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2004年6月

2004.06.26

小浜城・宮森城(福島県岩代町)

 小浜城は現在の福島県岩代町の中心地区にある.始まりは詳らかではないが,戦国時代には塩松城主石橋氏の執事大内氏の居城であり,大内氏の下克上によって石橋氏が滅亡した後は安達地方の一方の雄として,伊達氏や田村氏とわたりあった城である.宮森城は小浜城の南約2キロのところにあり,小浜城と連携しながら街道筋の要衝として重きをなす.両城とも伊達政宗がしばし在城したことでも知られる.

 大内氏は諸伝に拠れば足利氏庶流とも,安達郡戸沢(東和町)の菊地氏姻族とも,周防大内氏の一族とも伝えられる.若狭国小浜(福井県)の住人で大崎氏(のちに宮城県北部を領有する奥州探題大崎氏の祖斯波家兼が若狭国守護だったことがある)に仕えていたが,のち石橋氏の家臣に転じて陸奥国安達郡に至り,当地に築城し旧地の名をとって小浜と称したという.遅くとも15世紀半ばには安達郡塩松地方にあって石橋氏の執事として活動していたものと考えられる.

 大内氏が三春城主田村氏に通じ,石橋氏を四本松城からから追って塩松地方の支配を確立するのが,おおよそ永禄末年(1568~69年ごろ)のことである.大内備前義綱が宮森城を,その子太郎左衛門定綱が小浜城,次子助右衛門親綱が安積郡片平城(郡山市),庶流の一族をその他要城に配置し支配を固めた.片平城は安積伊東氏の流れをくむ片平氏の居城であったが田村氏の攻撃を受け落城,田村氏から大内氏に与えられたものとされる.
 その後天正7年(1579)ごろまでは田村氏に従っていた大内氏だが,天正11年には田村から離反し,田村方の石川弾正が拠る百目木城(岩代町)を攻撃するも敗れ,一旦は二本松畠山義継,会津蘆名盛隆が調停する.翌天正12年には田村清顕が塩松領に侵攻するも十石畑(岩代町西新殿)合戦で大敗,さらにその後5度の合戦にことごとく破れ清顕の弟善九郎友顕までもが戦死,田村勢はほうほうの体で三春に退散した.大内定綱は田村氏と敵対する会津蘆名盛隆,常陸佐竹義重,岩城常隆,石川,白川などの諸氏と通じて田村氏と対峙した.

 天正12年冬,大内定綱は米沢城に参上し,家督を継いだばかりの伊達政宗に謁見,伊達につくことを約し,米沢で屋敷を賜り越年した.翌13年,一旦暇をもらって小浜に帰城した定綱は伊達に反旗を翻す.政宗は大内攻めを決断,刈松田城(飯野町)主青木修理を内応させ案内役を確保したのち,小手森城(東和町)攻めに着手する.天正13年閏8月,伊達勢は小手森城に放火してこれを抜き,城兵など800余人を皆殺しにする.政宗自身「女童は申すにおよばず,犬までなで切に成りせ候」と最上義光に書き送っている.小手森城とともに街道筋の要所であった築館(鍛冶山城),樵館も相次いで開城し,政宗は築館に入る.やがて田村領黒籠(郡山市)に移った政宗は岩角城(白沢村)攻めの構えを見せ,それを見た大内定綱は天正13年9月,蘆名氏を頼って会津に出奔,大内支城もことごとく開城し,ただひとつ残った針道城(東和町)も2日間の籠城の末,城主針道源太以下100余騎が城を枕に討ち死にし,塩松地方は政宗の手に帰した.なお,大内定綱・片平親綱兄弟は天正16年にいたって許されて伊達に帰参し,その子孫は仙台藩に仕えた.

 政宗は早速小浜城に入城し,政宗の父輝宗が宮森城に入り,大内氏と縁戚関係にあり今回の大内攻めでも大内定綱を援助した二本松城主畠山義継を攻撃するための準備をはじめた.義継は宮森城の輝宗を訪ねて政宗に扱いを入れ,その御礼に再度出向いた際,輝宗を拉致して二本松へ戻ろうとし,急を聞いてかけつけた政宗により輝宗ともども射殺される.二本松城攻めは越年し,政宗はその間小浜城に在城して二本松攻めの指揮を執った.二本松城が天正14年7月開城したのち,政宗は本拠の米沢に帰陣する.

 その後塩松地方は政宗の家臣白石宗実に与えられ,宗実は宮森城に入った.天正16年には百目木城の石川弾正が伊達に叛き,田村清顕急死後の三春にも相馬義胤が入城しようとするなど動揺が走るが,政宗は自ら大森城(福島市)まで出陣して采配を振るい,さらに宮森城まで出向いて塩松・三春の反伊達勢の一掃を計った.
 天正17年には蘆名氏,二階堂氏を相次いで滅ぼし,佐竹氏の勢力を駆逐して南奥羽の覇権をにぎった伊達政宗は,しかし豊臣秀吉の小田原後北條氏攻めとそれに続く奥州仕置により米沢を去り,塩松も白石宗実の手を離れて若松92万石の大名になった蒲生氏郷の支配下になる.氏郷は小浜城に蒲生忠右衛門を2万5千石で配した.氏郷死後,その子秀行に替わって上杉景勝が若松120万石に封ぜられると,塩松東城に山浦源吾景国が,塩松西城には市川左衛門尉房綱が配された.ここで言う塩松東城は小浜城,西城は宮森城を指すと思われる.さらに「関が原の戦い」の戦後処理で再び蒲生秀行が若松60万石に返り咲くと,塩松東・西の別を踏襲し東城には玉井貞右が,西城には外池信濃守がそれぞれ配された.恐らく元和の一国一城令(1615)にて廃城になったものと思われる.

 現在残る小浜城は,大内定綱退去ののち,伊達政宗や蒲生氏郷が改修を加えたものと思われる.主に阿武隈川東岸の街道筋をにらんでの城郭整備が行われたようだが,一曲輪に残る石垣には豊臣系大名の城郭に見られる鏡石と巻き積みが見られることからも,大規模な改修が蒲生氏郷によって行われたと考えていいだろう.ひとつの小高い丘陵の頂上を削平して尾根に掘割を築き一曲輪・二曲輪としている.北東側は急峻な崖になっており,西側にいくつか曲輪を配して守備を固める.一曲輪では昭和56年(1981)に発掘調査が行われ,伊達政宗在城時に使用されたと考えられる殿舎跡が出土している.瓦葺ではない,桧皮葺(?)の掘立建物ながら本格的な建築であったらしい.


小浜城の写真へ
宮森城の写真へ

参考文献
 『日本城郭大系』第3巻 新人物往来社
 『戦国の城』下 西ヶ谷恭弘著 学習研究社 1992年12月初版
 『岩代町史』第1巻 岩代町編集・発行 1989年初版
 『ふくしまの城』(歴春ふくしま文庫57) 鈴木啓著 歴史春秋社 2002年7月初版

2003年9月21日作成
2004年6月26日移転・修正

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四本松城(福島県岩代町)

 四本松(塩松,しおのまつ)城は現在の岩代町と東和町の町境付近にある,東へ伸びた丘陵の突端を利用して築かれた.四方を断崖や谷に囲まれた天険の要害である.丘陵の頂上を削平して曲輪(本丸)を造り,北・東・西の三方に堀切を設けている.本丸からの見晴らしはなかなかよい.東側の堀切の外側にある突端を利用して「東壇」と称する曲輪を置き,そこに物見櫓を設けていたらしい.

 四本松城の草創については「後三年の役」で戦功を立てた伴次郎助兼によるものと伝えられ,次いで鎌倉時代初期に信夫次郎秀行が四本松城に拠ったとされるが,古文書等の裏付けを欠き伝説の域を出ない.その後南北朝初期には石塔義房,次いで吉良貞家・満家が陸奥に下向した際四本松城を根拠としたとされるがこれまた史料の裏付けを欠く.
 やがて奥州総大将として貞治6(1367)年頃石橋棟義とその父和義が奥州に下向し,四本松城に拠ったらしい.石橋和義は足利氏一門,斯波氏と同じ足利家氏を祖とする有力な一族であり,足利義詮政権下で重職を担うも斯波高経と争って失脚の憂き目を見る.その後斯波高経も失脚したため,足利義詮が再度和義・棟義父子を起用したものらしい.
 さらに康応2(1390)年には宇都宮氏広(公綱もしくは氏綱の子とされる)が吉良満家に代わって塩松を領したという伝承もある.氏広は応永7(1400)年に奥州探題斯波(大崎)詮持に誅殺され,詮持がその跡を関東公方足利満兼から給付されるも,間もなくこれまた自害に追い込まれたとされる.この伝承は比較的信用できる史料にある記事だが,またしても裏付けに乏しいのでその真偽は不明である.

 石橋氏は四本松城や住吉山城(東和町)を根拠に塩松地方の国人領主化していき,その系図もよくわからなくなるが,室町中期から戦国初期にかけて石橋(塩松)治部大輔,石橋左近将監,石橋右兵衛佐祐義,石橋松寿などの名前が見える.このうち左近将監は満博(棟義の子,応永から正長頃活動か),治部大輔と右兵衛佐祐義はおそらく同一人物で系図に祐義とある人物(正長から嘉吉頃活動か),松寿は長禄4=寛正元(1460)年の足利義政御内書に現れる名前であり,文明14(1482)年木幡山弁天堂(東和町)建立の際の棟札に出る「源朝臣家博」がこれにあたると考えられ,系図では義衡とされる人物ではないかとされる.

 戦国時代後期に塩松に拠っていた石橋氏は尚義(久義,おそらくは足利義尚[1465-1489]の偏諱をうけたものか)で,伊達氏の内紛から南奥州を巻き込む大乱に発展した天文の乱(1542-1548)の際は当初稙宗方に付いたものの,のちに晴宗方に転じて乱の終結後晴宗から加増を受けている.その後良将でも名君でもなかったらしい尚義は家中の統率を急速に失い,その生前もしくは没後間もなく,小浜城(岩代町)主大内氏に塩松を追われて石橋氏は滅亡した.


四本松城の写真


参考文献
 『岩代町史』第1巻 福島県岩代町
 『日本城郭大系』第3巻 新人物往来社

2003年7月5日作成
2003年9月3日修正
2004年6月26日移転・修正

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棚倉城(福島県棚倉町)

 棚倉城は現在の福島県棚倉町にある平城である.現在でこそ棚倉町は人口1万6千人ほどの静かな山間の田舎町なので,棚倉城を訪れるひとはその壮大な規模に驚くかもしれない.石垣は一部にしか使用されていないが(しかも二の丸の一部),本丸の大規模な土塁と巨大な内堀はどうしてどうして,街道筋に築かれたこの城の重要度を物語っている.

 棚倉城は寛永元(1624)年より丹羽長重により築城が始まった.元々この地域の主城は現在の棚倉城から北西に1.5キロほどのところにあった赤館だが,長重は赤館に代えて都々古和気神社の地を選んで築城する.都々古和気神社を現在の地(棚倉町馬場)に移し,跡地に輪郭式の近世城郭を縄張りした.
 丹羽長重(1571-1637)は織田信長の宿老で安土城普請の奉行を務めた丹羽長秀(1535-1585)の子である.天正13(1585)年父の死により越前北の庄(現在の福井市)城主になるが,家中騒動の責任を取らされて豊臣秀吉に減封され,さらに慶長5(1600)年の「関が原の戦い」の際には徳川家康の嫌忌を蒙って改易されてしまう.その後徳川秀忠が家康にとりなして慶長8年には常陸古渡(茨城県江戸崎町)で1万石に復活,大坂の陣での功績が認められて1万石を加増され,元和8(1622)年に5万石で棚倉に転封される.
 恐らくは父の代からの城普請技術者の集団を抱えていたと思われ,のちに転封される小峰城(白河市)では見事な石垣を築いているが,棚倉城では石垣構築にふさわしい石材を調達できなかったのか,二の丸の一部を除いて大規模な土塁を構築した.東側が大手で西側は台地の断崖を利用している.本丸は横矢掛を備えた複雑な平面をもち,5つの二重櫓を上げその間を多聞櫓で連結した.二の丸土塁の上には白壁を廻らし,西側では石垣も構築して水戸街道からの見栄えにも配慮している.

 丹羽長重は棚倉城の完成を待たずして寛永4年,白河に転封されあとには内藤信照が5万石で入城する.その後は内藤氏3代→宝永2(1705)年太田資晴→享保13(1728)年松平武元→延享3(1746)年小笠原長恭,以降小笠原氏3代→文化14(1817)年井上正甫,以下井上氏2代→天保7(1836)年松平康爵,以降松平氏4代→慶応2(1866)年阿部正静とめまぐるしく藩主が交替した.棚倉は交通の要所とされていた割には,竹島事件(天保7年,密貿易が発覚して大量の処分者を出す)と仙石騒動(但馬国出石藩主仙石家の跡目相続をめぐる騒動)の責任を負わされて老中解任・永蟄居とされた浜田藩主松平康任の後継ぎ康爵のように,罪を得た譜代大名の左遷地のような使われ方をされていた.中には井上正甫のように民話のネタにされてしまった藩主もいる.

 幕末の戊辰戦争では,棚倉藩は奥羽越列藩同盟に組して白河口に出兵し,小峰城を守備するが敗退する.阿部正静の父正外(神奈川奉行,老中も務めた)以下300余の藩兵が守備していた棚倉城は慶応4(1867)年6月24日落城し,城には火が放たれた.
 明治維新後,棚倉藩は6万石に減封の上,正静の義理の叔父である正功が継ぎ廃藩置県を迎える.現在,棚倉城址は公園化されて図書館,公民館がある.

棚倉城の写真へ
棚倉城下の写真へ(工事中)

参考文献
 『棚倉町史』(棚倉町)
 『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社)

2003年6月7日作成
2004年6月26日移転・修正

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新山城(福島県双葉町)

 新山城(しんざんじょう)は現在のJR常磐線双葉駅の南方1キロほどのところにあった山城である.沢地を挟んで東西に並び立つふたつの小山を利用し,東側に方形の曲輪を,西側には長さ170メートルに及ぶ土塁を築いて守りを固めている.現在,間の沢地だったところには道路とJR常磐線が走っている.
 伝承に拠れば元弘元(1331)年に,当時標葉郡(しめはぐん)を支配していた標葉一族の標葉左衛門尉隆連という人物(標葉氏8代持隆の三男)が築城したという.

 標葉氏は岩城氏などとともに,平国香の次男繁盛の末にあたる海道小太郎成衡を始祖とする一族だが,長年敵対していた相馬氏によって明応元(1492)年ごろ滅亡に追い込まれたため,資料がほとんど残っておらず,その詳しい歴史はよくわからない.標葉氏の本拠は請戸城(大平山城,双葉郡浪江町)だったが,相馬氏に対抗するため標葉清隆(持隆の孫)は嘉吉年間(1441-1444)ごろに本城(もとじょう)館,ついで文安年間(1444-1449)に権現堂城(いずれも浪江町)を築いてそちらに移ったとされる.

 戦国の世になり,北の相馬氏,南の岩城氏が勢力を増すにつれて標葉氏や南隣の楢葉氏は次第に圧迫されるようになる.ついには楢葉氏が文明6(1474)年岩城氏の攻撃を受けて滅亡し,智仁勇を兼備していたと伝えられる清隆が老境に入って昔日の面影を失った標葉氏も前述のように明応元年ごろ相馬盛胤の攻撃を受け,標葉方には内応者も出る始末.あげくに清隆・隆成父子は自刃して標葉氏は滅亡した.

 新山城は隆連・隆重・隆豊の3代に渡って標葉支族の居城となったようだが,隆重は清隆と仲違いしたらしく,清隆に新山城を攻められて岩城氏を頼ったらしい.隆豊は標葉氏滅亡の際相馬に降り,藤橋村というところを与えられて藤橋出羽守胤平と称したという.その子孫が江戸時代に著した『東奥標葉記』は,標葉氏の事暦を現在に伝える.
相馬領となった新山城には城代が置かれたが,慶長11(1611)年ごろ廃城になった.


新山城の写真(工事中)

参考文献
 『双葉町史』第1巻,第3巻 双葉町史編さん委員会編,双葉町

2003年6月14日作成
2004年6月26日移転・修正

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大里牛が城(福島県天栄村)

 大里牛が城は,現在の福島県天栄村の東部にあった山城である.東側以外の三方を山地に囲まれた天険の要害にあたる地に,本丸・二の丸など曲輪を連ねている.東側は切り立った急斜面であり,攻めにくい.本丸は城の南東側の切り立った急斜面の上にある.
 築城の時期・築城者などは不明だが,戦国時代末期には須賀川二階堂氏の支族で矢田野城(長沼町)主の矢田野(箭田野)氏の配下であったらしい.二階堂氏が伊達政宗に降った後,大里牛が城は矢田野伊豆守義正から取り上げられて小島右衛門に与えられた.

 天正18(1590)年6月,伊達政宗は後北条氏の小田原城を包囲する豊臣秀吉の陣所に参陣する.その際,政宗の供御にあった矢田野義正は小田原から逐電し佐竹氏を頼り,同時に義正の弟善六郎が大里牛が城に拠って挙兵する.政宗は秀吉の会津下向前に牛が城を陥落させるべく,石川昭光らを差し向け牛が城を攻めるが容易に陥ちず,伊達成実,片倉重綱までも遣わして力攻めに出たもののそれでも陥とすことが出来ず,伊達勢は大損害を出す有様.ついには浅野長政の助言を政宗が受け入れ,伊達勢は大里の包囲を解き米沢に引き上げた.秀吉は矢田野安房守(義正? ある記録に拠れば義正は最初伊豆守,のちに安房守を名乗ったとされるが)宛に禁制を発給しているようで,政宗の大里攻めは私闘と取られかねない行動ではあったらしい.大里牛が城はこの籠城戦の後,放棄されたと思われる.

 その後,矢田野義正は大里を去って佐竹氏に仕え,佐竹氏の秋田転封に従って出羽国雄勝郡院内の城代となり59歳で死去した.


大里牛が城の写真(工事中)

参考文献
 『日本城郭大系』 第3巻 新人物往来社 1981年2月
 『長沼町史』 第2巻(資料編Ⅰ) 長沼町史編纂委員会編 長沼町 1996年3月
 『天栄村史』 第2巻(資料編1) 天栄村史編纂委員会編 天栄村 1986年3月

2003年5月11日作成
2003年5月12日一部改訂
2004年6月26日移転・修正

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長沼城(福島県長沼町)

 長沼城は会津から勢至堂峠を越えて須賀川に至る街道沿いの要衝に築かれた平山城である.古図に残された縄張りや現在見られる遺構は猪苗代城に似ており,若松に蒲生氏郷もしくは上杉景勝が入った際の大改修をうかがわせる.また,ごく近くに「長沼北古館(中館)」「長沼南古館(外端館)」と呼ばれる大規模な居館址が知られており,中世(南北朝期以降)は長沼城とともにこの2館が連携して平時・戦時それぞれの役割を果たしたものと考えられる.

 この長沼城に最初に拠ったのは,下野小山氏の一族長沼氏とする説がある.長沼氏は小山朝政(1155-1238)の弟で,同様に有力な鎌倉御家人であった長沼宗政(1162-1240)の子孫である.その本拠地は下野国長沼庄(栃木県二宮町)だったが,宗政の功により下野国御厨別当職,摂津・淡路国守護職をはじめ陸奥・武蔵・美濃・美作・備後などに地頭職を鎌倉幕府から給付されている.南北朝期の観応3(1352)年に総領の長沼秀直が陸奥国に下向し,この地に本拠を移したという後世の文献がある.
 ところがこれは,長沼庶流の宗実(宗秀の庶子,秀行の弟)が正和3(1314)年頃に地頭職を贈与された会津南山長江庄(会津田島町)へ移ったことを,長沼氏総領家の長沼への下向と誤って解釈したものらしい.「長沼」の地名もまた,長沼氏にちなむものではなく,地内にあった「長沼」という沼に基づくものというのが正しいようである.
 他の伝承では,長沼城は応永年間の築城にかかり,天文10(1541)年蘆名盛舜・盛氏父子により修築されたとされる.また,天文14年新国(にっくに)頼基の築城とする伝承もある.
 なお,会津南山長江庄に移った長沼氏庶流はその後蘆名氏に従い,蘆名滅亡後は伊達氏に仕えて伊達政宗の仙台移封とともに会津を去っている.

 長沼城が歴史に姿を見せるのは,永禄8(1565)年に蘆名氏が長沼城を攻撃した頃からであろうか.このとき長沼城は,須賀川城に拠る二階堂盛義の支配下にあり,城代須田氏がいた.このときの攻防は蘆名に利あらず,多数の戦死者を出して兵を引いている.翌永禄9年,二階堂盛義が蘆名盛氏に降ると長沼城には蘆名氏家臣の新国上総介貞通が入る.これ以後,長沼城は蘆名支城として機能する.天正4(1576)年には佐竹義重・田村清顕の連合軍が長沼城を攻撃するがよく保ちこたえた.
 天正17年6月,蘆名義広が摺上原で敗北し蘆名氏が滅亡すると新国貞通は伊達政宗に降り本領を安堵される.一説には,伊達勢が長沼城に火矢を用いて攻撃し,攻め落としたとも言われる.天正18年には豊臣秀吉が小田原北条氏降伏後,「奥州仕置」のため奥羽に乗り込んでくる.その際長沼城に宿泊し新国貞通を引見,その武勇を愛でて本領を安堵したとの逸話が伝えられている.結局のところ,新国貞通は伊達政宗に従って長沼城を去り,長沼城は若松城主蒲生氏郷の配下になる.氏郷は蒲生郷安,次いで蒲生郷貞を城代として置いた.文禄4(1595)年氏郷が死去し息子秀行が後を継ぐと,秀吉は浅野長政・幸長父子に命じ蒲生領の城郭の内,7城を除く城郭を悉く破却したが,長沼城がどの程度破却されたかはよくわからない.
 慶長3(1598)年1月,蒲生秀行に代わって上杉景勝が若松に移封されると長沼城には信濃長沼城から嶋津淡路守忠直が城代になる.慶長5年,徳川家康の上杉攻めを受けて上杉配下の城郭はそれぞれ改修されたようだが,長沼城の最終的な状態はこのとき整備されたと見られる.「関が原の戦い」の後始末で上杉景勝が会津を追われると,若松には再度蒲生秀行が入り,長沼城には蒲生郷治が城代として置かれた.元和の一国一城令で廃城になったと思われる.

