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2004.06.19

関城(茨城県関城町)・大宝城(茨城県下妻市)

 関城・大宝(だいほう)城は南北朝期,南朝方の拠点として活動したことで知られる.明治末期までここには大宝沼という大きな沼が残っていたが,関城は大宝沼の北部,大宝城は沼の南部に位置する半島状の地を利用して築かれた.
 関城は下総結城氏の二代目結城朝広の子三郎朝泰が関荘の地頭になって関氏を名乗り,その拠点として築城したとされる.大宝沼に三方を囲まれた半島状の突端に半径500メートルほどの主郭と,数重に築かれた堀・土塁から構成され,主郭の土塁・堀は現在も確認できる.構成については関城町のホームページわかりやすい図面が掲載されている.ちなみに関城町のホームページには他にも丁寧な関城址の説明攻防戦の解説がある.これはこの界隈の古城では珍しいことで,いかに町名の由来になった国指定史跡とは言え,城好きには大変ありがたいことである.
 大宝城は下妻修理権亮長政(下野小山氏,朝政の孫で朝長の子,長村の兄弟)が貞永元(1232)年,ここに拠点を構えたとされる.大宝沼の南部に突き出した南北1.5キロ,東西500メートルほどの土地を利用して築かれ,南側には大規模な二重の土塁が現在も残る.主郭には現在大宝元(701)年創建と伝えられる大宝八幡宮が鎮座する.主郭の三方は大宝沼に囲まれていたが,大正時代に干拓されてしまい沼は消滅しているものの,現在も切り立った崖になっている.
 関城・大宝城とも南朝方の史蹟ということで昭和9年に国指定史跡になっている.

 南北朝期,関東・東北の南朝方へのてこ入れとして,後醍醐院の子義良・宗良親王を奉じた北畠親房・顕信父子や結城宗広らが延元3・暦応元(1338)年9月に伊勢国を出帆した.ところが台風シーズンの折りであり,たちまちのうちに暴風雨に巻き込まれ船団はばらばらになってしまい,結城宗広,義良親王らは伊勢に吹き戻され宗広は間もなく病没,義良親王は吉野に戻る.宗良親王は遠江に流れ着き,のち信濃国で南朝勢力の挽回に務めることになる.親房・顕信父子はようようのことで常陸国東条浦(霞ヶ浦の南端,現在の茨城県桜川村付近)に辿り着き,親房は常陸で,顕信は南陸奥でそれぞれ南朝勢力の建て直しに奔走する.

 当時の下総・常陸方面では北朝方の佐竹・結城・大椽・鹿島などに対し,小田・伊達・関などが南朝方として活動している.親房は当初神宮寺城(桜川村)・阿波崎城(茨城県東村)に拠るが鹿島勢に追われ,小田治久(高知)が拠る小田城(つくば市・国史跡)に入り,関宗祐の関城,下妻政泰の大宝城・中御門実寛の駒城(下妻市,駒館・駒館城とも.鬼怒川を挟んで北朝方結城一族の山川氏が拠る山川城[結城市]と対峙していた)などと連携して南朝の勢力回復をはかる.しかし,延元4・暦応2(1339)年10月には高師冬を総大将とする大軍が派兵され,北朝方の猛攻が始まる.親房は小田城に興良親王(護良親王の子),春日顕国(のち顕時.親房の子という説もあるが,『国史大事典』によれば村上源氏顕行の子とするのが有力な説)を迎える一方,去就を明確にしない陸奥白河の結城親朝(宗広の子,建武新政期の京で後醍醐院の近臣として活動し〈三木一草〉のひとりと謳われた結城親光の兄)を南朝方に翻意させるべく説得を重ねている(この結城親朝というひとは余程几帳面だったのか,親房や北朝方から寄せられた書状を丁寧に保存していたようで,それが現在でも各種の「結城文書」として伝来し,南北朝期の貴重な資料になっている).さらには遠く後醍醐院の死を聞き,その後継者たる後村上院(義良親王)に南朝の正当性を教え諭すため,『神皇正統記』を書き始める.

 興国元・暦応3年5月には駒城が一度陥落するも翌日奪回に成功する.高師冬はひとまず撤退し古河から瓜連城(茨城県瓜連町)へ移って態勢を立て直し,翌興国2・暦応4年6月小田城攻撃を再開する.戦局は南朝方に利あらず,同年11月までには駒城が陥落,11月には小田城が開城し小田治久は北朝に降る.親房,興良親王,顕国らは開城直前に小田城を脱出し,親房は関城に,興良親王,顕国は大宝城に入る.関城は城主関宗祐・宗政父子以下わずか300の兵での籠城と伝えられるがよく持ちこたえ,親房はしきりに結城親朝に書状を送り南朝方への勧誘を続けた.

 興国3・康永元(1342)年正月には関城・大宝城間の連絡が絶たれ,翌年ついに結城親朝が旗幟を明らかにし北朝方に付くに及んで関城・大宝城は完全に孤立する.不利な戦局の中,春日顕国はしばしば大宝城の囲みを破って関城救援に赴いたり,結城親朝に書状を送って翻意を促したりという努力を続け,関城でも北朝方をしばしば撃破し,北朝方の結城直朝(下総結城氏,朝祐の子)を討ち取る戦果も上げたが,如何せん兵糧が底を尽く.ついに興国4・康永2年11月11日,北朝方の総攻撃を受け関城・大宝城ともに落城し,関宗祐・宗政父子,下妻政泰らは城を枕に討死する.興良親王・北畠親房・春日顕国は落城直前に脱出し,親房は関東での活動を断念し吉野に戻った.春日顕国は逃れて密かに南朝方を糾合し,翌年3月7日に大宝城の一時奪回に成功するが翌日北朝方の攻撃を受け再度落城,顕国は捕らえられて切られ,京都六条川原に首をさらされるという最期を遂げる.


参考文献
『日本城郭大系』第4巻(新人物往来社)
『国史大事典』(吉川弘文館)
『図説茨城県の歴史』(河出書房新社/1995年11月初版)
関城町ホームページ


関城・大宝城の写真へ

2002年2月22日  
2002年5月29日一部改訂
2004年6月19日移転・修正

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