城がどの程度破却されたかはよくわからない.
 慶長3(1598)年1月,蒲生秀行に代わって上杉景勝が若松に移封されると長沼城には信濃長沼城から嶋津淡路守忠直が城代になる.慶長5年,徳川家康の上杉攻めを受けて上杉配下の城郭はそれぞれ改修されたようだが,長沼城の最終的な状態はこのとき整備されたと見られる.「関が原の戦い」の後始末で上杉景勝が会津を追われると,若松には再度蒲生秀行が入り,長沼城には蒲生郷治が城代として置かれた.元和の一国一城令で廃城になったと思われる.

 長沼城の縄張りは,標高367.8mの山頂に本丸を置き,周囲に郭を配したもので,北と東に出入り口を置く.元来は東側の坂下門が大手だったようだが,蒲生氏郷の修築で北の半坂門が大手に変更されたものか.また城下に三重の堀をめぐらし,小規模ながら惣構の様相を呈しているのは,蒲生および上杉による修造であろう.南帯郭には国境の守護神としての愛宕堂や武士の護り本尊としての麻利支天石を祭り,国境の護りの城郭としての性格を色濃く示していた.


長沼城の写真へ

参考文献
 『長沼町史』 第2巻(資料編Ⅰ) 長沼町史編纂委員会編 長沼町 1996年3月
 『日本城郭大系』第3巻 新人物往来社 1981年2月
 『ふくしまの城』(歴春ふくしま文庫57) 鈴木啓著 歴史春秋社 2002年7月
 「長沼氏の奥州下向説」 高橋明(「福大史学」59号)

2003年4月20日作成
2004年6月26日移転・修正

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猪苗代城(福島県猪苗代町)

 猪苗代城は中世領主猪苗代氏の居城として築城され,豊臣秀吉の奥州仕置以降も若松城(鶴ヶ城)の支城として明治維新まで存続した.別名を「亀ヶ城」と言うが,若松城を「鶴ヶ城」と呼ぶのに応じているものと思われる.

 猪苗代氏は鎌倉幕府関東御家人の有力者三浦一族の流れをくむとされる.三浦泰村が宝治元(1247)年,北條時頼に攻め滅ぼされた(いわゆる「宝治合戦」)の際,一族で佐原十郎義連(三浦義澄の弟)の孫にあたる佐原光盛・盛時・時連の3兄弟は三浦泰村に味方せず北條方に付き,合戦終結後それぞれ現在の会津盆地(会津盆地は北條得宗家領になる)に地頭代(このような立場は「得宗被官」とは言わないのかな?)として下向,やがて土着したらしい.佐原光盛の子孫はその後黒川城(のち若松城,会津若松市)に拠って蘆名氏を称し,やがて戦国大名となり一時は会津から現在の福島県中通り南部にわたる範囲を制圧するにいたる.
 猪苗代氏はこの佐原兄弟の兄にあたる大炊助(長門守)経連を祖とする,と諸系図は伝える.猪苗代城は経連が建久2(1191)年に築城したと伝えられているが,信を置くことはできない.猪苗代氏が築城したとすれば,早くても宝治合戦ののち,佐原一族が会津に下向してからのことであろうか.