 長沼城の縄張りは,標高367.8mの山頂に本丸を置き,周囲に郭を配したもので,北と東に出入り口を置く.元来は東側の坂下門が大手だったようだが,蒲生氏郷の修築で北の半坂門が大手に変更されたものか.また城下に三重の堀をめぐらし,小規模ながら惣構の様相を呈しているのは,蒲生および上杉による修造であろう.南帯郭には国境の守護神としての愛宕堂や武士の護り本尊としての麻利支天石を祭り,国境の護りの城郭としての性格を色濃く示していた.


長沼城の写真へ

参考文献
 『長沼町史』 第2巻(資料編Ⅰ) 長沼町史編纂委員会編 長沼町 1996年3月
 『日本城郭大系』第3巻 新人物往来社 1981年2月
 『ふくしまの城』(歴春ふくしま文庫57) 鈴木啓著 歴史春秋社 2002年7月
 「長沼氏の奥州下向説」 高橋明(「福大史学」59号)

2003年4月20日作成
2004年6月26日移転・修正

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猪苗代城(福島県猪苗代町)

 猪苗代城は中世領主猪苗代氏の居城として築城され,豊臣秀吉の奥州仕置以降も若松城(鶴ヶ城)の支城として明治維新まで存続した.別名を「亀ヶ城」と言うが,若松城を「鶴ヶ城」と呼ぶのに応じているものと思われる.

 猪苗代氏は鎌倉幕府関東御家人の有力者三浦一族の流れをくむとされる.三浦泰村が宝治元(1247)年,北條時頼に攻め滅ぼされた(いわゆる「宝治合戦」)の際,一族で佐原十郎義連(三浦義澄の弟)の孫にあたる佐原光盛・盛時・時連の3兄弟は三浦泰村に味方せず北條方に付き,合戦終結後それぞれ現在の会津盆地(会津盆地は北條得宗家領になる)に地頭代(このような立場は「得宗被官」とは言わないのかな?)として下向,やがて土着したらしい.佐原光盛の子孫はその後黒川城(のち若松城,会津若松市)に拠って蘆名氏を称し,やがて戦国大名となり一時は会津から現在の福島県中通り南部にわたる範囲を制圧するにいたる.
 猪苗代氏はこの佐原兄弟の兄にあたる大炊助(長門守)経連を祖とする,と諸系図は伝える.猪苗代城は経連が建久2(1191)年に築城したと伝えられているが,信を置くことはできない.猪苗代氏が築城したとすれば,早くても宝治合戦ののち,佐原一族が会津に下向してからのことであろうか.

 鎌倉幕府滅亡後,得宗被官だった(?)会津佐原一族はそれぞれ独立した勢力になっていくが,猪苗代氏では盛通(その妻平氏),あるいは盛親(盛通の子か)という人物が南北朝期に活動しているのが知られる.応永11(1404)年に安積郡を中心とする大小の国人領主が篠川・稲村両御所の働きかけにより結んだとされる傘連判状の一揆契約(仙道一揆)に「猪苗代参河守盛親」の名が見える.
 応永9(1402)年,猪苗代氏と同じ佐原一族の北田城(福島県湯川村)主北田氏・新宮城(喜多方市)主新宮氏が蘆名氏に叛くが相次いで破れ滅亡する.猪苗代氏は蘆名氏の圧迫を受けながらからくも独立を保ち,あまつさえ猪苗代盛光は享徳2(1453)年には蘆名家中の反乱を支援し,寛正5(1464)年には蘆名盛詮を黒川城に攻撃している.
 なおこの頃,猪苗代氏の一族から『新撰莬玖波集』の選者のひとりで,連歌・和歌に秀でた歌人猪苗代兼載(1452-1510)が出ている.
 その後も猪苗代氏は猪苗代城を修復するなどして蘆名氏に抵抗を続ける.しかし蘆名盛滋-盛舜-盛氏と蘆名氏の勢力が増進し戦国大名化していくと次第に劣勢に立たされ,天文16(1547)年蘆名盛氏が猪苗代氏を破った戦闘を最後に,猪苗代氏の抵抗は止む.猪苗代氏は蘆名にある程度臣従したようで,天文20年には猪苗代平太郎の元服に際して蘆名盛氏が偏諱を与え盛国と名乗らせている.

 蘆名盛氏は戦国大名蘆名氏の全盛期を現出した名将だったが,その死(天正8[1580]年)後,蘆名氏の勢力は当主の相次ぐ夭逝もあって急速に衰える.猪苗代盛国は会津侵攻を目論む伊達政宗に内応して家を保とうとしたが,盛国の嗣子盛胤はあくまで蘆名氏に付き家中は分裂する.一度は隠居した盛国は,天正16年隙を衝いて猪苗代城を乗っ取り,盛胤を追放した.
 天正17年6月,伊達政宗は会津に侵攻し,大森城(福島県福島市)・本宮城(福島県本宮町)などを経て猪苗代城に入る.このとき猪苗代城には本丸書院,本丸塀および本丸櫓が存在したらしいことが伊達氏の記録『貞山公治家記録』に見える.6月5日伊達・蘆名の軍勢は磐梯山の麓の摺上原(すりあげはら)で激突し,軍略に勝る伊達勢が大勝する.蘆名氏の当主義広(佐竹義宣の弟で白川氏,次いで蘆名氏に養子に入る)は黒川から常陸に逃亡し蘆名氏は滅亡した.
 猪苗代盛国は蘆名氏滅亡後も猪苗代城に拠ったが,伊達政宗が豊臣秀吉の奥州仕置に従い会津・仙道(現在の福島県中通り地方)地域を手放した際,政宗に従って猪苗代を去り,伊達家臣となって一生を終える.跡は次男宗国が継ぎ代々伊達家臣として明治維新に至る.あくまで蘆名方に付いた盛胤は内野村(猪苗代町内野)に隠棲し生涯を終えた.

 伊達政宗に替わり会津・仙道90万石を領した蒲生氏郷は猪苗代城に城代を置く.以後,猪苗代城は会津領における街道筋の要衝として,元和の一国一城令で他の城郭が破却された後も存続し,会津に封じられた領主~蒲生氏郷,秀行→上杉景勝→蒲生秀行,忠郷→加藤嘉明,明成→保科正之(以後会津松平家)~により城代が置かれ,明治維新を迎える.保科正之は猪苗代の風光を愛で,ここにあった磐椅神社の末社として自らを葬るように遺言した.そこでその死後,正之の墓所として土津(はにつ)神社が建立される(正之の諡号は〈土津霊神〉).
 戊辰戦争の際は会津方の拠点として城代以下籠城したが,慶応4(1868)年8月21日,官軍が中山峠を攻めると見せかけて母成峠に来襲し翌日これを抜いたとの知らせに,城代高橋権太夫は土津神社および猪苗代城に火を放ち,土津神社のご神体を奉じて若松に退去する.

 猪苗代城の立地は,元は土津神社のある見祢山からなだらかにつらなる尾根の末端にあたる.その北側を大規模な堀切で切断し,中世山城とした.猪苗代氏が去って蒲生氏郷領になった後大改修が行われ,元の山城を本丸にし東側に郭を展開した平山城とされた.本丸となった山城の縄張りにはあまり変更が加えられていないようだが,二の丸から本丸に登る大手口には石垣が用いられ,遺構から判断して若松城鉄門に匹敵する規模の櫓門があげられていたと見られる.元の山城である本丸には書院と茶室,土蔵,塩蔵が設けられていたらしいが,建築物については猪苗代盛国在城当時からのものを蒲生以後も利用したのかどうかも含めて,管見の限りでは資料を見ない.
 現在は県指定史跡となり,石垣や壮大な掘割が残存する.


猪苗代城の写真へ
土津神社の写真へ


参考文献
 『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社/1981年2月初版)
 『ふくしまの城』(鈴木啓著/歴春ふくしま文庫57/歴史春秋社/2002年7月初版)
 『戦国の南奥州』(小林清治著/歴春ふくしま文庫55/歴史春秋社/2003年2月初版)
 『奥羽越列藩同盟』(星亮一著/中公新書1235/中央公論社/1995年3月初版)
 『猪苗代町史』歴史編(猪苗代町史編さん委員会編/猪苗代町史出版委員会/1982年1月初版)

2003年2月20日作成
2004年6月26日移転・修正

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2004.06.20

新田目城(山形県酒田市)

 新田目(あらため)城は山形県酒田市のJR本楯駅の東側にあり,山形県内最古の城という伝承を持つ平城である.その来歴には不明な点が多い.11世紀後半,八幡太郎源義家が須藤氏を出羽国留守所職とし,須藤氏がこの地に館を構えたという.現在,新田目城址に建つ大物忌神社は出羽一之宮である吹浦大物忌神社(山形県飽海郡遊佐町)を勧請したものらしいが,八幡太郎寄進と伝えられる太刀(現在,国指定重要文化財)を伝来している.

 出羽留守所はその後の歴史に時々現われるものの,それがこの新田目城だったのかどうかは確証が無い.留守所職に任じられた須藤氏はその後留守氏と称したらしい.南北朝時代,留守氏は南朝方に付き応永16(1409)年没落したと伝える文献もある.しかし,戦国時代にも留守氏の活動は確認できる.最上義光から「新田目留守殿」に宛てた文書の存在も確かめられるようだ.また,新田目城には吹浦大物忌神社の社人であった丸岡民部大輔が城主であったとの伝承もある.戦国時代後期,留守氏は尾浦城の武藤氏に属したようで,武藤義氏が尾浦を攻められて自害したとき,留守遠江守は武藤氏に味方して東禅寺一党と戦っている.その後は上杉氏に属して最上氏と戦い,豊臣秀吉の朝鮮出兵の際は上杉麾下の一軍として参加しているらしい.慶長5(1600)年「関が原の戦い」に伴う「出羽合戦」の時,留守遠州は東禅寺城に上杉勢として籠城したが破れて浪人となり,その後故地の新田目で今井姓を名乗って帰農したという.

 私見では,『日本城郭大系』の〈新田目城〉の項が説く,二重の堀を構えた大規模な新田目城が成立するのは戦国時代に入ってからでよいだろうが,現在残る城址の状態からも,それ以前の中世豪族(留守氏?)の居館(政庁)としての「原・新田目城」の存在を否定することもないと思うが如何だろうか.今に残る内郭は,いわゆる「足利氏館」址(栃木県足利市)とそれほど大きさが変わらないと思われる.


参考文献
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『出羽諸城の研究』(沼舘愛三編著/伊吉書院/1980年9月初版)

新田目城の写真(工事中)

2002年11月24日作成
2004年6月20日移転・修正

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亀ヶ崎城(山形県酒田市)

 中世から連綿と栄えてきた港町酒田の始まりは,奥州藤原氏が滅亡したとき(文治5[1189]年)藤原秀衡の妹「徳の前」と遺臣36騎が「袖の浦」(向酒田)に落ち延びてきたことからだという伝説がある.この36騎の子孫がいわゆる「酒田三十六人衆」に発展したという.その後最上川の水路が洪水などで移動したことがきっかけで現在の酒田の地に港町が移転したらしい.16世紀には泉州堺に似た町人による自治町政が行われている.

 亀ヶ崎城は元の名を「東禅寺城」という.その起源は明らかではない.東禅寺城は当初,現在地より東方の「四ツ興野」というところにあったとも伝えられている.それが文正年間(1466-1467)洪水のため破壊されたので,当時東禅寺城に拠っていた遊佐氏が現在の地に城館を移転したという.この地域は最上川の度重なる氾濫と水路の移動により,中世豪族の居館が破壊されているようで,信頼できる文献資料に乏しいこともあり,確たる城館の移動を跡付けるのは困難である.東禅寺城という名称は城館の近隣にあった「大浄山東禅寺」なる寺院から付いたものらしいが,この東禅寺も現在のところどこにあったのか不明である.

 東禅寺城の文献上の初見は文明10(1478)年とされる.大宝寺城(山形県鶴岡市)に拠る武藤氏(大泉氏・大宝寺氏とも)が離反した庶流の砂越氏に対抗するため,東禅寺城を手に入れて砂越氏を牽制したものらしい.この頃東禅寺城に拠っていたのは酒田の国人と考えられる東禅寺氏で,天正年間の東禅寺筑前守・右馬頭兄弟まで3代は確認できるらしい.天正11(1583)年3月,尾浦城(山形県鶴岡市)に拠る「悪屋形」武藤義氏を攻め滅ぼしたのは最上義光と結んだ東禅寺一党である.東禅寺一党はなおも義氏の跡を継ぎ越後上杉家と結んだ義興をも天正15年に自害に追い込むが,翌天正16年上杉勢が大挙して庄内に侵攻,東禅寺一党は滅亡する.上杉景勝は東禅寺城に甘粕備後守景継,次いで志田修理亮義秀を城代として守備させる.慶長5(1600)年の「出羽合戦」の際,一旦は追い詰められた最上勢が反転攻勢に出て東禅寺城を包囲し,酒田市街は焼き払われる.志田修理亮以下は14日間にわたって籠城するが上杉からの援兵無く,止むを得ず開城した.

 最上義光が最上・庄内・由利で57万石を安堵されると,庄内地方の拠点のひとつとして東禅寺城も修復され,慶長8年には東禅寺城を「亀ヶ崎城」に改める.酒田に大亀があがったことによるという.義光は志村伊豆守光安を亀ヶ崎城主として飽海郡3万石に封じた.志村光安は「出羽合戦」で長谷堂城(山形市)を上杉勢から死守し,また攻勢に転じてからは東禅寺城を開城させた最上の功臣である.光安は酒田市街の開発を意図し,町割りや街道を整備したと伝えられる.しかし光安の跡を継いだ光惟は最上氏の内紛に巻き込まれ元和3(1617)年非業の死を遂げた.

 最上氏が元和8年改易され酒井忠勝が庄内14万石に入部した際,庄内藩は鶴ヶ岡と亀ヶ崎の2城を認められ,亀ヶ崎城には城代が置かれる.酒田には奉行所も設置され,いわゆる西廻り航路の北前船の拠点として隆盛を極めた.中でも豪商本間家は3代目の本間光丘以降,酒田の市街地発展にも意を尽くしたことで知られる.

 明治維新後,亀ヶ崎城には酒田県庁などが入った後,大正9(1920)年には酒田中学校(現在の酒田東高校)が建てられ,現在では城址を探すのも難しいほど破壊されている.わづかに二の丸にあった八幡神社(旧・東禅寺八幡宮)の付近に土塁が残り,城址をしのぶよすがになっている.庄内・酒田の歴史において重要な位置を占める城館であり,また明治維新まで存続したにもかかわらず,城郭を扱った書籍でも触れられていないケースが多いのは残念である.


亀ヶ崎城の写真(工事中)

参考文献
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『出羽諸城の研究』(沼舘愛三編著/伊吉書院/1980年9月初版)

2002年11月16日作成
2002年11月24日改訂
2004年6月20日移転・修正

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鶴ヶ岡城(山形県鶴岡市)

 鶴ヶ岡城は現在の山形県鶴岡市のほぼ中心部にある.元々は「大宝寺城」といい,鎌倉時代初期に大泉荘の地頭として封じられた武藤氏(大泉氏あるいは大宝寺・大梵字氏とも)が拠った城である.武藤氏は秀郷流藤原氏で武蔵国の住人,武藤資朝は建久年間(1190-1199)鎮西奉行・大宰少弐として九州大宰府に下り少弐氏の祖となるが,大泉荘の地頭になったのはその弟にあたる氏平で,奥州藤原氏攻めの論功恩賞だったのだろう.氏平は羽黒山宗徒と山領をめぐって対立したことが『吾妻鏡』に見える.

 氏平以降の武藤氏系図はよくわからない部分が多い.当初は長井荘地頭の長井氏同様,代官支配であったらしいが六代長盛のときに土着したとみられている.しかし手元に集めた資料では,長盛が何時頃の人かはよくわからない.鎌倉時代末期には大泉荘は北条一門が,また南北朝時代中期の康安元(1361)年には山内上杉憲顕が地頭職に補されており,武藤氏は北条・山内上杉の代官として大宝寺に居を構えていたものらしい.下って寛正元(1460)年,将軍足利義政が古河公方足利成氏を討伐するため出兵要請をした先に伊達・最上・天童と並んで大泉(大宝寺)淳氏がおり,寛正3年には義政から出羽守を与えられた淳氏は上洛して義政に謁見し貢物を献上し大いに面目を施している.

 その後武藤氏は庄内地方にて戦国大名化していくが,その支配構造は脆弱であり,足元に常に火種を抱えているような状態であったとおぼしい.永正9(1512)年には勢力を拡大していた武藤氏庶流の砂越城(飽海郡平田町)主砂越氏雄が武藤本家の澄氏と争って一度は大勝したものの,翌年には反撃され氏雄父子が戦死する.天文元(1532)年には氏雄父子の跡を継いだ砂越氏維によって大宝寺城は焼亡し,武藤澄氏の子晴時は本拠を大宝寺城から西にある尾浦城(大山城)に本拠を移して防御を強化し,大宝寺城はその支城のひとつとされた.この騒乱は越後上杉氏の調停によって一応の収束をみる.

 晴時の二代後になる義氏は庄内の大名領国化を強行し「悪屋形」とまで称されるようになり,庄内を越えて勢力を拡大するほどの武将であったが,義氏への権力集中を嫌って隣国の山形城主最上義光と結んだ近臣前森蔵人(東禅寺筑前守か?)・東禅寺城(酒田市)主東禅寺右馬頭らが天正11(1583)年内乱を起こして義氏を自害に追い込んでしまう.武藤氏は義氏の弟義興が継ぐが,養子に上杉景勝麾下の越後村上城主本庄繁長の次男千勝(義勝)を迎えたことでまたしても内紛が起こり,天正15年には義興が東禅寺筑前守・最上義光らに尾浦城を攻められ戦死する.これに対し翌天正16年,上杉方が庄内に侵攻し「十五里ヶ原の戦い」で東禅寺右馬頭らが戦死,最上義光の勢力は一掃されて庄内は上杉氏の支配下になる.

 上杉氏も庄内支配の本拠を尾浦城に置き大宝寺城はその支城として50騎を配備しただけだったため,天正18年に上杉氏の検地に抵抗した一揆が庄内に蜂起した際,大宝寺城は守りきれずに落城した.一揆が鎮圧された後,庄内を差配することになった直江兼続は大宝寺城を要衝と見てこれを修復するが,それは現在の本丸部分にあたり,二の丸・三の丸などはまだ構築されていない.

 慶長5(1600)年の「関が原の戦い」では,悲願の庄内支配を目指す最上義光と上杉景勝がいわゆる「出羽合戦」を繰り広げ,最上方は山形・長谷堂(山形市)・上山の3城を残すのみまでに追い詰められたが,関が原で西軍が負けたため辛くも危機を脱して逆襲に転じ,庄内地方を手中に収めることに成功した.義光は慶長6年,最上・庄内・由利57万石を安堵され,庄内の拠点として大宝寺城,東禅寺城,尾浦城などを整備する.慶長8年,酒田湊に大亀があがったことにちなんで東禅寺城を「亀ヶ崎城」に改名し,併せて大宝寺城を「鶴ヶ岡城」に改名した.尾浦城が「大山城」と改められたのもこのときらしい.

 元和8(1622)年,義光の孫義俊の代に最上氏は内紛のため改易され,最上領57万石は解体されて山形・庄内・新庄・上山にそれぞれ譜代大名が配置される.庄内には14万石で酒井忠勝(1594-1647)が信州松代から移封される.忠勝は徳川家康の四天王のひとり酒井忠次の孫にあたり,同時に山形22万石に封じられた鳥居忠政の娘婿である.なお,3代将軍家光の老中で若狭小浜藩(12万石)主の酒井忠勝(1587-1662)とは別人.酒井氏は鶴ヶ岡・亀ヶ崎の2城を置くことを認められ,忠勝の裁断で鶴ヶ岡城が本城とされる.忠勝は鶴ヶ岡城の本格的な整備に着手し,忠勝・忠当・忠義の3代50年余をかけて二の丸・三の丸などを構築して本格的な近世城郭としての威容を整えた.

 本丸は高さ3mあまりの土塁(一部石垣)と幅20mほどの水堀に囲まれ,本丸御殿・二重櫓(北西隅)・多聞櫓2基・長塀・門2箇所などから構成されている.本丸中之門は隅櫓より大きな櫓門であった.二の丸は本丸を囲んで作られ,やはり土塁と堀に囲まれ東南隅に二重櫓が,東側に大手門,西側に搦手門がある.大手門には馬出しが作られ,南側には百間掘と称される大きな池のような堀があった.鬼門である東北隅には宝永元(1704)年勧請された稲荷神社があり,毎年初午の祭りのときは町人も城内に入って稲荷神社に参詣できたという.三の丸は家臣団屋敷を含む広大なもので,東側は内川を堀として利用し,四周に土塁を築いて城外への出入口を11箇所作りこれを「十一口木戸」と称した.また二の丸の北側の一部に堀と土塁に囲まれた一郭があり,ここに「七つ蔵」と称して藩米を収納していた.三の丸西側には御用屋敷が置かれ,また藩主の隠居所としても使用され「御隠殿」とも称された.三の丸西南隅の大督寺は酒井氏の菩提寺である.また三の丸東南側には文化13(1816)年藩校「致道館」が設立され,藩の子弟の教育にあたった.

