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2004.06.26

猪苗代城(福島県猪苗代町)

 猪苗代城は中世領主猪苗代氏の居城として築城され,豊臣秀吉の奥州仕置以降も若松城(鶴ヶ城)の支城として明治維新まで存続した.別名を「亀ヶ城」と言うが,若松城を「鶴ヶ城」と呼ぶのに応じているものと思われる.

 猪苗代氏は鎌倉幕府関東御家人の有力者三浦一族の流れをくむとされる.三浦泰村が宝治元(1247)年,北條時頼に攻め滅ぼされた(いわゆる「宝治合戦」)の際,一族で佐原十郎義連(三浦義澄の弟)の孫にあたる佐原光盛・盛時・時連の3兄弟は三浦泰村に味方せず北條方に付き,合戦終結後それぞれ現在の会津盆地(会津盆地は北條得宗家領になる)に地頭代(このような立場は「得宗被官」とは言わないのかな?)として下向,やがて土着したらしい.佐原光盛の子孫はその後黒川城(のち若松城,会津若松市)に拠って蘆名氏を称し,やがて戦国大名となり一時は会津から現在の福島県中通り南部にわたる範囲を制圧するにいたる.
 猪苗代氏はこの佐原兄弟の兄にあたる大炊助(長門守)経連を祖とする,と諸系図は伝える.猪苗代城は経連が建久2(1191)年に築城したと伝えられているが,信を置くことはできない.猪苗代氏が築城したとすれば,早くても宝治合戦ののち,佐原一族が会津に下向してからのことであろうか.

 鎌倉幕府滅亡後,得宗被官だった(?)会津佐原一族はそれぞれ独立した勢力になっていくが,猪苗代氏では盛通(その妻平氏),あるいは盛親(盛通の子か)という人物が南北朝期に活動しているのが知られる.応永11(1404)年に安積郡を中心とする大小の国人領主が篠川・稲村両御所の働きかけにより結んだとされる傘連判状の一揆契約(仙道一揆)に「猪苗代参河守盛親」の名が見える.
 応永9(1402)年,猪苗代氏と同じ佐原一族の北田城(福島県湯川村)主北田氏・新宮城(喜多方市)主新宮氏が蘆名氏に叛くが相次いで破れ滅亡する.猪苗代氏は蘆名氏の圧迫を受けながらからくも独立を保ち,あまつさえ猪苗代盛光は享徳2(1453)年には蘆名家中の反乱を支援し,寛正5(1464)年には蘆名盛詮を黒川城に攻撃している.
 なおこの頃,猪苗代氏の一族から『新撰莬玖波集』の選者のひとりで,連歌・和歌に秀でた歌人猪苗代兼載(1452-1510)が出ている.
 その後も猪苗代氏は猪苗代城を修復するなどして蘆名氏に抵抗を続ける.しかし蘆名盛滋-盛舜-盛氏と蘆名氏の勢力が増進し戦国大名化していくと次第に劣勢に立たされ,天文16(1547)年蘆名盛氏が猪苗代氏を破った戦闘を最後に,猪苗代氏の抵抗は止む.猪苗代氏は蘆名にある程度臣従したようで,天文20年には猪苗代平太郎の元服に際して蘆名盛氏が偏諱を与え盛国と名乗らせている.

 蘆名盛氏は戦国大名蘆名氏の全盛期を現出した名将だったが,その死(天正8[1580]年)後,蘆名氏の勢力は当主の相次ぐ夭逝もあって急速に衰える.猪苗代盛国は会津侵攻を目論む伊達政宗に内応して家を保とうとしたが,盛国の嗣子盛胤はあくまで蘆名氏に付き家中は分裂する.一度は隠居した盛国は,天正16年隙を衝いて猪苗代城を乗っ取り,盛胤を追放した.
 天正17年6月,伊達政宗は会津に侵攻し,大森城(福島県福島市)・本宮城(福島県本宮町)などを経て猪苗代城に入る.このとき猪苗代城には本丸書院,本丸塀および本丸櫓が存在したらしいことが伊達氏の記録『貞山公治家記録』に見える.6月5日伊達・蘆名の軍勢は磐梯山の麓の摺上原(すりあげはら)で激突し,軍略に勝る伊達勢が大勝する.蘆名氏の当主義広(佐竹義宣の弟で白川氏,次いで蘆名氏に養子に入る)は黒川から常陸に逃亡し蘆名氏は滅亡した.
 猪苗代盛国は蘆名氏滅亡後も猪苗代城に拠ったが,伊達政宗が豊臣秀吉の奥州仕置に従い会津・仙道(現在の福島県中通り地方)地域を手放した際,政宗に従って猪苗代を去り,伊達家臣となって一生を終える.跡は次男宗国が継ぎ代々伊達家臣として明治維新に至る.あくまで蘆名方に付いた盛胤は内野村(猪苗代町内野)に隠棲し生涯を終えた.

