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2004.06.26

四本松城(福島県岩代町)

 四本松(塩松,しおのまつ)城は現在の岩代町と東和町の町境付近にある,東へ伸びた丘陵の突端を利用して築かれた.四方を断崖や谷に囲まれた天険の要害である.丘陵の頂上を削平して曲輪(本丸)を造り,北・東・西の三方に堀切を設けている.本丸からの見晴らしはなかなかよい.東側の堀切の外側にある突端を利用して「東壇」と称する曲輪を置き,そこに物見櫓を設けていたらしい.

 四本松城の草創については「後三年の役」で戦功を立てた伴次郎助兼によるものと伝えられ,次いで鎌倉時代初期に信夫次郎秀行が四本松城に拠ったとされるが,古文書等の裏付けを欠き伝説の域を出ない.その後南北朝初期には石塔義房,次いで吉良貞家・満家が陸奥に下向した際四本松城を根拠としたとされるがこれまた史料の裏付けを欠く.
 やがて奥州総大将として貞治6(1367)年頃石橋棟義とその父和義が奥州に下向し,四本松城に拠ったらしい.石橋和義は足利氏一門,斯波氏と同じ足利家氏を祖とする有力な一族であり,足利義詮政権下で重職を担うも斯波高経と争って失脚の憂き目を見る.その後斯波高経も失脚したため,足利義詮が再度和義・棟義父子を起用したものらしい.
 さらに康応2(1390)年には宇都宮氏広(公綱もしくは氏綱の子とされる)が吉良満家に代わって塩松を領したという伝承もある.氏広は応永7(1400)年に奥州探題斯波(大崎)詮持に誅殺され,詮持がその跡を関東公方足利満兼から給付されるも,間もなくこれまた自害に追い込まれたとされる.この伝承は比較的信用できる史料にある記事だが,またしても裏付けに乏しいのでその真偽は不明である.

 石橋氏は四本松城や住吉山城(東和町)を根拠に塩松地方の国人領主化していき,その系図もよくわからなくなるが,室町中期から戦国初期にかけて石橋(塩松)治部大輔,石橋左近将監,石橋右兵衛佐祐義,石橋松寿などの名前が見える.このうち左近将監は満博(棟義の子,応永から正長頃活動か),治部大輔と右兵衛佐祐義はおそらく同一人物で系図に祐義とある人物(正長から嘉吉頃活動か),松寿は長禄4=寛正元(1460)年の足利義政御内書に現れる名前であり,文明14(1482)年木幡山弁天堂(東和町)建立の際の棟札に出る「源朝臣家博」がこれにあたると考えられ,系図では義衡とされる人物ではないかとされる.

 戦国時代後期に塩松に拠っていた石橋氏は尚義(久義,おそらくは足利義尚[1465-1489]の偏諱をうけたものか)で,伊達氏の内紛から南奥州を巻き込む大乱に発展した天文の乱(1542-1548)の際は当初稙宗方に付いたものの,のちに晴宗方に転じて乱の終結後晴宗から加増を受けている.その後良将でも名君でもなかったらしい尚義は家中の統率を急速に失い,その生前もしくは没後間もなく,小浜城(岩代町)主大内氏に塩松を追われて石橋氏は滅亡した.


四本松城の写真


参考文献
 『岩代町史』第1巻 福島県岩代町
 『日本城郭大系』第3巻 新人物往来社

2003年7月5日作成
2003年9月3日修正
2004年6月26日移転・修正

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