 庄内藩酒井氏は,治世の初期には藩主の跡目を巡るゴタゴタもあったが,山形藩が次々と藩主が交替して幕閣の左遷地に落ちぶれていく中で北の外様大名への押さえとしての役割を担う.水野忠邦の「天保の改革」にて三方所替の命が下るも,領民の騒擾と水野忠邦の失脚で沙汰止みになり(「三方所替」の強引な推進も忠邦失脚の遠因となる.失脚した忠邦の継嗣が山形に転封されたのは歴史の皮肉か),幕末まで酒井氏が藩主として留まった.戊辰戦争では会津藩などとともに奥羽越列藩同盟の最強硬派として最後まで徹底抗戦し,会津藩の降伏後まで保ちこたえた.
 維新後,鶴ヶ岡城は明治9(1876)年取り壊され,翌10年に本丸址に藩祖酒井忠勝らを祭る荘内神社が設けられる.本丸櫓門址には大寶館が大正4(1915)年に建てられ,昭和60年まで市立図書館として,その後は鶴岡が輩出した人物の顕彰施設として用いられている.三の丸は学校などになり,御用屋敷址は致道博物館になっている.藩校致道館の建物は一部が現存する.


鶴ヶ岡城の写真
鶴ヶ岡城下の写真

参考文献
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『復元大系日本の城』(ぎょうせい)
 『図説山形県の歴史』(横山昭男責任編集/図説日本の歴史6/河出書房新社/1996年11月初版)
 『日本の城原風景』(別冊歴史読本73号/新人物往来社/1994年12月初版)
 『城下町鶴岡』(大瀬欽哉著/庄内歴史調査会/1985年7月初版)
 『出羽諸城の研究』(沼舘愛三編著/伊吉書院/1980年9月初版)
 『奥羽越列藩同盟』(星亮一著/中公新書1235/中央公論社/1995年3月初版)

2002年11月16日作成
2004年6月20日移転・修正

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城輪柵(山形県酒田市)

 「城輪柵(きのわのさく)」は現在の酒田市中心部から8キロほど北東に上ったところにある.現在では,遥かに鳥海山をのぞむ田んぼのど真ん中という立地である.昭和6(1931)年,水田の一角に立ち並ぶ材木列が発見されたのがそもそもの始まりで,それは現在城輪柵の外郭と確認されている.遺構の確認以前から地名「城輪」が何らかの施設の址を意味していると考えられていたこともあり,翌昭和7年には早速国指定史跡となる.「城輪柵」とは史跡に指定されたとき名付けられた遺跡名で,文献上にあらわれる古代城柵の名前ではないため,混乱を避けるため「城輪柵遺跡」と呼ばれることが最近では多い.その性格については出羽国分寺,出羽国府説があり,また出羽国府としても何時の時期のものかで意見の対立が見られた.昭和39年より始まった発掘調査で,遺跡の中央部(大畑地区)から正殿址,西脇殿址,南門址などが出土したため,出羽国分寺説は否定され古代城柵,就中平安時代の出羽国府であることが明らかになる.

 城輪柵の政庁は城柵の中央部に1辺が約115m四方の掘立板塀もしくは築地塀で囲まれてあり,南面したコの字型に正殿や脇殿が配置されている.発掘調査の結果,建物遺構は4期にわたって建て替えられており,そのうちⅡ期とⅢ期では周辺建物に若干の違いがみられるA・B期がそれぞれあり,おおよそ6度の変遷があったと考えられている.その年代の画期はⅠ期が9世紀前半,Ⅱ期が9世紀後半,Ⅲ期が10世紀後半,Ⅳ期が11世紀とみられる.
 外郭は約720m四方のほぼ正方形であり,四隅に櫓状の建築物址が,四辺の中央部にはそれぞれ門址があり,それらにとりつくような形で何らかの区画施設が構築されていたものと考えられる.遺構は政庁址のⅡ期とⅢ期にそれぞれ該当するものが判明している.

 城輪柵は9世紀前半の創建にかかることが明らかで,延暦23(804)年に出羽国府が移転した「河辺府」または弘仁年間(815年~820年頃)に陸奥守小野岑守が建設した「出羽郡井口」国府の有力候補地である.しかし『図説山形県の歴史』では「河辺府」を払田柵(秋田県仙北町)にあて,さらに「出羽郡井口」国府である可能性も否定し,『日本三代実録』仁和3(887)年5月の記事にある「旧府近側高敞之地」に移転した出羽国府であるとする.『図説山形県の歴史』の説を採ると,9世紀前半から使用されている城輪柵の,887年以前の性格がいかなるものであったかいささか不分明である.また,『三代実録』の記事に「閑月遷造,不妨農務,用其旧材」と提言されていることが実施されたにしては規模が壮大に過ぎはしないだろうか.ここではオーソドックスに,小野岑守が建設した「出羽郡井口」の出羽国府と位置付けたい.また,「旧府近側高敞之地」に移転した国府は城輪柵からやや東方の八森遺跡(飽海郡八幡町)ではないだろうか?

 その廃絶は各参考文献でもあまり明らかに指摘されてはいないが,恐らくは律令国家の衰退とともに国府としての機能を停止し廃絶したものと思われる.


城輪柵の写真

参考文献
 『国指定史跡城輪柵跡:史跡城輪柵跡保存整備事業報告書』(酒田市教育委員会発行/1998年3月初版)
 『図説山形県の歴史』(横山昭男責任編集/図説日本の歴史6/河出書房新社/1996年11月初版)
 『秋田城跡:政庁跡』(秋田市教育委員会・秋田城跡調査事務所発行/2002年3月)
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 中村光一「出羽国府の移転に関する一考察」(「史境」40,2000年)
 岡田茂弘「出羽国府城輪柵の遺跡」(東北歴史博物館第33回館長講座/2001年3月)

2002年11月7日作成
2002年11月12日改訂
2004年6月20日移転・修正

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秋田城(秋田県秋田市)

 秋田城は考古学上の知見に拠れば,8世紀前半から10世紀中頃まで存続した古代の城柵(古代の律令国家によって東北に設置された,政庁と軍事施設の性格を併せ持つ施設)である.恐らくは奈良時代から平安時代初期にかけての出羽国府ではないかと推定されているが異論も多い.出羽国府は多賀城=陸奥国府ほどの文献資料を欠く上に,その中に国府移転に関する記事が頻出し,しかも必ずしも文献に登場する地名が比定できないケースが多く,未だにその歴史的位置付けについては議論が分かれている.

 秋田城は,天平5(733)年12月に出羽柵が出羽国秋田村高清水岡に移転した『続日本紀』の記事が初見である.政庁址の考古学調査による知見も,現在の地に秋田城が建設されたのが8世紀前半であることを指示している.それ以前の「出羽柵=出羽国府」は,和銅2(709)年にもと越後国であった出羽郡(現在の山形県庄内地方)に設置されていたが,正確な場所は未確認である(出羽国府は秋田城には移転していない,という説もあるが,国名「出羽」を名乗る城柵の移転が国府を伴わないとは考えがたい).天平9年には陸奥国府多賀城から秋田城に至る直路の開削が藤原麻呂,大野東人らによって行われるが大雪のため挫折する.その後宝亀6(775)年には出羽国から守りを固めて国府を移転したいので3年間ばかり兵士を貸せとの奏上があり,相模・武蔵・上野・下野の4か国から兵士が出羽国に派遣されている.しかし5年を経た宝亀11年にいたっても移転は進まず,出羽国は上奏文で泣き言を並べている.考古学的知見に拠れば,この頃秋田城政庁(第Ⅱ期)は炎上しており,出羽国司が「秋田は保ち難い」と奏上しているところみると,秋田城を取り巻く情勢は不穏なものであったらしい.おりしも陸奥国では伊治公呰麻呂の反乱が起きている.なお,国府の移転先は「河辺府」とされ,これが城輪柵(山形県酒田市)を指すかどうか,これまた議論が分かれている.

 記録に拠れば延暦23(804)年,ようやく出羽国の奏上により秋田城は停止され秋田郡とされる(つまり秋田城は郡府もしくは郡衙に格下げになったということだろう)が,城柵としての秋田城は再度整備され(政庁第Ⅲ期)面目を一新している.国府もこの時点までには移転したが,後世「秋田城介」と呼ばれるように,出羽介は引き続き秋田城に留まることになったと考えられるがどうだろうか.天長7(830)年には秋田城周辺で大規模な地震が発生し,秋田城の「城郭官舎ならびに四天王寺丈六仏像,四王堂舎等皆ことごとく転倒す」(『類聚国史』巻171)という被害を出す.その報告は「鎮秋田城国司正六位上行介藤原朝臣行則」からもたらされたものである.この大災害を何とか乗り切って政庁を再建した(第Ⅳ期)秋田城だが,元慶2(878)年には大規模な俘囚の反乱(元慶の乱)が発生し,またしても政庁は炎上し灰燼に帰してしまう.

 乱の平定後,秋田城は旧制に倍して復旧されたと「藤原保則伝」は記すが,政庁址の発掘調査によれば,乱後に再建された政庁正殿(第Ⅴ期)は第Ⅳ期に比して若干小振りであるとされる.その後秋田城は徐々に律令国家の郡府としての機能を失い,政庁が今一度建て替えられている(第Ⅵ期)ものの,天慶2(939)年に秋田城軍が賊徒と合戦し,秋田郡の「官舎を開き,官稲を掠め取る」(「貞信公記抄」)頃を最後に廃絶したと考えられる.発掘調査でも10世紀半ば以降の大規模な政庁址の使用の痕跡は見られないとされる.「秋田城」という言葉は,その後もしばしば歴史上にあらわれ,最後の登場は延文元・正平11(1356)年であるというが,それが古代城柵「秋田城」から連続してこの地にあったものかどうかは不明である.なお,政庁址から700mほど南に下った丘陵にある「勅使館」と呼ばれる館址は,当初秋田城の外郭址と考えられていたが,調査の結果中世の館址であることが確認されている.

 現在,秋田城址は発掘調査と史跡整備が進められ,平成6年度から4年をかけて復元された外郭東門と築地塀や,外郭東辺外側の「鵜ノ木地区」から発見された水洗式厠舎の遺構など見所の多い史跡公園となっている.


秋田城の写真

参考文献
 『秋田城跡:政庁跡』(秋田市教育委員会・秋田城跡調査事務所発行/2002年3月)
 『史跡秋田城跡』パンフレット(秋田城跡調査事務所発行)
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 岡田茂弘「出羽国秋田城跡」 (東北歴史博物館第31回館長講座/2001年2月)
 中村光一「出羽国府の移転に関する一考察」(「史境」40,2000年)

2002年11月5日作成
2004年6月20日移転・修正

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久保田城(秋田県秋田市)

 久保田城は慶長7(1602)年常陸国水戸54万5千石から出羽国秋田20万5千石に国替された佐竹義宣(1570-1633)が築いた城である.佐竹氏は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光を祖とする源家の名門であるが,慶長5年の「関が原の戦い」では去就を明らかにせず,結局西軍の敗北により鎌倉以来の領地であった常陸を追われ秋田へ減封になる.徳川家康の本拠である江戸の近所で日和見を決め込んでいたのだから改易されてもおかしくなかったところ,義宣の父で戦国大名佐竹氏の地歩を築いた名将として知られる義重(1547-1612)の政治力がものを言ったようである.

 義宣は秋田に移った当初,前の領主であった秋田(安東)実季(1576-1659)の湊城(秋田市土崎港中央)に入る.湊城は名前の通り,港の近場という交通の要所にあり,また転封直前に実季により改築されたばかりだった.しかし実季は5万石の大名でそれなりの城だったのか手狭な上に,秋田(安東)氏も平安末期以来?この地方に代々居住していた領主で,その居城は佐竹にはあまり居心地がよくなかった(^^;)のであろう.何しろ佐竹の秋田入国の際,大規模な一揆が頻発した土地柄である.義宣は早速新城を建設することにした.義重や重臣たちと喧喧囂囂の議論の末,「水運もよく所領の中央にある」という義宣の意見が通って標高約40メートルの神明山の地が選ばれた.義宣は早速,慶長8年5月に築城を始め慶長9年8月には久保田城が完成する.

 城郭は一段高いところにある本丸・二の丸を堀と三の丸・北の丸で囲んだ,ほぼ輪郭式と言っていい縄張りである.石垣を用いずに土塁をめぐらし,本丸には表門,裏門,帯郭門,埋門の4つの門,3箇所の二層櫓と本丸御殿を建て,内部を書院造にした本丸南側の櫓を〈御出書院〉(おだししょいん)と称してお城の象徴としていた.本丸西側と北側には長大な多聞櫓を築き,表門の両側にも多聞櫓があったが,あとは板塀で囲んでいた.二の丸には馬場や金蔵,厩があり,三の丸には上級武士の屋敷が立ち並ぶ.面白いことに三の丸の〈下中城〉と呼ばれるところに大手門があり,〈上中城〉と呼ばれるところに搦手門があるが,これが両方とも城の南側に位置し,それほど離れていないところに設けられている.
 石垣を用いなかったことについては諸説があるが,常陸時代の佐竹氏の本拠である太田城(茨城県常陸太田市),水戸城(茨城県水戸市)や堀之内大台城(茨城県潮来市)でも石垣は用いられておらず,徳川に遠慮したこともさることながら,そもそも伝統的に佐竹氏には石垣を用いる築城法が伝わっていなかったと考えたほうがいいのではないか.また義宣は城下町の整備も進め,城の西側の守りである旭川から東側を内町(侍町),西側を外町(町人町)と称し,外町の城から見て西の一角に旧湊城の城下町などから寺院を移転させて寺町を形成し西方の守備を固めた.

 以後久保田城は幕末まで佐竹氏が秋田藩主として在城する.7代義明(よしはる),8代義敦(小田野直武とともに秋田蘭画の担い手であった佐竹曙山),9代義和(よしまさ)と藩政改革を行い,紆余曲折はあったが義和の代になんとか財政を立て直した途端,天保の大凶作に見舞われ打ち毀し,強訴が多発して10代義厚はその後処理に追われることになる.戊辰戦争時には12代義尭の下,奥羽越列藩同盟の一翼を担いながら奥羽鎮撫隊を迎え入れ,平田篤胤の流れをくむ藩内の勤王派が陰謀をめぐらしたあげくに仙台藩から来ていた使節を暗殺してしまい,中途で同盟から脱落,同盟敗退の端緒のひとつを招いた.

 久保田城は寛永10(1633)年,安永7(1778)年と火災にあい,明治維新後存城とされたものの城郭内の建物は順次払い下げられ,残った建物は明治13(1880)年の火災で本丸が全焼し,現存する建物は本丸一の門の枡形に御物頭御番所が残るのみ.現在,城址には県立美術館,県立図書館,県民会館,私立高校,佐竹史料館などがある.平成元(1989)年には市制100周年を記念して本丸北西隅の新兵具隅櫓あとに〈お隅櫓〉と称する櫓が建てられたが,これは歴史的復元ではない.平成13年に本丸一の門が復元され,こちらは歴史的な交渉に基づく復元で存城当時の雰囲気をしのばせる.なお,この一の門(表門)の復元に携わった会社のサイト築造工事の記録がある.


久保田城の写真

参考文献
 『日本城郭大系』 新人物往来社
 『日本名城図鑑』 西ヶ谷恭弘監修/理工学社/1993年12月初版
 『戦国の城・上(歴史群像シリーズデラックス版1)』 西ヶ谷恭弘著/学習研究社/1992年6月第3刷
 『日本の城原風景(別冊歴史読本)』 新人物往来社/1995年12月初版
 『奥羽越列藩同盟』(星亮一著/中公新書1235/中央公論社/1995年3月初版)
 『図説久保田城下町の歴史』(渡部景一著/無明舎出版/1983年2月初版)
 『久保田城ものがたり』(渡部景一著/無明舎出版/1989年12月初版)

2002年10月20日作成
2002年11月22日改訂
2004年6月20日移転・修正

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向羽黒山城(岩崎城,福島県会津本郷町)

 向羽黒山(むかいはぐろやま)城は地元で「白鳳三山」と呼ばれる観音山・羽黒山・岩崎山を利用して築かれた,国史跡指定分だけでも50万平米に及ぶ,壮大な規模の山城である.南東北の名将蘆名盛氏(1521-1580)が家督を嗣子盛興(1549-1574)に譲って隠居する際,隠居城として永禄4(1561)年起工し永禄11年に完成したと伝えられる.

 これより先,守護大名→戦国大名蘆名氏の政庁は現在の若松城(鶴ヶ城)の地にあった黒川城(黒川館)であり,平野の真ん中にある黒川城の「詰の城」として南方5.5キロにある白鳳三山に何らかの中世城郭施設があったものと考えられよう.蘆名盛氏は隠居城と称して恐らく小規模な山城(現在の〈一曲輪〉程度?)だった原・向羽黒山城に大改修を加えて南方の諸勢力(長沼,二階堂,田村,白川などか?)に対する備えともしたのではないだろうか? 盛氏は隠居して止々斎と称したが,その後も相変わらず蘆名家の実権を掌握していたようで(年齢的に考えても当然ではあるが),向羽黒山城には家臣団屋敷群や城下町も形成され,黒川城の蘆名本家とは別個に盛氏家が形成されたような印象さえ受ける.当時の向羽黒山城については,戦国時代の城郭には珍しく,城下常勝寺の僧覚成による城を詠った「巖館銘」なる詩文が現存しており,文学的な表現ながら城郭の威容を伝えるものとして貴重な情報を残している.また,盛氏は当代一流の文化人でもあったらしく,禅僧や医師との交流が伝えられている.中でも画僧雪村との交流が知られており,向羽黒山城の盛氏屋敷では雪村とその弟子達が襖絵,障子絵,屏風などを描いたと伝えられる.

 しかし,蘆名盛興は父に先立ち天正2(1574)年死去してしまい,盛氏は再度黒川城に入って蘆名氏の体制建て直しに奔走することになり,天正3年には向羽黒山城は廃城になったと伝えられていた.しかし最新の研究では,現在見られる遺構の中に蒲生氏郷または上杉景勝の若松在城時に改修されたものがあるらしいことを明らかにしており,向羽黒山城は少なくとも上杉景勝の米沢転封(慶長5年)までは城郭の機能を存続させていたものと考えられるようになっている.元和の一国一城令(1615年)まで存続していたかもしれない.

 城は岩崎山山頂より北方の麓へ一曲輪(実城),二曲輪(中城),伝盛氏隠居所(北曲輪)と連なる3つの大きな曲輪とその周囲を取り巻く数重もの小さな曲輪群から構成される.岩崎山の南側は断崖絶壁になっておりすぐ下を阿賀川が流れている.西側の谷地に三日町口,東側の平野部には隠居所への十日町口,二曲輪への六日町口がそれぞれ開いているが,最大の虎口が設けられ,道の途中に幾重もの小曲輪が連なり恐らくは家臣団屋敷群がしつらえてあったと考えられる西側の三日町口が大手であったと見られている.二曲輪では石垣が用いられていること,礎石建物が存在したことが発掘で確認されていることなどにより,蒲生氏郷領の頃には二曲輪が城の中枢であったと思われる.伝盛氏隠居所は一曲輪・二曲輪より古風な築城手法で整備されているようであり,蘆名盛氏在城時の遺構を留めている可能性もある.

 向羽黒山城は平成13(2001)年,国指定史跡になり今後の調査・整備が待たれるところである.


向羽黒山城の写真

参考文献
 『日本城郭大系』 新人物往来社
 『ふくしまの城』(歴春ふくしま文庫57) 鈴木啓著 歴史春秋社 2002年7月初版
 『戦国の城:下(中部・東北編)』(歴史群像DX3) 西ヶ谷恭弘著 学習研究社 1992年12月初版
 『会津若松城』 (歴史群像名城シリーズ15) 学習研究社 1997年11月初版
 「向羽黒山城跡ふれあい茶会 城跡探訪資料」 平成14年6月2日配布

2002年10月17日作成
2004年6月20日移転・修正

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大森城(福島県福島市)

 大森城は現在の福島市郊外南西部にある独立した丘陵に築かれた山城である.すぐ傍を旧米沢街道が通り,城下の北側で旧会津街道と交差する交通の要所にあたり,北方には信達地方の平地が一望できる.『信達一統志』には「永禄天正の間は信達の府と定め四民融通せし所なり」(『日本城郭大系』大森城の項からの孫引き)と記述された.街道筋の一部には現在も風情ある街並みが残る.丘陵は現在〈城山〉(じょうやま)と呼ばれているが,大森城が築かれた頃は〈鷹峰山〉と呼ばれていたらしい.また臥牛城,白鳥城などの別名を持つ.

 周辺には縄文時代から平安時代にかけての遺跡が点在し,大森城の周辺一帯は『和名抄』に記載がある〈陸奥国信夫郡小倉郷〉であろうと推定されている.丘陵の中腹に大森城山古墳と現在呼ばれる古墳が出土し,また正嘉2(1258)年,文永10(1273)年銘のものをはじめとする供養碑が現存しており,伊達氏による戦国期山城築城以前に何らかの宗教的施設が存在したらしい.後述する木村吉清の杉妻城(福島城)移転(文禄元[1592]年)の際,大森城下にあった寺院(城山中腹にあったと伝えられる普門寺や,誓願寺,定光寺など)が福島城下に移されており,その中のいくつかは伊達氏在城より古い時期からこの地にあったと考えられようか.なお,現在も城山中腹は墓地として利用されている箇所が残る.