 鎌倉幕府滅亡後,得宗被官だった(?)会津佐原一族はそれぞれ独立した勢力になっていくが,猪苗代氏では盛通(その妻平氏),あるいは盛親(盛通の子か)という人物が南北朝期に活動しているのが知られる.応永11(1404)年に安積郡を中心とする大小の国人領主が篠川・稲村両御所の働きかけにより結んだとされる傘連判状の一揆契約(仙道一揆)に「猪苗代参河守盛親」の名が見える.
 応永9(1402)年,猪苗代氏と同じ佐原一族の北田城(福島県湯川村)主北田氏・新宮城(喜多方市)主新宮氏が蘆名氏に叛くが相次いで破れ滅亡する.猪苗代氏は蘆名氏の圧迫を受けながらからくも独立を保ち,あまつさえ猪苗代盛光は享徳2(1453)年には蘆名家中の反乱を支援し,寛正5(1464)年には蘆名盛詮を黒川城に攻撃している.
 なおこの頃,猪苗代氏の一族から『新撰莬玖波集』の選者のひとりで,連歌・和歌に秀でた歌人猪苗代兼載(1452-1510)が出ている.
 その後も猪苗代氏は猪苗代城を修復するなどして蘆名氏に抵抗を続ける.しかし蘆名盛滋-盛舜-盛氏と蘆名氏の勢力が増進し戦国大名化していくと次第に劣勢に立たされ,天文16(1547)年蘆名盛氏が猪苗代氏を破った戦闘を最後に,猪苗代氏の抵抗は止む.猪苗代氏は蘆名にある程度臣従したようで,天文20年には猪苗代平太郎の元服に際して蘆名盛氏が偏諱を与え盛国と名乗らせている.

 蘆名盛氏は戦国大名蘆名氏の全盛期を現出した名将だったが,その死(天正8[1580]年)後,蘆名氏の勢力は当主の相次ぐ夭逝もあって急速に衰える.猪苗代盛国は会津侵攻を目論む伊達政宗に内応して家を保とうとしたが,盛国の嗣子盛胤はあくまで蘆名氏に付き家中は分裂する.一度は隠居した盛国は,天正16年隙を衝いて猪苗代城を乗っ取り,盛胤を追放した.
 天正17年6月,伊達政宗は会津に侵攻し,大森城(福島県福島市)・本宮城(福島県本宮町)などを経て猪苗代城に入る.このとき猪苗代城には本丸書院,本丸塀および本丸櫓が存在したらしいことが伊達氏の記録『貞山公治家記録』に見える.6月5日伊達・蘆名の軍勢は磐梯山の麓の摺上原(すりあげはら)で激突し,軍略に勝る伊達勢が大勝する.蘆名氏の当主義広(佐竹義宣の弟で白川氏,次いで蘆名氏に養子に入る)は黒川から常陸に逃亡し蘆名氏は滅亡した.
 猪苗代盛国は蘆名氏滅亡後も猪苗代城に拠ったが,伊達政宗が豊臣秀吉の奥州仕置に従い会津・仙道(現在の福島県中通り地方)地域を手放した際,政宗に従って猪苗代を去り,伊達家臣となって一生を終える.跡は次男宗国が継ぎ代々伊達家臣として明治維新に至る.あくまで蘆名方に付いた盛胤は内野村(猪苗代町内野)に隠棲し生涯を終えた.

 伊達政宗に替わり会津・仙道90万石を領した蒲生氏郷は猪苗代城に城代を置く.以後,猪苗代城は会津領における街道筋の要衝として,元和の一国一城令で他の城郭が破却された後も存続し,会津に封じられた領主~蒲生氏郷,秀行→上杉景勝→蒲生秀行,忠郷→加藤嘉明,明成→保科正之(以後会津松平家)~により城代が置かれ,明治維新を迎える.保科正之は猪苗代の風光を愛で,ここにあった磐椅神社の末社として自らを葬るように遺言した.そこでその死後,正之の墓所として土津(はにつ)神社が建立される(正之の諡号は〈土津霊神〉).
 戊辰戦争の際は会津方の拠点として城代以下籠城したが,慶応4(1868)年8月21日,官軍が中山峠を攻めると見せかけて母成峠に来襲し翌日これを抜いたとの知らせに,城代高橋権太夫は土津神社および猪苗代城に火を放ち,土津神社のご神体を奉じて若松に退去する.