 伊達政宗に替わり会津・仙道90万石を領した蒲生氏郷は猪苗代城に城代を置く.以後,猪苗代城は会津領における街道筋の要衝として,元和の一国一城令で他の城郭が破却された後も存続し,会津に封じられた領主~蒲生氏郷,秀行→上杉景勝→蒲生秀行,忠郷→加藤嘉明,明成→保科正之(以後会津松平家)~により城代が置かれ,明治維新を迎える.保科正之は猪苗代の風光を愛で,ここにあった磐椅神社の末社として自らを葬るように遺言した.そこでその死後,正之の墓所として土津(はにつ)神社が建立される(正之の諡号は〈土津霊神〉).
 戊辰戦争の際は会津方の拠点として城代以下籠城したが,慶応4(1868)年8月21日,官軍が中山峠を攻めると見せかけて母成峠に来襲し翌日これを抜いたとの知らせに,城代高橋権太夫は土津神社および猪苗代城に火を放ち,土津神社のご神体を奉じて若松に退去する.

 猪苗代城の立地は,元は土津神社のある見祢山からなだらかにつらなる尾根の末端にあたる.その北側を大規模な堀切で切断し,中世山城とした.猪苗代氏が去って蒲生氏郷領になった後大改修が行われ,元の山城を本丸にし東側に郭を展開した平山城とされた.本丸となった山城の縄張りにはあまり変更が加えられていないようだが,二の丸から本丸に登る大手口には石垣が用いられ,遺構から判断して若松城鉄門に匹敵する規模の櫓門があげられていたと見られる.元の山城である本丸には書院と茶室,土蔵,塩蔵が設けられていたらしいが,建築物については猪苗代盛国在城当時からのものを蒲生以後も利用したのかどうかも含めて,管見の限りでは資料を見ない.
 現在は県指定史跡となり,石垣や壮大な掘割が残存する.


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参考文献
 『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社/1981年2月初版)
 『ふくしまの城』(鈴木啓著/歴春ふくしま文庫57/歴史春秋社/2002年7月初版)
 『戦国の南奥州』(小林清治著/歴春ふくしま文庫55/歴史春秋社/2003年2月初版)
 『奥羽越列藩同盟』(星亮一著/中公新書1235/中央公論社/1995年3月初版)
 『猪苗代町史』歴史編(猪苗代町史編さん委員会編/猪苗代町史出版委員会/1982年1月初版)

2003年2月20日作成
2004年6月26日移転・修正

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コメント

はじめまして!
福島県郡山市の郡山観光交通㈱の貸切部 佐藤と申します。弊社ホームページにて猪苗代町の亀が城址の桜と紅葉を紹介しておりますが、お城の時代背景がいま一つ説明付きませんでした。そんな折、土津神社の検索をしておりましたところ貴ホームページに、まさに出会ったと感激しております。つきましては弊社のHPの下記アドレスのページにリンクを張りたいと思いましてメールを差し上げました。どうぞよろしくお願い致します。差さわりがございませんでしたなら、ご許可をよろしくお願い致します。益々のご活躍をご祈念致します。
http://www.yamaguchi-gr.co.jo/ufm/516/516ufm.htm

投稿: 郡山観光交通株式会社 貸切部 | 2006.11.20 22:59

>>郡山観光交通株式会社 貸切部 さま

こんなものでよろしければ,リンク張ってくださいませ.最近,更新さぼってますのでなかなかエントリーが増えませんが,これからもよろしくお願いします.

投稿: G.C.W. | 2006.11.21 18:57

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