 この地に本格的に城郭を築いたのは桑折西山城(福島県桑折町)に本拠を置いていた伊達稙宗(1488-1565)で,天文11(1543)年頃のことらしい.恐らくは南方(畠山氏,石川氏,小峰氏,白川氏など)への備えであった.稙宗は三男の藤五郎実元(1526-1586)を城主として大森城に入れたが,この実元の越後守護上杉氏への養子縁組をめぐり稙宗と嫡子晴宗の間に「天文の乱」(天文11年~17年)が勃発し,実元は稙宗方で活躍する.
 稙宗・晴宗父子の和解が成立すると,実元は新たに大森城主になった遠藤隠岐守および八丁目城(福島市松川町)城主堀越能登守の客分とされたが,大森城の旧家臣らの支持で(?)ほどなく大森城主に返り咲く.そのためか八丁目城の堀越能登守が伊達に反して二本松城主畠山義継に通じると,実元は八丁目城を攻めて天正2(1574)年これを抜く.実元は畠山義継と講和する一方,二本松から相馬へ逃亡した堀越を追って天正5年には相馬盛胤を破り,伊達家中における地位もゆるぎないものとなっていく.この時期大森城は,米沢城(山形県米沢市)に本拠を移した伊達氏の信達地方南部における重要な拠点となった.
 天正13年,実元は嫡子成実(1568-1646)に跡目を譲って八丁目城に隠居した.成実は大河ドラマでも描かれたように,独眼龍政宗の側近として片倉景綱とともに活躍した人物である.翌14年二本松城が落城すると成実は二本松城主となり,代わって片倉景綱が大森城主になる.大森城はその後も会津蘆名氏,須賀川二階堂氏攻略の前進基地として機能する.

 天正19年政宗が大崎・葛西旧領に転封となると,信達地方は会津黒川改め若松城主になった蒲生氏郷の支配するところとなり,大森城には木村吉清が入る.木村吉清は豊臣秀吉により大崎・葛西旧領に封じられていたが,大崎・葛西一揆の責を負って改易され氏郷の客分となっていたもの.その後吉清は文禄元(1592)年もしくは2年に居城を杉目城(改名して福島城)に移り,城下町も移転させて大森城を廃城とした.
 慶長3(1598)年,蒲生秀行(氏郷の子)が下野国宇都宮に転封となり,上杉景勝が若松に入ると大森城は復活し,栗田刑部少輔国時が城代として入城する.栗田は慶長5年関が原の戦いの際,家康方に内通して出奔したが途中で討たれる.関が原の戦いの後,上杉景勝は若松120万石から米沢30万石に移されるが信達地方は引き続き上杉領として残り,大森城には小峰城(福島県白河市)城代であった芋川越前守正親が城代となる.以後芋川氏が正親,元親(?-1634),綱親(?-1643),高親(?-1680)と4代64年にわたって城代として在城したが,寛文4(1664)年上杉綱勝が急死して米沢藩が存続と引き換えに15万石に減封された際,信達地方が幕領となったため芋川高親は米沢に退去,大森城は廃城となる.

 その後城址の麓に芋川氏の菩提寺だった華屋山常栄寺があったが明治11(1878)年廃寺になり,城址には〈城山観音堂〉と芋川3代の墓石などが残された.現在では公園として整備されているが,城址としての面影には少々乏しい(^^;).

 大森城は城下町に通じる北東側を大手(北御手)とし,北から北館(二の丸),主郭(本丸),椿館(帯郭),南館(出丸,ひめごてん)と曲輪が並び,城山の最も高所に主郭が置かれた.西側が搦手で〈城裏口〉という地名が残る.なお,本丸東側にある,発見地から移動・復元された大森城山東1号墳の現在地が大手口とも言われている.ここからは〈馬場〉あるいは〈北内町〉などの地名の残る,伊達氏家臣団の屋敷があったと言われるところに直線的に降りることができるようだ.明治の地籍図では城下町の「総構え」らしい痕跡も認められるという.大森城は並列的な曲輪構成という戦国時代天文期の山城の特徴を遺構に残すが,一方で「総構え」の存在は織豊期に見られる特色であり,上杉領時代の城下町整備を推測できる.恐らく芋川氏が城代になってからは,山上の曲輪は行政的な機能を喪失していたのではあるまいか.


参考文献
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『大森城跡・大鳥城跡2』(福島市教育委員会/福島市埋蔵文化財報告書第78集/福島市/1995年3月初版):特に本書所収の「附編1 大森城の構成」(千田嘉博執筆)に本稿の縄張り解説は多くを負っています
 『大森城の歴史』(守山清編・発行/1993年初版)


大森城の写真

2002年8月22日作成
2004年6月20日移転・修正

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鳥取城(鳥取県鳥取市)

 鳥取城は現在の鳥取市の市街地北部,官庁街と文教地区を形成している地域の一角にある久松山(きゅうしょうざん,海抜263メートル)を利用して築かれた平山城(と言うより山城+平城)である.戦国時代には久松山のごく一部(必ずしも現在の〈山上の丸〉とは言い切れないようで,むしろ山腹に痕跡の残る諸砦が当初の〈鳥取城〉であったらしい)が利用されていたが,近世に入って在城した宮部継潤,池田長吉らによって近世城郭としての縄張りや城下町が整備された.

 鳥取城が築かれたのは,通説では天文14(1545)年2月のことで,湖山池のほとりにあった布施天神山城(鳥取市)に拠る因幡国守護山名誠通(久通とも,?-1548.このひとの名前のヨミは「さねみち」と「まさみち」の二通りが資料に見える)の築城とされる.かねてより隣国但馬守護山名祐豊(?-1580)と争っていた誠通が出城として久松山を利用して山上に砦を築いたのが始まりだとするが,この説は裏づけに乏しいと『久松山鳥取城』の著者は主張する.むしろ山名祐豊の側が布施をはるかに望む久松山の地に前線基地を設けたのが,鳥取城の始まりではないか,と述べている.そして天文14年には山名誠通の側が鳥取城をその勢力下に収めたのではないかとも推測している.

 しかし山名誠通は天文17年,布施天神山城を急襲され戦死してしまう.誠通の遺児はまだ幼く,因幡山名氏は宿老たちが相談の結果,但馬の山名祐豊の弟にあたる豊定を迎えて但馬山名氏と講和する.鳥取城は当初,宿老が交代で城番を務めたが,そのひとり武田家が定番となって鳥取城に入ると次第に勢力を伸張させ,布施に拠る因幡山名氏を圧迫するようになる.このあたり,いろいろ不明の点も多いようだが,武田高信との争いで誠通の子豊成・豊次が相次いで討たれ,豊定の子豊数もまた中途に戦死してしまう.しかし後を継いだ豊数の弟豊国(1548-1626)は(後世の悪評とは幾分異なり)ひとかどの武将であったらしく,元亀2(1571)年8月には但馬国阿勢井(兵庫県浜坂町)にて武田高信の軍勢を大破する.翌年には毛利に滅ぼされた尼子の遺臣山中鹿之助幸盛(?-1578)と結んで再度高信軍を打ち破り,天正元(1573)年鳥取城に入ってここを因幡守護の本城にした.

 豊国は武将としてはともかく(徳川家康が「大坂冬の陣」の際,豊国に意見を求めた,という逸話が残っている),政治家としては人望が欠けていた(^^;)のか,東に織田,西に毛利からの圧迫を受け不安定な因幡の国人をまとめ上げることが出来ず,尼子勢を見捨てて毛利に付き何とか延命を図ろうとした.天正3年には但馬山名氏と毛利の和睦がなり,翌4年に室町幕府15代将軍足利義昭が毛利の庇護に入ると,尼子勢が織田信長麾下の羽柴秀吉と結ぶに至る.しかし尼子勢は因幡に留まることができず,播磨国上月城(兵庫県上月町)に入って毛利に抵抗するが,播磨三木城(兵庫県三木市)の別所長治の造反によって秀吉が上月城の支援ができなくなり,天正6年7月には上月城は陥落し山中鹿之助が擁していた尼子勝久は自殺,鹿之助は毛利の捕虜となり護送される途中,備中国合の渡し(岡山県高梁市)で殺害された.一方,山名豊国は天正6年にかつての政敵武田高信を暗殺し,何とか因幡国人の統率を計ろうとしている.天正7年6月には伯耆国羽衣石城(鳥取県東郷町)に拠る南条氏が毛利氏から離れて秀吉方に付き,毛利は因幡・但馬への支援が困難になる.

 天正8年正月に三木城が陥落し,後顧の憂いがなくなった秀吉は電光石火の勢いで5月には但馬を制圧,但馬守護山名祐豊・氏政父子の拠った出石城は陥落し但馬山名氏は滅亡した.次いで秀吉は因幡に進攻,若桜城(鳥取県若桜町),鹿野城(鳥取県鹿野町)を相次いで攻略し,鳥取城を包囲した.秀吉は豊国を懐柔して9月21日開城にこぎつけたが,豊国の態度を遺憾とする国人家老森下道誉・中村春続らは豊国を追放して再び毛利側に付き,吉川元春に城将の派遣を要請する.そこで元春は吉川経家を鳥取城に送り込んだ.
 なお,鳥取城を追放された山名豊国は出家して禅高と号し,秀吉の御伽衆,次いで徳川家康・秀忠に仕え但馬国内で6700石を与えられて天寿を全うした.有職故実に通じ,和歌・連歌・茶湯,将棋などをよくしたと伝えられる.山名氏は豊国の子孫が但馬国村岡(兵庫県村岡町)6700石にて明治維新まで存続し,明治元(1868)年諸侯に列する.

 鳥取城に入った吉川経家(1547-1581)は石見国福光城(島根県温泉津町)の城主吉川経安の嫡男.天正9年3月18日,鳥取城に配下の兵400とともに入城し,支城の丸山城,雁金城にそれぞれ兵を入れ羽柴秀吉の軍勢を迎え撃った.7月,秀吉は2万の大軍で鳥取城を包囲する.秀吉が既に前年,因幡国内の米を買占めていたため4000人が籠城する鳥取城は兵糧が不足し,経家もしきりに兵糧の補給を吉川元春などに依頼するが,秀吉側による鳥取城の包囲陣は堅い上に,吉川勢が秀吉方の羽衣石城を抜くことができず,鳥取城はかくして孤立し餓死者が続出する地獄絵となる.三木城の「干殺し」とともに,秀吉が城攻め上手の名を天下に知らしめることになる鳥取城の「渇殺し」である.経家はこの状況を見るに見かねて,秀吉から出された講和条件をのみ10月25日開城した.秀吉は家老森下・中村らの切腹と引き替えに経家を助命しようとしたが,経家は鳥取城抵抗の責めを一身に背負い切腹する.

 因幡平定後,秀吉は鳥取城に宮部継潤(善祥坊,1528?-1599)を入れ,因幡国内で5万石を与えた.継潤は近江国浅井郡(一書に坂田郡)の人,最初仏門に入ったが兵書を好み仏門を離れ,浅井長政に仕える.元亀2年,織田信長の浅井攻めの際信長に降伏し,信長,次いで羽柴秀吉に仕える.当時「算勘の達人」として知られ,因幡衆の総領として因幡国内を取り仕切った.宮部時代の鳥取城についてはよくわからないが,現在見られる山上の丸,山下の丸の原型が作られたものと考えられ,また以前からの久松山腹の城塞(西坂[松の丸],中坂,東坂の各砦)を整備したらしい.継潤は慶長元(1596)年12月に家督を長熙に譲ったが,その後も秀吉の奉行衆として活動を続け,慶長4年3月死去した.
 後を継いだ宮部長熙(長房,定行とも.?-1634)は継潤の実子とも養子とも伝えられる.慶長元年,因幡・但馬両国で12万石を与えられ鳥取城主になる.慶長5年の「関が原の戦い」で西軍に付いたが,因幡鹿野城主亀井●矩(これのり),但馬竹田城主赤松広秀(斎村政広とも)の攻撃を受け鳥取城下に放火される.戦後,所領を没収され南部利直にお預けとなり盛岡で死去した.また,赤松広秀は鳥取城下焼失の責任を亀井●矩に押し付けられて切腹となり,室町幕府の名門赤松氏も滅亡した.

 因幡国内で西軍に付いた宮部,若桜鬼ヶ城の木下重堅(もと荒木兵太夫といい荒木村重の家臣だったが,村重の謀反後は秀吉に仕え,木下姓を賜り若桜で2万石),浦富桐山城の垣屋恒総(垣屋氏は但馬山名氏の重臣の家柄.恒総の父光成は但馬が秀吉に平定されると秀吉に付き,桐山城で1万石)はいづれも改易となり,鳥取には西因幡6万石で池田長吉が,若桜鬼ヶ城には山崎家盛が2万5千石で,亀井●矩は鹿野城で3万8千石をそれぞれ領することになる.
 池田長吉(1570-1614)は織田信長の乳兄弟池田恒興(信輝,勝入斎.1536-1584)の三男.秀吉の養子だったこともある.関が原の戦いで西軍の長束正家を謀殺するなどの戦功を挙げ,戦後鳥取に封ぜられた.長吉は鳥取城を大改造して現在見られる縄張りを作り上げ,城下町を整備したと伝えられる.長吉の兄池田輝政(1564-1613)は姫路城主として,現存する姫路城の縄張りを整備した人物でもあり,この兄弟は城郭建設にたけていたらしい.慶長19年9月,長吉は死去し子の長幸(1593-1632)が後を継ぐ.元和2(1616)年,姫路城主池田利隆(輝政の子)が死去して後を8歳の新太郎光政が継ぐと,領主幼少では播磨は治まらない,との理由で姫路42万石から因幡・伯耆32万石で鳥取に転封となり,長幸は備中松山藩6万2千石に移される.のち長幸の子孫は相続争いを起こして改易され,家は旗本として存続した.

 池田新太郎光政(1609-1682)は当代きっての名君とうたわれ,水戸藩主徳川光圀(1628-1700),会津藩主保科正之(1611-1672)などと並び称された人物.ただし,鳥取藩主時代はまだ年少であったので,藩政は家老の合議制で執り行われた.光政の代に鳥取城下は拡張され,後の鳥取市街地の原型が形作られる.
 寛永9(1632)年,岡山城主池田忠雄(1602-1632,輝政の三男.母は徳川家康の娘督姫)が病没し,後継ぎの光仲が数え3歳であったことや,忠雄の男色関係のもつれから刃傷沙汰があった(これが後年,荒木又右衛門の三十六人切りで著名な伊賀上野「鍵屋の辻の仇討ち」に発展する)ことなどにより改易も考えられたが,老臣たちの奔走や忠雄が家康の外孫であることなどから鳥取藩の池田光政と所領替えということで収まり,光仲が鳥取に移る.

 池田光仲(1630-1693)は種々の理由から自らの権威を打ち立てるのに腐心した人物,という印象があるのはG.C.W.氏だけだろうか(^^;)? 何しろ3歳で藩主になり,幼児だから岡山は無理とされて鳥取に飛ばされ(鳥取県のみなさんゴメンなさい),藩政は池田家を救った家老荒尾成利らが執る.岡山に移った従兄の光政は聡明で名君とうたわれ,光仲は幼い頃から何かと比較されて育ったと思われる.おまけに徳川家康の外孫であった父忠雄,伯父の忠継,叔父の輝澄,輝興らがあまりいい死に方をしていない.これで素直に育ったら奇跡かも(^^;).鳥取には現在も伝わる〈麒麟獅子〉という伝統芸能があるのだが,これは光仲が創始したと伝えられ,ある説によれば光仲が徳川家康を強く意識して考え出したものとされている.寄る辺のなかった光仲は曽祖父家康のイメージに自らをなぞらえて,自らの権威を飾り立てようとしたのだろうか.
 その後の鳥取藩は光仲の子孫が代々藩主となり幕末にいたる.幕末の12代藩主は養子に入った水戸藩主徳川斉昭の5男慶徳で,長兄の水戸藩主慶篤ともども弟の一橋慶喜の足を引っ張るだけ(^^;)の存在だった,とも言われる.

 近世の鳥取城は池田長吉の代に面目を一新する形で大々的に整備が行われ,池田光政,光仲とも基本的には長吉の縄張りと城下町を引き継いでいる.城は大きく「山上の丸」と「山下の丸」からなり,山上の丸には本丸が,山下の丸には天球丸,二の丸,三の丸,右膳の丸が置かれた.山上の丸には当初三層,池田長吉が二層に改築された天守が存在した.天守は山名豊国が布施天神山城から移築したものだと伝えられるが疑わしく,秀吉恩顧の宮部氏の代に創建されたものであろう.久松山上にある天守は厳しい山陰の冬に耐えられず次第に痛んできたので,池田長吉は三層天守を二層に改築する.元禄5(1692)年落雷にあって焼失した以後は再建されなかった.遺構に拠ればふたつの付櫓を備えた複合式天守であったらしい.
 山腹には山名氏や武田氏の代に活用されたらしい砦がいくつかあったようだが近世鳥取城では利用されず,山下の丸が整備された.山下の丸は何度か改造が実施され,右膳の丸が整備されたのは弘化2年になってからである.二の丸には角櫓,御三階櫓,走り櫓,稜櫓,多聞櫓が並び立ち,御殿が内部一杯に建てられていた.御三階櫓は山上の丸天守が焼失してからは鳥取城の象徴的な櫓となり,いくつか古写真も残されている.三の丸には藩主の居館と走り櫓があり,走り櫓は藩の政庁として機能した.天球丸は山下の丸の一番高いところにあり,池田恒興の娘天球院に由来する.若桜鬼ヶ城主山崎家盛の妻であったが仲違いして弟である池田長吉のところに身を寄せたと言う.長吉は鳥取城の一角に姉が住むところを設け,これが天球丸と呼ばれるようになる.横長の三階櫓と風呂屋御門と呼ばれた門があった.また大手道の向かって右側が青木の馬場,左手が内馬場と呼ばれた.「北の御門」と呼ばれた門から二の丸に通じる道の脇には当初家臣団の屋敷があったが,徐々に城外に移されその址には米蔵などが建てられた.
 鳥取城は享保5(1720)年の大火「石黒火事」でほぼ灰燼に帰し,三の丸,二の丸御三階櫓はすぐに再建されたが,二の丸御殿はしばらく再建されず,ようやく弘化2(1845)年にいたって再建される.幕末には天球丸に池田慶徳が稽古所を設け武術の教練が行われている.

 明治維新後,鳥取城は当初存続することになっていたが明治12(1879)年,陸軍省が建物を解体してしまい廃城となった.現在,二の丸仕切り門が残るのみで三の丸には鳥取西高校が,馬場には仁風閣が,米蔵などの址には鳥取県立博物館が建つ.いまも発掘調査や石垣の整備が継続して行われているようだが,鳥取県埋蔵文化財センターは青谷上寺地遺跡と妻木晩田遺跡の紹介でWebは手一杯らしく,鳥取城の整備計画などはWeb上では見当たらないのが残念(部署違いだったら失礼).


鳥取城の写真

主な参考文献
 『久松山鳥取城:その歴史と遺構』(鳥取県の自然と歴史6/鳥取県立博物館/1984年3月初版)
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『名城の「天守」総覧』(西ヶ谷恭弘監修,日本城郭史研究会編著/学研/1994年6月初版)
 『復元大系日本の城』 ぎょうせい
 『信長と天皇』(今谷明著/講談社現代新書1096/講談社/1992年4月初版)
 『国史大辞典』(吉川弘文館)

2002年8月8日作成
2004年6月20日移転・修正

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松江城(島根県松江市)

 松江城は慶長12(1607)年より,5か年をかけて堀尾吉晴(1543-1611)により築かれた.慶長5年の関が原の戦いの後,堀尾吉晴はそれまで毛利氏の所領の一部であった出雲・隠岐24万石を与えられて富田城(島根県広瀬町)に入ったが,富田城は戦国時代を生き抜いた山城であり,領内の東部に偏位した立地で城下は狭く,吉晴の前に出雲・伯耆を領有して入城していた毛利一族の吉川広家も伯耆国米子の湊山に新しい居城を築いていたところであった(こちらは現在の米子城で,関が原の戦いの後,中村一氏の子忠一が封じられる).そこで吉晴も新たに本拠となる城郭を築くべく,亀田山(極楽寺山,現在の松江市)の地を選んで築城したのが松江城である.

 元々,亀田山には出雲守護佐々木氏の一族である末次氏が拠った末次城があり,元亀2(1571)年には布部山の戦いに敗れた山中鹿之介が入ったこともある.ここは南に宍道湖と大橋川,北には丘陵地,東西は低湿地という守りに堅い場所として,吉晴の嗣子忠氏(1578-1604)がこの地を選んだという.しかし忠氏は松江城の着工を見ることなく慶長9年27歳の若さで急逝(富田城下で狩をした際,マムシに噛まれたのが原因であったという)し,嫡孫の忠晴(1599-1633)がまだ6歳であったため吉晴が再び国政を見ることになり,松江城の普請も吉晴の下で行われた.

 堀尾吉晴は尾張国丹羽郡の土豪で代々は織田家に仕えていたらしいが,吉晴は木下藤吉郎秀吉に仕えて16歳で初陣を果たし,その際早くも一番首をあげる.その際,誰も茂助(吉晴の通称)の一番首を信用しなかったという逸話が残っているほど,普段は柔和な性格で〈仏の茂助〉と呼ばれるような人物だったが,戦場では猛将であった.その後も秀吉の下で武功を重ね天正13(1585)年には近江国佐和山で4万石,天正18年には遠江国浜松で12万石の大名に出世する.秀吉政権下ではその政治的調整能力も買われたらしく,生駒親正,中村一氏とともに後世〈三中老〉と称される位置にいた.慶長4年には隠居して忠氏に家督を譲り,隠居料5万石を越前国府中で領する.慶長5年の関が原の戦い直前,酒宴の席で水野忠重(家康の母伝通院の兄弟で,家康麾下随一のピカロ(^^;)水野日向守勝成の父)が加賀井重望に殺害されたとき,直後に重望を切り捨てたのは吉晴である.関が原では東軍につき,戦後の論功恩賞で出雲・隠岐24万石に転封になる.
 
 吉晴は蒲生氏郷などと並ぶ城普請の名手として知られ「普請上手」と称されていたが,その上松江城の縄張りをうったのは吉晴に仕えていた当代一流の軍学者小瀬甫庵(1564-1640,『太閤記』の著者)である.松江城では亀田山,宇賀山,赤山と連なる小丘陵であったものを,亀田山の上と宇賀山を削って掘割と石垣を築く大工事を敢行した.宇賀山を削って出来た土地が家臣団の屋敷地となる.現在の〈塩見縄手〉である.完成前より吉晴・忠晴は松江城に移ってきていたが,城郭の完成直前,吉晴は松江城内で病没した.後を忠晴が継いで松江城は一応の完成を見る.