 猪苗代城の立地は,元は土津神社のある見祢山からなだらかにつらなる尾根の末端にあたる.その北側を大規模な堀切で切断し,中世山城とした.猪苗代氏が去って蒲生氏郷領になった後大改修が行われ,元の山城を本丸にし東側に郭を展開した平山城とされた.本丸となった山城の縄張りにはあまり変更が加えられていないようだが,二の丸から本丸に登る大手口には石垣が用いられ,遺構から判断して若松城鉄門に匹敵する規模の櫓門があげられていたと見られる.元の山城である本丸には書院と茶室,土蔵,塩蔵が設けられていたらしいが,建築物については猪苗代盛国在城当時からのものを蒲生以後も利用したのかどうかも含めて,管見の限りでは資料を見ない.
 現在は県指定史跡となり,石垣や壮大な掘割が残存する.


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参考文献
 『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社/1981年2月初版)
 『ふくしまの城』(鈴木啓著/歴春ふくしま文庫57/歴史春秋社/2002年7月初版)
 『戦国の南奥州』(小林清治著/歴春ふくしま文庫55/歴史春秋社/2003年2月初版)
 『奥羽越列藩同盟』(星亮一著/中公新書1235/中央公論社/1995年3月初版)
 『猪苗代町史』歴史編(猪苗代町史編さん委員会編/猪苗代町史出版委員会/1982年1月初版)

2003年2月20日作成
2004年6月26日移転・修正

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2004.06.20

向羽黒山城(岩崎城,福島県会津本郷町)

 向羽黒山(むかいはぐろやま)城は地元で「白鳳三山」と呼ばれる観音山・羽黒山・岩崎山を利用して築かれた,国史跡指定分だけでも50万平米に及ぶ,壮大な規模の山城である.南東北の名将蘆名盛氏(1521-1580)が家督を嗣子盛興(1549-1574)に譲って隠居する際,隠居城として永禄4(1561)年起工し永禄11年に完成したと伝えられる.

 これより先,守護大名→戦国大名蘆名氏の政庁は現在の若松城(鶴ヶ城)の地にあった黒川城(黒川館)であり,平野の真ん中にある黒川城の「詰の城」として南方5.5キロにある白鳳三山に何らかの中世城郭施設があったものと考えられよう.蘆名盛氏は隠居城と称して恐らく小規模な山城(現在の〈一曲輪〉程度?)だった原・向羽黒山城に大改修を加えて南方の諸勢力(長沼,二階堂,田村,白川などか?)に対する備えともしたのではないだろうか? 盛氏は隠居して止々斎と称したが,その後も相変わらず蘆名家の実権を掌握していたようで(年齢的に考えても当然ではあるが),向羽黒山城には家臣団屋敷群や城下町も形成され,黒川城の蘆名本家とは別個に盛氏家が形成されたような印象さえ受ける.当時の向羽黒山城については,戦国時代の城郭には珍しく,城下常勝寺の僧覚成による城を詠った「巖館銘」なる詩文が現存しており,文学的な表現ながら城郭の威容を伝えるものとして貴重な情報を残している.また,盛氏は当代一流の文化人でもあったらしく,禅僧や医師との交流が伝えられている.中でも画僧雪村との交流が知られており,向羽黒山城の盛氏屋敷では雪村とその弟子達が襖絵,障子絵,屏風などを描いたと伝えられる.

 しかし,蘆名盛興は父に先立ち天正2(1574)年死去してしまい,盛氏は再度黒川城に入って蘆名氏の体制建て直しに奔走することになり,天正3年には向羽黒山城は廃城になったと伝えられていた.しかし最新の研究では,現在見られる遺構の中に蒲生氏郷または上杉景勝の若松在城時に改修されたものがあるらしいことを明らかにしており,向羽黒山城は少なくとも上杉景勝の米沢転封(慶長5年)までは城郭の機能を存続させていたものと考えられるようになっている.元和の一国一城令(1615年)まで存続していたかもしれない.

