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2004.06.20

亀ヶ崎城(山形県酒田市)

 中世から連綿と栄えてきた港町酒田の始まりは,奥州藤原氏が滅亡したとき(文治5[1189]年)藤原秀衡の妹「徳の前」と遺臣36騎が「袖の浦」(向酒田)に落ち延びてきたことからだという伝説がある.この36騎の子孫がいわゆる「酒田三十六人衆」に発展したという.その後最上川の水路が洪水などで移動したことがきっかけで現在の酒田の地に港町が移転したらしい.16世紀には泉州堺に似た町人による自治町政が行われている.

 亀ヶ崎城は元の名を「東禅寺城」という.その起源は明らかではない.東禅寺城は当初,現在地より東方の「四ツ興野」というところにあったとも伝えられている.それが文正年間(1466-1467)洪水のため破壊されたので,当時東禅寺城に拠っていた遊佐氏が現在の地に城館を移転したという.この地域は最上川の度重なる氾濫と水路の移動により,中世豪族の居館が破壊されているようで,信頼できる文献資料に乏しいこともあり,確たる城館の移動を跡付けるのは困難である.東禅寺城という名称は城館の近隣にあった「大浄山東禅寺」なる寺院から付いたものらしいが,この東禅寺も現在のところどこにあったのか不明である.

 東禅寺城の文献上の初見は文明10(1478)年とされる.大宝寺城(山形県鶴岡市)に拠る武藤氏(大泉氏・大宝寺氏とも)が離反した庶流の砂越氏に対抗するため,東禅寺城を手に入れて砂越氏を牽制したものらしい.この頃東禅寺城に拠っていたのは酒田の国人と考えられる東禅寺氏で,天正年間の東禅寺筑前守・右馬頭兄弟まで3代は確認できるらしい.天正11(1583)年3月,尾浦城(山形県鶴岡市)に拠る「悪屋形」武藤義氏を攻め滅ぼしたのは最上義光と結んだ東禅寺一党である.東禅寺一党はなおも義氏の跡を継ぎ越後上杉家と結んだ義興をも天正15年に自害に追い込むが,翌天正16年上杉勢が大挙して庄内に侵攻,東禅寺一党は滅亡する.上杉景勝は東禅寺城に甘粕備後守景継,次いで志田修理亮義秀を城代として守備させる.慶長5(1600)年の「出羽合戦」の際,一旦は追い詰められた最上勢が反転攻勢に出て東禅寺城を包囲し,酒田市街は焼き払われる.志田修理亮以下は14日間にわたって籠城するが上杉からの援兵無く,止むを得ず開城した.

 最上義光が最上・庄内・由利で57万石を安堵されると,庄内地方の拠点のひとつとして東禅寺城も修復され,慶長8年には東禅寺城を「亀ヶ崎城」に改める.酒田に大亀があがったことによるという.義光は志村伊豆守光安を亀ヶ崎城主として飽海郡3万石に封じた.志村光安は「出羽合戦」で長谷堂城(山形市)を上杉勢から死守し,また攻勢に転じてからは東禅寺城を開城させた最上の功臣である.光安は酒田市街の開発を意図し,町割りや街道を整備したと伝えられる.しかし光安の跡を継いだ光惟は最上氏の内紛に巻き込まれ元和3(1617)年非業の死を遂げた.

 最上氏が元和8年改易され酒井忠勝が庄内14万石に入部した際,庄内藩は鶴ヶ岡と亀ヶ崎の2城を認められ,亀ヶ崎城には城代が置かれる.酒田には奉行所も設置され,いわゆる西廻り航路の北前船の拠点として隆盛を極めた.中でも豪商本間家は3代目の本間光丘以降,酒田の市街地発展にも意を尽くしたことで知られる.

 明治維新後,亀ヶ崎城には酒田県庁などが入った後,大正9(1920)年には酒田中学校(現在の酒田東高校)が建てられ,現在では城址を探すのも難しいほど破壊されている.わづかに二の丸にあった八幡神社(旧・東禅寺八幡宮)の付近に土塁が残り,城址をしのぶよすがになっている.庄内・酒田の歴史において重要な位置を占める城館であり,また明治維新まで存続したにもかかわらず,城郭を扱った書籍でも触れられていないケースが多いのは残念である.


亀ヶ崎城の写真(工事中)

参考文献
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『出羽諸城の研究』(沼舘愛三編著/伊吉書院/1980年9月初版)

2002年11月16日作成
2002年11月24日改訂
2004年6月20日移転・修正

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