 本丸は中央やや東北寄りに五層六重の独立天守をあげ,周縁には6つの櫓と多聞櫓をめぐらし(一部は瓦塀)ていた.周縁は複雑な屈曲を持ち,実戦的な横矢掛りとなっている.重厚な天守閣は現存する山陰地方唯一の天守建築で,二層の大屋根の上に三層を載せた望楼式天守.なお南側に付櫓がある複合式天守でもある.付櫓から入り,その2階から天守地階に入るようになっている.慶長期天守としては古風な外見をとどめるが,相当に実戦的かつ経済的な建築でもあるようだ.
 二の丸は本丸南側から北側へ取り付く広大かつ複雑な縄張りを持ち,本丸と二の丸の関係や腰曲輪,帯曲輪の取り付きが秀吉築城の大坂城と極めて似ている.実は,堀尾吉晴は秀吉の大坂築城に参画したひとりであった.本丸南側の一段低いところには4つの櫓と御書院,御広間などがあり,特に月見櫓は他の櫓と異なる数奇屋風の建築で御書院の西南部に接続し,むしろ月見御殿と呼ぶのがふさわしい建物である.東側の二の丸下の段には7つの米倉,御小人長屋などが建てられていた.三の丸は二の丸の南側に正方形の堀をめぐらし,四方を多聞櫓と塀で囲んだ中に藩主の居館が設けられていた.居館には茶室も設置されている.また,表門以外の三方は廊下橋で二の丸,花畑,御鷹部屋と連結していた.
 なお,城の西側は一部石垣のみの土塁,北側(上御殿・稲荷社.現在の護国神社・城山稲荷神社付近)には石垣が用いられていないことを取り上げて,松江城が未完成である,とする説もある.確かに,北西方面の防御がこのままでは脆弱であることは間違いない.

 堀尾吉晴の後を継いだ孫の忠晴は当時評判の美少年であったらしい.将軍家のおぼえも悪くなかったようだが寛永10(1633)年35歳で病没し,嗣子がなかったため無嗣絶家で改易される.あとには京極忠高(1593-1637,高次の子.母は秀吉の側妾淀殿の妹で徳川秀忠の正室高台院の姉にあたる常高院,正室は徳川秀忠の4女)が若狭国小浜8万5千石から入り26万4000石を領するがこれまた後継ぎが無いまま寛永13年没して改易(なお弟の子高和が再興して播磨国龍野,ついで讃岐国丸亀で6万石を領して幕末に至る).わずか4年余りの治世であったが,地元の古伝では「若狭守さま」の業績は高い評価を受けていると聞く.
 その後には結城秀康の三男松平直政(1601-1666)が信濃国松本から移り,以後明治維新まで松平氏が出雲・隠岐18万6千石の藩主として幕末まで統治する.かの茶人大名松平不昧(治郷,1751-1818)は7代藩主.藩政改革と茶器散財との間で毀誉褒貶の激しい人物だが,彼の散財のおかげで観光都市松江は未だに食っていける(^^;)わけだし,そもそも「文化」とは不要不急と無駄の間から生まれるようなものだから,まあ「名君」だったのだろう(^^;).

 明治維新後,最後の藩主松平定安は松江城を島根県に譲渡,その後松江城は陸軍の管轄になるが広島鎮台は明治8(1875)年,松江城の建物を二束三文で売り飛ばし解体してしまう.そのとき天守閣の消滅を惜しんだ豪農勝部本右衛門,旧出雲藩士高城権八らが奔走し,落札代金180円と同額を国家に納めることでようやく天守閣の解体を免れることに成功する.明治23年,松江城は旧藩主松平家に払い下げられ,城地は「千鳥遊園」として公園化された.当時の県知事籠手田安定は「松江城旧観維持会」を設立して天守閣の修理に務めたが充分ではなく,天守閣はその後も破損が進み,ようやく昭和25年から30年にかけて「昭和の大修理」が実施され,現在見ることのできる美しい形を取り戻した.
 また,明治32年には二の丸に徳川家康,松平直政,松平不昧らを祭る松江神社が建立され,42年には島根県庁が旧三の丸に移転,昭和2年に松平家は城地および天守閣を松江市に寄付,9年に城址は国指定史跡になり,10年には天守閣が旧・国宝指定を受けている(昭和25年の指定変更により現在は国指定重要文化財).平成5年には「史跡松江城環境整備指針」が策定され,これに基づき平成12年に二の丸の櫓3棟と塀が復元されている


松江城の写真その1:本丸
松江城の写真その2:二の丸ほか

参考文献
 『日本城郭大系』 新人物往来社
 『日本名城図鑑』 西ヶ谷恭弘監修 理工学社 1993年12月初版
 『復元図譜日本の城』 西ヶ谷恭弘著 理工学社 1992年1月初版
 『日本の城原風景』(別冊歴史読本73号) 新人物往来社 1994年12月初版
 『名城の「天守」総覧』 西ヶ谷恭弘監修 日本城郭史研究会編著 学研 1994年6月初版
 『復元大系日本の城』 ぎょうせい
 『松江今昔』 松江市制施行110周年記念松江の歴史写真編纂委員会編 松江市 1999年11月初版
 『史跡松江城二之丸櫓復元』解説パンフレット

2002年6月22日作成
2004年6月20日移転・修正

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2004.06.19

米沢城(山形県米沢市)

 米沢城は,戦国時代に伊達氏がここに本拠地を移して以後,米沢藩上杉氏にいたるまで出羽国置賜地方の中枢として機能した城郭である.古来,この地方は出羽国置賜郡と呼ばれていたが,鎌倉時代初期,源頼朝により奥州藤原氏が滅ぼされたのちに置賜郡地頭職に補任された大江氏(頼朝の功臣大江広元の後裔)が置賜郡長井郷(現在の山形県長井市付近)に置賜郡支配のための政庁を置いたため長井荘と呼ばれるようになったと『米沢市史』は述べる.大江氏は広元の次男時広が最初に置賜郡地頭職に補されたと考えられるが,彼は長井を称して長井入道と号したらしい.時広の子孫は長井姓を名乗り代々鎌倉幕府の関東評定衆として重職を担っている.そのため長井氏代々は置賜郡(=長井荘)に下向することなく,一族や代官による支配が行われた.このころから現在の地に米沢城の前身にあたる舘があったのかどうかはよくわからない.

 長井氏は建武新政とそれに続く南北朝期,足利氏の鎌倉府成立後も変わらず政権の行政官僚として活動していたが,長井荘は南北朝末期に陸奥国伊達郡を本拠とする伊達氏により侵略されその支配権を失う.伊達氏の長井荘支配の年代については『伊達正統世次考』が伝える天授6・康暦2(1380)年のほか,応永9(1403)年,同20年説などがあり判然としないが,伊達宗遠(1323-1385)・政宗(生没年未詳)父子の代であったことは確実と思われる.この政宗は戦国時代の独眼龍政宗(貞山公,1567-1636)と区別するため「大膳大夫政宗」「儀山政宗」などと呼ばれるが,伊達氏の歴史では「中興の祖」と言われる.祖父行朝(生没年未詳)以来南朝方にあって北朝方への帰順が遅れ,逆風にさらされたと思しき伊達氏の勢力回復に務めたようだ.長井荘侵略もあるいはその一環であったかもしれない.
 儀山政宗は足利将軍家とも縁続き(妻の姉が足利義詮の妾で義満の母)で鎌倉府とは折り合いが悪く,応永7(1400)年から9年にわたって鎌倉府と衝突し伊達郡の桑折西山城を攻略され置賜に落ち延びたと伝えられる.このころの伊達氏の置賜における根拠地は,伊達郡から新宿(仁井宿)峠(宮城県刈田郡七ヶ宿町)を越える街道で通じていた高畠城(山形県高畠町)とされているが,米沢市の舘山にも伝承が残っている.この舘山には城址が存在し,『米沢市史』ではこの舘山城を長井氏時代に作られた山城で,その後新田氏が城主となるが,伊達氏が米沢に本拠を移したのち,新田氏を城代とした米沢城の「詰の城」として拡充が図られ,城下には伊達輝宗(独眼龍政宗の父)の隠居所も普請されたところとし,さらには独眼龍政宗が豊臣秀吉との対決に備えて惣構えを作るべく突貫工事を行ったが結局小田原参陣となり工事は中止された,と推測している.

 なお,長井氏は長井荘を失ったのちも本拠の武蔵国横山荘(東京都八王子市)に拠って活動を続けるが,上杉家の内訌に巻き込まれ永正元(1504)年山内上杉顕定の攻撃を受け時の当主長井広直は一族もろとも討死,長井氏の本家は滅亡した.

 さて伊達氏は南奥羽に続く戦乱の中,徐々に戦国大名としての地歩を固めていくがその画期となるのは14代稙宗(1488-1565)のときである.稙宗は「塵芥集」を制定して領国経営に腐心する一方,活発な軍事・外交を展開し近隣の大名に子女を入れて勢力伸張に務める.しかし稙宗の強権的な統制強化が家中に鬱屈を招き,越後守護上杉家への三男時宗丸(のちの伊達実元)の入嗣をめぐって縁組を軍事力で強行しようとした稙宗の側と,政情不安定な越後への入嗣の強行をきらった晴宗(1519-1577,稙宗の嗣子)の側の間での対立が直接の引き金になって,天文11(1543)年6月に稙宗が桑折西山城に幽閉される.これが南奥羽を混乱の渦に巻き込んだ「天文の乱」の始まりである.その後脱出した稙宗は天文15年6月に桑折西山城を奪回するが,晴宗の圧力により天文16年冬には再び退去し,翌17年9月には父子和睦にいたる.稙宗は隠居して陸奥伊具郡丸森城(丸山城,宮城県伊具郡丸森町)に退去,桑折西山城は廃城となり晴宗は米沢に本拠を移転,ここに米沢城が歴史に登場する.

 伊達時代の米沢城は現在の米沢城(上杉時代の米沢城)の地にあった.現在の本丸の地に「御館」あるいは「本城」と呼ばれる郭と「西館」と呼ばれる郭があり,南東やや離れたところに「東館」と呼ばれる郭が,そして「詰の城」として西方に舘山の山城が整備されたものと考えられる.米沢城そのものは,鎌倉時代から室町時代初期における守護の政庁に多少色がついた程度のものだろう.また城下町は永禄年間に整備が進められたが元亀元(1570)年の「中野常陸の乱」で焼失,その後再建され,後年伊達氏が岩出山→仙台と移ると城下町もそれに伴い移転し,江戸時代の仙台の町名や仙台の寺社仏閣には米沢に由来するものがある.
 なお,米沢市に今も残る昌伝庵という寺院は寺伝によれば永正2(1505)年に伊達尚宗(稙宗の父)の三男が死去した際,その菩提を弔うために創建されたと伝えられる.米沢城と城下町の成立を考える上で検討すべき伝承であろうか.

 伊達晴宗は稙宗ほど統制を推し進めず,家内融和を図りながら領内を統治したが重臣中野宗時・牧野宗仲父子に嗣子輝宗(1544-1585)との離間を計られ家中はまたしても内紛になる.父子の和睦が成立した永禄8(1565)年ごろ晴宗は隠居,信夫庄杉目城(福島城)に退去した.
 家督を継いだ輝宗は蘆名・留守・佐竹と姻戚関係を結び活発な外交を展開する.また,晴宗の重臣であった中野宗時・牧野宗仲父子の謀反を鎮圧し(元亀元年の「中野常陸の乱」),遠藤基信を起用して家内の統制にあたった.永禄9年より相馬氏との抗争が活発化するなど戦乱が日常化する中,輝宗は他の南奥羽の戦国大名に比していち早く織田信長に使者を派遣するなど先を見越した外交を展開し伊達氏の地歩を固めるべく努力するが相馬・佐竹には少々押され気味であり,天正12(1584)年10月の蘆名盛隆暗殺後に蘆名氏への子息入嗣を進めようとして,盛隆の子を推す佐竹義重に押し切られて失敗,それをしおに隠居に追い込まれたらしい.

 輝宗の子がご存知独眼龍政宗(1567-1636)である.政宗の活躍については他をあたってもらうことにするが,天正17(1589)年6月に蘆名義広を磨上原(福島県猪苗代町)で大破して蘆名氏を滅亡させた政宗は蘆名氏の本拠であった黒川城(のち若松城,福島県会津若松市)に入り,本拠をこちらに移す.米沢城には伊達宗澄,ついで伊達宗清(いづれも稙宗の子で晴宗の弟にあたる)を置いた.しかし天正18年豊臣秀吉による小田原北条氏滅亡とそれに続く秀吉の奥州仕置により,政宗は黒川を退去,再び米沢に入る.翌天正19年,政宗は大崎・葛西一揆鎮圧のため米沢城を出陣し,そのまま大崎・葛西領を与えられることになり米沢を去る.

 米沢は黒川改め若松に入った蒲生氏郷,ついで上杉景勝が領することころになり,景勝は重臣直江山城守直続を入れて北方への備えとする.しかし慶長5(1600)年,関が原の戦いで上杉景勝は西軍についた責を問われ,若松120万石から米沢30万石に減封されてしまう.景勝は米沢に移ると米沢城を大改修し居城とする.
 改修された米沢城は本丸を中心に二の丸・三の丸が同心円状に本丸を囲む輪郭式の城郭である.本丸には東北隅と西北隅にそれぞれ御三階櫓があげられ,石垣は用いられずに土塁で周囲を固め水堀を築いている.特徴的なことは,春日山から移した藩祖上杉謙信の遺骸を安置した霊屋が本丸南西隅に置かれたことである.二の丸御殿(二の丸亭)や厩のほか上杉謙信の菩提を弔うための寺院が9つもつくられていた.これらの寺院は現在いづれもその地に存在しないが,法音寺は明治3(1870)年上杉家御廟の地に移転し現存する.三の丸は上級武士の屋敷が並ぶ屋敷町とされ,それを囲む形で水堀が巡っていた.城下町の北東および南東部には寺院が集中する寺町(北寺町・東寺町)が作られ戦時には城郭の一部として機能するように整備された.また,下級武士(原方衆と呼ばれた)の屋敷を城下町郊外南方の通町・芳泉町に配置し,自給自足の体制を敷いた.

 その後上杉家は三代藩主綱勝の急死とそれに伴う綱憲(吉良上野介の子)の襲封の際15万石に石高を減らされ,赤穂浪士の討入りのときは何とか難を逃れるもその後は経済的に困窮し,名高い九代藩主治憲(鷹山)の改革を経てどうにかこうにか幕末までたどりつく.幕末には十二代藩主斉憲の下,家老色部長門や千坂高雅らが奥羽越列藩同盟の中心的な役割を果たすことになり,雲井龍雄による「討薩檄」もばら撒かれるほどだったが,最後には新政府軍に降伏し,「米沢は狡猾」と勝海舟に酷評される羽目になる.
 明治6(1873)年,米沢城は解体され建物はすべて取り払われる.現在城址は松が岬公園となり,本丸には上杉謙信を祭る上杉神社や上杉家の宝物を展示する稽照殿,二の丸には上杉鷹山を祭る松岬神社や博物館・文化施設「伝国の杜」,上杉記念館(旧・上杉伯爵邸)などがある.


米沢城の写真
米沢城下の写真
 林泉寺
 上杉家御廟所
 その他

参考文献(順不同)
 『日本城郭大系』 新人物往来社
 『復元大系日本の城』 ぎょうせい
 『国史大辞典』 吉川弘文館
 『藩史大事典』 雄山閣
 『戦国大名家臣団事典』東国編 山本大・小和田哲男編 新人物往来社
 『米沢市史』第1巻 米沢市史編さん委員会
 『新潟県史』通史編2 新潟県
 『日本名城図鑑』 西ヶ谷恭弘編 理工学社 1993年12月初版
 『城下町の誕生』(会津若松市史歴史編4/近世Ⅰ) 会津若松市 1999年11月初版
 『保科正之』(中公新書1227) 中村彰彦著 中央公論社 1995年1月初版


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二本松城(福島県二本松市)

 二本松城は標高345mの「白旗が峰」に築かれた平山城である.現在の二本松市の中心部(江戸時代の城下町である)から北西に約1.5キロほどのところにあるが,江戸時代の大手口である「坂下門」から歩くと一山越えた,と感じられる道を歩かされることになる(^^;).一山越えると,向かい側の山の中腹に復元された箕輪門隅櫓がなかなか美しい姿を見せてくれる.元来は「馬蹄形城郭」という形式,すなわち三方を山に囲まれた地形に沿って城郭を築いて要所に城門を置き,谷の部分に普段の居館を構えて谷の開口部には大規模な土塁や堀・城門を築いて守りを固めている縄張りによる城である.江戸時代初期(恐らく丹羽氏の入部の際)の改築により近世城郭の体裁を整えたが,古式を色濃く残していると識者は指摘する.

 二本松城を築いたのは畠山満泰で応永21(1414)年,もしくは嘉吉年間(1441-1443)のこととされる.満泰の祖父国氏は奥州の南朝方に対抗するべく吉良貞家とともに奥州管領として下向したが,間もなく「観応の擾乱」で北朝方が足利尊氏・直義の兄弟相食む混乱に陥ると,直義派の吉良貞家は尊氏派の畠山高国・国氏父子を正平6(1351)年2月に滅亡に追い込んでしまう.国氏の子国詮(満泰の父にあたる)はかろうじて会津に逃れた.足利直義が翌正平7年鎌倉で毒殺されると国詮は勢力を回復し,畠山氏の二本松における拠点であった殿地が岡(田地ガ岡)館(二本松市塩沢)を奪回したらしい.国詮は父国氏の奥州管領を継いだと自称したようで,いわゆる〈四管領時代〉の一方の旗頭として活動するが,吉良満家(貞家の子),斯波家兼・直持父子(のちに奥州探題を世襲したとされる大崎家の祖)との抗争に敗れ,結局は二本松の国人領主並みの勢力に縮小を余儀なくされる.この混乱の中で現在の二本松城は当初,畠山氏により殿地が岡館に対する「詰めの城」として築かれた可能性がある.

 その後畠山氏は9代に渡って二本松城に拠るが次第に往時の勢力を失い(このあたりのことは『福島県史』を読んでも,系図なども含め不明な点が多いようだ.より最新の研究成果を反映していると思われる『二本松市史』通史編を参照してもいまひとつはっきりしない),伊達・蘆名両家の勢力争いに巻き込まれ安達地方はその草刈場になってしまう.伊達家の内訌から南奥羽を巻き込む大戦乱になった「天文の乱」では当主義氏と一族家臣の間で伊達稙宗方・晴宗方に分裂する始末である.義氏の養子として一族から入ったらしい義国の代には,一族の本宮氏が義国の跡目相続に抗して滅亡する.元亀年間,畠山義国は塩松(四本松)城(福島県岩代町)の塩松氏(南北朝末期にやはり奥州管領として下向した石橋氏の子孫)や小浜城(岩代町)の大内氏,そして蘆名氏と連合して伊達輝宗と争う.天正2(1574)年,それまで畠山方に組していた八丁目城(福島市松川)が大森城(福島市)の伊達実元に奪回されると,義国の跡を継いだ義継は三春城主田村清顕に伊達氏との調停を依頼し一度は和睦する.しかし同年中,蘆名盛興が急死し,須賀川城二階堂氏から入った盛隆が蘆名家を継ぐと,元来不仲だった田村と二階堂の抗争が蘆名家を巻き込む形になり,畠山義継は田村から蘆名に宗旨替えする.このため伊達・畠山の間も再び破綻し,天正3年ようやく蘆名盛隆の調停で畠山・伊達,また畠山・田村の和睦が成立する.

 その後しばらく小康を保っていたが,蘆名盛隆が天正12年10月に暗殺されてしまう.そして蘆名・佐竹方の小浜城主大内定綱(NHKの大河ドラマ「独眼龍政宗」では寺田農が演じた)が一旦は伊達政宗に帰属を申し出ながら再び蘆名・佐竹連合に寝返るという事態になり,天正13年5月には伊達政宗が会津に侵攻し,ついで8月には大内定綱を攻めて9月には小浜城が落城する.ついで政宗は大内を援助していた二本松城に軍を向けるが,畠山義継は政宗とともに出陣していた政宗の父輝宗に降伏を申し出て許される.10月8日に斡旋の御礼と称して輝宗の在陣している宮森城(岩代町)に出向いた義継はその帰路,輝宗を拉致し二本松に戻ろうとして政宗に輝宗もろとも射殺される.10月15日以降,政宗は義継の遺児国王丸(義綱)が守る二本松城を攻めるが城は容易に落ちない.11月には伊達勢と蘆名・佐竹・岩城・白川・石川の連合軍が安達郡人取橋付近で衝突し激戦になる(「独眼龍政宗」でいかりや長介が演じた鬼庭左月が討死したのはこの戦である).伊達勢は押され気味であったが,佐竹勢が本拠地常陸国太田を背後から攻められたため撤退を余儀なくされた.小浜城で越年した政宗は天正14年3月に畠山氏の重臣を内通させ,7月には相馬義胤の調停で畠山国王丸は二本松城に放火して会津に退去し,ここに二本松畠山氏は滅亡した.