 城は岩崎山山頂より北方の麓へ一曲輪(実城),二曲輪(中城),伝盛氏隠居所(北曲輪)と連なる3つの大きな曲輪とその周囲を取り巻く数重もの小さな曲輪群から構成される.岩崎山の南側は断崖絶壁になっておりすぐ下を阿賀川が流れている.西側の谷地に三日町口,東側の平野部には隠居所への十日町口,二曲輪への六日町口がそれぞれ開いているが,最大の虎口が設けられ,道の途中に幾重もの小曲輪が連なり恐らくは家臣団屋敷群がしつらえてあったと考えられる西側の三日町口が大手であったと見られている.二曲輪では石垣が用いられていること,礎石建物が存在したことが発掘で確認されていることなどにより,蒲生氏郷領の頃には二曲輪が城の中枢であったと思われる.伝盛氏隠居所は一曲輪・二曲輪より古風な築城手法で整備されているようであり,蘆名盛氏在城時の遺構を留めている可能性もある.

 向羽黒山城は平成13(2001)年,国指定史跡になり今後の調査・整備が待たれるところである.


向羽黒山城の写真

参考文献
 『日本城郭大系』 新人物往来社
 『ふくしまの城』(歴春ふくしま文庫57) 鈴木啓著 歴史春秋社 2002年7月初版
 『戦国の城:下(中部・東北編)』(歴史群像DX3) 西ヶ谷恭弘著 学習研究社 1992年12月初版
 『会津若松城』 (歴史群像名城シリーズ15) 学習研究社 1997年11月初版
 「向羽黒山城跡ふれあい茶会 城跡探訪資料」 平成14年6月2日配布

2002年10月17日作成
2004年6月20日移転・修正

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大森城(福島県福島市)

 大森城は現在の福島市郊外南西部にある独立した丘陵に築かれた山城である.すぐ傍を旧米沢街道が通り,城下の北側で旧会津街道と交差する交通の要所にあたり,北方には信達地方の平地が一望できる.『信達一統志』には「永禄天正の間は信達の府と定め四民融通せし所なり」(『日本城郭大系』大森城の項からの孫引き)と記述された.街道筋の一部には現在も風情ある街並みが残る.丘陵は現在〈城山〉(じょうやま)と呼ばれているが,大森城が築かれた頃は〈鷹峰山〉と呼ばれていたらしい.また臥牛城,白鳥城などの別名を持つ.

 周辺には縄文時代から平安時代にかけての遺跡が点在し,大森城の周辺一帯は『和名抄』に記載がある〈陸奥国信夫郡小倉郷〉であろうと推定されている.丘陵の中腹に大森城山古墳と現在呼ばれる古墳が出土し,また正嘉2(1258)年,文永10(1273)年銘のものをはじめとする供養碑が現存しており,伊達氏による戦国期山城築城以前に何らかの宗教的施設が存在したらしい.後述する木村吉清の杉妻城(福島城)移転(文禄元[1592]年)の際,大森城下にあった寺院(城山中腹にあったと伝えられる普門寺や,誓願寺,定光寺など)が福島城下に移されており,その中のいくつかは伊達氏在城より古い時期からこの地にあったと考えられようか.なお,現在も城山中腹は墓地として利用されている箇所が残る.

