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2005.07.18

鴫山城(福島県南会津郡田島町)

 鴫山(しぎやま)城は,現在会津鉄道の会津田島駅から約1キロほどのところにある.会津田島駅を降り立つと,眼の前にトンガリ帽子のような山が見えるが,これが愛宕山(鴫山城址)である.山の麓には旧南会津郡役所などの旧跡や福島県南会津合同庁舎もあり,田島町が古くから街道筋の要所として栄えた町であることが理解できると思う.

 愛宕山の地に館を構えたのは,下野小山氏の流れをくむ長沼氏である.長沼城のところでも触れたように,長沼庶流の宗実(宗秀の庶子,秀行の弟)が正和3(1314)年頃に地頭職を贈与された会津南山長江庄(会津田島町)へ下向したことが知られる.その後,『塔寺八幡宮長帳』に鴫山城のことが初めて見える長禄2(1458)年頃までには,少なくとも現在愛宕神社がある愛宕山山頂の地に「詰の城」としての要害が築かれたと考えられる.ここには「岩座(いわくら)」と呼ばれる神域があり,古くは信仰の山であったと見てよいだろう.麓の居館址と見られる通称「侍屋敷」の最も古い遺構の下限が15世紀ということであるので,「応仁・文明の乱」の前夜には山上の要害・麓の居館という,いわゆる「根小屋式」の山城として成立していた可能性もある.

 長沼氏は蘆名・山内・河原田氏とともに「会津四家」と呼ばれた名門で,蘆名氏とは長く友好を保っていたが,16世紀に入ると蘆名氏が会津各地に勢力を伸張し始め,長沼氏は蘆名氏としばしば反目し兵火を交える間柄となる.盛秀から実国にわたって長沼氏は蘆名氏と抗争を続けるが結局,永禄4(1561)年実国が蘆名盛氏の軍門に降り,長沼氏は蘆名配下となる.
 長沼氏は戦乱の続く中,鴫山城を本拠として計画的な縄張りを打ち,山上と麓の郭群を連続したひとつながりの城郭として機能するように整備したと見られる.しかし,記録に拠れば鴫山城はしばしば落城したようで,必ずしも守りの堅い城郭では無かったようである.

 その後,天正17(1589)年磨上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると実国の子の盛秀(先の盛秀とは同名の別人)は伊達政宗の配下になり,政宗の山内氏,河原田氏討伐に従軍している.豊臣秀吉の奥州仕置きにより,政宗と共に南山の地を去り仙台に移っている.

 長沼氏が去った後の鴫山城は会津若松90万石の太守となった蒲生氏郷のあづかるところとなり,蒲生領の他の城郭同様,大規模な改修が施されいわゆる「織豊系城郭」の特徴(石垣を用いる,権威の象徴となる壮麗な建築を建てる,など)を備えた城郭として整備され,城代が置かれた.慶長3(1597)年に氏郷の子の秀行から上杉景勝に若松城主が代わると,鴫山城代も大国実頼(直江兼続の弟)に代わる.景勝は若松入城後,徳川家康に対抗するため神指城(会津若松市)の築城をはじめとする領内の城郭の整備に着手したと言われ,鴫山城もその過程で手を加えられたものと思われる.

 関が原の戦いの戦後処理で,若松には再び蒲生秀行が入り鴫山城は城代支配となる.寛永4(1627)年,秀行の子忠郷が病没して弟の忠知と入れ替わりに伊予松山から加藤嘉明が若松城主となって間も無く,鴫山城は廃城となる.島原の戦い(寛永16年)の後,徹底的な城割りが行われて鴫山城は長く埋もれてしまう.

 昭和50年代以降,鴫山城址は数度にわたる発掘調査により,その縄張りの変遷の概略などが明らかになる.昭和61年から63年にわたる大門付近の発掘調査により大門の石垣が復興され,城の威容をしのぶよすがとなっている.

鴫山城の写真(工事中)


参考文献
『田島町史』第5巻 田島町史編纂委員会編 田島町 1981年3月初版
『ふくしまの城』(歴春ふくしま文庫57) 鈴木啓著 歴史春秋社 2002年7月初版
『日本城郭大系』第3巻 新人物往来社 1981年2月初版
『戦国の城』下 西ヶ谷恭弘著 学習研究社 1992年12月初版

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