 政宗は片倉景綱,次いで伊達成実を二本松城に入れて旧二本松勢を統治させた.天正18年政宗が豊臣秀吉に会津を没収されると,二本松は若松に入った蒲生氏郷のあづかるところになり,蒲生郷成次いで町野重仍が城主として二本松に在城した.大崎・葛西の乱や九戸政実の乱では二本松城が秀吉勢の前線基地のような役割を果たしている.蒲生家に代わって上杉景勝が会津に入部すると下条忠親が城代になる.関が原の戦いで咎を負った景勝が米沢に移されると再び会津に入った蒲生秀行(氏郷の子)が門屋・梅原の両名を城代として置いた.秀行の子の忠郷が寛永4(1627)年に没して弟の忠知が伊予松山に転封になると,会津には加藤嘉明が入る.二本松にはその与力衆の形で下野国烏山から松下重綱(嘉明の娘婿)が5万石で移ってくるが間もなく没し,その子長綱は三春に移され二本松には嘉明の二男明利が入る.寛永20年に加藤明成(嘉明の長子)が改易になると二本松の加藤明勝(明利の子)も本家同様改易になり,二本松城には白河から丹羽光重(織田信長の重臣であった丹羽長秀の孫で,秀吉・家康に翻弄され続けるも城作りの名人として利用された丹羽長重の子)が10万7百石にて入封し,以後幕末まで丹羽家11代が襲封する.

 幕末に至って二本松藩は江戸湾警備を命じられてもいる.戊辰戦争では幕府側につき,奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦うが,途中で三春藩が新政府側に寝返り,間道を抜けた新政府軍が二本松城下に殺到した.二本松藩は軍勢の大半が白河口に出向いており,残りの数少ない兵力を分散配置した上,いわゆる「二本松少年隊」と後世称されることになる少年兵までも動員して新政府軍と戦った.このとき二本松藩兵は,新政府軍に従軍し二本松で重傷を負った,後の陸軍元帥野津道貫(1841-1908)が「戊辰の役最大の激戦」と評価したほどよく戦った.しかし,如何せん兵力が手薄な上にそれを分散させたので物量で圧倒的な新政府軍には衆寡敵せず,慶応4(1867)年7月29日,二本松城はわづか1日で落城・炎上してしまう.藩主丹羽長国は米沢に逃亡したが9月に降伏,米沢前藩主上杉斎憲の子長裕により5万石減封の上家名存続を許された.

 このように二本松城は戊辰戦争で焼失し建物は失われたが,壮大な三の丸石垣や搦手門跡,藩庁門址には一時期全国的に有名になった「戒石銘」が現存し,昭和57年には箕輪門と隅櫓,白壁が復元され,平成7年には学術調査に基づいて本丸石垣が復元されている.城址は「霞が城公園」として整備され,春は桜の名所として,秋は菊人形展の舞台としてにぎわいを見せる.


参考文献
 『福島県史』(福島県)
 『日本城郭大系』(新人物往来社)
 『藩史大事典』(新人物往来社)
 『日本名城図鑑』(西ヶ谷恭弘編/理工学社/1993年12月初版)
 『二本松市史』(二本松市)

二本松城の写真

2002年4月21日作成
2004年6月19日移転・修正

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福島城(福島県福島市)

 福島城は福島市の中心部,そばを阿武隈川が流れる,現在の福島県庁の地にあった平城である.豊臣・徳川の2度破却されながら,3度再築され元禄15(1702)年以来板倉家三万石の居城として幕末に至った.

 福島城は,中世以前には杉目(すぎのめ)城または大仏城と呼ばれていた.築城時期は明らかではない.後世の地誌である『信達一統志』という書物には,治承年間杉目太郎行信なる人物が居住していたとあるが詳細は不明.文治5(1189)年の平泉攻めで功績のあった常陸国伊佐荘(現在の茨城県下館市)の常陸入道念西(伊達朝宗?)の一族が伊達郡の地頭として入部,桑折ついで梁川に本拠を構えるが,恐らくは伊達氏の伊達郡支配の過程で杉目(または杉妻)にも一族郎党により館が構えられたのであろう.

 応永20(1413)年4月,伊達松犬丸が鎌倉府に反旗を翻し懸田定勝と共に「大仏城」に籠城した際の記事が,恐らく同時代の文献に登場した最初ではないかと思われる.鎌倉公方足利持氏は二本松城主畠山国詮を遣わして大仏城を攻撃したがなかなか陥ちず,12月に失火によって兵糧米が焼失したことでようやく落城した.この当時,大仏城はすでに堅固な城塞の体をなしていたと考えられよう.松犬丸は会津に逃れたが,後に持宗と名乗り梁川城(福島県梁川町),大仏城を回復する.

 その後,戦国時代の天文年間(1532-1555)には「杉目城」の名前で歴史上に姿を見せる.天文の乱の後,父稙宗を隠居させた伊達晴宗は本拠を西山城(福島県桑折町)から米沢城(山形県米沢市)に移すが,永禄7~8(1564-1565)年頃子息輝宗に家督を譲って杉目城に隠居する.当時の伊達郡では大森城(福島市)に伊達実元(晴宗の弟)が入り,その子成実の2代にわたって伊達氏の信達地方経営の最前線となっており,杉目城は支城のひとつに過ぎなかったようである.晴宗は天正5(1577)年死去し,以後杉目城には晴宗の末子杉目直宗が入るが天正12年に死去,その後は晴宗未亡人岩城氏(栽松院)が杉目にあった.

 天正18年の奥州仕置で独眼龍伊達政宗が旧領を去り,蒲生氏郷が若松92万石に封じられると信達地方も蒲生領となり,最初大森城に入った氏郷配下の木村吉清(それ以前,豊臣秀吉により大崎・葛西地方を与えられていたが,いわゆる「大崎・葛西一揆」の責を負わされて改易され,氏郷の客将になっていた)が文禄元年または2年(1592/1593)に杉目城に移り,その際城名を福島城と改め,城下町を整備した.文禄4年蒲生氏郷が死去すると秀吉は浅野長政・幸長父子に命じて蒲生領の7城を除いた残りの城郭を悉く破却したが,それに福島城も含まれ,城址は開墾されて田畑になった.

 慶長3(1598)年,蒲生秀行(氏郷の子)が宇都宮に移され上杉景勝が若松120万石に封ぜられると福島城は伊達政宗を牽制する要衝として復活し,水原親憲ついで本庄繁長が城代として在城した.関が原の戦いの戦後処理で景勝が米沢30万石に減封された後も信達地方は上杉領として残り,福島城も元和の一国一城令の後も存続した.寛文4(1664)年閏5月に上杉綱勝(景勝の孫)が急逝した際,家名存続と引き換えに15万石に半減されたが,その際信達地方は幕府に収公され,福島城は再度破却された.

 その後福島は代官支配と大名領とを繰り返す.延宝7(1679)年に本多忠国が15万石で大和国郡山から移ってくるが3年で播磨国姫路に転封,再び代官支配となる.貞享3(1686)年には堀田正仲が出羽山形から10万石で移ってきて正仲,正虎の2代で元禄13(1700)年再び出羽山形へ移され3たびの代官支配,元禄15(1702)年板倉重寛が信濃国坂木から3万石で福島に転封となりようやく藩主が落ち着き,その後幕末まで板倉氏が福島藩主であった.

 福島城は本多氏時代に再築計画があったが,実際には堀田氏時代から再築が始まり,板倉氏の時代の宝永年間までに普請が行われたようである.このとき建設された福島城は西から二の丸・本丸・三の丸とつらなる平城で,大手には二層の大手門が,本丸西北角には太鼓櫓(恐らくは一重)が置かれた.「明治四年四月旧福島城絵図」によれば,櫓は太鼓櫓以外は存在しなかったようである.城中には侍屋敷と御殿が置かれ,二の丸には紅葉山という庭園と茶亭があった.資料で見る限り,近世の福島城は城郭というよりは巨大な陣屋という風である.

 戊辰戦争時は藩論が一致せず右往左往した挙句,城下で官軍参謀世良修蔵が仙台藩兵に暗殺されるなどして去就が定まらず,二本松城が官軍の攻撃で落城すると藩主板倉勝尚らは逃亡してしまう.戦後,板倉家は奥羽越列藩同盟に参加したこと,また本家の備中松山藩主板倉勝静が徳川慶喜の側近であったことなどにより福島を追われ,藩領の飛び地であった三河国重原に転封となり,福島城はまたしても破却された.城址は陸軍省の管轄を経て明治13(1880)年に福島県庁が置かれ現在にいたっている.また,同じく明治13年に紅葉山に藩祖板倉重昌を祭った板倉神社が建立され,紅葉山は現在公園として整備されてわずかに福島城址をしのぶよすがとなっている.


参考文献
 『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社)
 『図説福島市史』(『福島市史』別巻1,福島市)

福島城の写真


2002年3月21日作成
2004年6月19日移転・修正

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多賀谷城(下妻城,茨城県下妻市)

 多賀谷城は下妻城とも呼ばれる(『下妻市史』では一貫して「下妻城」,『日本城郭大系』では「多賀谷城」).城主である多賀谷氏は武蔵国埼玉郡木西荘多賀谷郷の地頭になった多賀谷左衛門尉家政を祖とする.15世紀半ばに古河公方足利成氏の家臣であった多賀谷彦四郎氏家(1408-1465)が功によりこの地(「関三十三郷」とか「下妻十六郷」などと伝えられる)を与えられ,当初は関城(茨城県関城町)に入ったが,さらに先の城主(?)城戸入道道光を謀殺したのち,城郭を修営したものとされる.
 その後多賀谷氏は氏家(法名祥賀か?)-朝経(尊経,高経,法名祥英か?)-基泰(家植,法名祥潜か?)-光経(家重)-朝経(重政,祥春)-政経(祥聯)-重経(尊経)と受け継がれる(少々系図に混乱があるらしい).山川城(結城市)の山川氏,下館城の水谷氏と並び下総結城氏と同盟関係にありながら独立的な立場を保持していた.朝経(?-1483?)は古河公方足利成氏に従って各地に転戦,基泰は結城政朝に協力して,明応8(1499)年当時結城氏の実権を掌握していた甥の多賀谷和泉守を討ち,結城氏の再興に益している.光経(?-1554)は結城政朝と対立し,扇谷・山内両上杉家とも同盟して北条氏康にあたったが肝心の両上杉家が相次いで敗れて滅亡してしまい,氏康の侵攻を許している.朝経(祥春)は天文16(1547)年小田政治と同盟して結城政勝攻撃を企てるが,結城・山川・水谷の連合軍に敗北する.翌年には小田政治が没し,後を継いだ氏治は小田家中を抑えきれず,朝経は結城政勝と和睦するに至る.政経(?-1576)は武田信玄・織田信長とも誼を通じて多賀谷氏の勢力維持に務める.

 7代重経(1558-1618)はなかなかの武将で天正4(1576)年家を継ぐや,豊田城(茨城県石下町)の豊田氏を滅ぼし,結城晴朝,佐竹義重や豊臣秀吉に通じて勢力の維持に務める.天正8年から17年にかけて周囲の諸城を次々と攻略していく.この当時多賀谷氏の領地は常陸・下総で20万石相当のものがあったといわれる.天正18年秀吉の小田原城攻めの際,小田原に参陣し下妻6万石を安堵されるが,秀吉から結城晴朝の配下に入ることを命じられたらしい.これより先,結城・佐竹双方と同盟していた重経は,島城から太田城(いづれも茨城県八千代町)に入っていた実子三経を結城氏の配下に,佐竹義重の四男宣家を娘婿にして養子とし多賀谷城で佐竹氏の与力大名とするという選択をせざるを得なかったのだが,秀吉の命令がこれを駄目押しすることになった.文禄の役(1592-1593)の際,重経は病気と称して養子の宣家と弟の重康を肥前名護屋城に差し向けたが秀吉の不興をかい,金子1千枚の供出と多賀谷城の破却を命じられている.三経は,文禄の役には結城秀康とともに出陣し,結城氏の与力として軍役を勤めている.慶長3(1598)年ごろ重経は隠居して宣家に家督を譲り,出家して祥円と称したとされる.

 慶長5年の関が原の役では,重経は石田三成・佐竹義宣と近かったため病と称して出陣せず,小山に陣を構えた徳川家康に夜襲をかけようとして露見,逃亡したと巷間言われるが,『下妻市史』はこれを「信用しがたい」として退けている.慶長7年下妻を去って各地を放浪し,末子茂光が彦根藩に仕官していた伝手を頼って彦根に流れていきその地で没する.結城秀康に仕えていた三経は秀康の越前転封に従って太田城を去り,越前国丸岡・三国で3万2千石を領して柿原(福井県金津町)に配されたが慶長12(1607)年30歳で死去した.その子孫は秀康の五男直基が秀康の遺言で結城氏の跡目を相続すると直基に仕え,直基の子孫の転封に従って上野国前橋藩で明治維新を迎える.宣家は兄佐竹義宣の秋田転封に従い,最初出羽国白岩城(秋田県角館町),次いで檜山(秋田県能代市)で1万石を領する.宣家の息子重隆は,出羽国亀田藩(秋田県本荘市)藩主岩城吉隆(父の岩城貞隆は佐竹義宣,蘆名義広,多賀谷宣家と兄弟になる)が佐竹義宣の後を継ぐことになった(秋田藩二代藩主義隆になる)ことにより岩城家を継いだ(寛永5[1628]年)が幼少のため,宣家も陣代として岩城家に入り岩城宣隆と改称,明暦2(1656)年重隆に家督を譲り寛文12(1672)年89歳で死去した.檜山の多賀谷氏は戸村義国の子隆経が継いだが寛永6年早世し,その弟隆家が後を継いだ.その後も養子相続のたびに石高を減らされ,幕末には3000石にまで減っていたそうである.

 その後,下妻には慶長11年に徳川頼房(家康の11男,のち水戸徳川家の初代藩主,光圀の父)が10万石で封ぜられたが14年に水戸へ転封,幕領となり元和元(1615)年には松平忠昌(結城秀康の次男,忠直の弟)が4万石で入るが翌年には松平定綱(久松松平家,家康の異父弟定勝の次男)が3万石で交替,定綱が元和5年に遠江掛川に転出すると再度幕領になる.その後正徳2(1712)年に井上正長(笠間藩主で徳川吉宗が8代将軍になるとき功があったものの,死去の際「死んでも人の惜しまぬもの,鼠を獲らぬ猫と井上河内守」とまで酷評された老中井上正岑の弟)が1万石で入封し,明治維新まで続いた.ただし,多賀谷城は使用されず,井上氏は別に陣屋を建て居所とする.

 多賀谷城は現在の下妻市中心部になった現状からは想像しにくいが,大宝沼から続く低湿地と館沼という沼の間にある台地を利用して築かれた一種の「浮き城」で,本丸(東館)付近は周囲より高い土地であったらしいことが,『下妻市史』上巻に掲載されている昭和36年当時の写真によりわかる.最盛期には南北1.5キロを超える総構を有していたとみられる.その西側にあたる館沼(現在では消滅した)と砂沼(こちらは現存する)に挟まれた台地には城下町が形成されていた.破却後は急速に荒廃し,慶長16(1611)年に出されたある訴状によれば,多賀谷城内が荒れ果て物取りが横行している様子がうかがわれる.現在は城址公園はあるものの,城の中心部は昭和36年ごろの都市計画事業によりほぼ消滅している.それでも市内を丹念に歩けば,土塁や郭が確認できるようだ.

2002年5月31日追記
 多賀谷氏の歴史について「不正確である」とのご指摘をある読者の方からいただき,『下妻市史』上(下妻市史編さん委員会編/下妻市役所/1993年3月初版),『八千代町史』通史編(八千代町史編さん委員会編/八千代町/1987年3月初版)に基づいて,初稿を大幅に改訂しました.


参考文献
 『日本城郭大系』第4巻(新人物往来社)
 『図説茨城県の歴史』(河出書房新社)
 『国史大事典』(吉川弘文館)
 『日本人名大事典』(平凡社)

多賀谷城の写真(工事中)


2002年2月23日  
2002年5月31日改訂
2004年6月19日移転・修正

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関城(茨城県関城町)・大宝城(茨城県下妻市)

 関城・大宝(だいほう)城は南北朝期,南朝方の拠点として活動したことで知られる.明治末期までここには大宝沼という大きな沼が残っていたが,関城は大宝沼の北部,大宝城は沼の南部に位置する半島状の地を利用して築かれた.
 関城は下総結城氏の二代目結城朝広の子三郎朝泰が関荘の地頭になって関氏を名乗り,その拠点として築城したとされる.大宝沼に三方を囲まれた半島状の突端に半径500メートルほどの主郭と,数重に築かれた堀・土塁から構成され,主郭の土塁・堀は現在も確認できる.構成については関城町のホームページわかりやすい図面が掲載されている.ちなみに関城町のホームページには他にも丁寧な関城址の説明攻防戦の解説がある.これはこの界隈の古城では珍しいことで,いかに町名の由来になった国指定史跡とは言え,城好きには大変ありがたいことである.
 大宝城は下妻修理権亮長政(下野小山氏,朝政の孫で朝長の子,長村の兄弟)が貞永元(1232)年,ここに拠点を構えたとされる.大宝沼の南部に突き出した南北1.5キロ,東西500メートルほどの土地を利用して築かれ,南側には大規模な二重の土塁が現在も残る.主郭には現在大宝元(701)年創建と伝えられる大宝八幡宮が鎮座する.主郭の三方は大宝沼に囲まれていたが,大正時代に干拓されてしまい沼は消滅しているものの,現在も切り立った崖になっている.
 関城・大宝城とも南朝方の史蹟ということで昭和9年に国指定史跡になっている.

 南北朝期,関東・東北の南朝方へのてこ入れとして,後醍醐院の子義良・宗良親王を奉じた北畠親房・顕信父子や結城宗広らが延元3・暦応元(1338)年9月に伊勢国を出帆した.ところが台風シーズンの折りであり,たちまちのうちに暴風雨に巻き込まれ船団はばらばらになってしまい,結城宗広,義良親王らは伊勢に吹き戻され宗広は間もなく病没,義良親王は吉野に戻る.宗良親王は遠江に流れ着き,のち信濃国で南朝勢力の挽回に務めることになる.親房・顕信父子はようようのことで常陸国東条浦(霞ヶ浦の南端,現在の茨城県桜川村付近)に辿り着き,親房は常陸で,顕信は南陸奥でそれぞれ南朝勢力の建て直しに奔走する.

 当時の下総・常陸方面では北朝方の佐竹・結城・大椽・鹿島などに対し,小田・伊達・関などが南朝方として活動している.親房は当初神宮寺城(桜川村)・阿波崎城(茨城県東村)に拠るが鹿島勢に追われ,小田治久(高知)が拠る小田城(つくば市・国史跡)に入り,関宗祐の関城,下妻政泰の大宝城・中御門実寛の駒城(下妻市,駒館・駒館城とも.鬼怒川を挟んで北朝方結城一族の山川氏が拠る山川城[結城市]と対峙していた)などと連携して南朝の勢力回復をはかる.しかし,延元4・暦応2(1339)年10月には高師冬を総大将とする大軍が派兵され,北朝方の猛攻が始まる.親房は小田城に興良親王(護良親王の子),春日顕国(のち顕時.親房の子という説もあるが,『国史大事典』によれば村上源氏顕行の子とするのが有力な説)を迎える一方,去就を明確にしない陸奥白河の結城親朝(宗広の子,建武新政期の京で後醍醐院の近臣として活動し〈三木一草〉のひとりと謳われた結城親光の兄)を南朝方に翻意させるべく説得を重ねている(この結城親朝というひとは余程几帳面だったのか,親房や北朝方から寄せられた書状を丁寧に保存していたようで,それが現在でも各種の「結城文書」として伝来し,南北朝期の貴重な資料になっている).さらには遠く後醍醐院の死を聞き,その後継者たる後村上院(義良親王)に南朝の正当性を教え諭すため,『神皇正統記』を書き始める.

 興国元・暦応3年5月には駒城が一度陥落するも翌日奪回に成功する.高師冬はひとまず撤退し古河から瓜連城(茨城県瓜連町)へ移って態勢を立て直し,翌興国2・暦応4年6月小田城攻撃を再開する.戦局は南朝方に利あらず,同年11月までには駒城が陥落,11月には小田城が開城し小田治久は北朝に降る.親房,興良親王,顕国らは開城直前に小田城を脱出し,親房は関城に,興良親王,顕国は大宝城に入る.関城は城主関宗祐・宗政父子以下わずか300の兵での籠城と伝えられるがよく持ちこたえ,親房はしきりに結城親朝に書状を送り南朝方への勧誘を続けた.

 興国3・康永元(1342)年正月には関城・大宝城間の連絡が絶たれ,翌年ついに結城親朝が旗幟を明らかにし北朝方に付くに及んで関城・大宝城は完全に孤立する.不利な戦局の中,春日顕国はしばしば大宝城の囲みを破って関城救援に赴いたり,結城親朝に書状を送って翻意を促したりという努力を続け,関城でも北朝方をしばしば撃破し,北朝方の結城直朝(下総結城氏,朝祐の子)を討ち取る戦果も上げたが,如何せん兵糧が底を尽く.ついに興国4・康永2年11月11日,北朝方の総攻撃を受け関城・大宝城ともに落城し,関宗祐・宗政父子,下妻政泰らは城を枕に討死する.興良親王・北畠親房・春日顕国は落城直前に脱出し,親房は関東での活動を断念し吉野に戻った.春日顕国は逃れて密かに南朝方を糾合し,翌年3月7日に大宝城の一時奪回に成功するが翌日北朝方の攻撃を受け再度落城,顕国は捕らえられて切られ,京都六条川原に首をさらされるという最期を遂げる.


参考文献
『日本城郭大系』第4巻(新人物往来社)
『国史大事典』(吉川弘文館)
『図説茨城県の歴史』(河出書房新社/1995年11月初版)
関城町ホームページ


関城・大宝城の写真へ

2002年2月22日  
2002年5月29日一部改訂
2004年6月19日移転・修正

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白石城(宮城県白石市)

 白石(しろいし)城の築城時期は必ずしも明確ではないが,後三年の役(1083-1087)の際,源義家に従って功のあった刈田(かった)氏がここに居城を構えたのが始まりであると伝承されている.刈田氏は六代目の秀長より白石(しろいし)氏と改姓,十代宗嗣は伊達行朝に従って南朝方として奮戦,その後も代々伊達氏の部将として活躍する.二十代宗実は伊達政宗配下の勇将として知られ,政宗に従って数々の戦功を立てる.天正14(1586)年に安達郡塩松(しおのまつ,現在の福島県)に移封され,さらに天正19年には水沢に移り1万5千石を拝領,また伊達稙宗の孫にあたる宗直を養子にしている.宗直は慶長10(1605)年登米に転封になり元和2年には一門に連なり伊達氏を称する.この刈田・白石氏時代の白石城の縄張りについて触れた文献は,管見の限りでは見つからない.