 この地に本格的に城郭を築いたのは桑折西山城(福島県桑折町)に本拠を置いていた伊達稙宗(1488-1565)で,天文11(1543)年頃のことらしい.恐らくは南方(畠山氏,石川氏,小峰氏,白川氏など)への備えであった.稙宗は三男の藤五郎実元(1526-1586)を城主として大森城に入れたが,この実元の越後守護上杉氏への養子縁組をめぐり稙宗と嫡子晴宗の間に「天文の乱」(天文11年~17年)が勃発し,実元は稙宗方で活躍する.
 稙宗・晴宗父子の和解が成立すると,実元は新たに大森城主になった遠藤隠岐守および八丁目城(福島市松川町)城主堀越能登守の客分とされたが,大森城の旧家臣らの支持で(?)ほどなく大森城主に返り咲く.そのためか八丁目城の堀越能登守が伊達に反して二本松城主畠山義継に通じると,実元は八丁目城を攻めて天正2(1574)年これを抜く.実元は畠山義継と講和する一方,二本松から相馬へ逃亡した堀越を追って天正5年には相馬盛胤を破り,伊達家中における地位もゆるぎないものとなっていく.この時期大森城は,米沢城(山形県米沢市)に本拠を移した伊達氏の信達地方南部における重要な拠点となった.
 天正13年,実元は嫡子成実(1568-1646)に跡目を譲って八丁目城に隠居した.成実は大河ドラマでも描かれたように,独眼龍政宗の側近として片倉景綱とともに活躍した人物である.翌14年二本松城が落城すると成実は二本松城主となり,代わって片倉景綱が大森城主になる.大森城はその後も会津蘆名氏,須賀川二階堂氏攻略の前進基地として機能する.

 天正19年政宗が大崎・葛西旧領に転封となると,信達地方は会津黒川改め若松城主になった蒲生氏郷の支配するところとなり,大森城には木村吉清が入る.木村吉清は豊臣秀吉により大崎・葛西旧領に封じられていたが,大崎・葛西一揆の責を負って改易され氏郷の客分となっていたもの.その後吉清は文禄元(1592)年もしくは2年に居城を杉目城(改名して福島城)に移り,城下町も移転させて大森城を廃城とした.
 慶長3(1598)年,蒲生秀行(氏郷の子)が下野国宇都宮に転封となり,上杉景勝が若松に入ると大森城は復活し,栗田刑部少輔国時が城代として入城する.栗田は慶長5年関が原の戦いの際,家康方に内通して出奔したが途中で討たれる.関が原の戦いの後,上杉景勝は若松120万石から米沢30万石に移されるが信達地方は引き続き上杉領として残り,大森城には小峰城(福島県白河市)城代であった芋川越前守正親が城代となる.以後芋川氏が正親,元親(?-1634),綱親(?-1643),高親(?-1680)と4代64年にわたって城代として在城したが,寛文4(1664)年上杉綱勝が急死して米沢藩が存続と引き換えに15万石に減封された際,信達地方が幕領となったため芋川高親は米沢に退去,大森城は廃城となる.

 その後城址の麓に芋川氏の菩提寺だった華屋山常栄寺があったが明治11(1878)年廃寺になり,城址には〈城山観音堂〉と芋川3代の墓石などが残された.現在では公園として整備されているが,城址としての面影には少々乏しい(^^;).

 大森城は城下町に通じる北東側を大手(北御手)とし,北から北館(二の丸),主郭(本丸),椿館(帯郭),南館(出丸,ひめごてん)と曲輪が並び,城山の最も高所に主郭が置かれた.西側が搦手で〈城裏口〉という地名が残る.なお,本丸東側にある,発見地から移動・復元された大森城山東1号墳の現在地が大手口とも言われている.ここからは〈馬場〉あるいは〈北内町〉などの地名の残る,伊達氏家臣団の屋敷があったと言われるところに直線的に降りることができるようだ.明治の地籍図では城下町の「総構え」らしい痕跡も認められるという.大森城は並列的な曲輪構成という戦国時代天文期の山城の特徴を遺構に残すが,一方で「総構え」の存在は織豊期に見られる特色であり,上杉領時代の城下町整備を推測できる.恐らく芋川氏が城代になってからは,山上の曲輪は行政的な機能を喪失していたのではあるまいか.


参考文献
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『大森城跡・大鳥城跡2』(福島市教育委員会/福島市埋蔵文化財報告書第78集/福島市/1995年3月初版):特に本書所収の「附編1 大森城の構成」(千田嘉博執筆)に本稿の縄張り解説は多くを負っています
 『大森城の歴史』(守山清編・発行/1993年初版)


大森城の写真

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