 白石氏の後は屋代景頼が入るが,伊達政宗の旧大崎・葛西領への転封により,黒川城(若松城)に入った蒲生氏郷の領地になり,氏郷配下の蒲生郷成が白石城主になる.織豊系城郭建築の中心人物の一人であった氏郷は,若松城や白石城の改築を実施し,今に見る若松城・白石城の縄張りの基本線を作り上げたと考えられている.また氏郷は地名についても黒川を若松に,白石を益岡に改めている.
 氏郷没後,慶長3(1598)年息子の秀行は宇都宮に移され,越後春日岡から上杉景勝が若松に入部すると白石城には甘糟清長が入り地名は「白石」に戻される.「益岡」の名は城の別名に残り,現在では城址公園が「益岡公園」の名で呼ばれている.慶長5年の「関が原の戦い」で伊達軍の攻撃を受け落城,上杉景勝は米沢に転封となる.再び伊達領になった白石城には石川昭光が当初据えられたが,慶長7年に片倉景綱(1557-1615)が城主とされ,元和の「一国一城令」布告の際も例外的に破却をまぬがれ,以後片倉家11代1万8千石の居城として明治維新まで続く.
 片倉家は景綱の異父姉喜多(大河ドラマでは竹下景子が演じた)が伊達政宗の養育係に任ぜられ,当初景綱はその縁で政宗の傳役として仕えたものと思われるが,その器量と武勇をかわれて政宗の側近として多方面に活躍,豊臣秀吉や徳川家康にも「伊達に片倉小十郎あり」と認められている.また景綱の後を継いだ重長(1584-1659),景長(1630-1681)も伊達家をよく補佐し,いわゆる「伊達騒動」などの難局を乗り切っている.また,重長は巷間「幸村」の名で知られる真田信繁(1567-1615)の一族を庇護したことでも知られ,信繁の娘「於梅」は後年重長の後添えとなり泰陽院の名で知られる.また,伊達政宗の妻陽徳院(愛姫)の実家田村家が没落した後,最後の当主であった田村宗顕が隠棲したのも白石であるところをみると,片倉重長は当時よほどの人徳者として知られていたのだろう.

 白石城は白石盆地の北の隅で両側から丘陵がせり出して隘路になっている場所に立地し,すぐ北側を白石川が流れるという陸運・水運ともに監視しやすい場所にある.標高80メートル弱の丘陵を利用した平山城で,本丸を中心に二の丸,西曲輪,沼ノ丸,中ノ丸,南ノ丸,巽曲輪,帯曲輪,厩曲輪,三の丸,外曲輪を配した.本丸には石垣が用いられ,事実上の天守である三層の「大櫓」および二層の「辰巳櫓」「未申櫓」と本丸御殿が置かれた.大櫓はどこから見ても天守閣で,資料に拠れば山内家24万石の高知城,伊達家10万石の宇和島城を上回る規模を有していた.これは片倉家云々よりも,蒲生氏郷が若松90万石に封じられた際,北の伊達家への抑えとして白石城を扱ったことの反映と考えられるが,それだけの規模が元和一国一城令の布告後も維持された理由はよくわからない.建物は数度にわたって災害に遭い,文政2(1819)年には城内から出火のため本丸が焼け落ちたが,文政12年までかけて再建されている.

 明治維新後,白石城は転々と所轄が変わった後明治7年払い下げられ解体された.このときは建物のみならず石垣まで持ち出される徹底したものであったらしい.城址は明治33(1900)年に益岡公園として整備されたが,1988年より史実に基づいた復元事業が始まり,1995年3月に本丸石垣・大櫓・大手門などが復元されている.帯曲輪には「白石城歴史探訪ミュージアム」があり,白石城の歴史を紹介している.

参考文献
『よみがえる白石城』(我妻建治ほか著/碧水社/1995年5月初版)
『城下町「白石」』(白石市文化体育振興財団/1995年5月初版)
『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社)


白石城の写真へ

2002年2月3日作成
2004年6月19日移転・修正

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三春城(福島県田村郡三春町)

 三春城は別名を舞鶴城と言う.現在の福島県三春町の中心部にある「城山」を利用した山城である.ただし,四方も山に囲まれているので山頂からのロケーションは絶景とは言えず,城下の平地も狭く,戦のときは籠城戦ではなく外に出て,24箇所あったと言われる出城を利用して戦うのが常であった.むしろ,城下を走る街道を監視するための立地であるようにも見受けられる.

 ここに城を築いたのは田村義顕で,永正元(1504)年または13(1516)年のことと言われる.この田村氏は鎌倉~南北朝期に守山城(福島県郡山市)を本拠に田村庄を支配した田村庄司氏(秀郷流藤原氏)の流れをくむとされ,古文書等でもそのように記してあるものがあり,また義顕が守山から三春に移ったとする伝承もある.しかし,南北朝期には南朝方に立った田村庄司氏とは別に旗幟をあいまいにした「御春輩」が活動していることや,田村義顕の発願による写経に「田村平朝臣義顕」とあるところをみると,守山の田村庄司氏の衰退後,三春の田村氏が代わって立ち田村庄全体を支配するようになったとするのが妥当ではないかと思われる.この両田村氏の関係は,平安末期の下野国足利において藤姓足利氏と源姓足利氏が並び立っていたようなものであろうか?

 さて,三春の田村氏として名前が明らかになる最初の人物は田村直顕とされる.直顕(文明6[1474]年没)は女を白河結城顕頼の室に入れるなどして白河結城氏と結びつき,その子盛顕(生没年未詳)とともに田村氏の戦国大名としての足がかりをつくった.義顕は盛顕の子である.ただし,義顕(永禄4[1561]年没)は三春城の開祖とされる割には武将としての目立った事跡に乏しいようで,その子隆顕の代に入ると三春田村氏は活発に活動しその最盛期を現出する.しかし,それは蘆名・伊達ほか南奥諸勢力の微妙なバランスの上に成り立っていたものであり,三春田村氏は残念ながら一流の戦国大名には遂になれずに終わる.隆顕は元亀年間(1570-1573)ごろに子息清顕に家督を譲り渡したものと考えられている.このころから田村家中の政治的・軍事的文書から隆顕の名が見えなくなり,その後は病身であったらしい.天正2(1574)年9月6日に没した.

 清顕は例の伊達政宗夫人愛姫の父であるが,永禄末年より活動が見られ,しばらくは蘆名盛氏とともに反佐竹連合を組んで佐竹勢にあたっている.しかし,天正2年より蘆名とは決裂し,蘆名盛氏は白川氏・佐竹氏と和睦したため,以前から不仲であった岩城氏,二階堂氏などと併せて田村は四方を敵に囲まれる状況に陥る.不利な状況下で清顕は積極的な出兵・外交を展開し,伊達氏,相馬氏や遥か相模国小田原の後北条氏,常陸国小田(現在のつくば市)の小田氏と同盟して佐竹勢にあたり,また安積郡へ出兵し蘆名・二本松の畠山氏の勢力を安積郡から追っている.愛姫が伊達政宗に嫁ぐのは天正7(1579)年冬のことであり,これにより伊達・田村の連合が佐竹・蘆名の連合とあたるという図式が出来上がる.田村氏は相馬氏とも姻戚関係があり,伊達・相馬を後ろ盾に何とか勢力を保つべく努力を重ねる.このあたり,事態がなかなか複雑であり,詳しいことは『三春町史』などをあたっていただきたい.

 天正8(1580)年に蘆名盛氏が死去し,跡を継いだ盛隆は須賀川二階堂氏の出身であり,二階堂氏が田村と敵対していたこともあってか,佐竹の力も借りて田村に対して攻勢をかける.天正10(1582)年には伊達輝宗が下総結城の結城晴朝,同じく下館の水谷勝俊の了解までとって調停に乗り出し,何とか和睦にこぎつける.しかし今度は田村配下であった大内定綱が離反し,清顕は敗北して塩松など東安達地方を失う.岩城・蘆名が領境を覗うなか,天正12年清顕は伊達政宗に東安達への出兵を依頼,政宗は大内勢を追って東安達を手中に収めることになる.

 そうこうするうちに田村氏は天正14年10月,大黒柱の清顕が急死し,家中はそれぞれ姻戚関係にある伊達・相馬の争いが持ち込まれ分裂する.隆顕夫人は伊達稙宗の娘であり,清顕夫人は相馬顕胤の娘というわけで,両者の反目と伊達政宗・愛姫の不和が重なって家中の勢力争いが混沌とするなか,天正16年閏5月には相馬義胤(顕胤の孫,盛胤の子)が三春入城を企て失敗する騒ぎになる.結局,伊達政宗が自ら出馬したことにより相馬勢による田村差配の企ては水泡に帰し,6月~7月の郡山合戦(伊達勢と佐竹勢が現在の福島県郡山市で衝突,伊達方の伊東肥前重信が戦死した)を経て,政宗の差配により孫七郎宗顕(清顕の甥)の田村家名代,清顕夫人の隠居などを決め,ようやく田村家中の混乱は収まった.

 しかしその後も今度は岩城常隆が田村領に侵攻して来る.岩城の援軍に相馬・佐竹・蘆名が参陣してきたが,政宗は巧みな用兵で相馬の背後を衝き,蘆名家中の乱れに乗じて天正17年6月,猪苗代湖畔磨上原の合戦で蘆名義広(佐竹義重の子,義宣の弟で蘆名盛隆の暗殺後,白川氏に養子に入っていたところから蘆名に乗り込んだが,却って家中混乱の基になった)を大破してこれを常陸に追い,7月には佐竹・岩城とも三春攻略から一端手を引いた.

 翌天正18(1890)年が豊臣秀吉による小田原城落城・後北条氏滅亡の年であり,奥羽の諸大名も秀吉による「奥州仕置」の大波に飲み込まれる.田村宗顕は政宗旗下ということで小田原に参陣しなかったところ,秀吉は独立大名とみなして不参を理由に改易してしまい,田村領を政宗に与えてしまう.宗顕は政宗を激しく恨み,政宗には従わず牛縊定顕と称して隠遁,政宗没後にその夫人陽徳院,すなわち愛姫の命を受けた片倉重長によって白石に招かれそこで正保5(1648)年没する.田村氏の名跡は承応元(1652)年,伊達忠宗(愛姫の子,政宗の嫡子)の三男右京宗良がこれを継ぐ.いわゆる「伊達騒動」に登場する「田村右京」そのひとである.

 ………どうも田村氏の興亡に筆を割き過ぎたようである(^^;).伊達政宗も大崎・葛西一揆を鎮圧後,所領を移されて三春を去り,三春は若松城主蒲生氏郷が拝領する.氏郷が死んで若松に上杉景勝が入ると三春も上杉領になるが,関が原の戦いの後始末で再び蒲生氏郷の子秀行が若松に入り,それにより三春城も再度蒲生領になる.秀行・忠郷父子が相次いで若死にすると,忠郷の弟忠知と入れ替えで伊予松山から加藤嘉明が若松に入り,嘉明の三男明利,次いで松下長綱が三万石で三春城主になる.
 
 この松下家は,豊臣秀吉が木下藤吉郎時代最初に仕えた今川氏の家臣松下氏の子孫である.『松下加兵衛と豊臣秀吉』(冨永公文著/東京図書出版会/2002年11月初版)に拠ると,秀吉が仕えたのは巷間信じられている松下加兵衛之綱(1538-1598)ではなく,その父の源(太)左衛門長則(若狭守)である.松下氏は近江源氏佐々木(六角)氏の流れをくみ,長則の頃は遠江国浜松の頭陀寺に城を構えていた.加兵衛之綱は今川氏没落後,徳川家康の配下になるが,遠江国高天神城が一時武田勢に攻め落とされたとき(天正2[1574]年),徳川を去って秀吉に仕えたらしい.秀吉は松下家から受けた恩義を忘れず,のちに之綱を遠江久野城(現在の静岡県袋井市)一万六千石に封じている.之綱没後,跡を継いだ重綱(1579-1627)は関が原の戦いに東軍で参加し本領を安堵されるが,慶長8(1603)年に幕府の許可を得ずに城郭を改修したことで常陸国筑波郡に移される.大坂の陣での活躍が認められ,元和2(1616)年下野国烏山で2万8百石,次いで寛永4(1627)年陸奥国二本松で5万石を領するも同年没し,子の長綱(1611-1658)が後を継ぐ.父重綱が加藤嘉明の女婿だったこともあり,三春藩松下家は会津藩加藤家の与力のような位置にあった.そのため,嘉明の後を継いだ明成が改易されると,そのあおりを受けたか松下長綱も寛永21(1644)年に改易される.のち子孫は旗本として存続し,幕末には脱藩大名林忠崇と戦火を交えている.なお松下氏の一族にはのちに土佐山内家,紀伊徳川家,越後与板藩井伊家に仕えた者や,直参旗本として火盗改メの任にあたった者もいる.

 翌正保2年,常陸国宍戸から秋田俊季が5万5千石で入領し,その後明治維新まで秋田家が代々三春藩に在住する.明治維新の際はいち早く奥羽越列藩同盟から脱落し新政府に降伏したことにより,付近の評判はいまひとつよくない.

 さて三春城であるが,戦国時代の三春城は山頂に本丸・二の丸を置き両翼の尾根にそれぞれ出丸を構えていたと考えられる.中央の本城と左右の出城,という配置が別称の「舞鶴城」を生んだのだろう.これが松下時代に大改修を受け,丘陵全体を大規模な城郭として再編成されたと見られる.これにより旧来の本丸・二の丸が併せて新たに本丸となり,西側の出城が二の丸,東南の出城が三の丸とされた.本丸には石垣が築かれ大規模な八脚門と三階櫓などがそびえ立つ,堂々たる威容であったと想像される.縄張などにそれほど特徴があるわけではないが,中世から近世まで使用された山城として,東北では珍しい存在である.
 明治維新後これらの建物は売却・破壊され,石垣も取り除かれ,さらに大正11年に行われた公園整備で三階櫓跡などが整地されてしまい,現在では近世城郭の面影は全く失われている.いまの城址はむしろ,中世城郭の趣きさえ感じさせる状態である.


参考文献
『三春町史』(三春町)
『三春城』(三春町教育委員会)
『三春城Ⅱ』(三春町教育委員会)
『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社)
『松下加兵衛と豊臣秀吉』(冨永公文著/東京図書出版会/2002年11月初版)このページを閲覧されて,同書をG.C.W.氏に送ってくださった著者の冨永公文氏に感謝します.


三春城の写真
三春城下の写真

2001年11月19日作成
2001年11月20日改訂増補
2003年5月25日改訂増補
2004年6月19日移転・修正

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宇津峰城(福島県郡山市・須賀川市)

 宇津峰城は郡山市の中心部から8キロほど南東に下った,現在の国道49号線沿いにそびえ立つ標高700mほどの宇津峰山上の山城である.その築城時期は明らかではないが,南北朝期に南朝方に付いた田村庄司一族の支城として築かれたと思われる.あるいは「埋峰(うづみね)」という言い方もあるところをみると,山岳信仰の拠点があったとも思われるがあきらかではない.

 南北朝動乱期の1340(暦応3・興国元)年には陸奥国府を目指した鎮守府将軍北畠顕信(親房の子で顕家の弟)が田村宗季に迎えられて宇津峰城に入城している.しばらくは南朝方の拠点として,その天険の要害を頼みによく保ちこたえたが,戦局は南朝に利あらず,常陸国(現在の茨城県)関城・大宝城に拠った南朝方が1343(康永2・興国4)年に壊滅すると,1344年,1347(貞和3・正平2)年と北朝方の総攻撃を受け,1347年とうとう支えきれずに宇津峰城は落城し,北畠顕信は北奥に奔った.
 
 しかし,いわゆる「観応の擾乱」で北朝方が混乱に陥ると南朝方は息を吹き返し,奥州管領吉良貞家・畠山国氏の内紛に乗じて1351(観応2・正平6)年に伊達・田村庄司とともに北畠守親(顕信の子)が守永王(後醍醐院の皇太子だった尊良親王の子.資料によって王だったり親王だったりするが,あえて表記は統一しない)を奉じて宇津峰城に入り(これにより守永王は宇津峰宮と呼ばれるようになる),同年11月,陸奥国府多賀城を顕信・南部勢と挟撃してこれを陥した.陸奥管領吉良貞家(畠山国氏は貞家に攻められ1351年2月に滅亡)は稲村城(福島県須賀川市)に入って戦局を立て直した.

 南朝方の多賀城占領もつかの間,1352(文和元・正平7)年3月多賀城は北朝方に奪回され,敗走した多賀城の南朝方は宇津峰宮以下,再び宇津峰城に立てこもる.その後1年余り猛攻に耐えたが1353(文和2・正平8)年5月ついに陥落,宇津峰城は歴史から姿を消した.宇津峰宮や北畠顕信などは出羽国に奔り,後の浪岡御所(現在の青森県)北畠氏として命脈を保つことになる.
 
 宇津峰城址には現在後村上院・後亀山院・守永親王を祭る雲水峰(うつみね)神社があり,南朝方の遺蹟ということで早くも1931(昭和6)年に国史跡の指定を受けている.


 以下はG.C.W.氏の宇津峰登山の記.
 先日,他のサイトやガイドブックがあまり触れていない須賀川市側から登ろうと思い,水郡線の小塩江(おしおえ)駅から徒歩で宇津峰山を目指した.これが想像以上に難儀なコースで,なるほど誰も勧めないわけだ(^o^).ただし道はほぼ1本道で迷うことも無く,小1時間ほど歩いて登山道「塩田口」の入口に辿り着く.そこには「雲水峰清水」という湧き水に神社の鳥居,案内板などがある.泉でしばし休息.そこで水を飲んでいたおじさん・おばさんと歓談(^o^),激励される.おじさん曰く「ここから頂上まで15分か20分で行くよ」
 さて「塩田口」を登り始めるとこれが実にキツい.さすがに天険の要害である.おまけに登山道がいわゆる「登山道」(^o^),道なんだか石なんだかよくわからないようなところを延々と登っていく.手すりがところどころにあるので,それで身体を引っ張り上げるように登る.おまけに靴が合わず靴づれが出来る.3度は挫折しそうになったことを白状しておく(ToT).道の途中で一息ついていたら,後ろから登ってきた青年があいさつもなくスイスイと抜き去っていく(sigh).ようやく鳥居を見つけて,喜び勇んで見てみると「星神社」.ふんだりけったりな気分になる.これはどうやら宇津峰城を構成していた曲輪のうち「星が城」と呼ばれる一角であるらしい.
 さらに登ること幾許か,ようやく目指す石鳥居と「史蹟宇津峯」の石柱を見つけたときには,登山道の入口から40分ほどたっていた.辿り着いたときは感涙に咽んだ,というほどではないが(^^;),胸をなでおろす.この雲水峰神社のある一角は土塁に囲まれた枡形となっており「千人溜り」と呼ばれている.そこから東にちょっと下ったところに休憩所のあずまやが,さらにその東側には南朝の遺蹟らしく,いくつもの顕彰碑が立つ.「南朝忠臣之遺跡」「東北勤皇忠烈之趾」「雲水峰城趾」など.あづまやで自ら調理して持参した弁当を食する.おにぎりほかいろいろ包んでいったが20世紀ナシが一番美味しかった(^o^).
 40分ほど周囲を撮影して郡山市側「谷田川口」へ下山.上りは岩山だったのが,帰りは水の干上がった沢みたいなもので,とにかく急で道が抉れており歩きづらい.途中で膝が笑い出し,とうとう左足がつった(-_-;).幸い,脇が低い土手状になっていたので,そこを利用して足を伸ばす.何とか左足をだましだまし,ようやく「谷田川口」の登山道入口に辿り着く.そこにはわけのわからない市長の顕彰碑やら何やらいくつも立ててあったので,こんなもの作るくらいなら「新・奥の細道」などと名付けている登山道をもう少し整備しろよ,と悪態をつく.
 そのまま1キロほど舗装された林道を下っていくと,やがて国道49号線に出ることができ,宇津峰への入口にある「鈴が内」バス停留所でバスを待つことが出来たのであった.バス停を見たときは,実のところ「これで家まで帰れる!」というのが本音(^^;).次回があれば最初から「谷田川口」を登ることにしよう.
 それにしても,日頃の運動不足が(-_-;).


参考文献
 『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社)
 『郡山市史』(郡山市)

宇津峰城の写真へ

2001年9月26日作成
2004年6月19日移転・修正

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守山城・篠川城(福島県郡山市)

 守山城は,東に約5キロほどの宇津峰城(福島県須賀川市)とともに南朝方として活動した田村庄司氏が拠った城である.現在の守山小学校と城山稲荷神社のある小丘陵地に築かれた山城だが,800メートルほど北側の小丘陵に田村神社(大元帥社)があり,こちらと掎角の勢を張ることにより有効な防御陣を構築していたのだろう.この田村庄には坂上田村麻呂伝説があり,田村の地名も田村麻呂に由来するとされている.

 田村庄司氏は,伝説では坂上田村麻呂の末裔とされているが,実際には秀郷流藤原氏と考えられる.鎌倉時代に田村刑部大輔仲能なる人物が幕府評定衆になっているが,これがどうやら田村庄司氏の嫡流らしい.南北朝動乱期,田村庄司氏は常に南朝方として活動した.田村庄司宗猷,宗季などの名前が知られる.宇津峰城は2度(1347,1353年)にわたって北朝方の攻撃により落城し,田村一族の中にも北朝方に転じる者もあらわれた.

 南朝没落後,田村則義・清包父子は「小山義政の乱」(1380[康暦2]~1382[永徳2])で下野国小山から逃亡してきた義政の子若犬丸を擁して関東公方足利氏満に反旗を翻したが(1396[応永3]年),氏満が直接乗り出して白河に到達した途端に叛乱軍は四散し,田村庄司氏は下総結城氏を頼って落ちのび,所領である田村庄を没収される.これより田村庄司氏は衰退し,田村氏の主流は三春城(福島県三春町)に拠る一族(ただし,三春田村氏は平姓との由)に移る.三春田村氏からはのちのち独眼龍伊達政宗の本妻愛姫(NHKの大河ドラマでは沢口靖子が演じた)が出た.

 守山城はどうやら戦国時代を生き抜き,豊臣秀吉の奥州仕置の後,会津若松に入った蒲生氏郷によって改修されたらしい(氏郷配下の石工衆の手になるとみられる石垣が近年の発掘調査で発見された).氏郷の死後,代わって若松に入部した上杉景勝が関が原の戦いの敗戦後処理で米沢転封になった際,廃城になったと思われる.江戸時代にはこの地に水戸徳川家初代の徳川頼房の第4子松平頼元の子頼貞が1700(元禄13)年に封ぜられ,守山城とは別に守山陣屋が作られて(ただし藩主は江戸定府)明治維新にいたった.

 さて,南奥一帯は南北朝一統後も争乱の止むことなく,関東公方氏満は兄の興満,次いで子息の満隆を篠川城に下向させるが,氏満が1398(応永5)年に亡くなると,関東公方を継いだ満兼は稲村城(福島県須賀川市)に弟の満貞を,また篠川城には同じく満直を入れ鎌倉府の奥州経営の拠点とした.彼らはそれぞれ稲村御所・篠川御所(または公方)と呼ばれるようになる(通説では稲村城が満直,篠川城に満貞が入ったとされているが,ここでは『福島県史』や『国史大事典』の記述に従う).

 篠川城は現在のJR安積永盛駅から南に約1キロほど下った,阿武隈川と滑川(現在は荒川)が合流するところにある南北約2キロ・東西約300メートルに及ぶ高台に築かれた,これまた群郭式城郭である.現在は篠川稲荷神社(東舘稲荷神社)が鎮座する東舘が主郭であったとみられる.築城時期は不明だが,満直下向以前からその名が古文書に見え,またたびたび戦場にもなっているので,あるいは南朝方の宇津峰城や守山城に対する備えとして北朝方により築かれたものか.また城の西側を当時の奥州街道が通っていたとも考えられ,阿武隈川の水運も合わせて交通の要衝を押さえていたようだ.

 満兼存命中は伊達政宗(独眼龍政宗の八代前の先祖.「大膳大夫政宗」「儀山政宗」などと呼び,独眼龍と区別することが多い.独眼龍は彼にちなんで自ら政宗を名乗ったとされる)などの叛乱はあったものの,これで何とか小康を保った.しかし 1409(応永16)年満兼が若死にしてその子持氏が跡を継ぐと,関東公方一族のそれぞれの思惑の違いから関東・南奥地方は混乱に拍車がかかり,足利満隆は1416(応永23)年の上杉禅秀の乱に加担して敗死する.篠川城址に程近く鎮座する現在の篠川神社は初名を御所大明神というが,祭神は満隆であり,満隆はここに葬られたらしい.満隆の子孫は再び篠川に下向して篠川氏を名乗り土着したとされる(現在も末裔が健在らしい).

 また,稲村御所満貞は持氏と同心して,京都の将軍義教と結んだ篠川御所満直と対立することになり,1438(永享10)年稲村城を退身して鎌倉にもどり,永享の乱(1439[永享11]年)で敗北し持氏と共に鎌倉で滅んだ.満貞を追い落とした満直も翌永享12年,下総の結城氏朝が持氏の遺児を擁して起こした結城合戦の余波か,二本松の畠山氏など(石川氏という説もある)に篠川城を攻められて敗死してしまい,南東北における鎌倉府の勢力は地を払った.篠川城には須賀川二階堂氏の家臣須田氏が入った(現在ある篠川稲荷神社を勧請したのは須田氏と言われる).

 篠川城は戦国期にも利用されていたようだが詳しいことはよくわからない(G.C.W.氏の調査不足か?).1613(慶長18)年に城郭を取り壊し,奥州街道を城址に通し,城下の集落を街道沿いに移転したとされる.このとき作られた奥州街道は現在もよく残っている.また足利満隆が開いたとされる寺院や篠川城の鎮守であったと思われる神社も残っている.ちなみに江戸時代以降,篠川は「しのかわ」と呼ばれるのを避け「笹川」と書かれるようになるが,現在でも「笹の川酒造」という酒蔵がある.

 なお,本稿において「須賀川城・守谷館・稲村城」の項と一部の文章が重複するのは,当初本稿も併せて一項目としていた原稿を分割したためである(^^;).


参考文献
 『福島県史』(福島県),
 『郡山市史』(郡山市),
 『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社),
 『国史大事典』(吉川弘文館)

篠川城・守山城の写真
篠川城(追加),成山城の写真

2001年8月31日
2001年10月3日写真追加
2003年9月10日修正
2004年6月19日移転・修正

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2004.06.18

須賀川城・守谷館・稲村城(福島県須賀川市)

 須賀川城は南北朝時代後期ごろ,二階堂行続が築いたとされる平台城である.現在は須賀川市の市街地になっている,現在のJR須賀川駅周辺(釈迦堂川を挟んだ反対側になる)から見ると高台となっている地域に築城された.二階堂氏は源頼朝に仕えた行政・行光・行村以来,鎌倉幕府の官僚として活躍した一族.須賀川を含む岩瀬郡は,鎌倉初期の行村の頃から二階堂氏と関係があったとみられ,行続の五代前の祖である行朝(二階堂信濃入道行珍.行村の兄行光の後裔と推定されるが,残されている二階堂氏諸系図と古文書が一致しない場合が多く,須賀川二階堂氏の系譜には疑問の点が多い.以下の記述における須賀川二階堂氏の氏名と系譜は概ね『福島県史』による)は建武新政の際,鎮守府将軍北畠顕家の下で奥州府式評定衆に起用され,のち北朝方に転じてやはり重用されている.

 守谷館は須賀川城の東方2キロほどのところにある平山城で,須賀川城を築く前の二階堂氏(恐らくは行朝)が拠った城と考えられる.二階堂氏が須賀川城に移った後は,重臣守谷(守屋)氏の守備するところとなった.

 また須賀川城から5キロほど南西に稲村城があり,こちらも二階堂氏の一族が城主であった.現在,東北新幹線が走っている傍に遺構のある,群郭式城郭と呼ばれる形式の城である.南北朝期から室町中期にかけては,いち早く北朝方に付いた稲村城のほうが盛んで,1351(感応2・正平6)年には宇津峰城(これも須賀川市.一時期南朝方の陸奥国府が置かれた.宇津峰城については稿を改めて書いてみたいので今回は特に触れない)に拠った南朝方の北畠守親らに対抗するべく,奥州管領吉良貞家が稲村城に入っている.

 さて,須賀川城一帯は南北朝一統後も争乱の止むことなく,関東公方氏満は兄の興満,次いで子息の満隆を篠川城(郡山市)に下向させるが,氏満が1398(応永5)年に亡くなると,関東公方を継いだ満兼は稲村城に弟の満貞を,また篠川城には同じく満直を入れ鎌倉府の奥州経営の拠点とした.彼らはそれぞれ稲村御所・篠川御所(または公方)と呼ばれるようになる(通説では稲村城が満直,篠川城に満貞が入ったとされているが,ここでは『福島県史』や『国史大事典』の記述に従う).

 満兼存命中は伊達政宗(独眼龍政宗の八代前の先祖.独眼龍は彼にちなんで自ら政宗を名乗ったとされる)の叛乱などはあったものの,これで何とか小康を保った.1404(応永11)年に安積郡を中心とする大小の国人領主が篠川・稲村両御所の働きかけにより結んだとされる傘連判状の一揆契約(仙道一揆)に登場する「須ヵ川刑部小輔行嗣」を須賀川城主二階堂行続にあてる説がある.

 1409(応永16)年満兼が若死にしてその子持氏が跡を継ぐと,関東公方一族それぞれの思惑の違いから混乱に拍車がかかり, 1416(応永23)年の上杉氏憲・足利満隆らが起こした「上杉禅秀の乱」の際,須賀川城主二階堂為氏(系図上の位置は不明.鎌倉から下向後,行続の子孫を追い落として須賀川城主になったとの説あり)は当初上杉禅秀方についた稲村・篠川御所に組せず,持氏方に付いて兵800をもって鎌倉で戦ったという.二階堂氏の一族には,以前篠川城に入っていた足利満隆に付き禅秀方として参戦した者もいた.このときは稲村・篠川御所も乱の途中から持氏方に転じ,南奥諸氏もそれに同調したと思われる.

 その後,稲村御所満貞は持氏と同心して,京都の将軍義教と結んだ篠川御所満直と対立することになり,1438(永享10)年稲村城を退身して鎌倉にもどり,永享の乱(1439[永享11]年)で敗北し持氏と共に鎌倉で滅んだ.稲村城の二階堂一族にもこれに殉じるものが出た.稲村城はその後放棄されたらしい.満貞に従っていた稲村二階堂一族は須賀川二階堂氏の勢力下に組み込まれ,西部衆と呼ばれるようになったようだ.須賀川二階堂氏は稲村城二階堂氏の重臣で一族の保土原氏を重用し,守谷館にも曲輪をひとつ与えていたらしい.現在須賀川市立博物館のある場所が「保土原舘」とされており,八戸南部氏の根城と同様,有力家臣団がそれぞれの曲輪を守備する「館屋敷型城郭」に近い形式を取っていたとも考えられる.

 ところで満貞を追い払った満直も翌永享12年,下総結城城主の結城氏朝が持氏の遺児を擁して起こした結城合戦の余波か,二本松の畠山氏など(石川氏という説もある)に篠川城を攻められて敗死してしまい,南東北における鎌倉府の勢力は地を払った.このように鎌倉府の南奥への影響力が低下していく中で,須賀川城二階堂氏の勢力は現在の須賀川市・岩瀬郡をほぼ収めていたと思われる.

 戦国時代に入ると,交通の要衝にある須賀川は四方を有力な大名(伊達,蘆名,畠山,田村,白川,石川,岩城,佐竹など)に囲まれ,絶えず彼らに侵食される状況となった.須賀川二階堂氏はあるときは蘆名氏に,あるときは伊達氏に,またあるときは田村氏に,またあるときは白川氏に同盟して何とか独立を保とうとしたが,1566(永禄9)年須賀川城主二階堂盛義は黒川城(のちの若松城)に拠る名将蘆名盛氏に敗れ蘆名氏の軍門に下った.盛義の子盛隆は蘆名氏に人質となったのち,蘆名盛興(盛氏の嫡子)の急死後蘆名氏を継ぎ,実家の二階堂氏も差配することになる.盛義は1581(天正9)年死去し,盛隆は1584(天正12)年寵臣に暗殺されてしまう.盛隆の跡を生まれたばかりの遺児亀王丸が継ぐがこれまた1586(天正14)年病死,蘆名氏には常陸国太田(現在の茨城県常陸太田市)の佐竹義宣の弟で白川氏に養子に入っていた義広が乗り込んだ.これが却って家中の混乱を招き,1589(天正17)年6月伊達政宗との猪苗代湖畔摺上原の戦いで蘆名氏は事実上滅亡,盛義の未亡人大乗院(伊達晴宗の娘で輝宗の妹にあたる)と家老が守っていた須賀川城は守谷館の主であった守谷筑後の内応により,その年の10月26日,伊達政宗に攻められて落城した.須賀川市で現在も行われている「松明あかし」の行事は,落城の故事にちなむ.大乗院は最初岩城氏,のちに娘婿佐竹義宣をたよったが,1601(慶長6)年義宣が出羽国秋田に転封された際須賀川に戻り,ほどなく病没した.

 伊達政宗は須賀川城に石川昭光を入れた.政宗に代わって蒲生氏郷が岩瀬郡を領有すると田丸中務具直が,次の上杉景勝のときは千坂対馬景親が須賀川城をあづかった.景勝は守谷館に栗田刑部を入れたともいう.景勝が米沢に転封された後,須賀川城・守谷館も廃城になったようだ.須賀川城址はその後奥州街道の宿場町内に埋没した.現在,城址には二階堂神社,神炊館(おたきや)神社などがある.守谷館の「居館」とされる場所には寺院が,「保土原館」には須賀川市立博物館が,山上の「びわくび館」は江戸時代に愛宕社が勧請された後「愛宕山」と呼ばれるようになり,現在では保土原館とともに「翠ヶ丘公園」の一角を占めている.


参考文献
『福島県史』(福島県)
『郡山市史』(郡山市)
『日本城郭大系』第3巻(新人物往来社)
『国史大事典』(吉川弘文館)

須賀川城・守谷館の写真

2001年8月30日作成
2003年9月10日修正
2004年6月18日移転・修正

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根城(青森県八戸市)

 「根城(ねじょう)」は,南北朝時代に南朝方として活躍した南部師行などを輩出した,いわゆる「根城南部氏」の居城である.後世の資料によれば建武新政の際,北畠顕家・義良親王とともに陸奥に下向した甲斐国の住人南部師行によって築城され,「根城」の名前もそのとき北畠顕家によって命名されたと伝えられる.しかし,南北朝当時の信頼できる一次資料には「根城」の名は見えず,支配地の中心としての一般的な「根の城」の呼称がのちに固有名詞化したものと考えられる.また,現在残る根城の遺構がすべて師行によって築城されたものでもなく,師行の下向以前から,何らかの形で存在していた館が徐々に拡張され,15世紀初めには現在残る遺構の形になったものであろう.

 根城南部氏は師行,政長,信政,信光,政光の5代にわたり南朝方として奮戦,師行は北畠顕家に従って上洛,各地を転戦し和泉国石津で顕家軍が壊滅したとき(1338[延元3・暦応元]年5月)顕家とともに戦死している.南朝の衰退に伴い根城南部氏の周囲も北朝方になる勢力が続出するが,1392(元中9・明徳3)年の南北朝合体まで根城南部氏は南朝方を貫く.南北朝合体後,政光は一足先に北朝方に鞍替えしていた一族三戸南部氏の守行の勧めに従い,足利方に降伏し,根城南部氏の名跡を残すことができた.

 その後,根城南部氏は三戸南部氏と連携しながら勢力を回復し,15世紀半ばの政経の代からは八戸氏を名乗って威勢大いに振るったが,戦国時代の後半に入ると秋田の檜山安東氏(のちの三春藩秋田家)や南部一族の内紛,その間隙を縫って突然現れた大浦為信(のちの津軽為信)の攻勢に苦しめられる.南部氏は三戸南部26代目を継いだ信直の手腕によりようやく体制を立て直し,豊臣秀吉に認められて近世大名としての基礎を固める.根城南部氏は信直の家臣団に組み込まれることになるが,信直は根城南部氏を重用し,根城南部19代の直栄は信直の娘婿となっている.根城は秀吉の奥州仕置に伴う城破却令により1592(天正20)年に廃城となるが,根城南部氏はその後も生活の拠点を根城の屋敷に置き,最終的には1627(寛永4)年22代直義が遠野に転封になるまで存続したものと見られる.

 根城は8つの郭からなり,祈祷寺の東善寺があった「東善寺館」を除く7つの曲輪のうち,本丸以外の曲輪で名称が伝承されているものが,いづれも南部氏重臣の姓に由来することから,それぞれの曲輪が根城南部氏とそれを支える重臣の館になる,「館屋敷型城郭」と呼ばれる構造をとっていたと考えられるという.遺構は1941(昭和16)年国史跡に指定され,1985年からは「史跡根城環境整備事業」がスタートし,さらに1989年には「ふるさと歴史の広場」事業に指定され,城の遺構が発掘されるとともに復元がすすめられ,特に本丸には一部の建物が戦国末期の姿に復元されている.

 なお,近世八戸藩の政庁であった,近世城郭としての「八戸城」は,根城とは別の城を指し,JR八戸線本八戸駅徒歩5分の「三八城公園」が城跡にあたる.


参考文献
『日本城郭大系』第1巻(新人物往来社),
『図説青森県の歴史』(盛田稔・長谷川成一責任編集/河出書房新社/1991年7月初版),
『戦国の城』下(西ヶ谷恭弘著/学習研究社/1992年12月初版),
『戦国城下町の考古学』(小野正敏著/講談社/1997年7月初版),
『掘りおこされた南部氏の城 根城』(八戸市博物館/1996年5月初版)

根城の写真へ

2001年7月15日作成
2003年9月6日修正
2004年6月18日 移転・修正

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2004.06.17

小山城(栃木県小山市)

 「小山城」は政光・朝政父子以来,源頼朝の信任厚き鎌倉幕府の有力御家人であり,鎌倉-南北朝にかけて下野守護職などとして活躍した小山氏(秀郷流藤原氏)の本拠.築城時期には不明な点も残るが,どうやら当初は「中久喜城」(小山市中久喜)に本拠を構えたものらしい.というのも,小山氏と所縁の深い祇園社(現在の須賀神社),天翁院(当初の名称は万年寺)が両方ともその創建の地を中久喜城周辺と伝えていることから,そのように考えられる.
 その後南北朝期には恐らく政庁としての「伝・小山政光館」(最近は単に「曲輪」と呼ぶのが一般的か? JR東北本線脇に巨大な土塁が一部残存:小山市神鳥谷←公式には「ひととのや」,地元の人は「しととのや」と読む),本城としての「鷲城」(小山市外城),支城としての「祇園城」(現在の城山公園:小山市城山町・本郷町),鷲城と祇園城の連絡拠点としての「長福城(長福寺城)」(小山市八幡町),前線基地としての「中久喜城」から構成される壮大な城郭になった.
 ちなみに「祇園城」という名称は,940(天慶3)年に藤原秀郷が鎮守として京から勧請したと伝えられる祇園社(当初は中久喜城隣接地,後に現在の元須賀神社[旧国道4号線沿い,小山市教育委員会の建物〔旧小山市中央郵便局〕の向かい側]に,さらに平治年間(1159-60)現在の須賀神社の地に移転とされる)にちなむ.また「鷲城」は,小山政光の祖父の代に本拠を置いていた武蔵国大田荘(現在の埼玉県鷲宮町付近)にある鷲宮神社を勧請した鷲宮(現在の鷲神社)にちなんでいる.

 小山氏は建武新政期の「中先代の乱」(1335[建武2]年)で当主秀朝が戦死し,跡を継いだ朝郷(朝氏とも)が鎮守府将軍北畠顕家の軍勢が上京の際,戦い敗れて捕虜になり南朝方に付いたり,また「藤氏一揆」(藤原姓の氏族を糾合し,関東に独自の政権を樹立しようとした)を企てたりもしたが,終始北朝方に参戦した弟の氏政と対立して挫折した.その後氏政の子義政は,1380(康暦2)年に宇都宮氏との私闘で宇都宮氏の当主基綱を死に追いやったのを関東公方足利氏満に咎められ,鎌倉府に3度までも反逆するが,結局敗れて1382(永徳2)年義政は自殺し,逃亡して跡を継いだ若犬丸も常陸国の小田氏,陸奥国の田村庄司氏などを頼って鎌倉府に反抗するが衆寡敵せず自害に追い込まれ,この前後17年に及ぶ「小山義政の乱」により小山氏は滅亡する(1397[応永4]年).

 一族の結城氏から泰朝が入って再興(「重興小山氏」と呼ばれる)されるが,永享の乱(1438-1439年),結城合戦(1440-1441年)から続く戦国の戦乱の中で,近隣の領主(結城,皆川,佐野,宇都宮,壬生氏など)ともども,古河公方の内紛や他の地域から進出してくる大勢力(後北条,上杉,佐竹など)の狭間で右往左往する年月を送る.その間,「小山城」は祇園城を本城に前線基地として中久喜城とやや離れた場所に榎本城(小山市榎本)を置く体制になったらしい.
 
 1563(永禄6)年には上杉謙信の攻撃を受け祇園城が落城し,小山秀綱・結城晴朝兄弟は上杉方となる.しかし1575(天正3)年には後北条氏の圧力に耐えかねた小山秀綱は祇園城を開城し佐竹義重を頼る.祇園城には北条氏照(氏政の弟)が入り大規模な普請が行われる.現在見られる祇園城の遺構は大部分がこのときのものと考えられる.この頃,中久喜城は結城氏の支城となり,対後北条勢力の最前線になったようである.1582(天正10)年に小山秀綱は祇園城に再入城するが後北条氏の配下とならざるを得ない.
 
 その後も後北条・反後北条の争乱は続いたが,1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原攻めで後北条氏は滅亡,後北条方であった小山秀綱も改易され滅亡した.祇園城・中久喜城は結城晴朝の養子に押し付けられた結城秀康(徳川家康の次男)の所領となり,中久喜城は晴朝の隠居所となった.1600(慶長5)年の「関が原の戦い」の後,結城秀康は越前に転封となり,中久喜城は廃城(晴朝が福井に去る際,結城家の財宝を秀康に取られるのが嫌で中久喜城に隠匿していった,という噂があるが信じ難い).祇園城には一時,家康の寵臣本多正純が入ったが,1613(慶長18)年正純の宇都宮転封に伴い廃城になった.

参考文献
『鷲城・祇園城・中久喜城』(鷲城・祇園城跡の保存を考える会編/随想舎/ずいそうしゃ新書2/1995年11月初版)


祇園城の写真(2001年8月撮影)
中久喜城の写真(2001年3月撮影)
鷲城・長福城の写真(1993年撮影)
長福城・曲輪(伝・小山政光館)の写真(2001年8月撮影)

2001年5月19日作成
2001年8月30日改訂・追加
2001年8月31日追加
2001年10月7日改訂
2003年9月5日修正
2004年6月17日移転・修正

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